魂を貪るもの
其の二 死霊都市
3.告白
猫ヶ崎病院で奇妙な事件に巻き込まれてから三日目。
事件以来、鈴音は、ずっと沈んだ顔をしていた。
ちとせと悠樹は、何事もなかったように日常に戻っている。
神代神社に舞い込む依頼には、今回の病院に張り巡らされたような異界化結界の絡んだものや、魔物が人間になりすまして起こした事件などもあり、二人は頻繁とはいかないまでも、それなりに数をこなしてきているのだ。
事件の首謀者である柳川という医師は腕の良い外科医だったらしい。
失踪したということが地元のローカル紙に小さく載っていたが、もちろん、その正体が悪魔だったということは記事には書かれていない。
院長室の壁が破壊されていたことと失踪の関連性を警察が調査しているとのことだが、その真相を知るものはちとせたち以外にはいない。
事件に関わったちとせたちも柳川という悪魔が猫ヶ崎病院で何をやっていたのかということについてはまったく予想もつかない状態だった。
それを知り得るのは、柳川がいない今、彼に命令していた存在だけだろう。
その中に『きりは』という人物がいるはずだ。
柳川が死ぬ間際に鈴音が追求した名前だった。
その人物が鈴音と深い関係にあることは、鈴音の今までの態度からちとせも察しをつけていたが、悩む鈴音に深く追求することはできないでいる。
今日も先程まで鈴音は縁側に厳しい表情のまま腰掛けていた。
だが、心配そうに自分の顔を見ていたちとせと視線が合った鈴音は、何かをふっきるように「大事な話がある」と言ってリビングに移動した。
悠樹と葵が集まると、鈴音は重そうに口を開いた。
「何から話せば良いのか、あたしもわからないんだが……」
全員がリビングに揃ったことを確認して、鈴音は重い口を開いた。
「そうだな。あたしがこの街に来たことと病院の事件は関わりがある」
ちとせたちは黙って頷く。
「そして、たぶん、あの事件は、あたしだけじゃなくて、ちとせたち……、いや、この街に、関わってくるはずだ。だから、聞いて欲しい」
鈴音の口調は落ち着いていた。
「あたしがこの街に来た理由を話そう」
鈴音は視線を下に向けた。
「あたしは、通称"凍てつく炎"と呼ばれる女を探すために、この街に来た」
「"凍てつく炎"?」
「世界でもっとも力のある退魔師にして退魔師狩りさ。特に裏社会ではその異名を知らない者はいないだろうな」
鈴音の声が少し震え始めた。
「本名は織田霧刃。あたしの……姉貴だ」
「お姉さん、ですか?」
霧刃という名を口にした時、鈴音に憎しみとも哀しみとも取れる複雑な表情が浮かんだ。
「姉貴はあの日から狂っちまった」
――あの日。
そう、五年前のあの日。
あの日を堺に、霧刃も、そして鈴音もその生き方が、がらりと変わった。
変わらざるを得なかった。
鈴音の家――織田家――は代々退魔師の家系だった。
両親と姉の霧刃、そして鈴音の四人暮らしだった。
父親は歴代の織田家当主の中でも、抜きん出た退魔の才覚の持ち主だった。
生来穏やかで物静かな性格の姉の霧刃は剣の腕もからきしであり、父親の後を継ぐ意志を示さず、活発で勝気な鈴音が後継ぎに成るべく修行していた。
父親も姉妹の性格を把握していたこともあり、文句や不満を漏らすようなことはなかった。
むしろ、長女の淑やかさを嬉しく思い、次女の闊達さを誇りに思っていた節がある。
そして、鈴音も清楚で可憐で誰にでも優しい姉が自慢だった。
そんな霧刃に恋人ができたと知った時、鈴音は心から祝福した。
姉が選んだ若者は、誠実で聡明、そして、心やさしい青年だった。
霧刃が家へ若者を連れてきた時には、厳格な父親は柄にもなくうろたえていたが、青年の誠実さがわかると、霧刃とその恋人は父親公認の中となった。
「姉貴はずるいよなぁ。あたしに面倒な修行とか押しつけて、自分は男引っ掛けて来るんだもんな」
鈴音がからかうと、内気な霧刃は顔を真っ赤にして俯いたものだった。
そう、あの頃は幸せだったのだ。
だが、あの日。
すべては壊れた。
鈴音と彼女の父親は、ある組織からその腕を見込まれていた。
――退魔武術である天武夢幻流の使い手として、闇に潜む
それが代々継承されてきた織田家の、天武夢幻流の理だった。
欲望に溺れ、己の力を過信して呼び出した魔物に苦しめられる者。
その弱い心により嫉妬に溺れ、鬼へと変貌してしまった者。
あるいは、魔物の力に魅入られ、暗黒道に堕ちた者。
魔物の被害者は弱者が圧倒的多数であり、織田家は彼らを救うために、血の滲むような修行によって身に付けた退魔武術を振るい続けた。
その強大な霊力と退魔武術により、いつしか織田家の名は広く知れ渡り、霊的な存在と関わりを持つものたちは躍起になって彼らとの交流を持とうとした。
だが、代々織田家はその強大な力が権力者に利用されることを恐れ、そして、権力に縛られて多くの力なき人々を守れなくなることを恐れた。
だから、織田家は常に権力との距離を置いていた。
鈴音たちに目をつけた組織は、織田家の力を手に入れ、権勢を得ようとした勢力の一つだった。
その組織は、邪霊を駆使し、悪魔と契約して、闇の力の名の下に勢力を拡大するような組織であった。
織田家の力を勢力拡大に利用しようとしている上に、天武夢幻流とまったく相容れない、闇の組織。
当然、鈴音の父親はその誘いを断った。
――その報復だった。
その日、鈴音は妙な胸騒ぎがして、学校から急いで家に帰った。
学校から帰った鈴音を待っていたのは、絶望だった。
父親の死体。
母親の死体。
そして、何の生き物だかわからないほど切り刻まれた肉片と、大量の血。
「う……あ……」
鈴音は、床に広がった血で滑って転んだ。
尻餅をついて、起き上がろうとして手が血で濡れた。
目の前に見知らぬ男が転がっていた。
邪な力が感じられた。
男にはまだ息があった。
だが、全身を切り刻まれ死ぬ直前だった。
恨めしそうな眼は焦点が定まっていない。
「……あ、あの女、……たった一人に我らが殺られ……るのか? あ、あんな小娘に……ぐ……あ……」
男はそれだけ口にすると死んだ。
女?
小娘?
何のことだ。
まさか、姉貴、か?
姉貴がこの男たちを殺った?
鈴音は混乱した。
混乱している自分を確かに感じながら、どうすることもできない。
動悸が早くなり、吐き気が込み上げてくる。
息苦しい。
鈴音は、凄惨な光景の広がる部屋を見回した。
いた。
部屋の隅に。
霧刃は生きていた。
血溜まりの海の中に無傷で跪いていた。
無傷?
霧刃の側には血染めの刀が一本転がっていた。
細雪。
織田家の当主が代々受け継ぐ神刀。
姉貴が、使えたというのか!?
姉貴は剣術なんかやったこともないはず!
ここを襲った奴らは、プロの殺し屋か何かだ。
しかも、織田家歴代最強を謳われた親父を倒すほどの力を持っていたはず!
それを無傷で姉貴が葬ったというのか!?
何も理解できない。
父が死に、母が死んだ。
なぜ?
朝は二人ともあんなに元気だったのに。
それが死んでいる。
そして、姉は放心したように血の海の中心に座り込んでいる。
「姉貴……?」
霧刃は何かを大切に抱いていた。
首だった。
最愛の恋人の首。
「鈴音……みんな死んじゃった……」
霧刃のか細い声が、遠のく意識の中で聞こえた。
そして、鈴音が意識を取り戻したのは病院の中。
精神的なショックによる失神だった。
霧刃は行方不明になった。
神刀『細雪』とともに。
ちとせたちは鈴音の壮絶な過去に息を呑んだ。
鈴音の声も震えている。
思い出すのも辛いに違いない。
だが、鈴音は気丈に話を続けた。
「そして、二年前に、あたしは霧刃と再会した」
鈴音はその頃、それなりに腕の立つ退魔師になっていた。
風の噂で姉のことを聞いていた。
死神。
冷徹な闇の退魔師。
凍てついた炎のような女。
すべてがすべて、優しかった姉の噂とも思えないものだった。
だが、ようやく、ようやく見つけた姉は、噂通りの女になっていた。
再会したのは、霧刃がちょうど一つ『仕事』を終えたその場所でだった。
そこは、廃屋のような場所だった。
その時の霧刃の『仕事』は、ある闇組織の敵対勢力の排除だった。
鈴音は周りに広がる死体や血溜まりを見て、吐きそうになった。
家族を失ってから裏の世界で生きてきた鈴音も、これほどの惨状は見たことがない。
何人もの屈強な男たちが斬り刻まれて転がっていた。
姉の側に倒れている男は、まだ生きていた。
虫の息で命乞いの言葉を微かな声で唱えていた。
鈴音は実の姉の変わりように驚いた。
「それでもあたしは姉貴に言ったよ。『一緒に帰ろう』ってね」
姉貴はすぐに元に戻ってくれる。
「甘い期待を抱いてたんだ」
鈴音はそう言いながら前髪をかき上げた。
さらさらと流れ落ちる髪が、哀しみに満ちた瞳にかかる。
ちとせたちは無言のまま、鈴音の話に聞き入っていた。
「邪魔よ」
霧刃はそう言うと、傍らに転がっている男の頭を踏み潰した。
「命乞いなど見苦しい」
姉の姿をした死神は何事もなかったように歩き出したが、思い出したように妹を振り返った。
凍てつく視線が灼熱の霊気を伴って浴びせられる。
「鈴音、おまえも私の邪魔をするな」
そして、再び歩き出した。
鈴音の中で何かがキレた。
鈴音の心の中の姉は、誰よりも優しかった。
相手がどのような極悪人であっても、命を奪うことなどできはしないはずだった。
それが、こんな簡単に、何の躊躇もなく、人を殺す。
目の前にいる女は鈴音の知っている姉ではない。
鈴音は心の中で叫んでいた。
姉貴じゃない。
姉貴じゃない。
姉貴じゃない!
「霧刃ぁ!」
鈴音は大声で、生まれて初めて姉の名を呼び捨てにした。
姉貴とは呼べない。
呼びたくない。
鈴音は手のひらに霊気を収縮して光り輝く剣を作り出し、霧刃に斬りかかった。
目の前の凍てついた心の女を倒して、優しかった姉を取り戻す。
絶対に。
その想いが、かつて敬愛していた存在に向かって剣を振るわせていた。
だが、霧刃は難なく鈴音の渾身の剣撃を捌き、横へと周り込んだ。
そして、鈴音の右上腕を掴み、無感情に捻り上げる。
ゴキリッという不気味な音が響き、鈴音の右肩を激痛が襲った。
「ぐあああっ!」
「右肩の関節を外した。退きなさい」
霧刃の手が鈴音の右腕を開放した途端、重力に従って力なく垂れ下がった。
折れてこそいないが、もう右腕は使い物にならない。
それに鈴音は霧刃の動きをまったく捉えることができなかった。
生き別れたあの日まで武術も霊術もずぶの素人だった姉の動きに、十年以上修行に明け暮れ、そして実戦でも鍛え上げてきたはずの身体能力も動体視力も神経も勘もすべて追いつかない。
織田霧刃が変わっていたのはその心だけではなかった。
鈴音は自分の才能も努力も経験も磨り潰す、姉の天賦の才とそれを引き出す狂気を一瞬で理解していた。
同時に父親が霧刃になぜ天武夢幻流を継がせようとしなかったことも。
そして、今の自分では霧刃に勝ち目がほとんどないことも。
だが、ここで退くわけにはいかない。
「なめるなっ!」
鈴音は動く左腕で、霧刃に殴りかかった。
だが、右肩を外されている時点で攻撃に勢いも鋭さもなくなっている。
容易に攻撃を躱した霧刃が、今度は鈴音の左腕を掴み、関節に肘を叩き込んだ。
鈴音の腕が関節部分から先の力を失う。
「あああああっ!」
「左腕の関節も外した。これで、もう戦えない」
「ま、まだだ。まだ、あたしはやれる!」
両腕の関節を外されても鈴音の闘志は怯まない。
腕が動かなければ、足を動かせば良い。
身体の動く部分がある限り、あきらめることなどできはしない。
今、この時、霧刃を止めなくてはいけない。
見失ってしまえば、今以上に霧刃がもっと遠い狂気の領域に行ってしまう。
そう確信していた。
鈴音は動かぬ両腕の激痛に耐えながら、今度は霧刃に蹴りかかった。
「……」
蹴足を見切った霧刃が、鈴音の足首を掴んだ。
ぎりぎりと万力のような力で締め上げられ、鈴音の足首が悲鳴を上げる。
――折られる。
鈴音は、そう思った。
だが、次に来たのは胸部への強力な一撃だった。
霧刃の手のひらが鈴音の胸に押し当てられる。
霊気の塊が胸の内部に叩き込まれる。
「がはっ!」
内臓を切り刻まれるような激痛が鈴音を襲った。
足首を掴まれ吹き飛ぶことすら許されず、体内で荒れ狂う衝撃に豊かな乳房がのた打ち回るように揺れる。
霧刃は鈴音の足首を捻って、そのまま投げつけた。
成す術もなく宙を舞った鈴音の肉体は受け身も取れずに背中から壁へと叩きつけられ、そのままズルズルと滑り落ちる。
パラパラと崩れ落ちる壁の破片が、その衝撃の大きさを物語っていた。
凍てつく眼差しで実の妹の無残な姿を見下し、霧刃はゆらりと背を向けた。
「鈴音、二度と私に関わるな」
「ち、くしょう……」
明滅する視界に去りゆく霧刃を映した鈴音が、姉の背を掴もうとするかのごとく関節の外されている右腕を前方に伸ばそうとする。
「き、霧刃……」
だが、無理に動かそうとした激痛と無力さだけが鈴音を蝕むだけで、その腕は動かず、何も掴めない。
「あたしはおまえを止……」
言葉さえも続けることを許されなかった。
――ごふりっ。
唇を割って出たのは、紅の血の塊。
急速に力が抜け、鈴音はガクリと項垂れる。
意識が遠退いていく中で、霧刃の声だけは、はっきり聞こえた。
「次は、おまえとて容赦はしない」
――そして、現在。
過去から立ち返る。
鈴音が前髪を指ですくい上げた。
「霧刃はこの街にいる」
鈴音が自分を落ち着かせるように両瞼を閉じ、大きく息を吐いた。
右手が首から下げた銀色のロケットペンダントに手を伸ばし、軽く握り締める。
ゆっくりと両眼を開く。
その瞳が妖しく光っていた。
「霧刃はこの街で何かをしようとしている。それが何なのかまではわからないが……。猫ヶ崎病院で結界を張っていたあの柳川とかいう悪魔は、霧刃を知っていた」
複雑な表情をして、ちとせは鈴音の話を聞いていた。
ちとせにとって、姉の葵はかけがえのない存在だ。
鈴音にとっての霧刃もそうだろう。
「あたしは、姉貴を止めなきゃいけないんだ」
鈴音の決意に満ちた顔が、ちとせには泣いているように見えた。