魂を貪るもの
其の十二 魂を貪るもの
3.闇色の空

 空が漆黒に染まった。
 崩れ落ちた天へと挑むバベルの塔『ヴァルハラ』を踏み場に、巨大な飛龍が、その蝙蝠の翼に似た皮膜のついた両翼をいっぱいに広げたのだ。
 その背後では、脈動する世界樹が邪悪な紅に発光し、ニーズホッグの漆黒の鱗に包まれた巨体を照らしている。
 無数の根が地面を突き進み、地下を、地上を、食い荒らしていた。
 世界樹は縦横無尽に広がり、瘴気をばら撒きながら、世界を構成する力を吸い上げ始める。
 そして、穏やかな姿に戻った猫ヶ崎の街に再び、世界樹の力に引き寄せられた妖魔たちが現れ始めていた。
 海の入り口である猫ヶ崎湾にも、猫耳山の麓にも、猫ヶ崎高校にも、そして、神代神社にも妖魔たちが跋扈していた。
 そのどの箇所でも妖魔たちの破壊の力は増加していた。
 運命がそう望んでいるから、だろうか。
 また、一度は世界樹が停止し、暗雲が晴れたところへのこの事態は、街の混乱を以前にも増して強めていた。

 ニーズホッグの背には、まるでそこだけ慣性の法則や重力から無関係の場所であるかのように、シャロルが静かに立っていた。
 彼女の周りには空気の振動もなく、飛龍が動く揺れすらもない。
 世界樹から時折、『ヴァルハラ』の瓦礫の破片である小石が落ちてくるが、シャロルに触れる寸前に消滅する。
 シャロルの周りに結界の一種が張られているのは明白だった。
「なるほど、結界を張って、飛龍の背中に張り付いているってわけね」
 ちとせの感心したかのような言葉に、シャロルが儚くも冷たい視線をちとせたちに向ける。
 かつての気さくな占い師の姿は、そこには微塵も感じられなかった。
 虚ろな、運命という名の人形師に操られる傀儡がそこにあるだけだ。
 そのシャロルとニーズホッグを油断なく見据えたまま、ちとせが神扇を構える。
 神代の租である舞踏の女神はすぐに呼応して、ちとせの身に降臨した。
「こっちもヤバいけど、街は大丈夫かな」
 相手は、漆黒の飛龍ニーズホッグ。
 神々の黄昏(ラグナロク)には世界樹の根を噛み倒し、死者の血肉を食らうという怒りに燃えてうずくまるもの。
 世界を司る『ユグドラシル』を食い千切るのだ。
 北欧神話でも、世界を焼き払った炎の巨人族の王スルトや主神オーディンを飲み込んだ魔狼フェンリルにも匹敵する、もっとも強大な力を持った龍だろう。
 その強大な敵を前にしても、やはり、世界樹が復活した街の様子が気になった。
 自分たちが危機的な状況にあるように、猫ヶ崎もまた危険に陥っているはずだ。
 世界樹に食われている街と、そこにいる葵や友人たちのことが否が応にも頭に浮かぶ。
「大丈夫さ」
 巫女装束へと姿を変えるちとせの横で、鈴音が姉から譲り受けた細雪を鞘から抜いた。
「葵も、迅雷も、腕前は折り紙つきだろ。スーってヤツや、あの刑事だって、早々くたばるようなヤツじゃない。あいつらも、街も大丈夫さ」
 鈴音も、ニーズホッグ、いや、シャロル・シャラレイから片時も視線をはずさない。
 細雪の刀身が、鈴音の言葉を肯定するように輝きを増した。
「この状況で、人の心配をしている余裕などあると思っているのですか」
 シャロルが冷たい声で言った。
 その白銀の魔女と同じ金色の瞳を輝かせ、黒き魔龍ニーズホッグが首をもたげる。
「違いますね。どんな状況になっても人の心配をできなきゃ、それこそ負けですよ」
 羽ばたき始めるニーズホッグの背に立つシャロルを見上げ、突風をものともせずに、悠樹が反論した。
 その口調は静かだったが、内容は痛烈な皮肉だ。
 理由はどうあれ、シャロル・シャラレイが世界を滅ぼそうとしているのは、自分のために過ぎない。
 他人を想う気持ちが先行していれば、世界を滅ぼすなどという結論は生まれなかったのだから。
「…………」
 シャロルは下唇を噛み、悠樹を睨みつけた。
 人間が運命の前で、何ができるというのだ。
 未来も見れないくせに。
 私は知りたくなどなかったのだ。
 そして、知ってしまったからこそ、綺麗に終わらせたいのだ。
「ニーズホッグ!」
 シャロルの叫びに応じて飛龍が飛び上がった。
 羽ばたきで生じる凄まじい突風に、『ヴァルハラ』の瓦礫が吹き飛ばされる。
「くぅっ、この圧力は……!」
 悠樹が風の壁を作り出し、吹き荒れる突風を中和する。
 風を操る悠樹がいなければ、ちとせたちもただでは済まなかっただろう。
 完全に舞い上がったニーズホッグは滑空して、ちとせたちに突撃してきた。
「悠樹!」
「ぼくのことは良い! 散るんだ!」
 ニーズホッグの羽ばたきが巻き起こす風を中和するための防護壁への精神集中を解くわけにはいかない。
 後方の仲間に叫び、真正面から来るニーズホッグに視線を戻した時には、すぐ目前に飛龍の巨大な爪が迫っていた。
 悠樹の身長の半分はあるであろう凶悪で巨大な爪の一本でも食らえば、人間など消し飛んでしまうだろう。
 間一髪、悠樹は地面に転がって難を避けた。
 すぐさま起き上がり、ニーズホッグが通り過ぎた方向へと目をやる。
 ちとせたちも、うまく攻撃をかわしたようだ。
 ちとせとロックは地面から起き上がり、体勢を立て直しているところだったが、鈴音はすでに反撃を試みている。
 さすが、としか言いようがない。
「でりゃあああっ!」
 細雪の刀身から青白い霊気の帯を引きながら、ニーズホッグに向かって跳躍する。
 飛龍の長い尾のに一度着地し、さらにそれを蹴って、跳躍した。
 狙いは、シャロル・シャラレイ。
 飛龍の頭脳たるシャロルを一気に仕留めようという神速の行動だった。
 ニーズホッグの尾からの再跳躍で、シャロルへの距離を一瞬にして消し去る。
 こちらに背を向けているシャロルに向かって、細雪を振り下ろしながら下降する。
「シャロル!」
 覚悟を決めろというように放たれた鈴音の呼びかけに、シャロルは振り返りもしない。
 鈴音はシャロルが自分の周りに結界を張って防御しているのはわかっている。
 現に、角度によって、シャロルの周りに薄い黄金色に輝く膜が見え隠れしているのが、この距離からなら確認できた。
「結界ごと、切り裂いてやるぜ!」
 鈴音の霊力と細雪を持ってすれば、大抵の結界を力押しで打ち砕く自信があった。
 まして、シャロルの結界には、儀式も法具も使っているような素振りがない。
 俄仕込(にわかじこ)みの結界だ。
 鈴音が細雪を振り下ろす。
 そのまま細雪がシャロルを肩から斬り下げると思われた。
「がっ……!」
 しかし、次の瞬間、鈴音の身体に衝撃と激痛が走った。
 ダメージを受けたのは鈴音の方だった。
 細雪の切っ先は、シャロルに達していない。
 結界に弾かれたというわけではない。
 細雪は、シャロルの結界にも届いてはいなかった。
「腕、だと……?」
 信じられぬという表情に顔を歪ませる。
 鈴音の目前の何もない空間から、シャロルの肘から先の右腕が"生えて"いた。
 そして、その右腕から放たれた衝撃波が鈴音の渾身の一撃を押し留め、逆に鈴音にダメージを刻んだのだ。
 鈴音は衝撃で後ろに吹き飛ばされ、飛龍の背から転がり落ちそうになる。
 反射的に伸ばした左腕で、ニーズホッグの尾にどうにかしがみついた。
 右手に握った細雪を突き立てようとするが、勢いもない一撃で傷をつけられるほど柔な鱗ではないらしく、簡単に弾かれてしまった。
 こうなると、鈴音の身体を支えているのは、左腕一本。
 いつ振り落とされても、おかしくない。
 必死にニーズホッグの尾にしがみつく。
 と、振り落とされないように懸命に歯を食いしばる鈴音の背中に熱い衝撃が走った。
「──っ!」
 背中が破裂したかのような錯覚を覚える。
 一瞬、尾を掴んでいた手の力が抜けそうになり、慌てて力を込め直す。
 腕に力を込めると、背中が引きつったように痛んだ。
「ぐぅっ!」
 視線を後ろに向ける。
 シャロルの腕が、鈴音の背の後ろに浮かんでいた。
「腕だけ……!」
「空間を渡りました」
 シャロルが振り返らずに、鈴音に応える。
「私は戦いに関しては素人ですが、あなたの後ろを取ることもできるのです。そして、もう逃れられませんよ」
 鈴音の背後に生えているシャロルの腕が不可思議な印を結び始める。
「やべぇな……」
 反撃の手段はなかった。
 ニーズホッグは『ヴァルハラ』の最上階に近い場所を旋回している。
 落ちればただでは済まないだろう。
 再びシャロルの所まで跳躍するには体勢に無理がありすぎる。
 また相手に背を向けていては、防御も不可能に近かった。
 それに、すでに無防備だった背中に一撃食らっており、鈴音の負ったダメージは思いのほか大きい。
 ニーズホッグの尾にしがみつき続けるために、左腕に力を込めるだけで、背中に激痛が走り、体力が奪われていく。
 もう一度、防御もままならない背中に直撃を食らえば意識を失いかねない。
 シャロルの印が完成し、魔力が手のひらに集中していく。
 衝撃波の刃が生じた。
「ちいっ!」
 鈴音は舌打ちするとニーズホッグの尾に掴まっていた左手から力を抜いた。
「手を……放した!?」
 思わずシャロルも振り返った。
 鈴音は確かに手を放していた。
 そして、落下。
 鈴音がいた箇所をシャロルの生んだ衝撃波が通り過ぎていくのを、鈴音は落下しながら確認した。
「今の食らったら、それこそお陀仏だからな」
 落ちながら呟く。
 シャロルが放った衝撃刃を背中から食らっていれば、致命傷に近い重傷になっていただろう。
 だからこそ、手を放した。
 おかげで、まだ生きている。
 落下までに、生き残る術を考える時間がある。
 瞬単位で思考を巡らせる。
 が、思いつかない。
 しかも、落下の慣性で、身体も思うように動かない。
「ははっ、どうしようもねぇ」
 大地が瞬刻の勢いで迫ってくる。
 このままぶつかれば即死は間逃れないだろう。
 と、その時だった。
 細雪が輝き始めたのは。
 刀身から溢れ出た青く澄んだ霊気が鈴音の身体を包み込んだ。
 鈴音は、その光に姉の意志を感じたような気がした。
「あきらめずに霊気でも撃てってか。なるほど、いくらか勢いを殺せるかも知れねぇ」
 鈴音は闘志を込めて、身体を無理やりに捻って下を向いた。
 細雪を構える。
 重力に逆らって、腕が軋むが気にしている暇などない。
 もちろん、霊気を集中している暇もない。
「はぁぁ!」
 万全な体勢でない上に、ろくに収束していない霊気が地面へと向かって放たれる。
 細雪から溢れ出た霊気がなければ、できない芸当だった。
 一瞬の反動。
 ふわりとした無重力感。
 そして、再びの落下。
 勢いは和らいだが、地面への激突は避けられないようだ。
「即死から、全身打撲くらいには減速したかな」
 鈴音が乾いた笑いを浮かべる。
 すぐそこまで地面は迫っていた。
「鈴音さん!」
 風が舞った。
「悠樹!」
「ふぅ、危ない、危ない」
 悠樹の風が鈴音を包み込み、ゆっくりと地面に下ろした。
「鈴音さんが諦めずに霊気を放って減速してくれたから、何とか間に合いましたよ。さすがですね」
 悠樹が肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。
 全速で駆けつけてくれたようだ。
 鈴音は心底感謝した。
「んじゃ、あのまま減速なしで落ちてたら……」
「全身骨折ですよ」
 悠樹は肩をすくめた。
 ――あなたは生きなさい。
 鈴音の脳裏に霧刃の言葉が蘇る。
 表情を引き締め、空を見上げる。
 ニーズホッグが下降して来るのが見えた。
「鈴音さん!」
「大丈夫ですか?」
 ちとせと、ロックも駆けつけてきた。
「ああ、大丈夫だ。悠樹と姉貴のおかげでな」
「えっ、姉貴?」
 きょとんとした表情を浮かべるちとせ。
「……いや、なんでもない」
 鈴音は前髪をかきあげると、ニーズホッグに視線を戻した。
「気をつけろ。シャロルは空間を渡る」
「空間を……!?」
「ああ、何の前触れもなく部位だけ移動してきやがる。単純な瞬間移動より厄介だぜ」
 以前に戦ったヘルセフィアスは、影の中を移動を瞬間移動に見せかけて、攻撃して来た。
 だが、それは全身移動であり、反撃や回避も、可能であった。
 しかし、シャロルは何の前触れもなく身体の部位を空間から生じさせてくる。
 本体と別に、相手の死角に部位を出現させ、一人で相手を挟み撃ちにすることすら可能なのだ。
「シャロルのヤツ、一歩も動かずに、あたしの背後を取りやがった。空間から生やした『腕』で、ね」
 鈴音が背中の傷を指差す。
「それは厄介ですネ。鈴音サンほどの使い手が背後から攻撃を受けるとは……」
 ロックがサングラスの縁を押し上げながら、鈴音の痛々しい背中の傷に視線を送る。
 霊力のない自分はもちろん、ちとせも悠樹も治癒術は使えない。
 葵の勾玉を使い切った一行に回復役はいないのだ。
「奇襲失敗の代償。これくらいは仕方ないさ。……来るぞ!」
 鈴音の警告に、ちとせたちも緊張した面持ちで、ニーズホッグの挙動を探る。
 飛龍は、それを悠然と見下ろしながら、大きく息を吸い込んだ。
 牙の間から高熱の揺らめきが漏れる。
 ゴオオオッ!!
 ニーズホッグが顎を開き、灼熱が凝縮された巨大な火炎球が発射される。
 一時的に集まっていたちとせたちは再び、散開した。
 ニーズホッグは連続で、火炎球を吐き出し、大地を焦がす。
「まずは落とさないと勝てないよ」
 悠樹が同じ方向に逃げてきたちとせに耳打ちする。
 飛翔しているニーズホッグには一方的に狙われるだけだ。
「でも、どうやって?」
 ちとせは頷いたが、どうやって引き摺り下ろせば良いのか、妙案は浮かばない。
 龍の鱗は硬く、遠距離からの攻撃で打ち落とすことは不可能に近い。
「さて、どうしようか」
 悠樹も首を傾げる。
 目が涼しげに笑っている。
 ちとせは直感的に悠樹の先手を打った。
「あっ、悠樹。言っとくけど、ヨルムンガンドの時みたいに、また一人で突っ込んだりしたら、殴るからね」
 悠樹の顔がバツの悪そうな表情へと変わる。
「……ダメかな?」
「ダメだね」
 聞き返してきた悠樹に、ちとせはあっさりと否定の意見を返した。
 悠樹は降参というように肩をすくめた。
「じゃあ、どうしようか」
「世界蛇で思い出したけど、攻撃に悠樹の風を乗せるのはどうかな?」
「悪くはないけど」
「悪くはないけど?」
「空を飛べるニーズホッグは鈍重なヨルムンガンドとは違うよ。それにシャロルさんが駆ってるし、素直に打ち込ませてくれるかな」
「なるなる。それでも、今のところはそれしか手がないわよ。それに敵っていうのは素直に攻撃させてくれないものじゃない」
「それも、そうだね」
「んじゃ、そういうことで」
「オッケー」
 頷き合う二人の頭上をニーズホッグの巨体が悠々と通り過ぎていく。
 ニーズホッグの牙の間で焔がちらついている。
 その背から、シャロルが黄金の瞳を冷酷に輝かせながら二人を見下ろしていた。
 ちとせとシャロルの視線が交わる。
 世界を壊そうとしている女性に対して、ちとせは怒りと哀しさが静かに込み上げてくるのを感じた。
「シャロルさん」
 名を呼んだちとせには何も応えず、シャロルは視線を逸らした。
 漆黒の飛龍は風に乗ったまま、ゆっくりと下降しながら旋回する。
 直線状に、ちとせと悠樹の姿を捉え、ニーズホッグが禍々しい牙の並んだ大きな顎を開いた。
 灼熱の火炎が再び、その口から吐き出される。
 ちとせたちはその攻撃を回避したが、ニーズホッグは首を左右に振り、火炎を扇状にばら撒いて追い打ちをかけてきた。
 直撃は避けているものの、周りの地面は黒焦げに燃やされ、尋常でない熱気が辺り一面を包み込み始めている。
 額に浮かんだ汗を拭い、ちとせは神扇に霊気を収束させた。
「悠樹、風を!」
 悠樹の風を受け取るべく、神扇を振り翳した。


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