魂を貪るもの
其の十二 魂を貪るもの
5.より良き未来のために

 濛々と立ち込める土煙が、視界をふさいだ。
 地面に叩きつけられたニーズホッグの苦痛と怒りに染まった咆哮が響き渡る。
 荒れ狂う黒き飛龍の足元に、白きシャロル・シャラレイは静かに立っていた。
 シャロルには、かすり傷一つなかった。
 卵の薄皮のように白い髪にも、雪のように白い肌にも、純白の法衣にも、埃すら付いていない。
 地面に激突する瞬間、墜落する飛龍の背から、地面へと転移したのだろう。
 ただ、その瞳からは妖しい黄金の光が失せ、紺碧に戻った虹彩の焦点は定まっていない。
 そして、何の動きも見せず、呼吸さえ、いや、鼓動さえ止まっているのではないかと思わせるほど静かに、立っていた。
 土煙も震動も、背後でのた打ち回っているニーズホッグの動きや咆哮も、シャロルの周りだけは別世界のように届いていなかった。
「運命に風穴を開けられた気分はどうだい?」
 鈴音が細雪の切っ先をシャロルに向けて、静かに声をかけた。
「……悪くはないだろう?」
「……」
 シャロルは目だけを動かして、自分を見つめる鈴音を見た。
 虚ろだった瞳に昏い黄金の輝きが戻った。
「無駄な抵抗です。『決まったこと』にいくら抗っても、苦しみが長く続くだけです」
「……なかなか思い込みの激しいヤツだな」
 鈴音は、困惑した。
 シャロルの心は確実に揺れているはずだったが、運命という言葉が彼女を退かせない。
「頑固さなら、姉貴とイイ勝負だ」
 姉は過去に絶望し、シャロルは未来に絶望している。
 だが、姉は過去を呪っていたが、未来を変えようとはしていたのだろう。
 だから、チカラを求めた。
 何者にも屈せずに済むためのチカラを。
 シャロルは違う。
 滅びたいだけだ。
 何もかも巻き込んで、しかも、『きれい』に死のうと思っている。
 シャロル・シャラレイは、未来を恐れているだけだ。
 まだ、何も起こっていないし、何もしていない。
 運命という言葉に翻弄されているだけだ。
 鈴音は、自然と細雪の柄を握る手に力がこもるのを感じた。
 戦うことでしか、説得というものができない自分を歯がゆく思う。
 もっとうまく話し合うことができれば、姉にあのような結末を迎えさせることはなかったはずだ。
 姉を救うことはできなかった。
 だからこそ、シャロルは救いたい。
 それは、ちとせも同じだろう。
 そして、悠樹も、ロックも同じだろう。
 戦わないに越したことはないのだ。
 悲しみは少ない方が良いに決まっている。
「運命だ何だって言って……、あなたは壊そうとしかしていない」
 ちとせが不機嫌そうな表情で鈴音の横に並び、両手を腰に当て肩幅と同じくらいに両脚を開いて仁王立ちになり、シャロルへと声を飛ばした。
「世界を愛しているなら、運命を捻じ曲げてでも愛すべきだったのよ。あなたが愛していたのは世界ではなく、運命と運命を見る自分自身の悲劇」
 ちとせの猫のように大きな瞳に凝視されて、シャロルの黄金の瞳が動揺したように翳った。
 怯んだように淡く揺れる。
「世界を愛していない人に、世界を壊すことなんてできはしない。そして、世界を愛していれば、壊そうなんて思わない」
 容赦なく言葉を連ねるちとせを見ながら、悠樹は思う。
 ちとせには、負というものがない。
 いや、負がない人間などいない。
 負を感じさせないのだ。
 本当に強い。
 もしかしたら、強いというのとは違う表現かもしれない。
 だが、悠樹にはそう思えた。
「一生懸命に良くしようと努力して、それでも壊れちゃうなら、……一緒にいるだけで、十分だとボクは思うよ」
「運命はそんなに甘くはない。世界は、そして、ヒトはそんなに賢くはない」
 妖しい黄金の色に輝く眼を伏せ、シャロルが搾り出すように言った。
 その顔からは血の気が失せ、唇は震え、声は掠れていた。
 それを受けて、ロック・コロネオーレが、サングラスのずれを直しながら言葉を紡ぐ。
「そんなことは知ってますヨ。でも、オレは世界を失うわけにはいかない」
 ロックは孤児として生を受け、マフィアに育てられ、イタリアの裏社会で生きてきた。
 しかも、血で血を洗う抗争の末、そのマフィアのファミリーをも失った。
 未来を恐れているだけのシャロルより、現実に過去に傷を負ったロックや鈴音の方が気が狂ってもおかしくない。
 だが、ロックは信じていた。
 希望を。
「大事な未来があるんでネ」
 ロックは少しだけ顔を赤らめつつ、鈴音を見た。
「あたしもだ」
 鈴音も頬を桃色に染めながら、それでも、はっきりと言い切った。
 二人には約束がある。
 一緒に未来を築いていこうという約束が。
 ちとせが肩をすくめた。
「もう、唐突にイチャつかないでよ」
「イチャついてなんかいねェ!」
 鈴音がむきになって怒鳴る。
「まあまあ、ラブラブということで良いと思いますよ」
 悠樹が涼しい顔で追い討ちをかける。
 鈴音は完全に真っ赤になっていた。
 怒りではなく、恥ずかしさで。
「テ、テメーら、あたしをおちょくって楽しいか……?」
「楽しいよ」
 ちとせは、あっさりと肯定した。
 力強い微笑み。
 そう、こういう会話は楽しいのだ。
「だから、負けられないんだよね。運命なんかには」
 悠樹も、ちとせに釣られて微笑みを浮かべていた。
「そうそう、二人の門出を邪魔させるわけにはいかないよね」
「違うだろッ!」
 必死に叫ぶ鈴音。
「世界の未来のためだろッ!」
「同じことだってば」
 ちとせは笑顔を絶やさず、鈴音の反論をやり過ごした。

 シャロルは、毒気を抜かれた表情で、目の前で繰り広げられている漫才のような会話のやり取りを聞いていた。
 なんと緊張感のない会話だろうか。
 だがそれは、未来に希望を見出しているからこそ、できる会話だった。
 いや、普通の、日常の会話だった。
 しかしそれは、なんと魅力的なものだろうか。
「というわけよ、シャロルさん」
 ちとせはウィンクをした。
「だから、哀しい顔をしてないで、祝福してあげてよ」
「……祝福?」
 今や、シャロルは完全に混乱していた。
 神代ちとせは、敵として対峙している自分に、何の意図があってそのようなことを言うのだ。
「シャロルさん。誰かの幸せを奪うことを望んでなんかいないでしょ?」
「私は……、私は……」
 シャロルは自分が何をやっているのかわからなくなっていた。
 なぜ、世界を滅ぼそうなどとしているのだろう。
 ――自分のため?
 私は自分のためだけに、他人が掴みかけた幸せを奪おうとしている。
 多くの想いを灰にしようとしている。
 この世界にどれほどの未来を望む人々がいるのかさえ、考えられずに。
 何が、私は世界を愛している、だ。
 私は自分しか愛していなかったのではないか。
「でも、運命は……」
 言いかけて、飲み込んだ。
 ――未だ来ないから、『未来』。
 ちとせの言葉が脳裏を巡る。
 シャロル・シャラレイには、確かに未来視能力(プレコグニション)透視能力(クレヤボヤンス)がある。
 それは他の異能力者たちとさえ一線を画す能力。
 運命を視ることができる。
 それは絶望だった。
 これから何が起こるかを知り得ることに、恐れ慄いていた。
 未だ来ぬものに怯えていた。
 怯えは肥大化し、絶望を誇大化した。
 絶望の未来を回避する手段を模索することを放棄し、悲劇に陶酔するだけの自分を生み出した。
「シャロルさん、占い師でしょ」
 ちとせは吸い込まれるような大きな瞳で、シャロルをまっすぐに見つめ続けたまま、言った。
「もし、心の底から絶望してるなら、そんな未来を作るための仕事は続けないよね?」
 ああ……。
 シャロル・シャラレイは心の底から嘆息した。
 ああ、道を……。
 道を誤った。
 そう、自分は占い師。
 それは未来を奪うための仕事ではなく、未来を作るための仕事。
 自分は、運命へ身を委ねるように勧めるものではない。
 より良い未来のために助言すべき者なのだ。
「……私は、……私はまた戻ることができるのでしょうか?」
 シャロルの透明感のある紺碧の瞳から涙が溢れ出し、白磁の頬を伝った。
「もちのろん」
 至極当然というように、力強く頷きながら答えるちとせを見て、鈴音は心底思う。
 どんな強力な武器を持とうと、どんな強大な霊気を持とうと、ちとせには敵わない。
「私は戻れる……」
 シャロルは胸の前へ手を差し出した。
 妖しく輝いていた黄金の瞳は、完全に透き通った紺碧へと戻り、その哀しみに満ちた表情に、微かな希望が刻まれる。

 と、その時、大気が揺れ、立ち込める暗雲が、希望をせせら笑った。
 轟音と稲光が走った。
 そして、黒い塊が、ちとせの視界を横切った。
 鈍い激突音が響き、シャロルの身体が、突風に煽られた鳥の羽のように飛ばされた。
「シャロルさん!」
 シャロルは天高く舞い上がり、やがて、重力に引かれて急降下を始めた。
「まずい!」
 悠樹が落下してくる彼女を受け止めようと咄嗟に走ったが、間に合わない。
 シャロルは受身も取ることができず、まともに背中から地面に叩きつけられた。
 悠樹が駆け寄って、シャロルの上半身を抱き起こす。
 シャロルの形の良い唇を割って出た熱い液体が、純白の法衣の胸元を紅に染める。
 慌てて悠樹が、シャロルの傷の具合を探る。
 全身を強く打っているようで、血を吐いたのは内臓にまで衝撃を受けたためだろう。
 だが、幸いにも致命傷ではないようだ。
『愚か者どもよ』
 ざらついた声が轟いた。
 ちとせたちは、一斉にそちらを向いた。
 神経に障る声を発した主の姿が、視界に入る。
 漆黒の巨体を誇る片翼を失った飛龍。
「ニーズホッグ!」
『白銀の魔女よ。おまえも所詮、ヒトの身。運命の人形に過ぎぬ』
 ニーズホッグが冷たい黄金の双眸で、シャロルを視界に捉えていた。
 だが、シャロルの視線は、彼女を吹き飛ばした漆黒の飛龍には向けられていなかった。
 彼女は悠樹に支えられて、自分の口から吐き出された熱い液体をまじまじと見つめていた。
「赤い血……。そう、私も人間……」
 そう呟くとシャロルは、悠樹へと弱弱しい視線を向けた。
 続いて、ちとせに視線を送り、安堵したような笑みを浮かべて、がくりと項垂れた。
「シャロルさん!」
「大丈夫。気を失っただけだ」
 取り乱しそうになるちとせに、悠樹が冷静に告げる。
「内臓にダメージがあるのがまずいけど、今すぐには命に別状はないよ」
「テメー!」
 怒りに燃える瞳で鈴音がニーズホックを睨みつけ、刀身から青白い霊気が立ち昇る細雪の切っ先を向ける。
 ちとせも、キッとニーズホッグを睨みつけて、神扇を構え直した。
『我は、魂を貪るもの。我は、滅びの運命。我が名は、"終焉の魔龍"ニーズホッグ!』
 邪悪な飛龍は全身から漆黒の闇の妖気を立ち昇らせながら、前傾姿勢となって、妖しく輝く黄金眼でちとせたちを雄大に見下ろした。
『さあ、真の滅びを与えてやろうぞ!』


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT