忌(い)みごと
          
古代の信仰では、世界は天上とアシハラのナカツクニ(葦原の中国)、それに底の根の国の3ッだと信じていたようですねえ。
                
いえ、ボクは大した勉強をしたわけではなく、日本書紀の受け売り。
黄泉國(よみのくに)は、だれでも行く根の国。単純ですねえ。地獄があって、悪事をはたらいていると閻魔さんに、苛められるなんて、古代信仰にはなかったといいますね。
地獄、閻魔なんて仏教から来た話か、中国で変質した道教的な仏教なのかは知りませんが。
                
ところで、話は今に伝わる古代の信仰。
昔、背中に薪を背負って売りにきていた人が、庭先に入るのに、門口で荷を降ろして、首に巻いていた手拭をとって腰に結わえて、重い薪を手に持って入ってきていたことを、覚えています。
担いだまま入ってくればいいのにと思った記憶があります。
人の家に、荷を背負ったまま、入るのは、してはならない忌みごとだそうですね。
謂(い)われは、スサノオの尊が、天上を追われ、根の国に行くときに、葦原の中国で長雨が降って、宿を借ろうとすると、断られ、留まることもできず、苦労して根の国に降っていかれたとの伝説があります。
ですから、人の家に蓑笠を着けたり、束ねた草を背負ったまま入ることは忌みごとになり、それから荷を背負ったまま人の家にはいること全部が禁忌(きんき)になったようです。
それに、訪問した家にレインコートを着たまま入れば、玄関を汚しますから、当然の禁忌ですから、今に伝ったのでしょうが。
               
それから、今の僕たちでも、気をつけないといけない禁忌に、生きている人を、死んだ人と間違える禁忌があります。
ある通夜で、死んだ人の弟さんが、やって来たのを「よう似てはる。仏さんが生き返ったのかとビックリしたァ」なんて言ったのがいて、まわりの人達に顔色を変えさせたことがありました。
又、亡くなった人を懐かしんで、話題にするのは供養だと思うけど、「仏が呼びにくる」って忌むことがあります。
でも、通夜で、陽気に騒ぐのも不謹慎な気がして、供養にでもなるかと生前の故人の話をしてしまいますよね。
喋ると禁忌をおかしてしまうことがあるから、黙ってチンと座っているのが、不作法をしない要諦みたい。
             
日本書紀では、鯔と表記されるイナって、客膳にだすものではないらしい。
海彦、山彦の話に出てくるのですが、山彦が釣針を取られたのが、イナなんですって。
「おまえ、鯔(イナ)は、これから餌を食べてはならぬ、御膳にも加われない」って海神が言ったとか。
そういえば、イナって魚篇に神、鰰とも書きますねえ。字面(じづら)から見ると反対みたいに思えるけど。イナって、美味い魚だから、これからはお客に出さず、自分で食べようっと。
           
いまでも、日本人の深い信仰になっているのは、日本書紀を起源とするコトアゲ(言揚)。
言葉に出していいつのる、例えばひとの悪口。
極端な「あんな奴は、死んでいまえ」なんて言うのは、呪いですから、絶対してはならない言揚。
何しろ、この国はコトダマ(言霊)のさきわう国ですから、不吉を口にするとホントになるって信仰がありますね。ボクらでも日頃、「不吉なことを言うナ」って、言いますもんね。
だから「もし、北朝鮮が攻めてきたら、自衛隊の指揮権とか、防衛をどうコントロールするか」なんて有事立法を言い出すと、国民から「不吉なことを言うナ。本当になる」って猛反発が起こりましたね。
             
話がかわりますが、木花開(咲)耶姫(コノハナサクヤヒメ)って、素敵な呼称でしょう。
ところが、原典の日本書紀では、あんまりイイ意味にはつかわれていない。
皇孫であるニニギの尊が、天上から降られて、笠狭崎(カササノミサキ)においでになり、大山祇神が二人の娘を奉げたところ、姉は醜いとして、妹の木花咲耶姫こと鹿葦姫(カシツヒメ)と交合なさった。
帰された姉である磐長姫が
「妹の生む子は、木の花のように散り落ちてしまうでしょう」
と言った、と言うんです。
一説では「美人は移ろいやすい」と言ったとか。
「木の花の咲く」って、散り落ちる予感があるんですねえ。
             
ところで「美人は3日すれば飽きるが、ブスは3日すれば慣れる」って、女房が側から、教えてくれてるけど、これは彼女の自己弁護かなア。