魂を貪るもの
其の十 蠢く闇
2.世界

 何人もの命を奪ってきたシギュン・グラムには、致命傷と致命傷ではない感触の違いが、すぐに解かった。
 ――殺し切れていない。
 シギュンは硝子玉のような狂眼に微かに興味の色が浮かべ、床に倒れているちとせに視線を這わせた。
「小娘め」
 ブレザーも、白いブラウスも、短めのプリーツスカートも、黒のオーバーニーソックスもズタズタに引き裂かれ、全身に負った裂傷から大量の出血をしている。
 だが、破れたブラウスから覗くブラジャーに包まれた豊かな胸は上下しているし、呼吸もしている。
 獲物の血が滴り落ちる爪を軽く振った後、シギュンは舌でこびりついている血を舐めた。
「……今のタイミングで致命傷を避けた上に反撃しようとするとは、な。最後の力を振り絞ったか」
 確実に、ちとせの背後から心臓を貫こうとした一撃であったが、魔爪が突き刺さる瞬間、僅かにちとせが身体をずらしたために致命傷に至らなかったのだ。
 しかも、それだけではない。
 ちとせは背を魔爪で抉られながらも両手に霊気を収束させ、反撃しようとしていた。
 そのことに気づき、シギュンは魔爪を引き抜き、反撃を封じることと間合いを離すことも兼ねて蹴りを食らわせたのだ。
 チェックメイトと宣言した一撃をしくじったのは初めてだったが、その少女のあきらめの悪さこそ、その血の味こそ、シギュン・グラムにとっては僅かであっても刺激を与えてくれるものであった。
「……だが、そろそろ幕引きだ」
 跡形もなく粉微塵に吹き飛ばす。
 全身を絶対零度の冷気で砕く。
 そう、致命傷であるなしなど関係なく。
 シギュン・グラムの鋼鉄の義手が、瀕死のちとせに向けられる。
 この距離ならば、反撃は受けないだろう。
 だが、シギュンは心の底では反撃を期待していた。
 立ち上がって来い。
 飛びかかって来い。
 いや、立ち上がって来ずとも、飛びかかって来ずとも、霊気を撃ち込んで来い。
 私を楽しませろ。
「……我が血脈に受け継がれし"氷の魔狼"よ」
 思考とは裏腹に、シギュンは義手へと死を想わせる極寒の冷気を収束する。
 その背後でフェンリルが身震いし、大気が揺れた。
 すでに凍結している床の上に新たなる氷が走り、シギュンの足もとを真っ白に染め上げる。
 冷気が臨界まで収束され、"氷の魔狼"が牙を向く。
 まさにその魔狼が咆哮を上げたと思われた。
 その瞬間。
 シギュンを取り囲むように光の柱が立ち昇った。
「五芒星……!?」
 "氷の魔狼"は、病んだ双眸を大きく見開いた。
 これは……。
 これは……ッ!
五色霊方陣(ごしきれいほうじん)ッ!」
 ちとせの声が木霊した。
 それと同時にシギュン・グラムの義手に収束した冷気が急速に四散していく。
 これは……ッ!
 この反撃はッ!
 シギュン・グラムの無色の狂眼に、生色が浮かんだ。
 その色彩を得た瞳が、周囲を見回す。
 床に転がっている神扇。
 殴られて外れたリボン。
 フェイントのために落とした治癒術の込められた勾玉。
 未だに目を覚まさぬ八神悠樹。
 そして、瀕死のはずの降魔師の少女。
 その五つから、眩い光が放たれ、凍てついた床に巨大な五芒星を描いていた。
「悪いね、悠樹。媒体に使わせてもらったよ」
 ちとせが、うつ伏せに倒れていた身体を仰向けにして、悠樹に視線を送って、小さく呟いた。
 シギュン・グラムが呻き声を上げ、彼女の背後に浮かび上がっている"氷の魔狼"フェンリルが呼応するように唸り声を上げる。
 怒りの咆哮のようだったが、しかし、それは、シギュン・グラムの"別の感情"の奔流だった。
「小娘、……結界術だと?」
「残念だったね。奥の手ってヤツだよ」
 ちとせは、唇の端から血を滴らせながらも、身体に残った全霊力を解放する。
 天宇受賣命が再臨し、ちとせの神秘の力が増大する。
 五芒星結界が、シギュン・グラムの全身を縛り上げる。
 不可視の鎖に自由を奪われる。
 まるで、重力が倍増したかのように、指一本動かすことができない。
 だが、その美しい唇だけはわずかに動いていた。
 それに気づく余裕もなく、ちとせが全身全霊を込めて巨大な霊気球を目の前に作り上げる。
「はあっ!」
 そして、自分の身長ほどもにまで練り上げたその巨大な霊気球をシギュンに向かって解き放った。
 同時に、神扇、勾玉、リボン、悠樹からも、同規模の霊気球が出現し、シギュン目掛けて放たれた。
 結界によって防御を封じられたシギュンに巨大な霊気球六発が直撃する。
「ぐっ、ぐがああああああああああああああっ!?」
 シギュン・グラムの背後に半実体化していた"氷の魔狼"フェンリルが巨大な顎を大きく開き、断末魔のような咆哮を上げた。
 結界によって無防備に等しい状態で、ちとせの全霊が込められた霊気球を六発も、まともに直撃を受けたのだ。
 いくら北欧神話最強の魔獣と、その力を使役する強大な降魔師といえど、受けたダメージは図り知れないだろう。
 ちとせの連続霊気球の嵐が終わると同時に、シギュン・グラムはその場に膝から崩れ落ちた。
 左腕の氷爪も砕け散り、ボロボロとなったストライプスーツの其処彼処から霊気の硝煙を上げている。
「……これを……狙っていたの……か」
 荒い呼吸で大きく揺れる肩。
 唇から溢れ出る吐血。
 美しい黄金の髪も乱れ、力尽きたように俯いたシギュン・グラムの表情を隠していた。
「げほげほっ、ボクは、あなたより弱いのよ。二重三重に罠を張らなきゃね。この身を囮にしてでもさ」
 ちとせは、よろめきながらも立ち上がった。
「背中を貫かれた時はヤバかったけどね」
 額に手を当てて、大きく息を吐く。
「ふう、でも、さすがに血が、大分抜けちゃったから、うぐっ……」
 胸を抑えて苦悶の表情を浮かべるちとせ。
 致命傷ではないが、身体中を切り裂かれているのだ。
 平静を装っているが、ダメージは蓄積されている。
 瀕死に近い状態だ。
「身体中の傷口に霊気を巡らせなきゃ……」
 大気を吸い込んで、傷の回復に霊気を向ける。
 治癒術の素質は先天性のものであり、ちとせの治癒術に関する才能は皆無に等しい。
 霊力のないロックはもちろん、悠樹も鈴音も治癒術は使えない。
 だからこそ、葵に回復の勾玉を用意してもらったのだが、悠樹の回復と五色霊方陣の媒体として使ってしまった。
 昏睡している悠樹がまだ一つ持っているはずだが、それを今取りに行くわけにもいかなかった。
「私が……、結界に入って来なかったらどうするつもりだった?」
 乱れた冷やかな金髪で表情を隠したままシギュンが、ちとせに尋ねる。
 呼吸は荒いはずなのに、無感情な声音だった。
「その時は、その時で……必死に考え直すだけよ」
 手のひらを胸の傷に当てて霊気を送り込みながら、ちとせはあっさりとした口調で言った。
 シギュン・グラムは理解した。
 前回は油断で不覚を取り、偶然によって敗北したが、今回は油断もしていなければ偶然もない。
 ――この少女は強い。
 確かに、霊力、スピード、力、駆け引き、経験、すべてにおいて自分の方が上だ。
 だが、この少女は強さを自身のもとへ呼び寄せる覚悟を持っている。
 血で血を彩る闇の世界ですら、稀にしか持ち得ぬ気高き精神を持っている。
 その精神力は、この"氷の魔狼"と呼ばれ畏敬される自分にすら匹敵する。
 自分の命を脅かすことができる『敵』だ。
「この"氷の魔狼"と、このシギュン・グラムと、対峙できる者がいたか」
 高揚感。
 久しく忘れていた命懸けの戦いの高揚感。
 シギュンは自らの身体が喜びに打ち震えていることに気づいた。
「私をここまで追い詰める者がいたか」
 自然と唇が笑みの形に変わるのを抑え切れなかった。
 表面だけに浮き出た形ばかりの笑みではない。
 心からの、笑み。
「私の、……私の氷の血が滾る。私の霊力が、"氷の魔狼"フェンリルが戦いの喜びに咆哮を上げている」
 いくら求めても、得られなかった存在。
 それが、目の前に、いる。
「ふふふっ、……はははははっ!」
 意図せずとも喉の置くから流れ出してくる笑い声。
 シギュンは哄笑しながら、瀕死の身体を引き摺って立ち上がる。
「きっと、おまえを殺す瞬間、私は『生』を実感できる」
 シギュンの底知れぬ奈落を思わせる両眼が、ちとせの両眼を貫いた。
 ちとせの背に悪寒が走る。
「……そ、そんな、まだ立ち上がれるというの!」
「なかなか効いた。だが、私を倒したいのなら、全身をバラバラにすることだ」
 歓喜を含んだシギュンの哄笑にちとせは戦慄していた。
 目の前の女性は、自分と根本的に違う。
 闇夜に生まれ、月の光を求めて殺し合う殺戮者だ。
 『退魔に腕の立つ女子高生』とは比べることすらできない。
 神を殺すために生まれて来た狼だ。
 戦うことを心底愉しんでいる。
 戦うことに飢えている。
 ちとせは足が竦んだ。
 彼女をよく知るものなら、ちとせでも足が竦むことがあるのかと驚いたかもしれない。
 だが、今のシギュンと対峙したならば、彼女でなくても足が竦んだだろう。
 鈴音でも震えが来たかもしれない。
 平然としていられるのは、きっと、シギュンと同じく『生まれついて裏世界に身を染めている者』だけだろう。

 ちとせの肩にポンッと手が置かれた。
 ビクリとして、顔を向けるちとせ。
「ちとせ」
「悠樹!」
 目を覚ました悠樹がフラフラしながらも、ちとせを気遣うように前に出る。
「髪の毛、解けて乱れたね」
「もう何言ってんのよ。やっぱりフェチなんじゃないの?」
「ははっ、そうかもね」
 軽く笑う悠樹につられて、ちとせも唇を笑みの形に変えた。
 悠樹がいるというだけで、先ほどまでの悲壮感が一掃されていた。
 悠樹は強い。
 そして、怖い。
 人間の大事な一部分が欠落しているように、非日常の中でも日常のペースを崩さない。
 ちとせも楽観主義で日常のペースを崩さないようにしているが、悠樹のそれは楽観主義ではなく、心底(しんてい)では熱血している心をも覆い隠す怜悧冷徹な理性の(わざ)だ。
 それをわかっているつもりだったが、窮地に立たされた今こそ再認識させられた。
 怖く、だが、心強い。
 悠樹とちとせのやり取りを見て、シギュン・グラムの両目に宿った獰猛な歓喜が色を濃くした。
「少年よ。再び立ったか。ならば、二人で我が血肉、熱く滾らせろ」
 シギュン・グラムが全身から身を切り裂くような冷気を迸らせる。
「そう、魔狼の氷が溶けてしまうくらいに」
 そして、ちとせと悠樹に向かって、腕を振るう。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォッ!」
 シギュンの背後のフェンリルが、地獄の底から響いてくるような重低音の咆哮を上げ、猛烈な吹雪と化して、二人を包みこむように襲いかかった。
「風よ!」
 悠樹が突風を発して、"氷の魔狼"の強大な圧力を堰き止める。
「ちとせ、ぼくの勾玉を!」
 そして、葵から受け取った回復の勾玉を取り出して、ちとせに放り投げる。
「サンキュ、悠樹!」
 ちとせは勾玉を手にすると、一気に中に込められた治癒の力を解き放つ。
 淡い暖かな光が、ちとせの全身を包み込み、ボロボロの身体を癒していく。
 見る見るうちに傷は塞がった。
 失われた血のせいで体力は万全には戻らないが、十分に動けるほどには回復した。
 対して、シギュンは攻勢にあるものの、先ほどの不意打ちで、かなりのダメージを負っている。
 勝機は増している。
 無論、油断はならない。
 シギュンの方が格上だと思い知らされたばかりだ。
 虚ろだった双眸に宿っている高揚の揺らめきは、先程よりも格段に獰猛性を増しているようにも思える。
「どうした、少年。小娘の回復に手間をかけている余裕があるとでも思ったか?」
 シギュンが義手から、もう一度収束した冷気を解き放つ。
 すでに巻き起こっている吹雪と混じり合い、強大な圧力を伴った猛吹雪となり、悠樹へと襲いかかる。
「ぐっ、あああああっ!」
 展開している風の障壁が雪崩を受けたかのように破壊され、悠樹が後方へと吹き飛ばされる。
 その影から、ちとせが飛び出した。
 悠樹が踏ん張ってくれた間に、霊気は十分過ぎるほどに練られていた。
 両手に反撃の霊光を宿し、陸上部で鍛え上げた瞬発力で、床を蹴る。
「だりゃあああああ!」
 半実体化しているフェンリルを飛び越え、シギュンの頭上から特大の霊気球を振り下ろす。
 霊気の固まりの直撃を受け、シギュンの姿は四散した。
「……また幻影!?」
「そういうことだ」
 着地したちとせの間後ろに、シギュンが姿を現す。
 そして、獲物の背中を引き裂こうとフェンリルが爪を振るった。
 しかし、ちとせは動じることなく、振り向き様に霊気球を放った。
 その直撃を受けたフェンリルが苦痛の咆哮を上げる。
「見えてたよ!」
「風か!」
 その身に降ろした時から精神の一部でもある魔獣の負傷に、シギュンがよろめいた。
「そゆこと。悠樹の風なら、宙に舞う氷の塵も吹き飛ばせるってね!」
 悠樹の風の障壁は粉砕されたが、その四散した風は、シギュンが大気に舞わせた氷の塵を吹き飛ばしていたのだ。
 ちとせはそのまま、シギュンに向かって駆け寄ろうとした。
「予想していたよ、降魔師の少女」
 だが、今度はシギュンがまったく動じる素振りを見せずに応えた。
「少年の風が私のダイヤモンドダストを消すことくらいな」
「なっ!」
 ちとせが驚愕の声を上げる。
 シギュンの足もとから霜の白い帯が伸び、気づかぬ間に女神の巫女装束の半ばまでを絡め取っている。
「しまった!」
 身動きの取れないちとせの腹部に、シギュン・グラムの強烈な蹴りが深々と突き刺さる。
「ぐふっ!」
 脚に絡みついた氷の帯のせいで慣性の法則のまま吹き飛ぶことができず、逃がし切れなかった衝撃がちとせの体内を破壊する。
 許容外の苦痛に意識が明滅して倒れかけるちとせへ、シギュンはさらに左右から蹴りを加え続ける。
「ぐっ、がっ!」
 倒れることも意識を失うこともを許されずに、ちとせはただひたすらサンドバック状態で痛めつけられていく。
 衝撃を受けるたびに肋骨や胸骨が悲鳴を上げ、ちとせの口から血の欠片が吐き出される。
「ちとせ!」
 悠樹が拳に烈風を纏わせ、ちとせを助けようと疾走してくる。
 ちらりと横目で悠樹を見やり、シギュンは、ちとせを蹴りつけるのを止めた。
 そして、義手をちとせに向け、白銀の冷気を収束する。
「はああああああああああっ!」
 絶対零度の冷気が周囲の大気を凍てつかせ、シギュンの義手に"氷の魔狼"の幻影が浮かび上がる。
「やばっ!」
 ちとせは身を守るように両腕を交差させて、防御姿勢を取る。
 この至近距離から極寒の冷気を浴びせられれば、ただでは済まない。
 北欧最強の魔獣の姿がより一層巨大化し、獲物を丸呑みにせんと大きな顎を上下に開ける。
 シギュンは唇の端を吊り上げた。
「……来る!?」
 ちとせが全身の霊気を廻らせ、襲いかかってくる圧力に対抗しようとする。
「神を喰い殺す"氷の魔狼"の(あぎと)、存分に味わえ」
 北欧神話の主神オーディンを喰い殺した"氷の魔狼"の咆哮が轟き渡り、シギュンの義手から莫大な冷気が解き放たれた。
 すべてを凍らせる絶対零度の冷気と、すべてを奈落に突き落とすような殺気がちとせを包み込む。
「きゃあああああああああああっ!」
 冷気と殺気に、太陽神の巫女神たる天宇受賣命の霊力を撃ち抜かれ、全身を白銀の力で破壊されながら、ちとせは錐揉み状態で吹き飛ばされた。
 シギュンの放った一撃の威力は凄まじい。
 ちとせは吹き飛ばされながら、死の吹雪によって全身を凍てつかされていく。
 女神の巫女装束に霜が走り、冷気によって刻まれた傷口から溢れる血も凍りつき、肉体も、そして、魂さえも氷結されていく。
「ちとせぇ!」
 ちとせを受け止めようとした悠樹を巻き込み、さらに二人は吹き飛んで、壁に叩き付けられた。
 全身がバラバラになるような衝撃を受け、二人は地面に崩れ落ちた。
「くあっ、ちとせ、大丈夫?」
 悠樹が、全身に霜を走らせているちとせを気遣う。
「ありがと、悠樹。風助かったよ」
 ちとせが白い息を吐きながら、苦悶の表情で呟くように応える。
「咄嗟だったから、ごめん」
 悠樹は優しく、凍てつきかけているちとせに肩を貸した。
「咄嗟か。……さすがだな、少年」
 悠樹の言葉に、ちとせではなくシギュンが反応を返す。
「レインバックを出し抜き、世界蛇を倒しただけのことはある」
 シギュンはゆっくりと息を吐いて、一気に冷気を解き放って乱れた呼吸を整える。
「インパクトの寸前に風の層を重ねて冷気と圧力を遮断して、尚且つ風で少女を後ろに吹き飛ばして直撃を避けた」
 悠樹は咄嗟に風を操り、ちとせとシギュンの間に防御壁を敷く一方で、ちとせを風の力で攻撃して、後ろに飛ばしたのだ。
 この相棒による風の援護がなければ、ちとせは空中で氷像と化し、床に叩きつけられると同時に全身が砕けて、死んでいたかもしれない。
「見事と言いたいが、その後、私を攻撃せずに、少女のクッションとなったのは失策だったな。おまえたちにはもう反撃の機会はない」
 シギュンが肩にかかった冷やかな輝きを放つ月色の髪を払いのける。
「久しぶりに充実した時間だった。名残惜しくもあるが、……終わりだ」
 そして、再び、義手を二人に向けた。
 さすがに、美し過ぎるほどに美しい完璧な美貌にも疲労の色が濃いが、シギュンの身体は、戦闘の、いや、殺戮の喜びで支配されている。
 次の一撃で、目の前の少女と少年はこの世から消えるだろう。
「くっ……」
 ちとせと悠樹の顔が引き攣る。
 二人とも、すぐに動けるような状態ではない。
 今と同じ攻撃を食らえば、一溜りもない。
 今度は、先程と違う。
 シギュン・グラムを誘うための罠などない。
 純粋に追い詰められているのだ。
「さらばだ」
 シギュン・グラムの背後で魔狼が吠えた。

「なっ、がっ……!?」
 シギュン・グラムの腹から、異物が生えていた。
 木の枝。
 木の枝が、シギュンの腹から生えていた。
「なっ!?」
 その光景に絶句するちとせ。
「『ユグドラシル』の触手だ」
 悠樹も驚きに目を見張る。
 それは、悠樹の言葉通り、『ユグドラシル』だった。
 鋭利に尖った『ユグドラシル』の触手が、シギュン・グラムの背中から腹を貫通して、顔を出していた。
「ユグ、ドラシル、だと?」
 ごふりっ。
 血の固まりを吐く、シギュン・グラム。
 地面から這い出た『ユグドラシル』の触手の、さらに後方から哄笑が響き渡った。
「ふっ、はっはっはっは、良い様だな。シギュン・グラム」
 血を吐きながらも、憎悪の視線でシギュンはその男を捉えた。
「ヘルセフィアス!」
「おまえが復讐に専念してくれたおかげで、思いもかけず事が楽に済みましたよ」
 ヘルセフィアス・ニーブルヘイム。
 シギュン・グラムに次ぐ幹部の地位にある男だ。
 その男が野望に魅入られた目で笑っていた。
「どういうこと?」
「仲間割れみたいだけど」
 ちとせと悠樹は状況が飲み込めずに顔を見合わせた。
「仲間割れではありませんよ。新しき王が古き王の家臣を誅しているだけのことです」
 蛇を連想させる笑いを顔に張りつけて、ヘルセフィアスが応えた。
 ちとせは背中に寒いものが走るのを感じていた。
 シギュン・グラムに対して感じた戦慄とはまた違った、どす黒いものへの悪寒。
「貴様、『ユグドラシル』を……。やはり、ランディさまに叛心を……」
 腹を貫かれながらも、搾り出すように言葉を続けるシギュン。
「ランディ・ウェルザーズ?」
 ヘルセフィアスは肩をすくめた。
「もはや、あの男には何もできはしない。そう、あの男はすでに始末したのだ」
「な……に……? 始末……だと……?」
「私には美しき協力者がいるのでね。見たまえ!」
 ヘルセフィアスが軽く手を振るうと、部屋の壁に『ユグドラシル』の根が這いずり回った。
 そして、淡い光を発し、壁に映像を映し出す。
 シギュン・グラムは映し出された光景に目を見張った。
「……ランディさま」
 そこに映し出されたのは、シギュンも良く知る『ヴァルハラ』の総帥室だった。
 ランディ・ウェルザーズが、ゆったりとソファに越し掛けている。
 だが、その全身は『ユグドラシル』の触手に貫かれ、ソファに串刺しにされていた。
 頭も首も胸も腹も、急所という急所全てが、『ユグドラシル』によって刺し貫かれている。
 顔に生気はなく、息をしている気配もない。
 屍にしか見えない『ヴィーグリーズ』の総帥を見て、ちとせは理解した。
「あのヘルセフィアスって男が世界樹を乗っ取ったみたいだね」
 この騒乱の中で叛旗を翻したヘルセフィアスは、ランディ・ウェルザーズを殺害したのだろう。
 そして、邪魔者となるシギュン・グラムを、自分たちとの戦闘で疲弊したところを後ろから貫いた。
 狡猾な男だ。
「どうやら、もっと面倒なことになってきたかな」
「シギュン・グラムは世界樹などいらないと言ってたけど、あのヘルセフィアスという男は、世界樹でこの世をどうにかするつもりに間違いなさそうな感じだしね」
 悠樹が物憂げに言い、ちとせは同意したように頷いた。
 シギュン・グラムはランディ・ウェルザーズの姿を確認した後、ヘルセフィアスを睨みつけた。
「ヘルセフィアス!」
「シギュン・グラム。ご主人さまの最期の姿、堪能してもらえたかな?」
 ヘルセフィアスは串刺しにされているランディ・ウェルザーズと、『ユグドラシル』に腹を貫かれているシギュン・グラムを見比べて肩をすくめた。
「貴様、どうやって、『ユグドラシル』を、……ごほっ、ごほっ!」
 吐血しつつも、虚ろで色のない瞳のまま、シギュンがヘルセフィアスを問い詰める。
 だが、すでに声には張りがなくなって来ている。
「わたくしが手伝って差し上げたのです」
 艶かしい声は、壁の映像から聞こえてきた。
 ランディ・ウェルザーズの傍らに人影が現れていた。
 ミリア・レインバック。
「レインバック!」
「筆頭幹部殿。油断なさいましたね」
 ミリアは見下すような視線を向けた。
「そうか、ヘルセフィアスに『ユグドラシル』の力を……」
「きっと、あなたの想像通りですわ。『ヴィーグリーズ』筆頭幹部殿」
 ミリア・レインバックの声はいつもよりも甲高い響きで、シギュン・グラムの全身に響いた。
「罠に、……嵌ったか」
「その通りですよ。シギュン・グラム」
 ヘルセフィアスは、歓喜の表情を浮かべたまま応じる。
 シギュン・グラムは、ヘルセフィアス・ニーブルヘイムを嘲笑った。
「バカめ」
 ――何を勘違いしているのか、この男は。
 そう心の中で吐き捨てながら、シギュン・グラムは、野望を成就させようとする男の傍らでほくそ笑むミリア・レインバックに目をやった。
 ミリアは悪びれた様子もなく、艶やかに笑い返した。
 シギュン・グラムは、ミリア・レインバックの笑みを見て、血の滴る唇の端を歪め、ヘルセフィアスに視線を戻した。
 ――『ヴィーグリーズ』の存在意義を解さぬ愚かな男め。
 "氷の魔狼"は、「バカめ」ともう一度、小さく呟くと力尽きたのか、もう一度血を吐き、ガクリと項垂れた。
 しかし、背中から腹を『ユグドラシル』の枝が貫いているため、気を失っても倒れることさえ許されない。
 モズの早贄のような姿で失神したシギュンを見ながら、ヘルセフィアスは哄笑した。
「フ、フフハハッ、ついに、ついに手に入れたぞ。究極の力を。至高の地位を」
 ランディ・ウェルザーズを抹殺し、シギュン・グラムを瀕死に追い込んだ。
「世界樹の根は地龍を取り込み、世界全ての力を我に注ぎ込む」
 『ユグドラシル』を手にした自分の前では、目の前に残る少女と少年など塵ほどの価値もない。
「クククッ、私こそが、……『世界』だ!」


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