懐古趣味
       
老人でもないのに懐古趣味の人っておおいですね。
先ほど読んでいた随想で、ファミリー・レストランのウエイトレスの応答が「マニュアルどおりで人間味がない」って嘆いているのがありました。
でも、マニュアル教育のない時には注文まちがいがよくありました。
昔ときどき立ち寄っていた大きなソバ屋がありまして、ウエイトレスさんは昼食時のパートの主婦連中。
ここの注文の取り方はひどかった。
天ソバと天ざるの間違いは常時。
隣の席の人がザルの大盛りをたのんだあと、続けて汁もののうどんを注文すると「大盛りの汁ものソバ」が運ばれてくるなんてことまであった。
何しろ確認のリピートしてくれなんいですからね。間違いが多発する。
僕だけが不運なのかと思っていたら、周りの人たちが、モソモソと嘆いている。
「違う!」って泣き出す子供まででてくる。
作りなおしに調理場は大混乱。
急ぐお客は不満たらたらで帰っていましたね。
           
このソバ屋は数年で倒産してしまった。味はよかったのに。
それからすると人間味がないかもしれいけど、注文まちがいのトラブルがないだけ「マニュアルどおり」はたすかりますよね。
それに「マニュアルどおり」でも、人間味のある応対をしてくれるウエイトレスさんもおおいですよね。
        
マニュアルどおりの「つくり笑顔」が気持ち悪いってひともあるけど、なんか生活をひきずった仏頂面をされるよりよっぽどまし。
あれ「つくり笑顔」をしていると本物の笑顔よしになり、そのうち人柄もさわやかになるんでは?
それにつけても思うんだけど、テレビの通販のタレントさんのつくり笑顔って不気味ですね。
あれは、どうみてもマニュアルどおりとは思えない。
マニュアルで練習すると、もうすこしましで、自然な笑顔になるとおもいません。
          
で、つくり笑顔の造りかた。
写真を撮る時、「チーズ」って言うことになっているけど、チーズでは口の周りの筋肉だけが優しくなるだけ。
だから、「伊予みかん」って言うと目のまわりまで優しい表情になるって、プロのポートレイト屋さんに教えてもらった。
こんど記念写真を撮るときには、いちど試して!
でも、「伊予みかん」って唱えている最中に撮られないようにね。
           
懐古趣味の第2はSL。蒸気機関車。
昔はエアコンなんてなかったから、通気は窓をあけるだけ。蒸気機関車だと、どんどん煙が入ってくる。
そのうち煤塵が目にはいって、着いた先の駅の洗面所で目を洗っても、眼球に傷が残りました。
それに、トンネルに入ると閉めた窓の木製枠の隙間から煤塵が入ってくる。
それも硫黄くさいのが。
もっと難儀なのは鉄道線路周辺の住人。
長い上り坂では松並木までが枯れていましたよ。
いまは観光SL列車が時々走るだけだけど、それでも周辺住民から苦情はでないのかしら。人迷惑な「趣味」。
                
懐古趣味とはちょっと違うかもしれないけど、「温故知新」って言葉がありますよね。
「旧きを訪ねて新しきを知る」って意味らしい。
だけど、歴史を勉強して、新しいことってわかる?
今度の太平洋戦争の直前の昭和15年ころの人たちのことを思うと、どんなに歴史に詳しい碩学でも過去の歴史から判断して、いまからやろうとしているのが、愚かしい戦争だとわかったとは思えない。
           
戦時中に戦争賛美した大学者を見ると、僕にはそんな風に思えてならない。
「歴史から学ぶということをやらないと、未来はわからない」っていうことになっているけど、この裏の意味の「歴史から学ぶと、未来はわかる」とはとてもいえないように思えるんですがね。
「歴史から学べることは、せいぜい歴史からは未来は学べない」ということだけではありません?
ぼくが歴史から学べたことは、抽象理論におぼれた人間はどんなにか脆いものかという教訓だけでした。
          
歴史から学べたもう一つは、どんなに威張っている大学者でも、人間はいかに愚劣な生き物かということです。
たとえば、京都大学に西田幾多郎って大哲学者がいらっしゃいました。
この西田哲学の後継者に田辺元って、大碩学がいらっしゃいました。
講座を引き継がれたのですから後継者と言ってもいいでしょう。
この大学者でも戦時中に戦争賛美をしておられるんですね。
         
若い頃は人並みに生意気でしたから、「西田哲学って何だ?」って思っただけではなく、「哲学って何だ」とまで早とちりしてしまいました。
考えてみると哲学って、一種類だけではありませんね。
戦争賛美につながるような浅薄な、一種類だけでは。
こんな大事なことをエッセイで持ち出すのは、まさに「浅薄」ですが、最近「先行き不透明な時代」なんて表現がマスコミでよく使われますが、どんな時代でも先行き不透明だったとおもいません?
まあ、庶民はいつでも「明日も昨日と同じ日が続く」って楽観してきたようですが、いつの時代でも、当時の人間には、思いもかけない明日がきていますよね。
幕末の人間に「薩長の下級武士が、幕府の政権を簒奪できる」なんて先行きを透明に見通せていたかと言うと、まったく不透明だったと思われません?
すくなくとも、過去の歴史からでは未来に起こる明治維新は「学べ」なかったように思えるんですが。
「温故知新」なんて真理ではないんでは?