魂を貪るもの
其の十二 魂を貪るもの
2.絶望の黒き翼

 ちとせたちの前に姿を現したのは、占いの館が炎上した後、行方不明になっていたシャロル・シャラレイであった。
 卵の薄皮のような純白の髪が、以前見た時と同じように神秘的な雰囲気を漂わせている。
 ただ、前とは決定的に違う点があった。
 ――瞳。
 透き通った青い瞳ではなく、妖しい黄金の輝きを得ていた。
 だが、ちとせたちはこのシャロルの姿を見たことはあった。
 占いの最中、彼女の双眸は今と同じように金色の光を纏っていた。
「シャロルさん、どうして、ここに……?」
 ちとせが困惑した表情を浮かべる。
 シャロルは、ちとせの問いに対して、右腕を軽く上げた。
 途端に、鈴音の全身を締め上げている世界樹の触手に力が増す。
「あああっ……!」
 鈴音の悲鳴が響き渡った。
 全身を締め上げられる苦痛に、身を捩らせる。
「がはっ……!」
 鈴音の口から紅の液体がこぼれる。
「鈴音さん!」
「ちとせさん。世界樹を成長させたのは、私なのですよ」
 シャロルは神気を漂わせながら、ちとせに視線を向け、口を開いた。
「なっ、まさか……!?」
 ちとせの顔に動揺が走る。
 ちとせが知るシャロルは気さくでやさしそうな女性のはずだった。
 だが、今のシャロルにその雰囲気はない。
 シャロルが右腕を下げると、鈴音を締め上げていた触手が微かに緩んだ。
 世界樹はシャロルの意のままに動くようだ。
「そして、世界樹を再起動させるために、ここにいるのです」
「なぜ、あなたが……」
 悠樹の問いに、シャロルは悲しげな表情を浮かべた。
 その表情に悠樹は見覚えがあった。
 彼らが霧刃の行方を求めて占いの館を初めて訪れた時、爪研川(つめとぎがわ)から見る夜空のことを口にした時、一瞬だけ見せた顔だった。
「未来が見えるというのは残酷なこと」
 儚げで、浮世離れした美貌から出る声は、硝子のように透き通り、心に突き刺さる響きを持っていた。
 川の辺で夜空を見ながら、シャロルは何を想っていたのだろう。
「この世界はもはや、滅びの道を避けることはできないのです。そして、世界樹は、世界を終焉させるためにこそあるのです」
「世界樹が、世界を終焉させる?」
 突拍子もない。
 世界を滅ぼす。
 そんなことを突然言われて信じられるだろうか。
 まだ、世界樹を手にし、世界を我が物にすると言ったヘルセフィアスの言葉の方がまだ現実味がある。
 だが、シャロル・シャラレイは憂いを帯びた真剣な表情のまま、笑いを決して浮かべない。
 ちとせたちは、その占い師の態度に、言葉に真実を感じていた。
 世界樹の莫大で強大な力を見せつけられている。
 あの力を我が物とすれば、できないことなどないだろう。
 それに、世界樹は、その力を発動した時、確かに世界から力を吸い上げ、大地を枯渇させていた。
 世界に富をもたらすものには思えない。
「私には見えるのです」
「見えるって一体何が?」
 聞き返すちとせに、シャロルは薄ら寒くなるような表情で笑った。
「あなたたちも見たでしょう。世界樹は、世界から"力"を吸い上げ、世界を枯らす」
「でも、それは世界樹をヘルセフィアスが悪用しようとしたからじゃ?」
「いいえ。あの力はすべて、ランディ・ウェルザーズに注がれ、世界を一瞬にして灰塵(かいじん)に帰すはずでした」
「なっ!?」
「それが定められた運命でした。しかし、ランディ・ウェルザーズは運命に逆らい、自由を得るために世界を存続させることを選び、運命に打ち勝てる蠱毒(こどく)を作ろうとした」
「蠱毒……」
「運命に逆らい、大いなる意志に挑むバベルの塔たる『ヴァルハラ』を建造し、力あるものたちを集った」
「ボクたちの力を利用したというの?」
「そうです。闇の勢力を退けたあなたたちこそ、ランディ・ウェルザーズの意図した蠱毒であり、運命を打ち破るための不確定要素。そして、結果として世界樹の呪縛を弱めることには成功したのです」
 シャロルの言う通りならば、漁夫の利を得た『ヴィーグリーズ』は敗北者ではない。
 ――「我々は、この場を放棄しよう。だが、覚えておくが良い。これは我々の負けではないということをな」
 ランディ・ウェルザーズは姿を消す前に、確かにそう言っていたのを、ちとせは思い出した。
「ですが、そんなことでは運命の本流を変えられはしないのです」
 シャロルの黄金の瞳に昏さが灯る。
「世界はすでに峠を超え、自浄作用も限界を迎えてしまった。それが、どうしようもない運命を呼び込んだのです。滅びという運命を」
「そんなことは……」
「ないと言うのですか?」
 シャロルの昏い瞳の奥に狂気の光が輝いていた。
 それは霧刃の自分自身を呪う狂気ではなく、シギュン・グラムの戦いに狂う気位の輝きとも違っていた。
 ひどく哀しく、脆い。

「御覧なさい。私が来る日も来る日も受け続けた運命神の啓示を」
 シャロルの両眼の瞳孔が大渦巻きのように変わり、ちとせたちの脳裏に直接、映像が流れ込んできた。
 欲望とともに発展し、絶望とともに壊滅していく歴史。
 生物の進化、繁栄、退化、衰亡。
 太古から現在に至るまでのありとあらゆる人間たちの戦争。
 その映像のどこからともなく聞こえてくる声が言う。
 ――「すべて、運命」だと。
 やがて、人間たちが、この世界の主人を自任するようになる。
 数多の他の生物を滅ぼし、大地の形さえも変えていく欲望の歴史の開始。
 ――「これも、運命」。
 人間は同じ種族でありながら、違う民族というだけで、信じる存在が違うというだけで、主義主張が違うというだけで、根絶やしにまで追い詰めていく。
 それは他の生物ではありえない。
 ――「なぜなら、運命」。
 人間は選ばれたのだ。
 人間は運命神に選ばれ、他の生物には与えられなかった欲望を無限に肥大化させる運命を与えられたのだ。
 もちろん、ヒトを止めるものはいない。
 なぜ、誰も、止めないのか。
 ――「それも、運命」
 発展であろうと壊滅であろうと、世界の歴史そのものが、運命神の遊戯だからだ。
 そして、運命神の遊戯の副産物である人間の際限ない欲望が世界を貪り、世界そのものの活力が減退した。
 すべては、巨大な力の潮流――運命――の戯れ事。
 そして――世界のすべてが炎上する。
 紅蓮の炎がすべての生物とすべての無生物を焼き尽くしていく。
 それは、まさに地獄絵図そのものだった。
「この世界に飽きた」
 シャロル・シャラレイの見せた映像の中で、運命神はそう言った。
 この世界を操るゲームに飽きた。
 駒としてきた人間たちにも飽きた。
 ただ、それだけのこと。
 慣れたゲームの中盤で飽きてしまうのと同じ感覚、或いは思い通りにいかなくなってやる気をなくす感覚で、運命神はこの世界をリセットしようとしているのだ。
「天空は穢れ、大地は朽ち、七つの海は淀み、動植物は人工の味を覚え、自立の力を失っている。この地球(ほし)さえ、自分で自分を制御できなくなっている。しかし、それは必然。生まれ出でた存在はいつか消えていくのが、運命。運命はもはや、この世界を捨てたのです」
 シャロルの声は透明で何の色も含まれていない。
「運命神に見捨てられたこの世界の全盛期は過ぎました。神々の黄昏(ラグナロク)による浄化(リセット)がなくとも、年衰え、長く緩やかな衰退による破滅の道を突き進むだけのことなのです。……もっとも、ヒトがもう少し賢く、そして、世界を愛していれば、運命神の決定は違ったかもしれない」
 シャロルが俯き、長い白髪が流れて表情を隠す。
 髪の間から覗く美しい形の唇だけが、無機質に言葉を紡ぎ出していく。
「ですが、私は知っている。ヒトは賢くないことを。決断や責任から逃れるために、行動を占いに頼り、簡単に運命へと身を委ねたがることを。それこそが、それが運命神の駒たる所以(ゆえん)。そして、私もそんな愚かな人間の一人」
 シャロルの唇が、はっきりと嘲笑の形へと変わる。
 自嘲、そして、他者を嘲る、笑い。
「もうすべてが遅いのです。滅びこそ世界の運命。だからこそ、だからこそ……」
 爪研川から見上げた美しかった夜空。
 ゆっくりと汚れて行くのは耐えられない。
 川が干上がり、星が汚濁の雲に隠れるのを許したくない。
「私はこの世界をきれいな姿のままで終焉させたいのです」
 シャロルは、美しいままの夜空を望んでいた。
 顔を上げたシャロルの黄金眼は、絶望と哀しみと狂気に彩られた妖しい輝きを強めていた。
「この街、猫ヶ崎が、終わりの始まりとなる」
「イカれてやがる……」
「もちろん。私の精神はすでに焼き切れているのです」
 鈴音の呟きに、卵の薄皮のように白く長い髪に隠れたこめかみを指差して、シャロルは頷いた。
「でも、それも運命。世界を滅ぼすのに正気など不要ですから」
 世界樹の触手の鈴音を締め上げる力が上がった。
「ぐあああああっ!」
 触手に巻き付かれた胸を締め上げられ、激痛に首を大きく振る鈴音。
「未来を見ることができないあなたたちには解からないでしょう。毎日毎日繰り返し世界の終焉を見せられてきた私の苦しみは」
 未来の先まで見えることは決して幸福なことではない。
 世界が死ぬという未来を見る。
 しかも、それは止めることのできない必然。
 そんなことは知らなければ良かったのだ。
 だが、運命はシャロルに世界の死を告げることを望んだ。
 来る日も来る日も世界の死をシャロル・シャラレイの目に映し続けた。
「シャロルさん!」
「ちとせさん。あなたたちには世界の終焉を告げる生贄になってもらいます。それが運命の意志なのですから」
「何が運命だ」
 全身を締め上げられる激痛に悶え苦しむ鈴音の口から、怒りのこもった声が漏れた。
「あたしの家族が殺されたのも、姉貴が狂っちまったのも、みんな運命のせいだってのか!」
「そうです。多少の差異はあっても、そうなるように決まっていた決定事項に過ぎません。そう考えなさい。……楽になりますよ?」
 すべては運命の女神たちの戯れ。
 世界という名の玩具。
「ふざ、けるなよ!」
 鈴音の唇が怒りに震える。
 細雪が聖なる光で、鈴音を締め上げていた触手を焼き切った。
「あたしはあたしの意志でここに来た。あたしはあたしの意志で姉貴と戦った!」
 鈴音は運命という言葉が大嫌いだった。
「姉貴も、姉貴の意志であたしと戦った!」
 細雪を抜く。
 姉貴は間違っていた。
 だが、それを運命のせいになどさせはしない。
 そんな不条理は許さない。
「シャロルさん。あなたが、どう苦しんで、どんなに悲しんでるかは知らない」
 ちとせも鈴音に続いた。
「ちょっと薄情な言い方だね。でも、あきらめが早すぎる。未来は変えられるから、『未だ来ない』って書くんだよ」
「……っ!」
 ちとせの言葉に、シャロルの肩が震えた。
「ボクはこの世界が……、いや、それよりも、この街が好きなんだよね。だから、あなたが、どうしてもそれを壊そうとするなら……」
 ちとせは、シャロルに神扇を向けた。
 ためらいはない。
「ボクは全力で止めるだけさ!」
 一瞬だけ。
 一瞬だけ、息を飲み込むシャロル。
 目の前の少女は好きだからこそ壊させないと言った。
 私は好きだといいながら、壊そうとしている。
 あきらめが早すぎる。
 未来は未だ来ないもの。
 ……。
 だが、シャロルが息を詰まらせたのは本当に一瞬だけで、すぐに瞳に宿る黄金の光を強めて自らの後ろで脈打つ運命の巨木を指した。

「……抗っても、すべては無駄だと知りなさい」
 轟音が響いた。
 山が裂けた。
 地が割れた。
 天が揺れた。
 『ユグドラシル』の巨大な根が猫ヶ崎を縦横無尽に這い、枝は天空を貫き、砕き、覆い尽くす。
 街は暗闇に包まれ、電光の咆哮が、大気を振るわせた。
 ――終焉の(とき)
 赤い雄鶏フィアラルと金色の鶏グリンカムビが、けたたましく悲鳴をあげる。
 『ユグドラシル』が天地から、この世界を構成する莫大な『力』を吸い上げ始めた。
 シャロルの足元へと、漆黒の闇が収束していく。
「このシャロル・シャラレイが、逃れることのできない未来の長く苦しい死よりも先に、この下り坂の入り口にあるうちの安楽の死を、この世界に与えるのです」
 そして、『ヴァルハラ』のエントランスの床が隆起し、小山が出現する。
「さあ、世界樹『ユグドラシル』……我が、魂を貪る世界(たましいをむさぼるもの)に、ともに無限の安息を与えましょう」
 広間いっぱいに成長した小山の頂で、シャロルが叫んだ
「出でよ、"終焉の魔龍"ニーズホッグ!」
 ピシピシッと、シャロルを乗せた小山に亀裂が入り、闇の閃光が迸った。
 巨大な黒い翼が内部から出現し、小山を貫き生る。
 轟音を立てて、小山が崩れ去り、その中から、すべてを飲み込む漆黒が姿を現した。
 ――龍。
 怒りに燃えて、魂を貪るもの。
 シャロル・シャラレイと同じ金色の光を放つ瞳を持ち、純白の占い師と正反対の漆黒の巨躯を持った魔龍ニーズホッグ。
 その魔龍が蝙蝠の羽に似た絶望の黒き翼を広げる。
 それは、お構いなしに『ヴァルハラ』のホールの天井を突き破った。
「ちょっ……!?」
「やべぇ、崩れる!」
 瓦礫の雨が降り注ぐ中、ちとせたちは全力でエントランスから脱出を試みる。
 ちとせが急いで、『ヴァルハラ』の入口にある自動ドアに施された封印を解く。
 その後ろでは、崩壊する『ヴァルハラ』を、平然と巣立つように黒き龍が背に運命の白き魔女を乗せ、羽ばたき始めていた。
 世界を貪り尽くす邪龍ニーズホッグが、世界の黄昏(ラグナロク)の始まりを告げる。


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