魂を貪るもの
其の十一 灯火が消える(とき)
1.狂笑

 ――霧刃は静かに佇んだまま、閉じていた目をゆっくりと開いた。
 開け放たれた扉の向こうに、チャイナドレスに身を包んだ鈴音が立っていた。
 対する霧刃は白衣と黒袴の上に黒基調の千早に似た羽織を纏い、腰に細雪を納めた黒金の鞘を吊るしている。
 その姉の姿を、銀色の閃きを錯覚させる眼光の宿った鋭い目つきで捉えながら、部屋の中へと足を踏み込む。
 霧刃は凍りついた炎の揺らめきを秘めた視線で妹を迎えた。
「……来たか、鈴音」
「霧刃……」
 鈴音はゆっくりとした足取りで、霧刃の正面まで足を運んだ。
 今、二人はお互いの間合いの中にいる。
 一足飛びで、お互いの懐へ飛び込める距離だ。
 だが、鈴音は霊気の剣を現出させず、特段の構えも取らなかった。
 対する霧刃も、細雪に手をかけることもなく、微動だにしないまま、鈴音を凝視している。
 と、霧刃の脇に控えていたケルベロスが唸った。
 それに呼応するように、鈴音の傍らにに黒い影が現れる。
「ロック・コロネオーレか」
 霧刃が鈴音から視線を外さずに、その黒ずくめの服に身を包んだ男の名を口にした。
「織田霧刃……」
 ロックは霧刃には手を出さないと、鈴音と約束をしている。
 それも、鈴音に頼まれる前に、ロックから言い出したことだ。
 確かに、織田霧刃は、ファミリーの仇だ。
 マフィアならば、人生のすべてを掛けてでも復讐するべき相手だ。
 シチリア人ならば、人生のすべてを掛けてでも復讐するべき相手だ。
 だが、実際に今、霧刃を目の前にしても復讐心は沸き起こらなかった。
 もし、復讐心があったとしても、鈴音の霧刃に対する想いに比べれば、とてもとても小さい物に思えた。
 もちろん、ロックにとって、ファミリーは、かけがえのないものだった。
 それでも、抗争に敗れたマフィアが滅ぶという結果は、その筋の世界で生きてきたロックには決して考えられないものではなかった。
 ロックは懐から銃を抜いた。
 それを見たケルベロスが、ゆっくりと動き出した。
 唸りながら、横へと移動していく。
 鈴音に飛び掛かるような気配はない。
 魔獣が見ているのは、ロックだけだった。
「あちらさんも、どうやら、オレと同じ考えだったみたいですネ」
 ロックは苦笑した。
「鈴音サン。約束通り、ケルベロスは任せてもらいますヨ」
「ロック」
 鈴音の顔が僅かに苦しみに歪む。
 ケルベロスは、ちとせや悠樹、いや、鈴音でさえ苦戦するであろう高等な魔獣だ。
 霊力のないロックが勝てる見込みはほとんどない。
 それでも、鈴音はロックにケルベロスを任せるという約束を反故にする気はない。
 それだけ、ロックへの信頼も愛もある。
 だが、一番強いのは、霧刃と一対一で戦いたいという、己のエゴだった。
「すまない」
 この部屋に入ってくる前に交わした会話と同じように言葉を繰り返す。
 ロックは、鈴音に無言で頷き、ケルベロスと向き合ったまま、駆け出した。
 ――ロック。
 心の中で、もう一度、相棒の名を呼んだ。

 鈴音は昨晩、ロックのプロポーズを受け、彼に肉体を許していた。
 鈴音は怖かった。
 自分を彼に拒絶されるのが。
 そして、弄ばれるだけに終わってしまうかもしれないことが。
 だが、鈴音はロックにすべてを打ち明けていた。
 何もかもを包み隠さず話していた。
 家族のこと、天武夢幻流のこと、過去の退魔のこと、そして、退魔に失敗した時に敵から受けた数々の仕打ちについてさえも。
 彼のファミリーへ行なった霧刃の行為の償いの気持ちがあったからだろうか。
 何も言わずに鈴音に協力してくれる彼への感謝の気持ちがあったからだろうか。
 ――違う。
 絶対の信頼。
 ロックは鈴音を信頼してくれていた。
 一人の人間として信頼してくれて、ただ真摯な瞳で、静かに話へ耳を傾けてくれた。
 だから、自然と心を許して、彼へすべてを委ねた。
 そして、ロックは、鈴音のすべてを受け入れてくれた。
 やさしく抱き、愛を注いでくれた。
 そのロック・コロネオーレを踏み台にするのだ。
 必ず霧刃を止めなければならない。
 決意を噛み締めて、霧刃を睨み付ける。
 淀んだ瞳で霧刃は鈴音の視線を受け止めた。
「ケルと死合えば、あの男は死ぬ」
「ロックは死なないさ」
 強くはないが、はっきりとした語調でそう応じ、鈴音は霊気を右手に収束させ、霊気の剣を現出させた。
 霧刃は鈴音の気の変化に気づく。
 以前にも増して、鋭い。
 だが、不安定な弱さを感じさせる波長が消えている。
「ロックは死なない。そして、あたしも、おまえを倒す!」
「……できはしない」
 霧刃は無表情に鈴音の言葉を否定する。
 怒気を含んではおらず、煽っている語感もない。
 唯の否定だった。
 威圧されまいと、鈴音は気を吐いた。
「できるできないじゃねぇ。やってみせる!」
 鈴音が身体と霊力を鍛え直し、奥義を会得したとはいっても、未だに霧刃の力には遠く及ばない。
 それでも、経験や技巧に関しては、一から鍛えている自分に利があるはずだ。
 落ち着けば、対処できる。
 そう自分自身に言い聞かせる。
 それに、技量以上に勝負を決するであろう"想い"で負けるつもりはない。
「あたしの命にかけて……、いや、天武夢幻流の名にかけてだっ!」
 天武夢幻流。
 そうだ、あたしと家族の唯一残っている絆。
 親父。
 母さん。
 あたしに力を、……力を貸してくれ。
 霧刃を止められるだけの力を。
「天武夢幻流……?」
 鈴音の叫びに、霧刃の眉が不快そうに攣り上がった。
 天武夢幻流というフレーズを繰り返す。
 細雪の柄に手をかけた。
 ――抜くか?
 鈴音の身体に緊張が走る。
 だが、霧刃は、細雪を抜かずに、憎いものでも縊り殺すように、細雪の柄を握り締めただけだった。
「天武夢幻流の名にかけて……?」
 細雪の鍔鳴りが悲鳴のように鳴る。
 ググッと細雪の柄を握り締める手に力が込められ、邪悪な紅の霊気が細雪を中心として渦のように噴出する。
「霧刃……?」
 霧刃の放つ凄まじい霊気に身を引き裂かれそうになりながらも、鈴音は何とか踏み留まった。
 そして、霊気の竜巻とともに、悪寒の走る声が部屋に響き渡った。
「クッ、クククッ、アハハハッ!!」
 霧刃が笑っていた。

「(霧刃……?)」
 ――霧刃が笑う。
 その行為に、ロックと対峙していたケルベロスは目を見張った。
 ロックも思わず、霧刃の方に視線を動かした。
 ケルベロスはロックと戦ってはいなかった。
 最初から戦うつもりがなかったのかもしれない。
 ケルベロスもロックも、お互いに大事な人の大事な場面を、邪魔さえされなければ良かったのだ。
 だから、二人は、織田姉妹の戦いの場を離れた後、ただ睨み合っているだけだった。
 そこへ、霧刃の笑い声が聞こえてきたのだ。
 ケルベロスが、霧刃の笑う所を見たのは初めてだった。
 五年間。
 五年間、片時も離れずに霧刃を見てきた。
 そのケルベロスですら、今まで霧刃が笑うという行為を見たことがなかった。
 そして、鈴音もまた、初めて見た。
 ――狂気の笑いを。
 霧刃の笑顔は、勿論何度も見たことがある。
 鈴音の記憶にあるそれは、世界の誰よりも、暖かい笑顔だった。
 だが、今の霧刃の笑いは違う。
 背筋に冷たいものが走る。
 霧刃は、笑い続けた。
 ――笑っていた?
 違う。
 憎悪、怨恨、絶望、そして、怒り。
 ありとあらゆる負の感情が、霧刃という入れ物から溢れ出している。
 ――霧刃は泣いていた。
 哄笑しながら、涙を流していた。
「何が天武夢幻流だ!? 何が人を救う破邪の武術だ!?」
 霧刃の濁った瞳が、鈴音を貫いた。
「父は、自分自身も、母も、……そして、あの人も救えなかったではないか!」
 霧刃の憎悪に満ちた目に、鈴音は苦しげに俯いた。
 五年前のあの惨劇。
 愛する者を目の前で奪われた霧刃の心境は、同じく家族を奪われた実の妹であっても理解できない。
 鈴音が覚えているのは、肉片と化した、父と母、そして、霧刃の恋人の死体だけだった。
 どうやって殺されたかも知らない。
 それはそれで鈴音の悲劇だが、霧刃は両親と恋人が殺されいく様を見ていたのだ。
「鈴音、天武夢幻流など、……無力なのよ」
 霧刃の口調が、憎悪に満ちた声から、平板な、しかし、胸の奥を抉る声に変わった。
「霧刃…」
 鈴音は思う。
 もし、その場面に居合わせて、自分は正気を保てただろうか。
「父は……あの時、私が……」
 霧刃の瞳から、血の涙が流れ落ちる。
 憎悪と憤怒に彩られた液体。
「私が人質になっていたというだけで、手も足も出せなかった」
 無機質で淡々とした真実が、霧刃の口を出た。
 鈴音は絶句した。
 天武夢幻流最高の使い手とまで言われた父親が何故、あっさり殺されたのか。
 そして、霧刃だけが何故、無傷だったのか。
 恋人の生首を抱えて、抜け殻のように跪いている霧刃の姿が鈴音の脳裏に甦る。
「力のない私のせいで……皆死んだ……」
 愛娘を盾に取られた父親は、娘の前で殺された。
 母親もまた、成す術もなく殺された。
 そして、その娘の恋人も。
「だから、だから、……力だっ!」
 もう、霧刃は笑っていなかった。
 涙も流れてはいなかった。
 あるのは、力だけを追い求める修羅。
「力、力、力っ! そう力だっ!」
 昏い濁った瞳が無気味に紅く光る。
「力があればこそ、大事な存在を守ることもできる」
 鈴音は理解していた。
 霧刃の負の感情も、無力に対する凄まじいまでの嫌悪も、世界に向けて放たれているもではない。
 憎しみが強過ぎて、絶望が大き過ぎて、哀しみが重過ぎて、何を憎んでいるのか、何に絶望しているのか、何を哀しんでいるのか、わからなくなっているだけで、その実、すべては、霧刃自身に向けられているものなのだ。
「無力は罪だっ! 弱者は恥だっ!」
「違うっ!」
 鈴音は霧刃の言葉を真っ向から否定した。
「違うだと……?」
「何かを守るために、力は確かに必要だ。だが、霧刃、おまえの強さは、紛い物だ!」
 力がなければ、何も守れはしない。
 それは、鈴音の実感としてもある真実だった。
 だが、力だけでも、何も守れはしない。
 それもまた真実だ。
「おまえは苦しみから逃れるために、八つ当たりしてるだけじゃねえか!」
「!」
 霧刃の瞳が揺れた。
 口元が歪む。
「おまえは……おまえは弱い者を踏み台にしている!」
「……黙れ」
 俯いた霧刃の口から擦れた声が搾り出された。
「おまえは力を得るために哀しみを増やす」
「黙れ」
 霧刃は唇を震わせて、同じ言葉を繰り返した。
 鈴音は、尚も言った。
「おまえは護るためと称して弱者を踏み潰す!」
「黙れと言っている!」
 霧刃が大声で鈴音の言葉を遮った。
 だが、鈴音は構わずに静かに続けた。
「黙るのはおまえだよ、霧刃。絶望してんだったら、希望を持った奴らを道連れにせず、黙って一人で死にやがれ!」
 最後の言葉は嘘だった。
 死なないで欲しい。
 霧刃は鈴音にとって唯一の姉なのだ。
「あたしが、引導を渡してやる!」
 鈴音は自分の口を出た、自分の心を微塵も反映していない嘘塗れの言葉を嘲笑った。
 だが、決着をつけなくてはいけなかった。
 忌まわしい過去との決着。
 妹としての姉との決着。
 そして、それは、天武夢幻流の正統後継者である織田鈴音として、退魔師狩りの一人である"凍てつく炎"と恐れられる織田霧刃との決着だ。
 鈴音は大きく、長く、息を吐き出した。
 霧刃の顔を真正面から睨みつける。
「……良いだろう」
 すでに、霧刃には先程の半狂乱の面影はなく、無感情で平板な声で応じた。
 それは落ち着いているというより、感情を凍らせた声だった。
「すべてに決着をつけよう」
 そして、声音と同じように凍らせた表情で、腰の鞘から細雪を抜いた。


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