魂を貪るもの
其の二 死霊都市
2.悪魔が来たりて
猫ヶ崎病院の院長室は最上階にあった。
結界によって外界と遮断され、異空間と化したこの病院には、院長はおろか、医者も看護士も、患者の姿も見えない。
だが、この院長室には、二つの気配があった。
そのうちの一人は、この病院と関係のありそうな姿をしている。
白衣を着ており、頬のこけた神経質そうな顔には銀縁の眼鏡を掛け、いかにも頭の切れる医者といった雰囲気だ。
だが、外界と隔絶された状況で平然としていることが、彼がただの医者ではないことを証明しており、この怪現象に係わり合いがあるのも明白だった。
白衣の男は目の前に立つ女に向かって、分厚い紙の束を示した。
「力の汲み上げは順調です。第一段階は成功と言って良いでしょう。これが資料です」
女は白い胴衣の上から黒基調の千早に似た羽織を纏い、黒い袴を穿いた顔色の悪い美女で、腰に日本刀を納めた鞘を帯びていた。
医者然とした男の服装とは反対に、この最新技術が結集した病院とは矛盾した格好をしている。
男が女に示した資料の束には不可思議な文字や、何かの方位やら角度やらを示す複雑な図形が記されていた。
「すでにレインバックさまには情報を送信してありますが、この原本をランディさまのお手元へお届けください」
女は無言のまま、男の差し出した資料を懐へとしまった。
そこで急に、女の目が厳しさを帯びた。
「何か?」
女の表情の変化に気づいた柳川の顔に困惑が浮かぶ。
「ネズミだ」
女は、ぽつりと言った。
「ネズミ?」
「結界内に何者かの気配を感じる」
「まさか!?」
白衣の男は慌てて目を瞑り、病院の隅々まで意識を拡張する。
「……一、二、三。……三匹も、いつの間に紛れ込んだというのだ」
彼は集中した意識の中で、見知らぬ三つの気配が病院内に入り込んでいることを感じ取った。
資料の受け渡しに、職場でもあるこの病院を指定したのは彼自身だった。
結界を張り、外界と完全に遮断した場所で資料の授受は極秘に行なわれる。
その予定だったのだ。
完全に封鎖したはずのこの場所に何者かが侵入しているという事実は、男の手落ちであった。
「だが、病院内に放たれている悪霊に殺されるのが落ちというもの」
男が銀縁眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
そして、内心の動揺を押さえ込んで、平静を装った声で答えた。
「万が一、ここまでネズミどもが辿り着けたとしても、この私が対処すれば良いだけのこと。"凍てつく炎"殿は予定通りにその原本だけを届けていただければ結構」
女は部屋の出入り口までゆっくりと移動し、視線だけで男を振り返った。
氷のように冷たい目で射抜かれ、男の身体に無意識の震えが走った。
その視線から逃れたい一心で男は女に深々と頭を下げる。
女は無言のまま、院長室を去った。
圧迫感から開放された男が顔を上げる。
その頬を冷や汗が滴り落ちた。
速やかに侵入者を排除しなくてはならない。
そうでなければ、自身が死神に喰われてしまうかもしれない。
ちとせたちは、ようやく病院の最上階に辿り着いた。
ここまで昇ってくる間、絶え間なく魔物が襲いかかってきていた。
魔物たちの大半は、
痘鬼は
死を想起させる骸骨たちも含め、これらの魔物は人々の病院への恐怖から生み出されたのだろうと、鈴音は自分の考えをちとせと悠樹に語った。
そして、これらの魔物を操っている者が、この猫ヶ崎病院に結界を張り巡らせたに違いない、とも。
鈴音は先頭に立って進み、二十体近くもの魔物を葬り去っていた。
それも、ほとんど一撃で、だ。
ちとせも悠樹もそれぞれ二体ずつ妖魔を倒していたが、それは鈴音が討ち漏らした敵を援護で倒したようなものだった。
鈴音の実力は三人の中でもずば抜けている。
圧倒的に強い。
動きの切れが二人とはまるで違う。
霊気を駆使した戦いに馴れている。
彼女が歴戦の退魔師であることはもはや疑いようがなかった。
だが、その実力に反するように、鈴音の呼吸は荒いものに変わっていた。
その額にも汗が滲んでいる。
明らかに体力と霊力が枯渇している。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
「大丈夫ですか、鈴音さん?」
鈴音を気遣って悠樹が声をかける。
「大丈夫だ」
そう答えたものの、鈴音は時折、よろめいている。
顔にも疲労が濃い。
いくら葵の治癒術によって傷が回復したとはいえ、血に塗れて倒れていたのは昨晩のことだ。
体調が万全でないのも当然だろう。
もし、この先に今までより強力な敵が待ち構えていたら立ち向かえそうもない。
「……!」
突然、鈴音の顔に鋭い表情が浮かんだ。
「あれは!」
そして、ちとせや悠樹が止める間もなく廊下を疾走する。
今までの疲労も消え去ってしまったかのように速い。
だが、まったく周りに目をやっている様子はない。
無防備とも言える走りだった。
今、奇襲を受ければ、鈴音は避けることはできないだろう。
ちとせは鈴音の変化に混乱していた。
「何よ、どうしたの? 鈴音さん?」
「追うよ、ちとせ!」
悠樹が鈴音の後を追って駆け出す。
「あっ、ちょっと待って!」
その後ろを慌てて、ちとせが追う。
すぐに追いつくことができた。
院長室の手前の交差で鈴音は立ち止まっていた。
「鈴音さん、いきなり、どうしたんです?」
ちとせが問いかけるが、鈴音の耳には何も聞こえていないようだった。
「確かに見た」
呟く声が微かに聞こえた。
「あいつが、……霧刃がいやがった」
「きりは?」
再び、ちとせの頭に疑問符が浮かぶ。
鈴音にしかわからない何かがあるのだろうが、正直振り回されっぱなしは辛かった。
「鈴音さんってば!」
ちとせが声を張り上げる。
そこで、はじめて鈴音は正気に戻ったようだった。
微かな動揺を表情に含みながら、前髪をかきあげる。
「あ、ああ、すまない。何でもないんだ」
「鈴音さん……」
ちとせにも悠樹にも、鈴音が言うように「何でもない」ようには見えていなかった。
疾走し始めた時の鈴音の表情は、寒気がするほどに厳しい表情だったのだ。
だが、鈴音は語らない。
「それより、あそこだな」
まだすぐれない顔色で鈴音が院長室を示す。
ちとせは鳥肌が立つのを感じた。
暗く嫌な雰囲気が扉の奥から漂ってくる。
この病院内に結界を張っている本人がいるのはここに間違いがないようだ。
「悠樹」
「ん?」
「次、何かが襲ってきたらさ」
「わかってるよ。鈴音さんには休んでてもらうよ」
ちとせの考えを読み取った悠樹が、相棒の求める答えを返した。
二人は互いに微笑む。
そして、ちとせは用心深く院長室の扉に手をかけた。
院長室にいたのは、銀縁の眼鏡を掛けた痩せた男だった。
白衣の胸に『柳川』という名札を付けている。
医者然とした姿だが、男の全身から感じられる雰囲気は禍々しい。
「ふん、ネズミどもが……」
男――柳川が尊大な口調で言った。
柳川は眼鏡の奥から冷たい視線で三人を見回した。
「だが、ただのネズミではここまで来られるはずもない。退魔師がたまたま治療にでも来ていたというところか?」
「あなたがここに結界を張った張本人ね、一体どういうつもりよ?」
ちとせが問い詰めるが、白衣の男は答える気がないというように首を横に振った。
「それはキミたちが知る必要もない事だ」
「そうか。なら、質問を変えよう。ここに女がいただろう?」
鈴音が多少ふらつきながらも、柳川に厳しい視線をぶつける。
彼女の言う『女』というのが、先ほど呟いていた『きりは』という人物のことだと、ちとせは直感する。
きっと鈴音に因縁のある人物なのだろう。
「さて、知らんな。ああ、そうだ。いるよ。私の目の前に……。殺されるのを待っている哀れな女がね」
言うが早いか柳川が人間の速さとは思えない動きで鈴音に跳びかかった。
「シャッ!」
「危ない!」
悠樹が鈴音の腕を掴んで引き寄せる。
「足元がふらついていたから、仕留められると思ったが。……そう甘くはないか」
手に鋭い銀色の輝きを放つ医療用のメスを握った柳川が笑う。
「あなたの相手はボクがしてあげるよ」
ちとせが一歩前に出る。
「悠樹。鈴音さんを頼むわよ」
「ちとせ!」
鈴音も前に出ようとしたが、悠樹に止められた。
彼女の傷は葵の治癒術で回復しているが、体力は限界に近いのだ。
「ちとせ一人で大丈夫です。鈴音さんは、ぼくの後ろにでもいてください」
「だが……」
「大丈夫です。今、手を出したら怒られると思いますよ。それに、もし、ちとせが危なくなったら、ぼくも出ますから」
悠樹の声は力強かった。
「くっくっく、お嬢さんがお一人で?」
柳川はメスをくるくると指先で回した。
「なかなか面白い冗談だ」
「残念だけど、冗談じゃなくて本気だよ」
「ますます笑えるな!」
柳川の右腕に握られた鋭いメスが、ちとせを切り裂かんと伸びる。
咄嗟に身を反らしたちとせだったが、完全には避けることができず、メスの刃が頬を掠めた。
浅く切り裂かれた頬に朱線が走り、血が滲んだ。
「女の子の顔に傷つけるなんてサイテーね」
ちとせは滲んだ血を指先で拭うと、ぺろりと舌でなめた。
猫を思わせる瞳に静かな怒りを湛え、その手に眩い霊気の光を宿らせる。
「死んでわびなさい!」
ちとせが腕を突き出すと収束した光が球形となって飛び出し、柳川を直撃した。
柳川は壁をぶち破り、部屋の外まで吹き飛んだ。
ちとせたちもその後を追うように部屋の外まで移動する。
柳川は廊下の端のホールのように少し広くなっているところで転がっていた。
「あちらの鋭い殺気を放っているお嬢さんが退魔師で、キミと少年はおまけだと思っていたのだが」
柳川は何事もなかったように立ち上がり、暗い笑みを浮かべた。
パンパンと白衣に付いた埃を払い、レンズにひびの入った眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
「どうやら、キミもただの女子高生というわけではなかったらしい。これほどの霊気の使い手はなかなかいない」
「そっちこそ、ただのお医者さんってわけじゃなさそうね。ていうか、人間かどうかも怪しいわね」
ちとせが軽い調子で肩をすくめる。
柳川はそれを見て、また笑った。
「久しく獲物にありつけずにいたが……」
壊れかけの銀縁眼鏡の奥で、瞳が禍々しい赤い光を帯びる。
「おまえのような上物を相手にできるとは、うれしくなるではないか」
笑い声に嗜虐的なものを混じらせながら、柳川が両腕を胸の前で交差させる。
するとその前に何本もの針が出現した。
「標本にしてやろう!」
柳川が奇声を上げて両腕を振るうと同時に針がちとせに向かって飛んだ。
ほとんどの針は叩き落とすか避けるかしたが、すべてには対応しきれず、三本の針がちとせの左右の肩と、左脚のオーバーニーソックスと短めのプリーツスカートとの間から見える太腿を掠っていた。
傷口から血が滲み出し、ブレザーとオーバーニーソックスに赤い染みが広がっていく。
「ちとせ!」
悠樹の後ろから、鈴音が叫ぶ。
ちとせはしかし、柳川をキッと睨みつけたまま、「大丈夫、掠り傷だよ」と心の中で呟きながら、背中に回した手でビシッとビクトリーサインを出した。
その手が淡く光り始める。
霊気を練り上げ、手に集中させているのだ。
柳川が再び両腕を交差させ、周囲に無数の針を出現させる。
「食らえ!」
「ワンパターン!」
柳川が腕を振るうと同時に、ちとせは跳んだ。
誰もいない床に無数の針が突き刺さる。
「がら空きよ!」
着地と同時に、低く前へと跳躍したちとせが柳川の懐に入り込む。
ちとせの瞬発力に驚愕する柳川のがら空きの身体へと霊気の宿った拳を叩きつける。
結界で閉じられた病院内に、地獄の底から響くような大絶叫が響き渡る。
衝撃で眼鏡が吹き飛んだ柳川の顔がどす黒く変色し、目尻が吊り上り、口の端が裂ける。
気づけば、全身が爬虫類を思わせる鱗に包まれていた。
もはや人間の原型をとどめていない。
――悪魔。
そう形容すべき顔に変形していた。
「うわっ、やっぱ悪魔だしっ。手加減しなきゃ良かった」
ちとせが呟くのと、柳川の背中からバリバリと音を立てて巨大な蝙蝠のような翼が出現するのは同時だった。
「キィィィィサァァマァァ!」
憤怒に染まった表情で、柳川が双眸を爛々と真っ赤に燃やし、爪のすべてが鋭い鉤爪にに変わった腕を振り上げる。
だが、ちとせは逃げない。
落ち着いたように柳川の腹部に両手のひらを向けた。
「とどめだよ☆」
振り下ろされた悪魔の爪が、ラフに着たブラウスに隆起を描いている胸へと突き刺さるより先に、ちとせは先程の何倍もの霊気の塊を柳川の身体に打ち込んでいた。
波打った霊気が悪魔の肉体に伝播し、眩い閃光とともに背面まで衝撃が突き抜ける。
放たれた霊気の波動の余波で、ちとせのポニーテールと第二ボタンまで外したブラウスの襟に緩く巻いたリボンタイ、そして、ブレザーとスカートの裾が激しくはためく。
「ぐおおおおおおおおおおおぉぉぉッ!」
体内から破壊された柳川の身体のあちらこちらが破裂し、振り下ろした右腕も崩れ落ちる。
翼を生やした爬虫類を思わせる悪魔は、力尽きたように後ろへよろめいた。
「死神に喰われならばともかく、上物とはいえ、小娘にやられるとはな。この我も落ちたものだ」
「さあ、答えなさい。ここで何をしていたの?」
ちとせが両肩と左太腿から流れる血もそのままに、悪魔に問いかけた。
だが、悪魔は応えず、笑った。
その身体が砂のように崩れながら、大気へと消えていく。
「言っただろう。知る必要はないと」
悪魔は、ただ笑っていた。
「もはや、我が肉体は、我が故郷たる
悪魔の身体の崩壊は止まらない。
そして、悪魔は、それがいかにも可笑しいことであるように笑っていた。
「女!」
悪魔が鈴音に淀んだ視線を向ける。
「さっき、汝が言った『ここにいた女』とは、……"凍てつく炎"のこと……だろう?」
「やはり、さっきのは……!」
鈴音の顔色が変わった。
「おい、霧刃は今どこにいるんだ!」
「……く、はは……」
「答えろ!」
「……汝らでは……あの死神のような女には……勝……て……ぬ……」
鈴音の質問に応えることなく、嘲笑だけを残して悪魔は塵と化し消えた。