魂を貪るもの
其の十一 灯火が消える
4.別離
決着の時は来た。
次に放たれる一撃ですべてが決まる。
天武夢幻流を操る姉妹の霊気の脈動が、辺り一帯を振動させた。
大気が雄叫びを上げ、砕けた床や壁の破片が宙に浮き上がる。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
お互いに絡み付こうとしていた二人の霊気の余波が弾けた。
「天武夢幻流禁断奥義!」
「天武夢幻流最終奥義!」
二人は、極限まで溜めた霊気を霊剣と細雪に収束し、お互いの得物を腰の後ろまで引き絞る。
そして、同時に、眼をカッと見開く。
「
「
鈴音からは青白い透き通った霊気が、霧刃からは赤黒い濁った霊気が、相手に向かって解き放たれる。
二色の霊気が、二人の間を駆けると、その下の地面が、軌道の形に砕け散る。
「りゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「るあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
気合いの声が木霊し、鈴音と霧刃の霊気が激突する。
そのエネルギーの奔流に、部屋全体が大きく揺れる。
柱が砕け、天井の一部が崩れ落ちる。
お互いに放たれ続ける霊気の波に火花のような物が走る。
「はあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
霧刃の気合いが鬼気迫るものを帯び、強大な圧力が生まれる。
「くっ…!」
じりじりと鈴音が押され始める。
霧刃の剣圧に踏ん張りきれず、足元に煙を上げつつ、ずりずりと後退させられていく。
そこへ、細雪から放たれる邪気の余波が、髑髏のようなを形取り、鈴音の両肩に食らいついた。
「ぐあああああああっ!」
血飛沫が飛び散り、傷口から進入した瘴気が鈴音の両肩を蝕む。
両肩をどす黒く変色させ、霧刃の剣圧に片膝をつく鈴音。
「どうしたぁぁ、鈴音ぇぇぇ!」
霧刃の視線が凍てついたものから打って変わり、業火のように厳しくなった。
明らかに霧刃は極度の興奮している状態だったが、キレて錯乱する様子はない。
再び邪気の余波が、鈴音に牙を剥く。
脇腹を抉られ、太股を切り裂かれる。
「うくぁ、くぅうっ!」
鮮血が飛び散る。
激痛に次ぐ激痛。
身体中を瘴気が這い回り、肉体を蝕む。
血が滲み出るほどに歯を食いしばる。
「やはり、……無力なのは、おまえだ、鈴音!」
瀕死の鈴音にとどめを刺すべく、霧刃がさらなる邪気を発して剣圧を高める。
邪気は次々と鈴音の肉体を射抜いていく。
こめかみを、顎を、喉を、肩口を、上腕を、肝臓を、腎臓を、鳩尾を、腿を、膝を……。
瘴気の蛇が喰らいつき、破壊していく。
一際巨大な邪気の髑髏が、左胸を打ち抜く。
鈴音の身体がぐらりと揺れた。
だが、膝をつくこともなく、霧刃の禍々しく染まった真紅の瞳を、キッと睨み返す。
どのように傷ついても、その強靭な意志を宿した瞳の力強さは変わらない。
「あたしは……!」
「鈴音……!」
決して屈しない妹に業を煮やしたように、霧刃の黒髪が逆立った。
とどめとばかりに放たれた邪気が再度、鈴音の左胸へ侵食し、心臓に食らいついた。
だが、鈴音は倒れない。
喉の奥から逆流してきた血を吐きつつも、腰をしっかりと定め直す。
身体を流れる霊気が、全身に牙を付き立てている瘴気を滅していく。
「あたしは……」
両親の姿が、霧刃の恋人の姿が、ちとせたちの姿が、鈴音の脳裏を過る。
ロックのやさしい姿が、孤独に震える鈴音を抱きしめる。
鈴音の瞳が力強い光を増した。
霊気の剣を現出させている右腕に力が宿った。
銀色のロケットペンダントを握りしめながら、霊気の刃に全霊を込める。
「あたしは、負けるわけにはいかない!」
咆哮に呼応して、鈴音の霊気が爆発した。
一気に霧刃のところまで、剣気を押し返す。
「ぐっ……!?」
霧刃は両眼を大きく見開いた。
巨大で、圧倒的な、しかし、透明で、美しい霊気が、押し寄せてくる。
呻きが漏れる。
このままでは、負ける。
私が負ける。
私の求めた力が、否定される。
凍てついた炎が、砕け散る。
――この私が負ける?
まさか?
この私が……。
否。
『まさか』ではない。
必然だ。
私が求めたチカラは所詮……。
そうよ。
私は知っていた。
初めから私の勝てる要素など……。
私は気づいていた。
それでも止まることができなかった自分の脆さを……。
押しかかる鈴音の剣気の圧力に細雪を支えていた右腕が弾かれた。
無防備になった身体に青白い聖なる霊気が叩きつけられた。
「ぐああああああああああっ!」
覇天神命斬の強大な気の塊に飲み込まれる。
直撃を受けた霧刃は吹き飛ばされ、後ろの壁に全身を叩き付けられた。
さらに、覇天神命斬の強烈な剣圧が全身を襲い、霧刃の身体が壁に埋まる。
壁に縦横無尽に亀裂が入り、轟音とともに崩れた。
濛々とした煙が立ち込め、広間中を覆った。
「ぐっはぁ……」
全霊を使い果たした鈴音が膝を落として、血の混じった空気を吐く。
全身の急所、それに胸の裂傷から流れ出たおびただしい量の血が、足元の床を真っ赤に染め上げていた。
さらに凄絶な奥義の打ち合いによって掛かった負荷で、右腕の血管が弾けていた。
腕から流れ出た朱色の涙に染まった手のひらが感覚を半ば失い指が開いている。
手のひらの中のロケットペンダントは開かれ、写真の中の霧刃が微笑を浮かべて鈴音を見つめていた。
鈴音は、はっとした表情を浮かべる。
「霧刃は……?」
感覚のない指にロケットのチェーンを引っ掛けて、無理矢理に握り締めると、右肩を左腕で押さえながら立ち上がった。
全身が激痛に苛まれているが、それを無視して前方へと視線を戻す。
煙が徐々に晴れていく。
「……!」
鈴音の視線が霧刃の姿を捉えた。
霧刃は壁に寄り掛かりながら、立っていた。
脚は震え、全身が朱に染まっている。
動作の一つ一つに力がなかった。
そして、殺気もない。
そこにいる瀕死の女性は、すでに修羅ではなかった。
邪気のない瞳で、鈴音を見つめている。
霧刃の顔から険が取れていた。
鈴音は頭の中が真っ白になった。
霧刃の表情は、鈴音の知っている姉のものだった。
「き、霧……姉貴?」
「……」
霧刃は手にしていた細雪を鈴音に投げてよこした。
鈴音は何とか自由の利く左手で、織田家の家法である刀を受け取める。
――重い。
「姉、貴?」
突然の霧刃の行動を、鈴音は理解できなかった。
よろめく身体を背中から壁に預け、霧刃が鈴音と真正面から向き合う。
「鈴音、……これで……」
やさしい、とても、やさしい笑みを浮かべる。
「これで、……良いのよ」
「姉貴?」
「私は、あなたに止めて欲しかった。もう自分ではどうにもならなかった私の狂気を……」
ありがとう。
「ありがとう、鈴音。ごほっ、ごほっ……」
血の混じった咳に霧刃の表情が歪む。
左手を口元に運び、右手で心臓の辺りを押さえる。
「姉貴!」
鈴音は霧刃に駆け寄ろうとしたが、全身の傷のために動くことができなかった。
霧刃は口から流れ出る血に左手を濡らしながらも、懸命に妹へ笑顔を浮かべる。
吐血が止まらない。
死の影が圧し掛かってくる。
息が、胸が、心臓が苦しい。命が苦しい。
目が霞み、世界が揺れる。
鈴音……。
霧刃の口から嗚咽が漏れた。
その姿を見て鈴音は確信した。
"凍てつく炎"は"織田霧刃"に戻ったのだ。
自分の姉に戻ったのだ。
だが、正気に戻った姉は、自分が行なってきた所業に苛まれている。
鈴音は無意識に手を伸ばした。
姉との距離は遠い。
それでも、姉を求めて、手が空中をさ迷う。
「姉貴、行こう」
「それは、できないわ。できないのよ」
しかし、霧刃の口から、紡がれたのは、拒否と悲しみの言葉だった。
「……あなたは、あなたは生きなさい。私の分まで」
鈴音は、その言葉を理解できない。
いや、理解を拒絶した。
「何を、……姉貴、何を言ってるんだ。傷が、……酷いのか。それなら、あたしの霊気で…」
「傷もそうだけど……。それだけではないわ」
広間が大きく揺れた。
霧刃と鈴音の戦いによる衝撃で、この部屋は長くは持たなくなっている。
何本かの柱が崩れ落ち、崩壊の始まりの音が鳴り響き始める。
このままでは、二人とも生き埋めになる。
もしかしたら、霧刃はこの場に残るつもりなのかも知れない。
鈴音に焦りが生じる。
早く姉を連れ出さなければならない。
「私は、……今まで手にかけてきた人々のもとへ行きます」
穏やかな声と裏腹に、霧刃の表情は悲しみに彩られていた。
「勝手なことを言うなよ! あたしは、あたしはそんなことのために姉貴を追いかけてきたんじゃない!」
行かないで。
一緒に行こう。
お願いだ。
唯一の肉親へ湧き上がるのは、愛情だった。
しかし、鈴音に霧刃を引き止める術はなかった。
霧刃の瞳は罪の意識に染まっている。
「これは私自身の後始末なの」
鈴音の知る姉は誰よりもやさしかった。
やさしすぎる姉が自我を保つために閉じ篭っていた殻を出て、自らが血に染めてきた彼女の後ろに立つ墓標を無視できるはずがない。
それでも、鈴音にとって霧刃はたった一人の姉だ。
姉妹、力を合わせて、償って行けば良い。
「何が後始末だ。償いなら、……償いなら、ちゃんと生きてしろよ!」
お願いだよ……。
一緒に……。
姉貴がいなきゃ嫌なんだ……。
「姉貴、あたしも一緒につきあってやるよ。だから、一緒に帰ろう!」
また、一本、広間を支える柱が崩れた。
もう時間がない。
「鈴音、ありがとう。そして、ごめんなさい」
明確な拒否。
霧刃は泣きながら、微笑んでいた。
視線をゆっくりと移す。
ロック・コロネオーレ。
許して。
霧刃は、ロックに心の中で頭を下げた。
鈴音の人生を奪ったのも、あなたの人生を奪ったのも私。
許して。
ロックは静かに頷いていた。
「姉貴!」
妹の声に、再び、霧刃は視線を戻した。
鈴音は、霧刃に駆け寄ろうとしていた。
だが、それは叶わなかった。
ついに天井が崩れ、巨大な石の塊が姉妹の間を遮った。
「姉貴ィッ!!」
壁を挟んだ向こう側にいるであろう姉の姿は、もう見えない。
鈴音は嗚咽を漏らした。
「……鈴音、ごめんね」
霧刃は力なく崩れた天井でできた壁に寄りかかっていた。
「何人も何人も殺してきた。ただ、自分の八つ当たりのためだけに私は……、ごほっ、ごほっ……」
粘りつくような咳と共に霧刃の口から鮮血が流れ出す。
「私は、身勝手ね。鈴音、あなたの姉にはふさわしくないわね。ごほっ、ごぼっ、げほっ、げほっ!」
身体の中の血がすべて出てしまうような大量の吐血。
霧刃は跪いた。
もう立つ力も残っていない。
だが、もう、それでも良い。
細雪も、鈴音に渡した。
視界がぼやける。
「(霧刃)」
霧刃の朦朧とした頭に声が響いた。
光を失いつつある瞳を巡らせる。
ケルベロス。
ケルベロスが霧刃の傍らにいた。
そして、魔獣は霧刃の身体を支えるように寄り添った。
「ケル……」
霧刃はやさしげな笑みを湛えてケルベロスを抱きしめた。
限りなく穏やかな微笑みだった。
「私の最後の命令。いいえ、お願いよ。妹を、あの子を守ってあげて」
「(……我に汝を見捨てよというのか?)」
「私は疲れたのよ。それに闇が敗れても、光も裁きを受ける」
「(死は安らぎではない。死は死でしかない。今の汝が死ぬことは贖罪にはならない)」
「それでも、もう私は……」
「(逃げるを覚悟で、受け入れるか?)」
「ええ……」
「(ならば、我も汝とともにいよう)」
冥界の番犬の両眼は穏やかな光を湛えていた。
「ケル?」
霧刃の何十倍、いや、何百倍もの時間を生きてきたかもしれない魔獣の命。
それをこの血に染まった罪深き身とともに朽ちさせて良い訳がない。
「駄目よ。早く、脱出して……」
ケルベロスは動かなかった。
「(汝も覚えていよう。我は汝と契約は交わしてはいない)」
「それなら、私に付き合って果てることはないはずでしょう?」
「(ここに残るは我の意思。我は汝を見、汝を感じ、汝と共に果てるを望む)」
「ケル……」
「(我と汝の絆は永遠。我は汝の友なり)」
霧刃は力いっぱい、ケルベロスを抱きしめた。
涙が止めど無く流れる。
うれしい。
孤独に死ななくて済むのだから。
だが、それ以上に、苦しい。
唯一の友を道連れにしてしまうことが、この上もなく苦しい。
これは罰だ。
最大の罰だ。
霧刃はもう一度、ケルベロスを力いっぱい抱きしめた。
「おまえはあたたかいね」
「(あなたも充分あたたかい)」
ケルベロスを抱きしめていた霧刃の腕が力なく落ちた。
鈴音は姉との間を阻む壁を見ながら、呆然としていた。
その手には、姉が残した神刀・細雪。
鈴音の腕から流れ出た血が黒金の鞘を濡らしていた。
すでに、広間のほとんどが瓦礫と化している。
これ以上ここに留まることは、死を意味していた。
それでも、鈴音は動かない。
動きたくなかった。
「鈴音サン」
その鈴音の想いを動かそうとする手が肩にかかった。
ロックだった。
「ロック」
鈴音はロックの顔を見ると堪らなくなった。
わなわなと唇が震え、涙が頬を伝った。
抱きつき、ロックの胸に顔を埋めた。
溢れ出る涙がロックの胸を濡らす。
鈴音は震えている。
かつて、ロックが鈴音に命を救われた時に見たように、捨てられた子猫のように震えていた。
ロックは無言のまま、鈴音の背に手を回し、ギュッと抱きしめた。
鈴音の脳裏に姉の言葉が甦る。
生きなさい。
私の分まで。
鈴音は涙を拭って、ロックの顔を見た。
行かなくては。
ここに残っていてはいけない。
「……悪い」
「いいえ」
ロックは鈴音の身体から腕を解いた。
だが、鈴音の足元はおぼつかない。
「悪いついでに回復の勾玉貸してくれるかな。……あたしのヤツは無くしちまったんだ」
「もちろん」
ロックは懐から勾玉を取り出し、鈴音に握らせた。
葵の込めた暖かな霊気が放出され、傷ついた鈴音の身体を癒していく。
銀色のペンダントを細雪の鞘にかけ、鈴音は大きく静かに息を吐いた。
「鈴音サン……」
ロックが鈴音の心底を思いやって声をかける。
「なぁに、きっと姉貴はくたばっちゃいないさ」
鈴音は、ぎこちなく微笑んだ。
「何となく、あたしにはそんな気がするんだ」
鈴音はペンダントを撫でながら、自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「……行こう。ちとせたちが待ってる」
そして、ロックを促して、歩き始める。
後方では天井が完全に崩れ、地下広間が崩壊していく。
鈴音は後ろを振り返らなかった。