魂を貪るもの
其の二 死霊都市
1.接触

 葵が楽しそうに洗濯物を干しているのを眺めているうちに、鈴音は何年かぶりに平和的な気分になっていた。
「今日は晴天ですから障子は開けておきましょうね」
 と、葵が気を利かせてくれたのだが、鈴音が明るい気持ちになっているのは天気の良さというよりも、葵の雰囲気によるところが大きい。
 大和撫子を絵に描いたような女性だった。
 神代神社で普段は巫女や事務の奉職をしているようだが、本人も大学の神道学科を卒業して神職の資格は得ていて、父親が不在の時は特別に神職代行も務めることもあるそうだ。
 清廉で女性的な容姿に、白い単衣と緋色の袴がよく似合っている。
 それに、朗らかな笑顔を絶やすことがない。
 葵といると自然と心が休まり、温かい気持ちになってくる。
 昨日まで鈴音が生きてきた世界とは別世界の住人のようだった。
 彼女を見ていると、血で血を洗う、そんな世界から一転して、のんびりした天国へ来たような気にさえなってくる。
 だが、同時に後ろめたさも感じていた。
 鈴音は、自分のことを何も話していない。
 相手は無縁の自分を、しかも血まみれで倒れていたところを、介抱してくれたのに、だ。
 事情を一切聞かずに療養させてくれている。
 ――本当は話すべきなんだろうな。
 そう思う。
 だが、話せば少なからず彼女たちを巻き込むことになる。
 鈴音はそれを恐れ、悩んでいた。

「あの大丈夫ですか? どこかまだ、痛みますか?」
「えっ?」
 考えにふけっていた鈴音は、いつの間にか葵が縁側まで来て、心配そうに自分の方を見ていることに声をかけられるまで気がつかなかった。
「い、いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
「そうですか。痛いところがあったら無理しないで言ってくださいね」
 そして、葵はにっこりと笑い、 「霊気(ちから)で治しますから」と、確かにそう言った。
 葵も鈴音が『霊気を扱える者』であることに気づいていたし、鈴音も葵が『霊気を扱える者』であることに気づいていた。
 だから、驚き自体は小さかった。
「やっぱり、葵にも、霊気が……?」
 鈴音もすんなり『霊気』という言葉を受け入れている。
「はい。本人の意志で使用できるほどの霊力の発現は血筋や環境、状況などに大きく左右されますが、もともと霊気は誰もが持つ森羅万象(しんらばんしょう)の根源を成す霊的なチカラですからね。神代の血は代々霊力に覚醒しやすいみたいで、私だけでなく、父も妹も、そして、神代家とは系統が違いますが、母も、霊気を扱うことができます」
「ああ、ちとせからも強い霊気の波動を感じたよ」
「ちとせには神社に退魔や除霊の依頼が来た時に手伝ってもらっています。万象の(ことわり)や循環から外れた霊気は悪魔や妖魔、悪霊を生む原因となりますが、本人の意志で霊気を扱うことができれば、その異形の存在に対抗することもできますからね」
 そう言いながら葵は縁側に腰掛けた。
「それに、私が、鈴音さんが『霊力を持つ者』であることに驚かなかった理由はもう一つあるんですよ」
「もう一つ?」
「実を言うと、この猫ヶ崎では珍しくないんですよ。特異な能力(ちから)とかって」
「珍しく、ない?」
「この街には巨大な霊脈(れいみゃく)が何本も走っていますし、龍穴(りゅうけつ)もいくつもありますから、地理的にも発現しやすい場所のようですわ。ちとせの高校にも何人か霊力の覚醒者がいますし、悠樹クンもそうですわ」
「悠樹……、さっきの少年も?」
 これには鈴音も少し驚いたようだった。
 ちとせと葵からは強力な霊気を感じたが、悠樹からはまったくといって良いほど何も感じなかったからだ。
「頼りになりますよ。彼は特殊な霊気を使います。儚そうでいて力強くて、嵐のようでいてそよ風のようでもあって、面白い子です」
 葵が微笑みながら応える。
「私は退魔や除霊などより、治癒術や結界術などが得意なのですけれどね」
「治癒術か。あたしは使えないな。修行しても身に付かなかったよ。霊気を燃焼させて退魔の力に使うのは朝飯前なんだが」
「治癒や鎮魂(たましずめ)といった術が使えるかどうかは他の霊術と違って、先天的な要素もありますからね。ちとせや悠樹クンも使うことはできませんし」
 傷や病を回復する神秘の霊気術は、治癒術や鎮魂と呼ばれる。
 この能力は多分に先天的な素質によって使い手になれるかどうかが決まるのだ。
 葵にはその素質があったのだろう。
「それにしても、葵の治癒術の相当の使い手だな。あたしのあの傷を一晩で治しちまうなんて」
 才能もまた努力無しには、開花せずに終わる。
 鈴音の経験では、昨晩まで負っていた傷は全治一ヶ月以上かかるであろうと思われるほどの重傷だった。
 葵の施した治癒術は、その重傷の鈴音の身体を一晩で回復に向かわせたのだ。
 よほどの厳しい修行を積んだに違いない。
 そして、それほどの力を誇ることもなく、血の滲むような努力をしたであろうことを感じさせることもない葵の人格的な柔らかさに鈴音は好感を持っていた。
「ちゃんと病院には行ってくださいね。ちとせが帰ってきたら付き添いをさせますから」
 葵の言葉に鈴音は素直に頷いた。
「ああ」
「あの……」
 続けて葵が何かを言いかけ、鈴音が首を傾げる。
「何だ?」
「いえ、その、……鈴音さんはこの街の方ではありませんでしょう?」
「ああ」
「……何でこの街に?」
「それは……」
 鈴音は言葉に詰まった。
 今さっきまで、まさに話すべきかどうか悩んでいたことを聞かれてしまったのだから無理もない。
 そんな鈴音の反応を見て、葵も気まずく思ったようだ。
 鈴音は重傷を負って行き倒れていたのだ。
 その時に鈴音が負っていた傷は事故で受けたものではない。
 傷口を瘴気で侵されていたことから、悪霊や妖魔といったものとの戦いで負ったものであろうことは葵も推測ができているはずだ。
 そして、葵は同時に知ったはずだ。
 鈴音の身体に刻まれていた傷は、新しいものだけではないということを。
 大小さまざまな古傷が、彼女のまだ若い肉体に刻まれている。
 その中には明らかに拷問や陵辱を受けた痕跡があることも、肉体を治癒する術の使い手である葵にはわかったはずだ。
 それは鈴音が霊能力者の中でも戦いを専門とする者で、しかも過酷な過去を背負っていることを暗に示していた。
 訳ありでないわけがないことを理解した上で、葵はどうにか鈴音の力になりたいと思ったのだろう。
 だが、鈴音は自分のことを話す決心がつかなかった。
「ごめんなさい。鈴音さんのお手伝いができないかと思ったのですけれど」
「……すまない」
 頭を下げる葵に謝る鈴音。
 と、突然、葵が手を叩いた。
 何事かと目を丸くする鈴音に葵は微笑みを浮かべた。
「そうですわ。鈴音さん、今夜の夕食で何か食べたいものありますか?」
「えっ?」
「せっかくですから、鈴音さんのお好きなものを作りますわよ」
 雰囲気を明るくしようと気を使っているのが、ばればれだ。
 だが、この女性は心底やさしい。
 鈴音はあらためて、そう思った。
 葵は興味本位で自分の心に立ち入ってこようとはせず、かといって腫れ物を触るような無言でもなく、同情や哀れみの視線も浴びせてこなかった。
 鈴音がはじめてこの部屋で目を覚ました時もそうだった。
 あの時、悠樹が悪気はないにせよ、鈴音の下着姿を見てしまった。
 治療にあたっていた葵は、すでに鈴音の身体に残された過去に負った過酷な傷痕を知っていたはずだが、気遣いを見せつつも大げさな行動を取ることはなかった。
 葵から感じるのは、やさしさだけだ。
 鈴音自身は過去に味わった拷問や凌辱を忘れることはできないが、その苦過ぎる経験から自分の肉体が魅力的なものだということは熟知していたし、色を好む敵には武器になることも理解していた。
 だからこそ、あえて、色気を抑えたりはしないし、下着姿を見られたくらいでは動揺したりもしない。
 もちろん、葵の心遣いには感謝していた。
「そうだな。……ハンバーグが良いかな。できれば、手作りの家庭的なのが食べたい気分だ」
「はい、わかりました。手作りハンバーグには自信あります」
 葵が快く承諾し、立ち上がった。
「あっ、もうすぐちとせたちも帰ってくると思いますから、病院に行く準備をしておいてくださいね」
 鈴音もまた快く頷いた。

 ――猫ヶ崎病院。
 猫ヶ崎市でも中央に位置する総合病院に次ぐ規模と医療設備を誇る。
 その第一待合室で、ちとせと悠樹は、鈴音が診療室から出てくるのを出迎えた。
「『疲れがたまっているようですが、それ以外は健康ですよ』だそうだ」
 心配そうにしている二人に向かって、鈴音がビシッと指を額に当てながら笑う。
 足取りは少し頼りなげだったが、鈴音が口にした診療結果は安心できるものだった。
「良かったぁ」
「良かったですね」
 ちとせと悠樹が鈴音の側に歩み寄る。
「葵の治癒術のおかげだな」
「姉さんの治癒法術は天下一品だからね」
 姉を褒められた事を自分のことのように喜ぶちとせ。
 仲の良い姉妹だと思いながら、鈴音がやさしげな微笑みを浮かべる。
「……それと、悪いんだけどもう少し付き合ってくれないか?」
「まだ無理はダメですよ?」
「すぐ済むよ。買い物さ」
 鈴音は前髪をかきあげながら答える。
「買い物、ですか?」
「ああ、あたしの服、ボロボロだろ。それに今借りてるこの服も少しサイズがな」
 ちとせと悠樹は納得したように頷いた。
 鈴音が今着ているのは、葵の服だった。
 鈴音は女性にしては背が高いので、それほど背の高くない葵の服とは丈が合っていない。
 それに鈴音のどちらかというと凛々しい雰囲気に、葵のいかにも物静かな清楚な女性が好みそうな服は、あまり似合っていないというのが二人の共通した感想だった。
「わかりました。この病院の近くに、なかなか雰囲気の良いショップがあるからそこにしましょ」
「すまないな」
「実はボクも欲しい服があるから、ちょうど良かったりして」
「この前、ちとせは新しい服を買ったばかりじゃないか」
 悠樹が鈴音に便乗するちとせをびっくりしたように見る。
 この前買い物に付き合わされて、しかも、大枚を叩かされたらしい。
 頭を抱えている悠樹に視線を送りつつ、ちとせは唇の前で指を横に振った。
「女の子はいくら服があっても足りないの☆」
「そうだな」
 鈴音が苦笑しながら頷く。
 性格は男っぽいが、鈴音は服装には自分の好みを反映させる傾向があった。
 葵に借りたサイズの合っていない服にも、自分なりにアクセサリーや、着崩しを加えて洒落っ気を出している。
 ちとせも猫ヶ崎高校の制服のブレザーとブラウス、チェック柄のプリーツスカートに自分なりにアレンジを施していた。
 ブラウスは第二ボタンまでを外した襟にリボンタイをダラッとした感じで付けているし、スカートはお気に入りの黒いオーバーニーソックスとの相性を考えてかなり短くしている。
 陸上部のエーススプリンターだけあって引き締った肢体をしているが、開いた襟の下にある胸はブラウスに豊かな曲線を描いており、スカートとオーバーニーソックスの間から覗く太腿は健康的な色香を放っている。
 他愛もない会話を交わしながら、三人が病院の出入り口の辺りにまで来た瞬間。
 ――どくんっ。
 空気に衝撃が走ったような感覚が生じた。
 三人の身体を通る血管が違和感に振るえた。
「何?」
「何だ?」
 ちとせと悠樹が驚いたように辺りを見回す。
 医者の姿も患者の姿も見えなくなっていた。
 病院内が一瞬にしてひんやりとした異質な空気に包まれてしまっている。
 鈴音はこの世界の変貌の正体をすぐに悟った。
「これは結界だな。誰かがこの病院を外界と隔離しやがった」
「結界?」
 結界という言葉自体には、ちとせも悠樹も驚いていない。
 二人の驚愕の対象は、この病院を包む結界が張られたということであった。
「いったい誰が?」
「さあな」
 ちとせの呟きに鈴音が肩をすくめる。
 見れば、病院の出入り口も消えていた。
 病院としての構造は保っていたが外へと通じる通路は一つもない。
 外界と完全に遮断されていた。
「どうやら、霊力のあるあたしたちだけが偶然で結界の中に入っちまったみたいだな」
「それは困りましたね」
 悠樹があまり困っていないような口調で言う。
 ちとせも驚愕したのは結界の張られた一瞬だけだった。
 二人とも超常の現象に巻き込まれても、動揺はしていないようだ。
 頼もしそうな視線を二人に向けていた鈴音の表情が曇った。
「葵から聞いたけど、二人とも、バケモノと戦った経験はあるんだよな?」
 二人には神代神社に来る除霊や悪魔退治の依頼を手伝ってもらっていると葵に聞いていた。
 ちとせは、葵に備わっている治癒術の先天の素質は持っていないそうだが、その代わりに退魔や悪霊祓いに関しては姉より長けているらしい。
 それに、悠樹も頼りになると、葵は言っていた。
「えっ、何です。いきなり?」
 ちとせと悠樹が鈴音の視線を追うと、そこにはおぞましい姿をした影が五体立っていた。
 もちろん、二人の知り合いではない。
 鈴音の知り合いでもないだろう。
 知っているはずがない。
 なぜなら、戦国時代の鎧のようなものを身につけ、底冷えするような妖気を発する抜き身の刀を手にしていたからだ。
 刀の刃は血に濡れており、鎧には何本もの矢が突き刺さっていた。
 そして、足下には鎧武者自身のものであろう血が絶え間なく流れ落ち、顔の部分を覆い隠した兜の奥で光る真紅の瞳には怨念と苦痛の色が宿っていた。
「……戦傷の治療のために病院に来たってワケじゃなさそうだね」
「あの鎧武者たちがそのつもりだとしても、医者の領分じゃないよね」
 血濡れの鎧武者を認識しても、ちとせにも悠樹にも動揺はない。
「怨念に満ちた敵意を向けられて、それだけ口が動かせるなら、一体任せても良いな?」
 二人の肝の据わりように満足と呆れを綯い交ぜにしたような複雑な顔でそう言った鈴音の手に、いつの間にか、青白く光り輝く『剣』が出現していた。
 霊気を収束して作った光の剣――『霊剣』――だ。
 それは、鈴音が霊気を物質化するほどの強い霊力の持ち主である証明であり、同時に剣を武器として扱う退魔の戦士であることの証明でもあった。
 隣のちとせには、鈴音の構えにまったく隙が感じられない。
「ウォウオオオオゥオゥウ!」
 苦痛に塗れた絶叫のような不気味な声を発しながら、鎧武者の亡霊たちが間合いを詰めてきた。
 鈴音が長く美しい髪をなびかせ、右の一体と中央の一体の間に入り込み、右側の鎧武者へ剣を振るった。
 白銀の光が真一文字に走る。
 まさに閃光のような鋭い斬撃だった。
 鎧武者は、鈴音の剣を受けることもできず、簡単に首から上を刎ね飛ばされた。
 中央の魔物は、その隙に鈴音の後ろに回り込んだが、それは彼女の予想通りの動きでしかなかった。
 鈴音は振り返ることすらしないで剣を背後へと突き入れ、襲いかかろうとしていた鎧武者の胸部を貫いた。
 次いで雄叫びを上げながら二体の鎧武者が左右から同時に斬りかかって来たが、それも鈴音の敵ではなかった。
 一体の血刀を霊剣で受け弾き、もう一体の斬撃を身を捻って避ける。
 そして、体勢を崩した鎧武者二体の胴を続けざまに薙ぎ払った。
 残りの一体は鈴音ではなく、ちとせに向かって血刀を振るった。
 ちとせは不敵な笑みを浮かべたまま、ひょいっと後ろへ退ると、不可思議な印を結んだ。
 刀を避けられた鎧武者が兜の奥で光る赤い両眼に怒りを湛えながら、間合いを詰めて再び刀を振り下ろす。
 だが、鎧武者の妖刀は、ちとせの眼前で粉々に砕け散った。
「残念賞!」
 馬鹿にしたような口調で、ちとせが言う。
 刀を砕いたのは彼女の霊術の効果だった。
 予想外の力によって武器を破壊され、鎧武者が驚愕したように一瞬硬直する。
 そこへ、悠樹が「烈風!」と叫びながら右手を振るうと同時に、言葉通りに鎧武者の周りに烈風が巻き起こった。
 そして、烈風は不可視の刃となって、鎧武者を鎧ごとズタズタに切り裂き、黄泉比良坂へと送り返した。
「ちょっ、まっ!」
 ちとせが奇妙な声を上げ、不敵な笑みを慌てた表情に変えて、短くしているプリーツスカートの前を両手で押さえた。
 悠樹が放った烈風の余波でスカートが捲り上がりそうになったのだろう。
「ちょっと、悠樹!」
「ごめんごめん、もしかして、風に巻き込まれそうになった?」
「巻き込まれそうじゃなくて、捲れそうになったわよ」
「何が?」
「スカートに決まってるっでしょ。危うく、パ……って何言わせるのよ」
「二人とも肝が据わってるな。それに、息のあったコンビネーションだったぜ」
 鎧武者の亡霊たちと戦った直後とも思えない緊張感のない会話をし始めたちとせと悠樹に、鈴音が霊気の剣を消して近づいてきた。
 まだ本調子ではないだろう彼女も息一つ乱していない。
「一瞬で四体もやっつけちゃうなんて、鈴音さんってすっごく強いんだね」
「まあ、退魔は、あたしの専門分野なんでね」
 鈴音は二人と比べてずば抜けた力量を見せたが、それを誇るような素振りもなく、短く答えた。
 そして、すぐに不審な表情で前髪をかきあげた。
「……それにしても」
 もとの世界と隔絶された結界の中とはいえ、あのような化物が放たれてるとは。
 ――そもそも、この結界は誰が何のために張ったものなのだろうか。
 ここにいてもわかる答えではないのは明白だった。
「上だな」
 鈴音が天井を睨みつけるように言う。
 病院の上層階に濃い邪気が溜まっているのを感じられたからだ。
 同じ邪悪な霊気を感じたちとせと悠樹が頷き返す。
「行ってみるか」
 三人は階段へと向かった。


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