魂を貪るもの
其の十二 魂を貪るもの
7.血戦

 両肩に走る激痛に耐えながら、鈴音は両腕を前に突き出した。
 そして両手に霊気を迸らせる。
 残り少ない力を搾り出し、息が乱れ、目が霞む。
 だが、両足を無理に踏ん張り、意識を保った。
 我ながら、弱弱しい力だが、これでニーズホッグの攻撃を防がねばならない。
 鈴音は額に脂汗を浮かべながらも、全霊気を両手に収束させるため集中を高める。
 攻撃を受けた瞬間に、両手に溜めた全霊気を爆発させる。
 そうすれば、防御力は一時的にではあっても、飛躍的に上がるはずだ。
 強力な武器であり、霊気の媒介である細雪があれば、力の収束もしやすく、素手とは比べられないほどの防御効果を得られただろうが、今更無いものねだりをしても始まらない。
 ニーズホッグの次の一撃は絶対に防がねばならない。
 後は、ちとせと悠樹がうまくやってくれると信じている。
 この防御に全力を注いだ後の自分にはどうせ、立つ力も残らないはずだ。
 鈴音の後ろでは、ちとせと悠樹が、霊気を高めていた。
 こちらは鈴音とは反対に防御は捨てている。
 鈴音が次の攻撃を防いでくれると信じている。
 自分たちは、ニーズホッグの元に駆け、全力を叩き込めば良い。
 ちとせは悠樹を見た。
 悠樹は、ちとせの視線を受け止め、目に優しい光を宿して頷いた。
 ちとせも頷き返す。
 呼吸が合わさる。
 二人の心はすでに一つになっている。

 漆黒の力の充填を終え、ニーズホッグが、ニィッと口の端を歪める。
 鈴音は瀕死だ。
 そして、他の二人も、どうやら一蓮托生にその場を動くつもりがないらしい。
 ニーズホッグの勝利は揺るがないように思えた。
 次の炎の一吹きで、目の前の愚かな人間どもは消滅するだろう。
 その後は、裏切り者の魔王スルトを探し出し、息の根を止める。
 そして、滅びを運ぶ我の手の内で、運命神に見捨てられた人の子とこの世界は死滅するのだ。
 その最後にはニーズホッグ自身も滅びの海に消え、運命神によって新たなる世界が創造される。
 そして再び、運命神が世界に飽きた時、我は生まれ、滅びを与える。
 無限の連続。
 例外なき連鎖こそが美しい。
 妖しく輝く黄金の光がニーズホッグの双眸をぬめり、喉が蠢き、滅びの始まりを告げるように大きく顎が開かれた。
『滅びよ、愚かな人の子よ!』
 ゴォッ!
 灼熱が大気を焼き、轟音が大気を弾く。
 漆黒の炎が真っ直ぐに、鈴音へと伸びていく。

 ニーズホッグの放った暗黒の火炎が迫り来る。
 熱風に鈴音の髪が揺れる。
 高熱で歪んだ鈴音の視界に、自分をかばうように立ち塞がる姉の後ろ姿が見えたような気がした。
 その手には細雪。
 振り向いて、優しく微笑みかける。
「あ、姉貴……?」
 だが、それは幻影だった。
 姉の姿はすぐに消えてしまった。
 一つの奇跡を残して。
 鈴音は奇跡を、否、姉の想いをその手に握り締めた。
 灼熱の黒き炎が襲い掛かってきた。
 鈴音が大きく目を見開く。
 気合いの声を上げるが、迫り来る炎の轟音にかき消される。
 次の瞬間、炎は鈴音と、その後ろで霊気を高めているちとせと悠樹を包み込んだ。
『直撃だ』
 完全に炎は鈴音たちを捉えていた。
 逃げた気配はない。
 ニーズホッグが嗤う。
 燃え上がっていた黒き邪悪な炎が、少しずつ少しずつ弱まっていく。
 炎のゆらめきが消えた後には無残に焼け死んだ死体が三つ並んでいることだろう。
 いや、もしかしたら、骨すら残らずに灰となっているかもしれない。
 ニーズホッグは勝利を確信していた。
 だが、その時、炎の中で何かが動いた。
 そして、業火は一瞬にして四散した。
『何ッ?』
 驚愕の声を上げるニーズホッグ。
 その視線は、炎で焼かれたはずの場所に立つ鈴音の無事な姿を捉えていた。
 両肩から血を流し、ふらふらの状態であったが、炎によって傷ついた箇所はなかった。
 その手には、刀身から青白く眩い霊気を立ち昇らせる一振りの刀。
 織田家伝来の家宝にして、姉である霧刃より受け継いだ魂。
 神刀・細雪。
『……刀?』
 会心の攻撃を完全に防がれ、そこにあるはずのない細雪が鈴音の手に収まっている。
『バカな、なぜ退魔師の小娘の手に……!』
 ニーズホッグには信じがたい光景だった。
 鈴音がその場にがっくりと膝をつく。
 細雪を杖代わりにして、血の混じった咳をしながら、ニーズホッグを睨みつける。
「はぁ……、はぁ……、ニーズホッグ。テメーを駆ってたヤツの力を忘れたのかよ。うくっ、ごほっ、ごほっ……」
 両肩の激しい出血と、今のニーズホッグの攻撃を防ぐのに限界まで霊気を注いで、もはや立ち上がる体力も残っていないようだ。
 だが、眼光はまるで衰えていない。
 その鈴音の横の空間から"腕"が生えていた。
 白く細い、美しい女性の腕が、唐突に空間に浮かんでいる。
『まさか……』
 鈴音の言葉に、ニーズホッグは、先程まで己の背に乗っていた女性へと首をめぐらせた。
『シャロル・シャラレイ!』
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 シャロルは、ロックに抱き支えられ、荒く息をつきながらも、ニーズホッグを真っ直ぐに見返した。
 白髪は乱れ、煤に汚れていたが、その瞳には迷いも、昏さもない。
 強い意志で未来へと向かっていく輝きを宿した美しい瞳だった。
 その右腕の肘から先が目の前の空間に消えている。
『そうか。貴様があの刀を転送して……』
「ニーズホッグよ、未来を閉ざす終焉の運命よ。いいえ、私の"魂を貪るもの"よ、私の邪で弱い心よ!」
 シャロルが空間から腕を引き抜き、ニーズホッグを指差した。
 唇が震える。
 私は、この世界が好きだ。
 壊すのではなく、救いたい。
 シャロルは大きく息を吸い込んで、ニーズホッグに叩きつけるように叫んだ。
「あなたの負けです!」
 ニーズホッグは、シャロルの宣言を嘲笑った。
『操り人形ごときが何を言うのか』
 もう一度、炎の洗礼を浴びせれば良いだけのことだった。
 同じ手は食わない。
 鈴音を焼き殺し、次に忌々しいシャロルの頭を握り潰す。
 そして、残ったちとせたちを食らえば、それで終わりだ。
『貴様のまやかしなど何度も通じると思わぬことだ』
 ニーズホッグが黄金の目を光らせた。
 と、閃光が走った。
 鋭い一筋の光は黒龍の胸に吸い込まれるように突き刺さる。
『グガアアアアアァァッ!』
 絶叫を上げるニーズホッグ。
 口の中に形成していた黒い炎が叫び声とともに、大気へと拡散する。
 ニーズホッグの胸に刺さったのは、一本の日本刀。
 それは細雪だった。
 投げつけたのは、もちろん、鈴音だった。
 鈴音は両膝を折り、片腕を地面につきながらも、ニーズホッグを強い視線で見上げている。
『ま、まだこのようなチカラが……』
 細雪が突き刺さった箇所から、魔龍の巨体に青白い霊気が浸透していく。
 正なる霊気にして、聖なる霊気にして、清なる霊気が、浄化の波動となって、ニーズホッグの漆黒の肉体に亀裂を走らせていく。
 鈴音と霧刃の念が込められた強力な一撃だった。
「あ、あたしと姉貴の置き土産だよ。ありがたく受け取れ、バカ龍!」
 無理が祟ったのだろう。
 鈴音の口から咳とともに零れ落ちた血の混じった唾液が、大地に点々と紅の痕を刻んだ。
「ごほっ、くそっ、もうマジで身体が動かねぇ。……ちとせ……悠樹……頼むぜ……」
 鈴音は崩れるように地面に転がった。
 視線だけで、ちとせと悠樹の姿を追った。
「さっすが、鈴音さん。最後まで無理してくれちゃって」
 ちとせと悠樹は、すでにニーズホッグの足元まで駆け抜けていた。
 その気配に気づいたニーズホッグが、黄金の両目を怒りに染めたまま、長い首を廻らせた。
『貴様ら……』
「一気にいくよ!」
「もちのろん!」
 二人とも、鈴音のことも、ロックのことも、シャロルのことも、振り返らない。
 見えているのは、ニーズホッグ、否、未来のみ。
 極限まで練り上げ、臨界まで高めた霊気を解き放つ。
 迎え撃とうとしたニーズホッグを異変が襲った。
『グオオォォッ!』
 ニーズホッグの全身に走った亀裂から、青白い霊気が吹き出す。
 巨体を内側から突き破り、幾条もの神々しい光の柱となって。
『こんな、こンナ、刀一本にナゼこレホどのチカラが……』
 自らの肉体が隅々まで破壊されていく事実に、ニーズホッグは慄いた。
『我ハ世界ニ滅ビヲモタラス存在ゾ! 終焉ノ魔龍ゾ! コノ程度ノ……』
 漆黒の魔龍の絶叫を遮るように、ちとせと悠樹の両手が閃光を発する。
 巨大で、そして、眩い光。
 それもまた、正なる霊気にして、聖なる霊気にして、清なる霊気。
「それこそ矛盾ですよ」
 悠樹が言った。
「ふふっ、滅びの龍なんだから、自分が滅んでも文句言わないでよ☆」
 ちとせが言った。
 二人の霊気が絡み合い、太陽の輝きを帯びた螺旋の矛となって、ニーズホッグへと向かって伸びる。
「はああああああああああああああっ!」
『オノレェェッ!!』
 憎悪の咆哮。
 ニーズホッグの崩壊しかかっている身体で邪気が高まる。
 両腕を突き出し、邪悪なる黒き光を放出して、ちとせたちに対抗した。
『オオオオオオオオオオオッ!』
「はああああああああああっ!」
 白い光と黒い光のぶつかり合いで衝撃が生じて大気が弾かれる。
 そして、衝撃波によって、ニーズホッグと、ちとせと悠樹の二人を中心として、地面が円状に陥没する。
 ちとせのリボンが解け、美しく長い髪が圧力で起きた風に舞い上がる。
 強大な力の衝突の負荷に、二人の全身の血管が弾け、血の霧が巻き上がる。
 それでも、二人は放出する霊気を緩めない。
 激痛に見舞われる身体を叱咤する。
 逆にさらなる気合いの叫び声で、全身を駆け巡る苦痛を力に変え、漆黒の魔龍へと解き放つ。
『タカガ、ニンゲン風情ガァッ!』
 ニーズホッグの咆哮に、背後で脈動していた『ユグドラシル』が蠢いた。
 運命の牙城、世界浄化のプログラムたる巨大な樹木は、世界を構成する強大な力を大地から吸い上げる。
 その滅亡の力をニーズホッグへと供給する。
 空間が歪み、穿たれ、『ユグドラシル』の触手がニーズホッグへと融合し、さらなる異形を形成する。
 世界樹はニーズホッグであり、ニーズホッグは世界樹であった。
 ニーズホッグの放出する力が増加し、ちとせたちを苦しめる。
 だが、それは一瞬のことだった。
『オゴォッ……!』
 ニーズホッグの表情が歪み、世界を滅せんとする妖気の圧力が弱まった。
 胸部に突き刺さっている細雪が強烈に発光し、青白い光がニーズホッグの肉体の崩壊に拍車がかかった。
 ボロボロと鱗が剥がれ落ち、亀裂から鮮血が溢れ出て、漆黒の肉体に満ち満ちていた邪気が衰えていく。
 結合している世界樹にも閃光が走り、悲鳴にも似た軋みが、幹や触手をざわめかせる。
 そして、ついに、ちとせと悠樹の霊気がニーズホッグの放出している黒き妖気を押し返した。
『グオオッ!』
 負荷に耐えられなくなったニーズホッグの両腕が崩れ落ちる。
 その瞬間、ちとせと悠樹の霊気が極限を超えて膨れ上がる。
「はあああああああああああああああああっ!」
 そして、霊気が、否、生命が爆ぜた。
 青白かった霊気が、完全な白へと変わる。
「いっけぇっ!!!」
 二人から放たれている螺旋の矛が、細雪の突き刺さっているニーズホッグの胸部を直撃する。
『オオオオオオオオオオオオオッ!!』
 未来を暗黒に染め上げようとしていた漆黒の魔龍の絶叫。
 細雪を媒介として膨れ上がった霊気の奔流が、ニーズホッグを飲み込み、眩い光を浴びた肉体が完全に崩壊していく。
 神々しい光の波はニーズホッグの後方に聳え立つ『ユグドラシル』をも貫き、その幹に大穴を開ける。
 穿たれた穴から、『ユグドラシル』の全体に亀裂が走った。
 邪悪に脈動していた赤い光は急速に力を失い、幹から生気が失われる。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
 『ユグドラシル』が朽ちるのと同時に、"終焉の魔龍"ニーズホッグの断末魔が響き渡った。
 それは世界を司る大樹『ユグドラシル』の朽ちる音であり、運命の女神ノルンたちの悲鳴だった。
 ニーズホッグの漆黒の肉体の内と外から、純白の光を放出しながら、風化した塑像のように崩れ去る。
 光の渦の中で、その破片すらも、消滅していく。
 街の全土に蔓延っていた世界樹の枝も根も砂へと帰っていく。
 そして、白き希望の光は天空へと舞い上がり、暗雲を散らした。
 未来を閉ざそうとした運命は砕け散ったのだ。


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