魂を貪るもの
其の十二 魂を貪るもの
4.運命の運命
白き魔女は、巨大な黒き飛龍を駆り、天空からちとせへと迫った。
ちとせも悠樹の風の援護を受けて、渾身の一撃を与えようと、ニーズホッグが近づいてくるに任せた。
だが、シャロル・シャラレイはちとせの射程距離に入る前に、再び天高く飛翔した。
「……!」
ちとせは手を出すタイミングを逸して、口惜しそうに空を見上げる。
一方、シャロルは眼下に崩れ去った『ヴァルハラ』を一望しながら、猫ヶ崎市全土に根を張って聳え立つ『
そして、不意に数日前、"凍てつく炎"織田霧刃と対峙した時のことを思い出していた。
「頭が……痛い……」
――もう見たくない。
頭の中で何度も何度も繰り返される映像。
シャロルの脳に映し出されるのは、少しずつ崩れていく世界の終わり。
人と人が殺し合い、多くの血が流される。
動物たちはその血に狂い、人を食らい、人に食らわれる。
やがて植物も枯れ果てる。
そして、必ず、映像は続いた。
次に見せられるのは、紅蓮の炎によって、一瞬にして世界が灰となる光景だ。
命という命が息絶え、ただ残るのは、炎に包まれた男――獄炎の魔王――と、彼以外のすべてが燃やし尽くされた『無』という名の砂漠だけ。
それこそが、
だが、それは
終末の刻は早ければ早いほど、醜く腐っていく世界を見ずに済む。
美しいままで、最期を迎えることができる。
どうせ、滅びるのだ。
必ず、滅びるのだ。
ならば、美しいまま、苦しみが小さいうちに、早く、滅びてしまえばいいのだ。
世界の最期を見せられ続けたシャロル・シャラレイは、唐突の滅びに魅せられていた。
「裁きの……刻は……近い……」
ふらつく足取りで、玄関に向かった。
今は、占いなどしたくはなかった。
未来の映像が視界を氾濫するようになってから、シャロルは自分の予知能力に絶望していた。
なぜ、見なくても良いものまで見えてしまうのか。
通常、人は自分が見たいものだけを認識して生きている。
だが、シャロルにそれが許されなかった。
運命はシャロルを魅入り、シャロルは運命を魅入っていた。
逃れることも、避けることもできない。
抗おうとしても、すでに精神は疲弊し、焼き切れていた。
受け止めることも、できない。
頭痛は酷くなっていた。
占いの館のエントランスに掛けてある『営業中』と書かれた木製の札を裏返し、『準備中』とするのも一苦労だった。
そして、館の中に戻ろうとしたシャロルは足を止めた。
否、足が竦んで、自然に止まった。
止まらざるを得なかった。
背筋の凍るような視線を感じたのだ。
これほどの殺気を浴びたもは初めての経験だったが、この感覚には覚えがあった。
織田鈴音の心を覗いた時に、彼女の感覚を通して感じたものと同じもの。
すべてを焼き尽くす灼熱のような、すべてを凍らせる吹雪のような殺気。
凍てついた炎のような殺気だった。
シャロルは、頭痛の増す額に手を当てたまま、振り返った。
何よりも先に、黒金の鞘が目に入った。
鞘から溢れる聖なる青い霊気を、それに取り付く真っ赤な邪気が飲み込もうとしていた。
刀の柄を縊り殺すように握るのは、病的に白い細腕だった。
シャロル・シャレイの白く長い髪が、その渦巻く殺気に数本切り飛ばされる。
「あなたは……」
頭痛を抑えるために額に当てた指の影から、視線を面前へと向けた。
鞘を携えて現れたのは、肩の辺りで無造作に切られた黒髪と、蒼白と表現するべき白い肌、そして禍々しく濁った光を宿す真紅の瞳を持つ死神だった。
――"凍てつく炎"織田霧刃。
織田鈴音の心の映像で見たしの姿と寸分違いがない。
いや、その顔色だけは、鈴音の脳裏に焼きついていた時よりも悪くなっているように思えた。
「……」
霧刃は無言のまま、シャロルを見据えてきた。
シャロルは動かなかった。
霧刃の手元で閃光が走った。
「──!」
秒よりも短い刻での抜刀。
シャロルの衣服の一部が舞った。
だが、その軌跡の先には、シャロルの姿はなかった。
霧刃は細雪を鞘に納め、ゆっくりと後ろを振り返った。
「転移能力者か」
路地を挟んだ反対側にシャロルの姿はあった。
シャロルは頭痛を無理矢理に抑え込んだ。
「"獄炎の魔王"スルトの差し金ですね」
「違うな。ここへ来たのは、私の意志だ」
霧刃はシャロルに見下すような冷たい視線を浴びせながら応えた。
「運命など在りはしない。私はそれを証明するためにおまえを斬りに来たのだ。運命を視ると称する者よ」
「運命ですか」
シャロルは静かに微笑んだ。
いや、唇だけを笑みの形に歪めただけだ。
憎悪に身を委ねた織田霧刃よりも、さらに精神の歪んだ印象を与える酷薄な表情だった。
「あなたがどう解釈しようと、運命はあります。この世のすべては糸で括られし人形なのです」
白い法衣の袖から伸びる、やはり白い右腕を振ると、眩い閃光が走った。
シャロルの白い髪が霊気の風に舞い広がり、その頭上に巨大な鳥が姿を現した。
「逆らうことなどできはしません」
さらに、シャロルを守るように地面から
鬼のような双角を生やした土色の肌の巨人、背中に蝙蝠の翼を生やした魔人、アメーバのような軟体の生物、獅子と鷲を合成したような怪物、その他、さまざまな異形たちが、シャロルと霧刃の間を遮るように現れていた。
その数、優に百以上。
だが、霧刃はそれらを一瞥しただけで、気にかけた様子はない。
「力なき弱兵などで私を止められる気か?」
「いいえ、この程度の布陣では、あなたには通用しないでしょう」
シャロルは黄金の輝きを帯びている妖眼で見返しながら、霧刃の問いをあっさりと否定した。
世界最高の退魔師にして退魔師狩りとまで謳われる"凍てつく炎"相手では、いくら烏合の衆を集めても足止めにすらならないことくらいは、承知している。
「ですが、あなたは私のたった一言で、私を斬ることができなくなる」
「何……?」
「あなたが私を斬ることが運命だとしても、私を斬れますか?」
シャロルの口にした問いに、霧刃の瞳孔が収縮し、動きが止まった。
その隙を突いて、シャロルの頭上に羽ばたいていた巨鳥が霧刃へ向かって滑空した。
一条の光に見える程の思いがけない速さで、獲物へと迫る。
初動の遅れた霧刃の左胸に突き立てようと、鋭い嘴を伸ばした。
だが、次の瞬間、巨鳥は首の骨を折られ、嘴から血の泡を吹いていた。
巨鳥は地面に落ちる前に絶命し、その姿は砂のように崩れて消えた。
霧刃は昏い眼差しで、シャロルの黄金に輝く瞳を捉えた。
無言。
霧刃は、シャロルの問いに答える気がないのか。
それとも答えられないのか。
シャロルもまた無言だった。
代わりに動いたのは、シャロルの周りにいた魔物たちだった。
一斉に霧刃の周りへ殺到した。
霧刃の姿が魔物の輪の中へと消える。
しかし、魔物たちは、霧刃に近づいたものから次々に屍と化す羽目になった。
霧刃は、シャロル・シャラレイへと視線を向け続けたまま、魔物たちを屠っていった。
そして、数瞬の後には、魔物たちは一体残らずこの世から消えさっていた。
「……」
「……」
「答えないのですね」
「答える必要はない」
霧刃はそれ以上、何も言わなかった。
シャロルも舌を動かさなかった。
お互いをしばらく凝視し続けるだけだった。
どちらが先に視線を外したかはわからない。
だが、その瞬間、シャロルは文字通りその場から姿を消した。
シャロル・シャラレイは、瞬刻の回想から意識を現実に戻した。
飛翔するニーズホッグを降下させ、地面すれすれをゆっくりと滑空する。
問いに答えることができなかった霧刃の妹――織田鈴音が、気合いの雄叫びを上げながら疾走してくるのが見えた。
すれ違いざまに攻撃を加えてくるつもりなのだろう。
上空から攻撃すれば、シャロルは反撃を受けずに一方的に鈴音たちを攻め続けることができた。
だが、シャロルは、わざと鈴音に近づいたのだ。
ニーズホッグの飛翔速度も簡単に捉えることができるほど遅い。
鈴音の攻撃を誘っていた。
だが、シャロルは今は反撃するつもりはなかった。
目的は別にある。
鈴音が細雪を振り被った。
シャロルは、その瞬間に鈴音に問うた。
「あなたが私を斬ることが運命だとしても、私を斬れますか?」
「なっ──」
鈴音は言葉に詰まった。
動きが止まる。
シャロルの双眸が光を増した。
ニーズホッグは硬直する鈴音の目の前で、急激に上昇した。
突風が巻き起こり、鈴音は飛ばされないようにその場に屈みこんだ。
空中で反転し、滞空するニーズホッグ。
その背から、鈴音をシャロルが見下ろしていた。
どう答える、織田鈴音。
姉と同じで答えることを拒否するのか。
妖しい黄金に輝く瞳で、鈴音の顔を凝視する。
鈴音の唇が微かに動いた。
だが、言葉が紡がれる前に、鈴音の後ろから、ちとせが先んじた。
「『あなたを倒した後で、運命もぶっ飛ばす!』って☆」
「──ッ!」
シャロルと鈴音の双方が驚きに目を大きく見開く。
シャロルの驚愕は、ちとせのその飾り気のない答えに対してだったが、鈴音のそれは自分の考えていることを、ちとせに見抜かれたからだった。
鈴音は、ちとせを振り返った。
「あたしのセリフを取るなっ!」
快い怒声。
鈴音は笑っていた。
いつもの目が笑っていない笑顔ではなかった。
愉悦の光を瞳に灯し、心底楽しそうな表情だった。
「まあ、と、いうわけだ。占い師さんよ」
「……」
シャロルは何も答えなかった。
何も聞こえていないように、ニーズホッグの翼に任せて風に乗ったまま、上空をゆっくりと旋回していた。
だが、そこへ大きな揺れが唐突に、シャロルを襲った。
風穴。
ニーズホッグの左の翼に、まさに風穴が開いている。
風を纏った強力な霊気の塊が、ニーズホッグの皮膜を貫いていた。
ちとせの霊気に悠樹が風の力を上乗せした霊気球に被弾したのだ。
二人の息の合った連携攻撃の結果だった。
だが、二人ともこうも容易くニーズホッグに直撃させることができるとは思っていなかった。
失敗することを前提にして、それでも一縷の望みをかけて放った一撃だった。
しかし、それはまったく障害もなくニーズホッグの翼を貫いていた。
「あれ、当たっちゃったね」
霊気球を放った当のちとせが、素っ頓狂な声を上げる。
悠樹は相槌ちを打たずに、ニーズホッグを駆るシャロルを見上げた。
シャロルはやっと我に返ったようだった。
我に返った?
シャロル・シャラレイは、そこで初めて、自失としていた自分に気がついた。
そして、片方の翼を失いバランスを崩した漆黒の飛龍と共にきりもみ状態となって、墜落した。