いろはガルタ・弐
     
「ち」は京ガルタでは「地獄(ぢごく)の沙汰も金しだい」。
えげつない諺ですよね。
京都はお寺さんが多いから、金儲け主義のお寺さんを揶揄した諺なんでしょうか。
         
これから連想するのに「あとの祭り」って言葉がありますよね。
あの意味わかりにくいですね。
「あとのまつり」を「喧嘩すぎての棒ちぎれ」とか「6日(むいか)のあやめ、10日(とうか)の菊」と同じように使うひとがありますが、意味は少し違う。
ああ、そうそう、「6日のあやめ」は5月5日の菖蒲の節句の過ぎた翌日になった不要の菖蒲のこと。
「10日の菊」も9月9日の重陽の菊の節句の翌日になった菊のこと。
肝心のときが過ぎて値打ちのなくなった物のことでしょうか。
今風にいうと25日のクリスマス・ケーキってことになるのかなぁ。
         
もとに戻って、「あとのまつり」って、考えると変な言葉でしょう?
「祭りの後」だとわからんこともないけれど、「あとのまつり」だと何の「あと」だと思わない?
「あとのまつり」って、「死んだあとのまつり」。葬式のこと。
「葬式を、なんぼ派手にしても死んだ本人にはなんの役にもたたない」ってことだそうです。
親孝行は生きているうちにしなければ、「あとのまつり」を派手にしても本人には何のありがた味もありません。
「地獄の沙汰も金しだい」なんてことはありませんよね。
「あの世に、お金をもっていけない」ってみんな知ってる。
派手な葬式はお寺さんを儲けさせるだけ。
生きているうちにお金は遣うもの。
ネ? カルタ歌でもいいことを言ってるでしょう。
        
江戸ガルタの「ち」は「塵もつもれば山となる」。
塵がつもっても、山にはならないんでは?
これは昔の江戸っ子の「宵越しの金はもたねエ」を戒めたものかなあ?
      
上方には「ケチ、しぶちん、吝嗇」なんて言葉があります。
ド・ケチ教なんてイチビっている吉本晴彦さん、息子さんの結婚式はド派手にしましたね。
ケチとか、しぶちん、吝嗇は、だすべきものも出さない、って意味に普通はつかいます。
晴彦さんは「だすべき時には、出す」ってのだから、関西弁では「しまつ(始末)」家って言う。
普段は無駄遣いはしないで、肝心の時には、気前よくだすんですよね。
これでこそ美徳。
         
「り」の京カルタは「綸言汗のごとし」。むつかしい言葉ですね。
綸言って天皇の綸旨とかのこと。
汗だから、いっぺん出したらもとへは戻さない、って意味。
そらぁ、汗がもとの汗腺には戻らないですよね。
それにしても、公約を守らないヤツは、汗は、そのうちに乾くものと心得ているらしい。
  
江戸ガルタの「り」は「律儀ものの子沢山」。
でも、家の外で「律儀に子沢山」したら駄目よ!
いまどきはシングルマザー希望の女がいるけど、若気のいたりで協力すると、えらいことになるよ!
死ぬときには、心安らかに死にたいもの・・
         
いろはガルタの「ぬ」。
京ガルタの「糠に釘」は「豆腐に鎹」で二重。
京には親の意見をきかなかった息子が多かったらしい。
              
「ぬ」は大坂ガルタも江戸ガルタも「盗人(ぬすっと)の昼寝」
実は、これと同工異曲なのが、「油を売る」。
「油を売る」って、油売りはべちゃべちゃ喋りながら、トローリトローリと、油を買い手の油壺に移して売るのが語源って書いてる字引もあるけど、斉藤道三のテレビドラマでもわかるように、べちゃべちゃ喋って、トローリトローリが商売でしょう?
何であれが、サボるってことになるのぅ?
おかしいでしょう?
むかしの油売りは灯油を売っていました。
灯油が売れるのは灯ともし頃になって「ア! 油がない!」、で売れたらしい。
だから、油売りは昼間は暇。
昼間は商売にならないから、ごろごろしていた。
で、ごろごろしているのを油売りって言ったとか。
        
ここで、とうぜん、油断の語源をおもいますよね。
灯ともし頃になって「ア! 油がない!」って思うから油断なのかと思うけど、油断は「由多爾(ゆたに)」って万葉言葉にもある古い言葉で、この「ゆっくり」が「怠り」の意味に転化したものだそうです。
    
それにしても、このあいだ孫に「油断大敵、火がボウボウ」なんて下品な唄を教えて、娘におこられた。