日本語の乱れ
     
「ら」抜き表現を、いまでも、「日本語の乱れ」として、目の敵にする人がありますね。
でも、正しいとされる「見られる」は「見ることができる」って意味の可能と、「人に見られる」って意味の受け身が紛らわしいですよね。
会話のなかで、相手がどちらをいっているのか、とまどった経験、貴方ありません?
       
「ら」抜き表現「見れる」は「見ることができる」って可能の意味だけですから、受け身に聞き間違いすることはありません。
「ら」抜き表現を間違った日本語とまで排除することもないように思えるんですが・・
なんて、言うけど、僕は喋るときも、書くときも「『ら』あり」を使ってしまいます。
これは習慣なんですねぇ。
いまさら頭をきりかえるのが面倒くさいから、ただの守旧癖。
     
日本語の中で一番問題なのは自由って言葉。
リバティの訳語としての自由と自由主義。
リバティに自由、自由主義の字を当てたのは明治時代らしいけど、それ以前から自由は自由奔放とか、自由気まま、って言葉がありました。
         
庶民の感覚としては自由は「勝手気まま」って意味ですよね。
ところが、字引をひくと、自由は「自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること」とか、聞いたこともないようなことが書いてある。
どうも、インテリの使う「自由」と、我々庶民が使う「自由」ってとは違うものらしい。
だって、よく学校で先生に言われたでしょう?
「自由の意味をハキちがえるな!」って。
偉い先生の言っていた「自由」って、「勝手気まま」のことではなかったんですね。
自由が「勝手気まま」って意味で使われていたのは昔からだということは、ハッキリしているんですよ。
そんな意味が固まっているところへ、リバティの訳語として「自由」を使ったから、庶民は混乱して、いまでも混乱したまま。
大正デモクラシーが混乱のうちに短命に終わった原因の一つは、国民の「リバティ」の意味の取り違いだと言われています。
カレーライスを注文したら、ハヤシが出てきて、文句をいったら「当レストランでは、これ(ハヤシ)をカレーライスと申します」なんて言うのと同じ。
「レストランか、リェストリャンが知らないけど、勝手に中身をかえるナ!」って、ことになる。
      
これをはじめとして、日本のインテリって、勝手な造語をしますよね。
勝手に新造語をつくって「意味をハキちがえるな!」はないでしょう?
これ「日本語の乱れ」の最たるものではない?
           
日本語を乱している元凶の二番目は、「進歩」。
進歩派ってことばがあるけど、言われている人達って全然「進歩的」ではないんでは?
「進歩」ってのは展開とか変化ていどの意味に使われているでしょう。
「進歩」ってなにやら、わからんの言葉。
         
進歩を言えば「保守」。
保守って、守旧とは違うとおもうけど、ゴッチャに使われている。
これも、わからん言葉。
       
次はインテリに文句を言えないけど、最近使われる「義理」って、はっきりした意味をもってきましたね。
ギリ・チョコ、ギリ・マン。
ようするに「したくないけど、しなければならない」って意味。
義理人情の「義理」とは別の意味。
   
最近「日本語の乱れ」で腹が立つのは料金「改訂」。
値上げってハッキリ言えよ!
さらに「ご諒承ください」って、あれ何ぃ?
諒承するか、どうかはこっちの内心の問題でしょうに。
こっちの内心の問題まで、押しつける図々しさ。
       
だれが、料金値上げに「諒承」なんてするもんか?
しょうがないから、シブシブ払っているだけ!
          
ついでに、「ご遠慮ください」も、わけのわからん日本語。
「チケットのない方は入場ご遠慮ください」ってまわりくどすぎるよ!
もっと簡潔に言えよ、といいたいが、チケットなしで入場しようとするものに、「ご遠慮ください」は意味のない掲示ですよね。
          
「ら」抜きことばとか、「敬語の使い方」の乱れっていうけど、もっと大ごとな「日本語の乱れ」が、あるんじゃあない?