魂を貪るもの
其の十二 魂を貪るもの
1.
もう、いらない。
この世界は、壊れるだけの世界。
ゆっくりと黄昏を迎えるだけだ。
少しずつ朽ちていく。
少しずつ死んでいく。
少しずつ腐っていく。
少しずつ終わっていくのだ。
世界は峠を過ぎた。
世界の寿命は折返しを過ぎたのだ。
なぜ、足掻く必要があろう。
万物の霊長たるヒトも種としての滅びを辿り始めている。
そして、生態系の頂点に立つヒトが消えれば、世界も死ぬ。
もう慣れている。
万物は、運命の手のひらの上で、生まれ、育ち、死んでいく。
死に行くだけのもの。
一条の光が闇を裂き、力を得ようと崩壊を止められはしない。
止められはしないのだ。
何をしようと滅びは決定されている。
原初の炎が叛乱しようと、それも無駄なことに過ぎない。
厭きた世界に
この世界は廃棄処分。
また、新しい世界を作るだけ。
ちとせは『ヴァルハラ』の一階にあるエントランスホールに辿り着いていた。
傍らにはもちろん、悠樹の姿もある。
二人とも、今までの戦いにより、身に着けた服がボロボロに破れてはいたが、負傷自体は最上階から降りてくるまでに、自分の霊気を全身へ巡らせてほとんど治癒していた。
もっとも、葵にもらった回復の勾玉の効用がなければ、シギュンとの戦いに勝つことも難しかっただろう。
勝つことができたとしても、無事にここまで戻ってこれたかは、わからない。
ちとせは葵に心の底から感謝していた。
この場にいなくても、力になってくれる心強さがあった。
自分は、姉の慈しみを肌で感じることができる。
実の姉と戦わなければならない鈴音の心中を思いやると、複雑な気分になる。
「鈴音さんとロックさん、遅いね」
ちとせが呟くように言う。
珍しく、上の空の感が否めない。
霧刃の強さは圧倒的だ。
前回の戦いでは、鈴音は手も足も出せずに一方的に痛めつけられ、瀕死に追いやられている。
あれから修行を重ねているとはいえ、そう簡単に力の差が縮まるわけではない。
それに、霧刃には、冥府の番犬ケルベロスも付き従っているはずだ。
苦戦は必至だろう。
ほんの少し前に、地下から大きな震動が伝わってきていた。
床にも大きな裂け目ができている。
もしかしたら鈴音と霧刃の戦いの激しさで、地下が崩壊してしまったのではないかとも、ちとせは危惧していた。
悠樹が、ちとせの肩をぽんっと叩く。
「『必ず、またあとで』って約束したろ?」
口調も表情も穏やかな悠樹を見て、ちとせは気分が楽になった。
彼はいつも、ちとせの心を軽くしようと行動してくれる。
「そだね」
ちとせは微笑みながら頷いた。
と、ちょうど、その時。
階段付近から、足音が聞こえてきた。
振り返り、ぱっと顔を輝かせるちとせ。
「鈴音さん、ロックさん!」
鈴音とロックが階段の入り口に姿を現していた。
「ははっ、二人とも酷いざまだな」
ちとせと悠樹の姿を認め、苦笑しながら鈴音が前髪をかきあげた。
愛情の込められた悪態が第一声。
再会の照れ隠しには、ちょうどいい。
「ふふっ、鈴音さんこそ!」
ちとせが微笑を浮かべて応じる。
ロックは無傷だったが、鈴音はチャイナドレスの其処彼処が裂け、胸を覆う黒い下着が露わになっていた。
胸元にはうっすらと刀剣によるものと思われる傷跡が走っている。
その姿は戦いの激しさを物語っていたが、ダメージ自体は回復してきているようで、足元はしっかりとしていた。
「無事で何よりです」
悠樹もほっと息をつく。
透明な瞳に優しい光を湛えて、口元を綻ばせる。
勾玉も尽きて回復要員がいない今、誰一人、瀕死の重傷を負っていなくて良かったと心底思う。
「ああ、悠樹もちとせも無事で良かった」
鈴音とロックが頷き、ちとせも結い直したポニーテールを揺らして首を縦に振った。
鈴音もロックも約束通り戻ってきてくれた。
鈴音は霧刃に負けなかった。
しかし、と、悠樹は思う。
ちとせにも、はっとした表情が浮かんだ。
ちとせと悠樹の視界には、鈴音の手にしている黒い鞘が入っていた。
霧刃が持っていた日本刀。
天武夢幻流正当後継者の証にして、代々織田家に伝わってきた破邪の力を秘めた家宝。
神刀・細雪。
鈴音が求めた霧刃の姿はなく、その刀だけが鈴音の手の中にあった。
「鈴音さん」
「ああ……」
ちとせの視線の先にあるものに気づき、鈴音は大きく深く息を吸い、ゆっくりとゆっくりと、自分を落ち着かせるように吐き出した。
そして、視線をロックに向ける。
ロックは無言で頷いた。
鈴音は、ちとせと悠樹を正面から見据えて、口を開いた。
「……姉貴は、……姉貴は、あたしに生きろと言った。そして、その後は地下広間が崩壊しちまって、どうなったかわからない」
別れ際の姉の吐血が、鈴音の脳裏にこびりついて離れない。
湧き上がってくる不吉な予感を打ち消すように、鈴音は意識的に微笑んで言葉を続けた。
「だけど、姉貴は目を覚ましてくれた。それだけで十分さ」
十分なはずがない。
満足なはずがない。
一緒に帰りたかった。
だが、鈴音は、五年ぶりに見た姉の澄んだ瞳とあたたかい微笑みを胸に刻み付けていた。
無意識に細雪の鞘を握る手が微かに震えたが、それを意識的に抑えつける。
ちとせたちにこれ以上心配をかけさせたくなかった。
「……ところで、『ヴィーグリーズ』の方は、どうだった?」
気持ちを切り替えるために、話題を変えて、ちとせへ尋ねる。
「……うん、それが、よくわからなかったよ」
ちとせも鈴音の心情を察して、話題の転換に応える。
だが、『ヴィーグリーズ』の目的は、"氷の魔狼"シギュンをはじめとする幹部と刃を交えたちとせ自身にも把握しきれていなかった。
「よくわからない?」
鈴音にオウム返しに聞き返され、その反応を当然だと思いながら、ちとせは頷いた。
鈴音は悠樹を見たが、彼も肩をすくめるだけだった。
ちとせがもう一度頷いてから、頭の中を整理するように喋り出した。
「ヘルセフィアスとかいうあの影使いが、『ヴィーグリーズ』を裏切って世界樹を奪ったんだけど……」
「ああ、あの猫ヶ崎山で戦った男か。あいつが世界樹を動かしたのか」
「うん、でも、結局制御しきれなくて、ボクを狙っているシギュン・グラムにヘルセフィアスは滅ぼされて、世界樹は停止。どうも、そこら辺は、ヘルセフィアスもランディ・ウェルザーズに嵌められたみたいで……」
一時は世界樹を手にし、強大な力を振るった男の末路は哀れなものだった。
裏切り行為さえ、ランディ・ウェルザーズの書いたシナリオだったのだから。
だが、わざわざ裏切らせるという必然もわからない。
「でも、ホント、よくわからないよね、ここら辺の事情も。裏切る前にヘルセフィアスをどうにかするって手だってあったはずなのにさ」
「確かに謎だな。わざわざ裏切るのを知っていて泳がせるのは危険だぜ。とくに裏社会の組織だったらな」
鈴音も納得できないというように小首を傾げた。
ランディはミリアを通じてヘルセフィアスの叛心には気づいていたはずだ。
それなのに、ヘルセフィアスが完全に叛旗を翻すまで、放し飼いにしていたのだ。
「それで、その後は、シギュン・グラムと、総帥のランディ・ウェルザーズ、そして、あのサド秘書のミリア・レインバックは、何もせずに去って行ったよ」
そう、ランディ・ウェルザーズは自らのシナリオの通り、ヘルセフィアス・ニーブルヘイムを討った。
だが、ヘルセフィアスを始末し、世界樹が停止した後は、ランディもミリアも、シギュンも何も行動を起こさなかった。
「何もせずに?」
鈴音が困惑を深める。
「う〜ん、正確には、シギュン・グラムだけは、ボクを殺そうとしてたけどね」
乾いた笑いを浮かべて言うちとせ。
やはり、自分を殺そうとしている敵が残っているというのは精神衛生上問題がある。
「でも、『ヴィーグリーズ』の幹部連中の動きは不可解でしょ?」
世界樹を放置して去るならば、何の為に世界樹を育てたのか。
ヘルセフィアスは世界樹を欲していた。
だが、シギュン・グラムは、『ヴィーグリーズ』は世界など欲していないと明言していた。
しかし、世界樹を守る必要がないならば、ちとせたちを迎え撃つ必要もないはずだ。
それに、織田霧刃。
霧刃自身は、鈴音を待っていただけなのかもしれない。
だが、ランディ・ウェルザーズは霧刃を雇う理由があったはずだ。
世界樹を守るためだろうか。
しかし、『ヴァルハラ』には幹部級の者たちしか残っていなかった。
しかも、実際に刃を交わした幹部は、結界を作り出していた世界蛇と裏切り者のヘルセフィアスを除けば、シギュン・グラムだけだ。
「ああ、不可解だな」
鈴音も首を傾げる。
何かがおかしい。
「不可解ではありません」
唐突にエントランスに声が響いた。
女性の透明な声だった。
「……!」
ちとせたちの顔に緊張が走る。
周りを見渡しが、人影はない。
「彼らの目的は世界樹に呪縛されたスルトたるランディ・ウェルザーズを解き放つこと」
「誰だ!?」
鈴音の誰何には応じず、声は淡々と透明な調子で言葉を続けた。
「魔王スルトは周到なる罠を巡らせ、あなたたちの不確定要素である可能性の力を利用し、呪縛より逃れました。ですが、世界樹の滅びのプログラムは消えてはいない」
『ヴァルハラ』が大きく揺れ始める。
天井や壁の破片が降り注ぐ。
「小さな支流は流れを変えることはできても、破滅の源流の流れを変えることは不可能なのです」
世界樹が禍禍しく紅に発光し、幹や枝が脈動し始めた。
ちとせの足元の床に亀裂が走った。
そして、床が盛り上がり、ちとせを囲むように無数の触手が飛び出してきた。
「これは、……世界樹!?」
「ちとせっ!」
咄嗟に鈴音が、ちとせを突き飛ばす。
「きゃあっ!」
突き飛ばされたちとせを悠樹が支えるが、身代わりになった鈴音に触手が襲い掛かる。
鈴音は触手から逃れようとその場を飛び退こうとしたが、ちとせを突き飛ばしてバランスを崩していたため、一瞬反応が遅れた。
足首を触手に絡みつかれ、動きを封じられてしまう。
「しまっ……!」
反射的に霧刃から受け取った細雪を抜こうとした右腕も、残った左腕も、触手に絡み取られ、攻撃の手段を奪われた。
さらに触手は素早い動きで深いスリットから剥き出しの太腿に絡みつき、胸や、首をも締め上げる。
「あくっ……、はぐぅっ…!」
全身を締め上げられ、苦悶の表情に歪められた鈴音の口から呻き声が漏れた。
「鈴音さん!」
自分をかばったために陥った鈴音の惨状を救おうと、ちとせが駆け寄ろうとするが、その目の前の床から世界樹の触手が壁のように現れ、その行動を妨害する。
「世界樹が、また動き出した……?」
『私は車輪を破壊し、糸を切った。未だ"運命"は生きているがな』
ランディ・ウェルザーズの去り際の言葉が、ちとせの脳裏に浮かんだ。
世界樹はまだ滅んではいない。
まだ終わっていないのだ。
「いくら、運命に抗おうと無駄なのです」
世界樹の触手が蠢く中、小鳥が囀るような声がもう一度響き、ちとせの視界で卵の殻の中の薄皮のような純白が揺れた。
白く、長く、美しい髪。
そして、金色の光。
すべてを見透かす黄金の光を宿した瞳。
「あなたは……」
ちとせの両眼が驚愕のために大きく見開かれる。
鈴音を締め上げる世界樹の触手の横から姿を現したのは、神秘的な雰囲気を漂わせた一人の女性。
この場にいる全員の見知った顔だった。
「シャロルさん!?」
シャロル・シャラレイ。
女神のごとく美しき占い師。
この世界の運命を知る白銀の魔女。