いろはガルタ
       
「いろはガルタ」って、もともとは教訓の目的があったようですね。
いまだに、教訓的とも知恵としてつかうことってあります。
そこで、「いろはガルタ」考をしてみようと思います。
まあ、暇つぶしにつきあってください。
          
京、大坂、江戸三都のいろはガルタを採り上げてみます。
京ガルタの「い」は「一寸先は闇」
政変ただならなかった、江戸時代の京の実感からきた言葉なんでしょうね。
          
大阪ガルタの「い」は「一を聞いて十を知る」
商都大阪らしい、商人の知恵。
       
江戸ガルタは「犬も歩けば棒にあたる」。
カルタ考なんて、はじめたけど最初で行き詰まった。
これは意味のわからない諺ですね。
ひとによっては「むやみに、ほっつき歩くと、ろくなことに出会わない」って意味につかいますし、「家の中に閉じこもっているより、外出していると、いい話にであうこともある」なんて意味に使うひとってありますねぇ。
意味がまったく反対。
           
こんな風に意味をまったく反対につかうことって日本語には時々ありますね。
たとえば「我慢」。
我慢の「慢」は慢心とか、増上慢ですから、辛抱を意味する我慢とは、どうも違う言葉ですね。
我慢は「うぬぼれ」の意味だそうです。だから、今は反対の意味につかっている。
              
我慢で連想するのは「ガンバル」。
あれ「頑張る」と当て字しますね。
「我意はる」が語源だというひとがあります。
語感からは、我慢と同じような感じをうけますね。
この「ガンバル」には、神戸市民としては、腹立たしい思いでがありましてね・・
震災見舞いにやってきた、当時の村山首相、公園でテント暮らしをしている被災者に向かって「まあ、ガンバッテください」って言ったのヨ。
言われたおばさん「何をガンバルんですか? あんた何しに来たん?」。
あのやりとりはいまだに憶えている。
それにしても「ガンバレ」って、ひとにストレスをあたえる、いやらしい言葉。
          
京ガルタの「ろ」は「論語読みの論語しらず」
貧乏な経済学者、ってのは言い過ぎかなぁ。
抽象理論は優れているけど、実社会では何の役に立たないって、ことありますね。
日本の学問は、論語だけではなく輸入学問ですから、こうなるのかなぁ。
学問って、まず第一に知恵だとおもうけどねぇ。
         
大阪ガルタの「ろ」は「六十の三つ子」
年をとると子供にかえる、って意味らしいけど、子供がえりが理想的って意味でもある。
梁塵秘抄に「遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけむ。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ、ゆるがるれ。」なんてのがありますね。
そういえば、実業界で成功をおさめた人って、みんな稚気愛すべき人たちだったように思える。
         
江戸ガルタの「ろ」は「論より証拠」。
これは諺ではなく、立派な格言。
儒教の抽象論っていいますが、儒教文化圏の中国、韓国は抽象論がすきですね。
儒教には正統論ってのがありまして、実証に裏付けられない、抽象論で論議するから、何の稔りもない。
現実を冷静に調査しないでの議論だから、激昂することになる。
日本人の半分は儒教文化に、どっぷりな人がいるから、中国、韓国の抽象論に乗っていってしまう。
侵略か、進出かの論議も、そうですね。
台湾、朝鮮に帝国大学を作ったことを見れば、ただの侵略ではなかったとも言えるけど、一昔まえにイギリスがやっていたような、典型的な植民地経営ではなかったとしても、侵略的進出ともいえることも確かでしょうね。
南京虐殺が20万人なんて荒唐無稽をいいだすのに、乗っていく人までありますもんね。
ヒットラーの殺人工場でも、あんな短期間に20万人も殺せなかったでしょう?
なんやら、いろはガルタごときにむつかしいことをいいはじめてしまったなぁ。
もう少し、軽くいきます。
        
京ガルタの「は」は「針の穴から天を覗く」
視野の狭いことを言う。
江戸ガルタの「蘆の随から天井を見る」のも同じ警醒句かなぁ。
       
大阪も江戸も「は」は「花より団子」。
これは関西では、薬師寺に奉られる薬草で染めた花と、壇に積み上げた壇子(だんす)とを、さげて檀家に配るときに「花か、団子か?」って尋ねたことに由来することになっています。
薬草なんかより、いますぐ腹の足しになる団子のほうが、評判がよかった、ことになっているんですが、この伝説は眉唾もの。
         
京ガルタの「に」は「二階から目薬」
まだるっこいことをいいますね。
        
大阪ガルタの「に」は「憎まれっ子神固し」
江戸ガルタの「に」の「憎まれっ子、世に憚る」と同じ意味。。
「憚る(はばかる)」って「はばをきかせる。大きな顔をする」って意味だと字引には書いてある。
僕は永らく「はびこる」の訛かと思っていた。
無知蒙昧がバレだしたから、次に行こう。
意味は「人に憎まれるほどの子供のほうが、将来威勢を張る」ってことらしい。
      
「ほ」は、大坂ガルタの「惚れたが因果」がおもしろい。
これ、今でも日常会話に使う人って多いですよね。
ときどき「惚れたが病」ともいいますが、「中年すぎての浮気は治らない」とも言う。
京ガルタは「仏の顔も3度」ですね。
しぶちんな京都人が3度も仏顔をしてくれるんかなぁ?
江戸カルタでは「骨折り損のくたびれ儲け」。
高い地代を払ってでは、あくせく働いても「くたびれ儲け」なのかもしれない。
       
京ガルタも大阪ガルタも「へ」は「下手の長談義」。
これは言える。
スピーチの枕に「誰それさんが、スピーチをせよと・・・・」を延々と始める人がいますよね。
スピーチは初めの3分で、人の気をひかないと、聞き手はダレてしまう。
こんな手合いにかぎって、だらだらの長談義の果てに「簡単ではありますが・・・」になる。
          
江戸ガルタの「へ」は「屁をひって尻つぼめ」
具合の悪いことをして、誤魔化すこと。
オナラって繊維質の多い食事をしているほうが、大きな音ででるものらしい。
欧米ではオナラを公衆の面前で放つのはエチケット違反ではないらしい。
だのに、ゲップはいけないって、わからんなぁ。
           
「と」は江戸ガルタの「年寄りの冷や水」が秀逸。
早朝散歩をしていますが、時折思いついたようにやってきて、よたよたと走る年寄りがいます。
起床した直後は体が眠っていますから、きつい運動は危険だし、健康にも悪いんですよね。それを年寄りが、いきなりやって、どうするの? 命取りになるヨ。
        
京ガルタの「と」は「豆腐に鎹(かすがい)」。
意見をしても効果がないこと。
ただの小言になってしまう。
われわれ田舎モンは「糠に釘」「暖簾に腕押し」ともいいますね。
    
大坂ガルタの「と」は「遠い一家より、近い隣」。
「遠い親戚より近くの隣人」って言い方のほうがポピュラーかなぁ。
震災にあって、この諺どおりだった。
倒壊して寝間着でふるえていたら、倒壊を免れた半倒壊の家から着る物を、命がけで引っ張り出してくださった。
       
でも、遠くの人にも助けてもらいましたよ。
県市が扱った見舞金だけでも1800億円でした。
全国のみなさんありがとうございました。
遠くの親戚友人からは個人的に、たくさんの見舞いをいただきました。
僕のいただいた個人的な見舞額からおしはかるに、公私をあわせると全国からの見舞金は数兆円になったと思っています。
いま思い出しても、涙がにじむほど、嬉しかったし、心強かった。