魂を貪るもの
其の八 蠢く闇
6.勝機
「今のを食らって、なお立ち上がるとはね」
ヘルセフィアスは、起き上がったちとせと悠樹を見て、喉で笑った。
「なめないでよ。確かに今のをもう一発食らったらヤバいけど、まだダウンはしないよ」
「いえいえ。体力のことではありませんよ。気力の話です。立ち上がる気力が残っているのが憐れだと思いましてね」
ヘルセフィアスの声には余裕と嘲りを含れており、それは表情にも表れていた。
「立ち上がったところで、待っているのは、さらなる苦痛と確実なる死」
ヘルセイフィアスの背後で、世界樹の無数の触手が開かれた花弁のように揺らめく。
「それなのに立ち上がる。哀しくも憐れではありませんか」
ちとせは、残り少ない体力のためによろめきそうになる脚を踏ん張り、深呼吸をして息を整えた。
解けたままの髪が、顔にかかるように落ちてくるのを払い除け、背中に流す。
傷だらけの身体は埃と煤と血に塗れてはいたが、霊気は体力と反比例するように漲ってくる。
「憐れみなら、あなたにそのまま返してあげるよ」
必然と余裕のあるいつもの笑みが、ちとせの顔に浮かんだ。
それを見たヘルセフィアスの笑いが止まった。
嘲弄の表情を浮かべていたはずの男の視線に不快が混じる。
ちとせは茶化すように、神扇をひらひら振った。
「あらあらぁ、怒っちゃったかな?」
「なぜ、私を恐れない。なぜ、圧倒的な力を目の前にして屈服しない。なぜ、笑っているのだ。このヘルセフィアスは『世界』なのだぞ」
ヘルセフィアスの両目に憤怒が灯る。
「何者も私の前には立たせはしない!」
ヘルセフィアスが大きく両腕を広げた。
バチバチと派手な音を立てて、巨大な雷光球が生まれる。
それを見た悠樹がため息を吐く。
「挑発しすぎだよ、ちとせ」
「ダイジョブよ」
浮かべている不敵な笑みを強張らせながらも、ちとせは上目遣いに悠樹を見た。
悠樹は肩をすくめた。
「これで、さっき以上の攻撃が来るよ?」
「それこそ狙い通りじゃない」
「ちとせは好きだね、ギャンブルが」
「まあね」
「でも、今回は命懸けだよ」
「女は度胸よ」
「ぼくは男だよ」
「じゃあ、降りる?」
「降りないよ。いたずらに長引かせたところで状況が打開できるわけじゃない」
「さすが、悠樹。んじゃ、盾はどっちがやる?」
「それは、ぼくがやるよ」
悠樹は風を握り締めた。
ヘルセフィアスの作り出している電光球は、二人の会話の間にも膨脹し続けていた。
すでに先程の倍以上の大きさになっている。
「今度こそ終わりにしてあげましょう」
「甘いね、当てられるものならやってみるのね!」
ちとせと悠樹は二手に別れ、ヘルセフィアスに向かって左右から霊気球を同時に放った。
だが、それはヘルセフィアスに当たる直前で、世界樹によって阻まれてしまう。
ヘルセフィアスの髪が憎悪に逆立つ。
「その程度の攻撃が効くとでも思っているのですか」
ヘルセフィアスの周りにある世界樹の触手から、無数の電撃の舌が伸びる。
『ユグドラシル』と一体となったヘルセフィアスより、ちとせと悠樹に俊敏さでは分があるようで、二人は自分たちに襲いかかってくる電撃を回避しつつ、再び霊気球をヘルセフィアスに浴びせた。
しかし、それもまた世界樹の触手によって粉砕され、ヘルセフィアス本人までは衝撃すら届いていない。
「無駄なことだということが、まだ理解できないと見えますね」
怒りに目を血走らせ、歯軋りをするヘルセフィアス。
「ですが、その意味のない抵抗もこれまでです」
ヘルセフィアスの両手に溜め込んだ雷光球の大きさはすでに、ちとせと悠樹が直撃を食らったもの以上に膨れ上がっている。
軽い震動が起こり、世界樹が唸りを上げる。
ヘルセフィアスが憎悪に満ちた笑いを受けべ、雷光球の膨張が止まった。
「さあ、これで本当の最後です!」
ヘルセフィアスが大きく腕を振るう。
虚空を巨大な雷の球が走る。
まとも食らえば、文字通り、あの世行きだろう。
雷光球が電撃の鞭を撒き散らしながら、ちとせたちに直進する。
「くっ!」
「来た!」
唸って身構える二人。
避けようとしても、この縦横微塵に暴れまわる鞭に絡み取られてしまえば、逃げ切ることなどできはしないだろう。
眩い光が、ちとせと悠樹を呑み込んだ。
轟音が鳴り響き、爆煙がヘルセフィアスの視界を覆った。
「直撃です」
勝利を確信して、ヘルセフィアスの瞳に愉悦の色が浮かぶ。
「この『世界』自身である自分に逆らった愚か者の哀れな末路です」
もはや、自分を止めることができるものなどいないという確信。
だが、その勝利感は一瞬のものだった。
「何っ、雷光球が?」
ヘルセフィアスが放った雷光球は拡散せずに、まだ生きていた。
つまり、まだ、ちとせたちに直撃していないのだ。
そして、ヘルセフィアスは見た。
雷光球の軌道が変わった。
軌道を変えたのは、まるで台風のような暴風だった。
風の壁が、雷光球を押し流した。
その壁の後ろには、風の壁に力を注いぎ込んでいる少年と、精神統一をするように目を閉じながら霊気を高めている少女がいた。
軌道がずれた雷光球は的外れな場所に着弾し、爆発、四散する。
同時に悠樹が膝を折って崩れ落ちる。
荒く息をつく悠樹の傍らで、ちとせが両目を開いた。
その射抜くような視線の先に捉えているのは悠樹ではなく、ヘルセフィアス。
「サンキュ、悠樹!」
「はぁ……、はぁ……、もう援護する力は残ってないよ」
「わかってる。決めてくるよ!」
予想通り、ヘルセフィアスの周りに蠢いていた触手から力が抜けている。
今なら、必殺の攻撃を、ヘルセフィアスに叩き込める。
ちとせが、床を蹴った。
くるくると空中で前転し、渦巻く爆風と黒煙を切り裂きながら、ヘルセフィアスの目の前へと飛び出す。
「このタイミング!」
「こ、小娘。わざと雷光球を!」
ヘルセフィアスは『ユグドラシル』の触手で迎え撃とうとしたが、統制が取れない。
ちとせの両手にはすでに霊気が収束されている。
「どりゃあっ!」
気合いの叫びとともに霊気の宿った拳をヘルセフィアスの頭に打ち下ろす。
「ぐおおっ!」
『ユグドラシル』に頼り切っていたヘルセフィアスは容易に打撃を受け、よろめいた。
着地したちとせが、間を置かずにヘルセフィアスの懐に潜り込む。
無防備になったヘルセフィアスを、極限まで高めた霊気を込めて、神扇で打ち抜く。
勝機はここにしかないのだ。
「だだだだだだだだだっ!」
扇、扇、扇、拳、拳、拳、脚、脚、脚。
殴る、殴る、殴る、蹴る、蹴る、蹴る。
「だりゃっ、だりゃっ、だりゃっ、だだだだだっ!!」
有らん限りの力で無数の乱打を浴びせる。
「だぁぁぁりゃぁぁっ!!」
ぐらついたヘルセフィアスの胸に神扇と左手のひらを重ねて押し当て、全身全霊を込めた巨大な霊気を解き放った。
ちとせの、まさに全力。
「おおっ、ぐおおおおおおおおおっ!」
それをまともに食らって、ヘルセフィアスは絶叫を上げて仰け反った。
ちとせの霊気に侵食された身体の無数の裂け目から、膨大な血が溢れ出し、霊気の煙が上がっている。
ヘルセフィアスが下がる。
一歩、二歩、……三歩のところで踏み止まる。
崩れ落ちはしない。
「そ、そんな……?」
ちとせは驚愕の言葉と荒い息を吐くだけで、飛び退く力も残っていない。
「小娘!」
ヘルセフィアスが憎しみの込められた声を吐き、真っ赤に目を輝かせ、ちとせを睨みつける。
ちとせの背後の地面が砕け、世界樹の触手が顔を出した。
「きゃああっ!?」
「ちょこまかと逃げられぬように
世界樹の触手がちとせの両腕両足に巻きつき、十字架に架けられたようにちとせの自由を奪う。
「ちとせ!」
悠樹は少女の名を呼んだが、彼に助けに行く力は残っていない。
ヘルセフィアスは容赦なく衝撃波を、悠樹に飛ばした。
「小僧が邪魔をするんじゃない!」
「くうっ!」
悠樹は直撃を食らって、壁に叩きつけられた。
ヘルセフィアスは満足そうに頷き、両腕を広げて、触手の十字架に架けられているちとせに向けた。
「貴様から死ぬが良い」
真っ赤な衝撃波を、ちとせに向かって解き放つ。
四肢を拘束されているために回避も防御もできないちとせを衝撃波が直撃する。
「あああああああああっ!」
絶叫を上げるちとせに哄笑を浴びせながら、ヘルセフィアスは衝撃波の威力を上げた。
「クハハッ、すべてが無力だと思い知りましたか!」
ヘルセフィアスの哄笑が熱さを帯び、目の色が世界樹の脈動と同じ邪悪な真紅へと染まった。
肩を、胸を、背を、腹を突き破って、内部から世界樹の触手が飛び出てくる。
腕は枝となり、脚は根のような触手へと変貌した。
それでも、ヘルセフィアスは笑い続ける。
「進化の頂点に君臨するのは、世界樹を手にしたこの私なのだ」
変貌したヘルセフィアスの姿は、人の欲望を食らった世界樹そのものだ。
野望と邪心が具現化した怪物だった。
「さあ、永遠の支配者の誕生を祝福して死ぬが良い」
両目を見開いてヘルセフィアスは、ちとせへ浴びせている衝撃波の量をさらに増大した。
衝撃波を叩きつけられている胴体が後方に仰け反り、触手に戒められている両腕と両脚の関節が悲鳴を上げる。
「きゃあああああああっ!!」
悲鳴を上げながらも、ちとせは意識を懸命に保っていた。
このまま、やられてしまったら、たった一人の男に世界を奪われてしまう。
見慣れた風景も、まだ会ったこともない見知らぬ人々も、自分を形作ってきた思い出も、奪われてしまう。
「そ、そんなのぜんぜん楽しくない」
ちとせの額から血が吹き出すと同時に、彼女の中で何かが弾けた。
この上ない単純で明快な感想が絶叫の合間に、ちとせの口から洩れた。
それは全然楽しいことじゃない。
色々な人がいて、色々な力があって、色々な想いがあるから面白い。
単調なリズムじゃ、物足りない。
このの目の前の狂った男に世界を渡すのは、楽しくない。
攻撃に耐えながら必死に握り締めていた神扇が、微かに、ちとせの想いに反応を示した。
黄金の光が灯った。
「何だ?」
拘束されてても足も出ないはずの少女から洩れる不可思議な光に、ヘルセフィアスは焦燥感を覚え、衝撃波の威力を最大限に上げる。
瞬間、閃光。
爆発。
「小娘、何を?」
ヘルセフィアスが熱風に顔を背ける。
ちとせの霊気が爆発していた。
ちとせの髪の毛が金色に染まっている。
瞳も、眩い衣装も黄金色だ。
「ちとせ、まさか何かに憑依を……?」
悠樹は、ちとせがまたいつかのように暴走状態になったのではないかと危惧を覚えた。
だが、禍禍しい力は感じない。
ちとせの霊気は、ちとせのままだった。
暖かく、眩い。
まるで、太陽だ。
太陽。
「
悠樹の頭に一柱の神の御名が浮かんだ。
太陽の女神、天照大御神。
日本の神の中で最高神の地位を占める高天原の主宰神。
だが、悠樹は即座にそれを訂正した。
「違う。
ちとせに降臨している女神もまた、太陽の女神なのだと、ちとせに聞いたことがあるのを悠樹は思い出した。
天照大御神が天岩戸に隠れている時に、この女神を呼び戻すために舞ったのだ。
暗闇に包まれた世界で、唯一光り輝く踊りを踊ったのだ。
今のちとせは、その太陽神としての力が覚醒したのだろう。
黄金に輝きながら、ちとせがヘルセフィアスに視線を向けた。
彼女の周りに黄金の炎が舞い上がる。
それは、ちとせの心に灯った太陽の炎だった。
この世を闇で包もうとするヘルセフィアスと世界樹を燃やすための、炎だった。
再び彼女を戒めようとしていた触手群が一瞬にして灰となって崩れ落ちた。
「こ、この小娘の変貌は一体?」
恐怖を含んだ驚愕の表情を浮かべるヘルセフィアスに、ちとせは微笑んだ。
「神代ちとせだよ」
あっさりとした口調で応える。
美しい。
陽光を思わせる焔で世界樹の触手を焼き払い、黄金の炎の輪の中に静かに立つ彼女は、とても美しかった。
黄金の炎は周りの世界樹を焼き尽くすと、風に飲まれるように揺らめき消えた。
同時に、ちとせの髪や瞳、衣装から黄金の色が失せる。
ちとせは、そのまま崩れ落ちた。
神降ろしさえ解けて、ボロボロのブレザーとブラウスの猫ヶ崎高校の姿に戻った。
まるで、今の神秘な姿が幻のように。
「これは?」
ヘルセフィアスは、しばらく、うつ伏せに倒れているちとせを見下ろしていたが、彼女に微かな心臓の鼓動と息遣い以外の反応がないことを確かめると、緊張を解いた。
「……よくわかりませんが、爆発的に霊気を高めた反動が出たようですね」
ちとせにとどめを刺すべく冷笑を浮かべるヘルセフィアス。
自分の命を奪おうとしている男を、ちとせは顔を上げて睨みつける。
「あきらめの悪い小娘ですね。ですが、もう終わりなのですよ。最後の悪足掻きには少々驚かされましたがね」
「ああ、……私も驚いたよ」
ヘルセフィアスの言葉に応じた者がいた。
ちとせでも、悠樹でもない。
「額の
声はヘルセフィアスの背後から聞こえた。
「肉体が反動に耐えられなかったようだが、今の霊気の瞬間的な力。私より上だったかもしれん」
ヘルセフィアスは、その冷徹な声に悪寒を全身に感じながら、振り返った。
そして、相手を視界に認めて、これ以上ない程にヘルセフィアスの目が大きく見開かれる。
「シ、シギュン・グラム!」
ヘルセフィアスは信じられないというように首を振った。
だが、いくら否定しようとしても、"氷の魔狼"の圧倒的な威圧感が、これは現実なのだと強烈に主張していた。
「時間をかけ過ぎなのだよ、貴様は」
シギュン・グラムは全身を死色の紅に染めて、凄絶な鋭い表情で、ヘルセフィアスを呑み込んだ。
冷やかな輝きを放っていた長い金髪は、倒れていた際に腹からの出血を浴び、その大半が赤く濡れて、湿り気で額と身体に貼りついている。
唇の端からも吐血の跡が流れを作り、左腕で抑えている腹の傷からも、血はまだ溢れ出ていた。
瀕死。
しかし、まるで血でできた幽霊のような姿でありながら、瞳の光は爛々と狼の獣性を宿しており、全身から発せられる気高い雰囲気は、普段とまったく変わらない。
ともすれば、傷つきつつも、決して『退く』という表現から程遠い今の姿こそが、彼女の持って生まれたもっとも美しい姿であるのかもしれなかった。