憲法17条は偽作?
           
贋作っていうと、元にある真作をコピーすることでね。
たとえば贋金づくり。
偽作っていうと、ありもしない文書なんぞを、創作することですよね。選挙で出てくる怪文書とか。
           
で、日本書紀に援用されている、憲法17条はありもしない文書を、創ったのではないか?という話。
ちょっとエキサイテングな話でしょう?
聖徳太子がお書きになったとされている、憲法17条が和臭(倭習)がきつすぎる、って言うんです。
憲法17条は607年に聖徳太子みずからが書かれたことになっています。
当時は、百済、高麗、新羅からの帰化人も多かったし、中国本土の隋からの、それも学者の帰化人がワンサカといました。
ですから、重要な公文書である憲法17条が、中国語の専門家の添削校正を受けなかったはずがない、と考えるのが常識でしょうね。それに聖徳太子は語学の天才だったと言いますし。
       
ところが、日本書紀にある憲法17条には、正統中国語では誤記誤用とされる文章が、イッパイでてくる。
あの短い文章のなかに、否定形の非が誤用されているのが5、不の誤用が2、亦・少・所以の誤用が合計4、之の誤用が3、否定形の語順の誤りが4、あるんですって。
これは僕の独断ではなく、学術論文でそう言っているし、読むと、そうだなア、と思える。
               
で、日本書紀にある憲法17条は、オリジナルではないのではないか?との疑問が出てきたらしい。
憲法17条は基本法典ですから、オリジナルが朝廷にも、官僚の机の上にも常備されていた、今で言う六法全書的なコードと、僕等は考えますねえ。
だったら、日本書紀への援用については、オリジナルそのものを著者は尊重したはずでしょう。
でも、援用されている憲法17条は、和臭(倭習)文章。
で、聖徳太子は憲法17条を作らなかった、とまでつきすすむ人まであります。
こんな、ところで、私の説を繰り広げても、何にも面白くないし、このエッセイが、学問の世界を変えるとも思えないから、貴方なりに、推理を楽しんでください。
                   
推理をお楽しみいただくために、少し蛇足を付け加えますと、
その1は、著者続守言が一番初めに書き始めたとされる14巻での妻の意味の吾妹(わぎもこ、わぎも)を妹とする誤解。
続守言が捕虜になったのは、白村江の戦い(663年)の直前ですし、この日本書紀の記事では、すぐ日本に連れてこられたことになっています。
通説では日本書紀著述は天武末か、持統期(687〜696年)だというんですから、やって来てから15年は経っていたでしょう、だのに、吾妹の意味も知らなかったって不自然ですよね。
           
で、通説とは違って、続守言がやってきてすぐの天智朝に、日本書紀編纂がはじまったとしても、次の疑問が出てくる。
誤記は気づかないこともありますが、思い違いは気がつきますよね。
         
僕みたいな、ええかげんな人間でも、思い違いはアップロードしたHPでも、恥ずかしいから、すぐ直しますよ。続守言は急死したらしいけど、21巻まで書いているんですから、訂正削除する時間はたっぷりあったはず。
それに、それを嗣いだ山田史御方は、全文の調子を合わせる機会があったのに、恥ずかしい文章のまま残した。何故?
        
それに、三宅臣藤麻呂が最後の仕上げに、漢籍をモザイク状に入れこんでいるんです。
さらに最後には、持統天皇の項の第30巻を紀朝臣清人が著述しています。
この紀朝臣清人は、唐への留学者らしく、完全なチャイニーズを使いこなしていると言います。よほどの達人で、真面目な人柄とか。
もし、貴方が社史とか、会誌とかの分筆作業にかかわったご経験があれば、編集責任者が、全文の文調とか、用語を整えるでしょう。
日本書紀では、それがされていない。
天皇の名前なんて、てんでバラバラ。正史だと云うのに、不思議な文書。
        
ところで、貴方の憲法17条の推理は?
楽しかったでしょう?
何! 眠れなくなったって? ザマアご覧あそばせ!
          
ところで、僕の意見言ってもいい?
日本書紀の憲法17条が後から付け加えられたものだとしても、聖徳太子が憲法17条を作られなかったことにもならない、と思えるんですが。