魂を貪るもの
其の十 蠢く闇
7.破滅

 暗闇の中に焔が灯り、ゆっくりと暗黒を焼き尽くしていく。
 運命には、神々すらも跪く。
 誰も逆らうことはできない。
 遥かな記憶の果てで、"それ"は私に言った。
 それは、私に最高の力と最強の肉体を与え、自由を奪った。
 それが私の運命。
 それが私の呪縛。
 私は、"それ"の言葉に従い、世界を壊す。
 運命が新しき世界を創るために古き世界を灰燼に帰す。
 燃やしながら思う。
 壊しながら思う。
 私は最強のはずだ。
 運命がそう決めたのだという。
 最強である。
 ならば、なぜ、運命に勝てぬのだ。
 矛盾に気づき、さらなる矛盾に思い至った。
 ――運命神(ノルン)の運命は誰が紡ぐのか。
 喉の奥から笑いが沸き起こった。
「お目覚めでございますか」
 金髪の艶かしい女が、目を開いた男に向かって、愉悦の表情を浮かべた。
 男の目の前では、氷の入ったグラスに注がれた蒸留酒(アクアビット)が置かれていた。
「クライマックスですわ」
「……そうか」
 男は鷹揚に頷いた。
 腕を動かそうとするが、自由が利かない。
 視線を移すと、世界樹の触手が突き刺さり、ソファに腕を縫い付けていた。
 腕だけではない。
 脚にも、肩にも、腹にも、背中にも、首にも、世界樹の触手が突き刺さっている。
 男が不機嫌そうに眉を寄せると途端に、身体を戒めていた触手が発火し、塵と化した。
「たやすいが、……なるほど、あまり血が滾らんな」
「もはや、機能は失われつつありますわ。後は、愚か者の意識を消してしまえば……」
 女が男の首筋に手を回した。
「真の自由が、あなたさまの手に入りますわ」
 女の甘い吐息が男の首にかかったが、男は気にする様子もなく卓上のオールド・ファッションド・グラスを手に取り、蒸留酒を喉へ流し込んだ。

 シギュン・グラムは、血に塗れたスーツの懐から、真紅に染まった煙草箱を取り出した。
 器用に右手の義手だけで血で湿気った煙草を一本取り出して口に咥えた。
「不味いな。久しぶりに不味い煙草だ」
 火も点けることなく、そう言って、口の中に残っている血と一緒に煙草を吐き捨てた。
 ヘルセフィアス・ニーブルヘイムが、シギュン・グラムを睨み付ける。
「シギュン・グラム、まさか、まだ生きていたとは……」
「当たり前だ」
 地面に落ちた血染めの煙草を靴で踏み躙り、ゆっくりと腹の傷に添えていた左手を離す。
 傷口から血が溢れ、足がよろめいた。
 全身を襲う痛みのせいか、額には脂汗が玉のように浮かんでいる。
「完全なるとどめを刺さずにいた貴様が三流なのだよ」
「減らず口を叩くものではありませんよ」
 その様子を見てヘルセフィアスが嘲笑う。
 シギュン・グラムは冷酷な"氷の魔狼"の表情をヘルセフィアスへ返した。
「その言葉は貴様に返してやろう、ヘルセフィアス」
「死に損ないめ」
 ヘルシフィアスが、世界樹の触手へ、シギュンの肉体を八つ裂きにするように命じる。
 ろくに動けもしない瀕死の狼など一瞬でミンチにしてやる。
 そして、すぐに降魔師の少女と風使いの少年も同じように始末してやろう。
 だが、しかし、ヘルセフィアスの意志に反して、世界樹の触手は一寸たりとも動かなかった。
「な、何……『ユグドラシル』が……動かん?」
 余裕のあったヘルセフィアスの顔に焦りの色が浮かぶ。
(チ……ガ……ウ……チガウ……チガ……ウ……)
 ヘルセフィアスの脳に、若いような年老いたような、野太く、それでいて、か細い声が響いた。
 そして、それは世界樹の幹を伝い広間全体に共鳴する。
 世界樹の声。
 ヘルセフィアスが完全に取り込み、統制したはずの、世界を司る樹木の声だった。
「なぜだ……! どうしたというのだ、『ユグドラシル』!」
(チ……ガ……ウ……チガウ……チガ……ウ……)
 ヘルセフィアスの絶叫に対して、世界樹は唯々同じ単語を繰り返すだけだった。
「貴様はこの小娘に恐怖したのだ」
 『ユグドラシル』の代わりに、シギュン・グラムが、ヘルセフィアスの問いに答える。
「そして、私に恐怖した」
 シギュン・グラムの口調は淡々としていたが、声音の奥には冷たい嘲りの響きが含まれていた。
「その恐怖は、貴様と一体になっている世界樹に伝染し、端々まで行き渡ったのだ」
「私が恐怖を抱いただと?」
「恐怖したのだ。そして、その恐怖で貴様は世界樹を統制する精神力を失ったのだ。つまり、貴様は小物だった。そういうことなのだよ、ヘルセフィアス」
「私は、……私は世界の王になるべき男だぞ」
(チ……ガ……ウ……オマエデハナイ……オマエハ我ガ器デハナイ……)
 己の内から聞こえてくる己の言葉を否定する声に、ヘルセフィアスは憤怒した。
 だが、憤怒しても、状況は何も変わらない。
 恐怖し、世界樹という力を失った。
 その事実があるだけだった。
 そして、その事実を嘲笑する声がまた一つ増えた。
「世界の王? それは、あなたには無理というものよ、ヘルセフィアス・ニーブルヘイム」
 艶やかで、思わず聞き惚れてしまうような声が、広間に響き渡る。
 シギュンも、ヘルセフィアスも、よく知っている声。
 この『ヴァルハラ』の総帥室で、成り行きを見物をしている女の声だ。
「ミリア・レインバック?」
 壁面に映し出された美しい女秘書の姿に、ヘルセフィアスが怪訝な表情を浮かべる。
 映像のミリア・レインバックは喉で笑いながら、ヘルセフィアスを見下した。
「『ユグドラシル』には適応というものがあるのですわ」
「何を言っているのだ。ミリア・レインバック!」
 ヘルセフィアスは成り行きを理解できず、苛立ちを募らせた。
 この女は私とともに在ることを誓って、『ヴィーグリーズ』を裏切ったはずだ。
 それなのに。
 『ユグドラシル』が動かないというのに。
 この女は、なぜか笑っている。
 そして、シギュン・グラムは、それが当然であるというように何も反応を見せなかった。
 誇り高き"氷の魔狼"が、映像とはいえ、裏切り者を前にして何も動きを見せなかった。
「もう、あなたの役目は終わったのです。世界樹を狂わせた時点でね」
 ミリアの言葉に、ヘルセフィアスは口を開いたまま固まった。
 唇が怒りに震えている。
「ヘルセフィアス・ニーブルヘイム。ランディさまの礎となってお逝きなさい」
 ヘルセフィアスは自分の耳を疑った。
 ――ランディさまの礎となってお逝きなさい。
 そのフレーズが、頭の中で何度も繰り返される。
「ランディだと……? 何を言っている!?」
 状況が理解できずにいるヘルセフィアスへ恐るべき現実がつきつけられた。
 壁面に投影されたその男は、――ランディ・ウェルザーズ。
 ありえない。
 この手で、世界樹の触手で、抹殺した男。
「バ、バカな……!!」
「バカは貴様だ。ヘルセフィアス」
 ランディ・ウェルザーズは、亡霊ではなかった。
 しゃべる口もあるし、足もある。
 全身を世界樹の触手で貫いて殺したはずの男が、無傷でソファに腰掛けている。
 ヘルセフィスは信じられぬ事実に驚愕し、叫んだ。
「ランディ・ウェルザーズ、貴様、なぜ生きている!?」
「世界と同化した貴様に知らぬことなどないのではないのか。それとも未だに、天と地の狭間に貴様の哲学では思いも寄らぬことがあるのかな?」
 冷厳な笑みを浮かべ、ミリア・レインバックの用意した蒸留酒を口に運ぶ、ランディ・ウェルザーズ。
 その姿はどこから見ても瀕死の重傷を負っているようには見えず、威厳さえ漂っていた。
「そうか、ミリア・レインバック。貴様がランディの影武者でも用意していたのだな!」
 ランディの傍らで、ほくそ笑むミリアを見て、ヘルセフィアスが忌々しげに奥歯を鳴らす。
「違いますわ。ランディさまは、わたくしの手助けなどなくても不死身なのよ。もっとも、それも、もう終わりですけれど」
 ミリアは、妖艶に、そして、冷酷に微笑みながら、ヘルセフィアスへ蔑みの視線を向ける。

 騒動のどさくさにまぎれ、ちとせは悠樹の傍らまで逃れていた。
 ちとせたちから目が反れている今こそ、体力や気力を少しでも回復する機会だ。
 ヘルセフィアスは、まったく気づいていない。
 シギュンとは一瞬目が合ったが、微かに睨みつけてきただけで、彼女は微動だにしなかった。
 今はちとせよりもヘルセフィアスのことが重要なのか、それともダメージが大きくて動けないのか、どちらにせよ、見逃されたのは幸運だ。
 ちとせは全身に霊気を巡らせながら、『ヴィーグリーズ』の幹部たちのやり取りには耳を傾けていた。
 どうやら、ヘルセフィアスは力を失い、死んだはずのランディ・ウェルザーズが生きており、その両者の間で、ミリア・レインバックが何らかの役割を演じた。
 そして、シギュン・グラムは、それをすべて承知していた。
 そういうことなのだろう。
「どういうこと? ランディ・ウェルザーズが生きていて……それに不死身って」
「わからない。唯一つ言えることは、あのヘルセフィアスという男は終わりだってことだね」
 悠樹の口から出た言葉の後半は、客観的で冷ややかな静けさを含んでいた。
 目の前の破滅を突きつけられているヘルセフィアスという男に、愚かだとか、哀れだとか、そういった感情すら感じさせない綺麗な声音。
 この血の匂いの漂う広間で、悠樹の周りだけが、静かになったような印象すら受けた。
 ――悠樹は、やっぱり怖いな。
 ちとせは、密かにそう思った。

「よくも、よくも裏切ってくれたな。ミリア・レインバック!」
 ヘルセフィアスは、狂乱し、憎悪し、絶叫した。
 その様子を見ても、ミリアは見下したように微笑見返すだけだった。
「裏切り者はあなたでしょう。わたくしはどこまでも『運命神(ノルン)とは反対側』に在るのよ」
「お、おのれ、おのれ、おのれぇぇぇ!」
 奥歯を鳴らして叫び狂うヘルセフィアスに、ランディ・ウェルザーズは(わずら)わしそうに眉を寄せた。
「この失態こそ、貴様が世界樹を取り込めていない証拠よ。自らの器を見誤った愚者めが」
「私が……、私が……、何ということだ。すべてが水泡に帰すというのか。認めぬ、認めぬぞ……!」
 ヘルセフィアスは、自分がランディ・ウェルザーズのための捨石であり、ミリアの玩具だったことを思い知らされたが、その現実を受け入れることはできなかった。
 世界を自由にする力を手に入れ、すべての存在の上に君臨する超王となるはずだったのだ。
 ここまで来て、敗北を認めることなどできるはずがない。
 ランディは血塗れのシギュン・グラムに視線を移した。
「シギュン・グラム。私を、そして、"氷の魔狼"を侮った報いを、(とく)と思い知らせてやるが良い」
 シギュン・グラムは静かに頷いた。
 口の中には鉄の味が広がっている。
 ――不味い。
 これから、この不味い屈辱の血を、贖いの血を浴びることにより、洗浄するのだ。
 昏い愉悦。
 シギュンの色のない瞳に、狂暴な光が一瞬だけ揺れた。
「覚悟するのだな、ヘルセフィアス」
「世界樹を失ったとて瀕死の貴様などに負けるものではない!」
 ヘルセフィアスは逆上し、狂気じみた奇声を上げる。
「私は世界なのだぞ! 私こそがぁぁぁ!」
 ヘルセフィアスの全身から漆黒の影が這い出す。
 影の触手だ。
 彼の本来の力である影使いとしての能力。
 それは、世界樹の触手に比べれば、いかにも貧弱に見えた。
 己が血で全身を紅に染めた"氷の魔狼"の前では、児戯に等しい。
 ヘルセフィアスは、もう終わっているのだ。
 シギュン・グラムが、ゆっくりと右腕の義手をヘルセフィアスへと向ける。
「雑魚は消えろ」
 シギュンの義手が、純白の氷色に輝き、大気を凍てつかせ粉々に砕くような恫喝を帯びた。
 解き放たれた冷気の波動が、神を喰らう巨大な魔狼を描く。
 殺戮の爪が振るわれ、凄まじい爆裂音が響き渡った。
 凍りついた世界樹の幹に亀裂が入り、その背後の『ヴァルハラ』の壁が吹き飛んだ。
「ぐがああああああああ!? こ、この……この私が……私がァァァァ!?」
(オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!)
 ヘルセフィアスの断末魔と、世界樹の叫びが重なる。
 絶対零度の冷気がヘルセフィアス・ニーブルヘイムの全身を飲み込み、切り裂き、砕いていく。
「私……こそ……が……世……界の……」
 凍りついた全身にひびが入り、右腕が砕け、左腕が砕け、胴が砕け、両脚が砕け散る。
 最後に、絶叫の表情のままに苦痛に歪んだ顔の部分だけが残った。
 その野望の仮面も、吹雪が止むと、地に堕ち、粉々に砕けて霧散した。


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