魂を貪るもの
其の十 蠢く闇
8.束の間の静寂

 何かが焼け焦げる匂いと、毒々しい黒煙が辺りに散漫している。
 迅雷は鈍い痛みが走る全身を引き摺りながらも、奇跡的に無傷に近い左腕を胸の前に差し出した。
 そのごく小さな動作ですら、精神力を振り絞らねばならないほどに、彼は消耗していた。
「ぜぇ……、ぜぇ……、くっ……、はぁ……、はぁ……」
 かつてないほど追い詰められている迅雷へ、"獄炎の魔王"は見下した視線を向けた。
「どうした、もう打ち止めか?」
「はぁ……、はぁ……、このおれが子供扱いか……」
 ランディには迅雷の攻撃がまるで通じなかった。
 殴っても、斬っても、ダメージがないのだ。
「何で死なねぇ? 何でダメージを負わねぇ?」
「私はそういうふうにできているのだ」
 ランディは皮肉めいた笑いを浮かべた。
「貴様が私の身体を何度吹き飛ばそうとも、私は苦痛すら感じぬ。我が身体を消し去ろうとも、虚空より復活するのだ」
 身体を焼く痛みに耐えつつ、迅雷が左腕に霊気を集中する。
 力が入らない。
 酸素が足りない。
「くそっ、眩暈がしてきやがった」
「フン。どうやら、もう終わりのようだな」
 ランディ・ウェルザーズの"影"は、片手を頭上に掲げた。
 手のひらの上の虚空に巨大な炎の輪が何個も出現し、重なり合い、球の形へと変化していく。
「さらばだ。すぐに"この世界"も後を追わせてやる」
「くっ……」
 火炎球からの熱風に、迅雷がよろめく。
「炭となれ、若き戦士よ!」
 ランディが迅雷に向かって腕を振り下ろした。
 高熱を迸らせ、空間を焼きながら迅雷へ迫る巨大なる炎。
 すでに迅雷にそれを掻き消す力も、避ける時間も残っていない。
 炎のうねりが迅雷の姿を覆い尽くす。
「うぐおあああああっ!!」
 炸裂。
 爆音。
 劫火。
 骨一本でさえ、残らないであろうほどの灼熱の渦が巻き上がる。
 だが、その確実な勝利と思われた状況に至っても、ランディ・ウェルザーズは燃え狂う焔を凝視し続けていた。
「結界術か」
 ランディ・ウェルザーズは眉を跳ね上げ、無表情に呟いた。
 炎が収まり、熱気の向こうに現れたのは神々しく青白い光を放つ壁だった。
 その向こうには、白衣に緋袴という典型的な巫女装束に身を包んだ黒髪の清楚な女性の姿があり、さらに、その後ろに片膝を突いている迅雷の姿があった。
「姉貴さん!」
「迅雷さん、大丈夫?」
 女性の問いに、迅雷は言葉の代わりに苦しげな唸り声で応じた。
 火傷が体を蝕んでいるのだ。
 広げた両腕から霊気を青白い壁に送り込みながら、巫女装束の女性――神代葵が心配するように迅雷へ視線だけを向ける。
 だが、動くことはできない。
 油断をすれば瞬時に、目の前の敵に炭化させられるだろう。
「かなりの防御結界の使い手のようだな。そうか、この神社に張り巡らされた結界も、その女の仕業か」
 ランディの指摘に、葵は小さく呻いた。
 葵の表情には、いつもの朗らかさはなく、いかにも苦しげであった。
 額には玉のように汗が浮かび、身体は軋む音が聞こえてきそうなほどに張り詰めている。
 長時間にわたって神社を守ってきた結界の維持と、今のランディの一撃を防いだ目の前の青白い壁の結界術の始動で、精神力を相当に消耗しているのだろう。
「だが、たったの一撃を防いだところで……」
 ランディが両手を交差すると、両脇に数本のメラメラと燃え盛る炎の槍が現出した。
「どうにもならぬ!」
 炎の槍が葵に向かって解き放たれる。
 紅蓮の帯を引きながら炎の槍が葵の結界に突き刺さる。
 何本かは結界に触れた途端に拡散し、何本かは結界に半ばまで減り込みながらも消滅した。
 そして、残った何本かが、結界を作り出している葵まで到達し、両肩を貫いた。
「くぅっ!」
 しかし、葵は悲鳴を噛み殺し、貫かれた両肩の傷が炎に包まれるに任せた。
「ほぅ、さすがに強靭な精神力だな」
 容赦なく放たれた炎の槍の第二陣が、同じように結界を直撃する。
 今度はそのうちの何本かが、葵の緋袴に突き刺さった。
「ああっ……!」
 驚くべきことに、両腕両脚を槍に貫かれ、炎に焼かれながらも葵は結界を維持し続けていた。
「まだ結界を保てるとは。……だが、もう限界だな」
 ランディの言葉は事実だ。
 いくら口から出る悲鳴を噛み殺しても、葵の身体は悲鳴を上げている。
 結界に霊気を送る両手は過負荷に絶えられなくなったのか、血管が破裂して血が流れ出していた。
「姉貴さん、さがれ!」
 迅雷が必死になって立ち上がった。
「姉貴さん! ここはおれに任せて、逃げるんだ!」
 葵のがんばりのおかげで、呼吸はだいぶ整っていた。
 しかし、勝機はまったく見えていない。
 だから、葵に『逃げろ』と言ったのだ。
 だが、葵はぼろぼろに痛めつけられた身体で、ここまで自然にできるのかというほどのやさしい笑顔を迅雷に向けた。
 そして、言った。
「嫌です」
 あまりに自然な、あまりにさらりとした言い方だった。
「姉貴……さん?」
「退くわけにはいきません。私がここを退けば、迅雷さんが殺されてしまいます」
「……!」
 迅雷は目を見張った。
 確かに、葵がこの場から逃げたならば、結界は失われ、迅雷は十中八九は死ぬだろうが、葵だけならば助かる見込みがないわけではない。
 だが、葵が迅雷の前に居続けたとしても、ランディに勝つことは難しい。
 数分後には、迅雷とともに炭となるだけだろう。
 それを覚悟で、迅雷の盾になるために残ると言っているのだ。
「それに逃げたら、ちとせたちの帰る場所も無くなってしまいますしね」
「……姉貴さん」
 ――この人は、やはり、ちとせの姉だ。
 ちとせがこの場にいても同じ行動を、同じ言動を取っただろう。
 迅雷は唐突にそう思った。
 一見すれば無茶苦茶なようでも、常に他人のことを想っている。
 大切なものを守るために、自らに降りかかる危険をものともしない強さがある。
 だが、それは蛮勇と似ていて、決して無謀ではない本当の勇気。
「そうだ」
 迅雷は思った。
 大切なものを守らねばならないのは、おれも同じはずだ。
 大事な人たちを殺させはしない。
 目の前を心から笑い合える人たちの血で染めたくはない。
 ここで、何もできないでどうする。
「うおおおおおおっ!」
 迅雷は雄叫びを上げた。
 葵が驚いて、後ろを振り返る。
 迅雷の突き出した左腕に膨大な霊気が収束していた。
「迅雷さん!」
「何……!?」
 ランディも迅雷の尋常ではない力に微かに表情を変える。
 空間に閃光の亀裂が迸った。
 次の瞬間、ランディの左半身が跡形もなく消し飛ばされていた。
「これは……」
 ランディ・ウェルザーズが初めて驚愕の表情を作った。
「はぁ……、はぁ……、どうだ、化物野郎め!」
 荒い息をつきながらも、迅雷は揺らぐことのない意志で相手を見据えた。
 だが、ランディの驚愕はそれは迅雷の放った攻撃に対するものではないようだった。
「再生が利かぬ……?」
 驚くべきことに、ランディは自分の凄惨な姿を確認して、喜悦の表情を浮かべていた。
「再生が利かぬ。フッ、フフッ、再生が利かぬのだよ!」
「何を言っている!」
 狂気的な悦楽を秘めたランディの声音に、迅雷は身震いした。
 ランディの笑い声はまるで、原初の炎が、揺らめくような笑いだった。
「貴様が理解する必要はない。もはや、私は、"獄炎の魔王"スルトは、真の自由を得たのだ!」
 ランディは満足そうに、一人で頷く。
「私はこの地を破壊することにも、貴様を殺すことにも、興味はなくなった」
「何だと?」
「影は消えるのみ」
 ランディ・ウェルザーズの姿が下半身から、焼かれるように空気に溶け始める。
 姿を焼き消しながら、魔王は哄笑していた。
「フッハッハッハッ……」
 その哄笑も、やがて炎に焼き尽くされた。

「くそっ、一体何がどうなってやがるんだ!」
 迅雷は目の前の出来事に、腹を立てていた。
 ランディ・ウェルザーズは一体何をしに、ここへ来たのだ。
 彼の圧倒的な力は迅雷を容易く追い詰めた。
 それなのにあの男は、最後の一歩で引き下がった。
 満身創痍の迅雷がたった一撃を与えたに過ぎないのに、だ。
 理解できる行動ではなかった。
 助かったという安心感よりも、疑問による怒りが迅雷を支配していた。
「迅雷さん。理解する必要はないってあの魔人も言っていたでしょう?」
 葵がやさしく迅雷の肩に手を置いた。
「私たちが理解すれば良いのは、私たちが勝ったという事実だけですよ」
 葵が微笑んで、眼下に広がる猫ヶ崎を指で示す。
「世界樹の力は、ほとんど感じられないほどに弱っています」
「……確かに、街も静かになったようだ」
 街を見下ろして、迅雷は大きく息を吐いた。
 猫ヶ崎を覆っていた瘴気は薄まりつつある。
 ただ、この場所からも伺える世界樹の巨大な幹に取り込まれた『ヴァルハラ』に関しては例外だった。
 ちとせたちが戦っているであろう、その場所は未だに黒い力に包まれている。
 葵もそれには気づいているだろう。
「後は、ちとせたちを信じて、待つだけです」
 彼女は迅雷の火傷に手のひらを翳して、黙々と治癒術を施し始めた。
「姉貴さん、自分だって酷い火傷を負っているじゃないですか。おれのことは構わずに自分の傷を……」
「静かに……傷口が開きますよ」
 葵は真剣な表情で、迅雷の唇に人指し指を当てた。
 迅雷は、自分のケガをも物ともしないこの天使に、眩しそうな表情で頷いた。

 ――静寂が戻った。
 『ユグドラシル』の力を以って世界を手中にせんと画策した男は滅び、ちとせはその男を一撃のもとに葬った"氷の魔狼"の姿に目を奪われていた。
 自らの血で染まった瀕死の身体を無視するように、"氷の魔狼"シギュン・グラムは絶対零度の獣性を秘めた視線をちとせへと向ける。
「ヘルセフィアスは、くだらない男だった。たった一人の人間が世界をどうこうできると思い上がっていただけの男だった」
 血が大量に抜けたためか、青白くなった顔がより一層、シギュンを凄絶な雰囲気へと昇華させている。
「力のない愚か者だった。私を微塵も楽しませてくれなかった」
 シギュンの言葉に飢えた響きを感じ取り、ちとせは身震いした。
 この狼は、瀕死の重傷を負いながらも血に飢えている。
「さっきの続きを始めようとか言われそうな雰囲気だね、あははっ」
 ちとせは乾いた笑いを浮かべながら、助けを求めるように悠樹の顔を見た。
 シギュンの視線から逃れたかった。
 悠樹は憂鬱な表情のまま、何も答えなかった。
 だが、悠樹の目が同意しているのを見て取って、ちとせの唇が引き攣る。
 シギュンの飢えた冷気が足元まで漂ってきたのに気づき、ちとせがびくりと肩を震わせた。
 魔狼はその場を一歩も動いていなかったが、すぐ近くまできているような錯覚に陥っていた。
「待て。シギュン・グラム」
 その幻覚を打ち破ったのは、ランディ・ウェルザーズの厳かな声だった。
「目的は達したのだ。退いて、傷を癒すのだ」
 シギュンは目を血走らせ、獰猛さを無理矢理に押し殺した唇を動かした。
「……私に退け、だと……この私に……?」
 傷のためだけではない荒い息を吐くシギュン・グラム。
 ミリアがランディの傍らから、さも理解できぬといった口調で声をあげる。
「筆頭幹部殿。ヘルセフィアスを討ち、世界樹の力は弱まった。これ以上の戦闘に、何の益があるというのです」
「誇りと高揚感だ。……それだけの価値がある」
 シギュンは狂気的な瞳でミリアを睨みつける。
「私は"魔狼"なのだよ。やっと見つけた獲物なのだ」
 ミリアは押し黙った。
 そのやりとりを見て、悠樹が、ちとせの肩を叩く。
「たぶん、誉められてるよ、ちとせ」
「ぜんっぜん、嬉しくないよ」
 ぶるんぶるんと首を横に振るちとせ。
 シギュン・グラムの瞳がミリアから外れ、ちとせへと注がれた。
 再びの金縛り。
 ちとせは硬直した。
「降魔師の少女。そして、風使いの少年」
 シギュンは腹の傷を押さえていた義手を、口元に持っていった。
 すでに彼女の足元には、血溜まりができている。
 義手にこびり付いた自らの血を舐めた。
 鉄の味。
 ヘルセフィアスに刻み付けられた不味い屈辱の血の味は、もうしない。
「私に刻まれた屈辱は、もはや、この"右腕"のみ……」
 シギュン・グラムの殺気が膨れ上がった。
 ちとせが唾を飲み込む。
「待てと言ったぞ、シギュン・グラム。そして、退くのだ」
 ランディ・ウェルザーズの声が、一触即発の雰囲気を打ち消す。
 冷厳な支配力を持った声を発するランディの姿が壁から、シギュンを見下ろしていた。
 シギュン・グラムは、不快そうに何かを言いかけて、唇を動かそうとしたが、鋭い瞳でランディを一瞥しただけで、ちとせへと視線を移した。
 ランディは、なおもシギュンの背中に声を浴びせた。
「シギュンよ。もう一度言おう。退くのだ」
「……私は"魔狼"なのだ。ランディ・ウェルザーズ」
 シギュン・グラムはランディ・ウェルザーズに再び、視線だけを向けた。
 獣さながらの表情は、ランディすらも食らい尽くそうとする獰猛さを含んでいる。
 ランディ・ウェルザーズは、しかし、落ち着いた様子で言った。
「獣性に溺れる者にプライドなど必要なかろう。誇り高き"氷の魔狼"よ」
 シギュン・グラムが、ランディを睨みつけた。
 目を大きく見開き、奥歯を噛み締める。
 対するランディは無表情だった。
 やがて、シギュンは憎悪の瞳をちとせに向けた。
「神代ちとせよ」
 シギュンが、初めて、ちとせの名を呼んだ。
 ちとせはあまりの圧迫感に、心臓を鷲掴みにされたような胸の痛みを覚えた。
 獲物を狩る獣の瞳のまま、シギュンは後ろへと退いた。
 だが、退いたのは身体だけだと、その場の誰もが思っていた。
「貴様の命、今しばらく長らえさせてやる」
 シギュン・グラムを吹雪が包み込む。
 そして、氷の風の中に、魔狼は消えた。
 この撤退によって、シギュンの誇りが失われることなど到底有り得なかった。
 その証拠に、ちとせも悠樹もシギュンの姿が消えたことに、勝利感ではなく、安堵感だけを覚えていた。
 二人とも、大きなため息を吐いた。
「少女よ。少年よ」
 壁に映し出されているランディが、二人に向かって声を投げた。
「私は車輪を破壊し、糸を切った。未だ"運命(ノルン)"は生きているがな」
 ランディの言葉に、ちとせと悠樹が首を傾げる。
「ノルン? 世界樹を愛でる運命の女神?」
「世界樹がまだ生きている?」
「我々は、この場を放棄しよう。だが、覚えておくが良い。これは我々の負けではないということをな」
 二人の疑問には応えず、ランディ・ウェルザーズの姿がグリッチした。
「おほほっ、ご機嫌よう」
 最後にミリア・レインバックの人を小馬鹿にしたような傲慢な笑みを残して、壁の映像は完全に消え去った。
 『ヴィーグリーズ』は、『ヴァルハラ』から去ったのだ。
 ちとせは、『ヴィーグリーズ』の幹部たちが去り、不気味な静けさに包まれた広間で大きく息を吐いた。
「終わったの……?」
 ちとせは何か釈然としないものを感じながらも、悠樹に寄り添った。
 悠樹はちとせの肩を抱いた。
 その温もりに二人は実感した。
 無事だ。
 ちとせも悠樹もお互いが無事だったと、実感した。
「とりあえずは終わったみたいだね」
 悠樹にちとせが頷いた。
「そだね。後は……」
「鈴音さんなら、きっと大丈夫だよ。このぼくたちだって大丈夫だったんだから」
「それもそだね、ふふっ」
 ちとせは悠樹の首筋に、頭を預けた。

「やったのか、ちとせ」
 地下通路を走りながら、鈴音は感じていた。
 『ヴァルハラ』の上層部に漂っていた邪悪な力がきれいさっぱり消えたことを。
 もはや、この『ヴァルハラ』に残る闇の力は、鈴音が追い求める『姉』だけだ。
「ロック、ちとせたちは勝ったぜ。あたしにはわかる!」
「ええ」
 ロックは地下通路に張り巡らされている世界樹の根を見ながら、深く頷いた。
 現に、先ほどまでしきりに襲いかかってきていた根は、今はまったくの沈黙を守っていることが、鈴音の推測の正しさを物語っているようなものだ。
 と、根の網目を追っていたロックの目に、扉が飛び込んできた。
 ようやく、この長い廊下が終わるのだ。
 そして、その扉の奥からは、霊力のないロックにすら威圧感が感じられた。
「鈴音サン」
「ああ!」
 あの扉だ。
 あの扉の向こうに、いる。
 鈴音は確信した。
 無意識に、駆けていた足が、ゆっくりとした歩調へと変わる。
「ロック」
 鈴音はロックを見た。
 ロックは鈴音を見た。
 そして、ロックは鈴音に頷いた。
「手出しはしません。ただ、ケルベロスは任せてもらいますよ」
「すまない」
 鈴音はそのまま、しばらくロックを見つめ、そして意を決したように、扉へと向かって歩き始めた。

「(瘴気が薄まるな)」
 ケルベロスは『ヴァルハラ』の異変に気づいた。
 ランディ・ウェルザーズの気配も、ミリア・レインバックの気配も、シギュン・グラムの気配も感じられない。
「……世界樹の力もな」
 霧刃がケルベロスの言葉を継いだ。
 世界樹が静止したことで、ヘルセフィアスが死んだのはすぐにわかった。
 あの男は"器"ではなかったのだ。
 当然の結果だ。
「(ウェルザーズは高見の見物か)」
 ケルベロスが、不快そうに唸った。
「構わぬ」
 霧刃が今、関心があるのは唯一つなのだ。
「来るが良い、鈴音。裁きは、まだ終わらぬ」
 そう、鈴音。
 たった一人の妹。
「霧刃……」
「ケル」
 霧刃はケルベロスを見た。
 ケルベロスは霧刃を見た。
 そして、ケルベロスは霧刃に頷いた。
「露払いは任せろ」
「すまない」
 霧刃はそのまま、しばらくケルベロスを見つめ、そして、黙祷でも捧げるように静かに目を閉じた。
 部屋の扉が、開け放たれた。


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