魂を貪るもの
其の八 蠢く闇
4.理由
野望に満ちた男の哄笑が、『ヴァルハラ』に木霊する。
男の笑い声に反応したかのように、世界樹が脈動し、震え、触手が這いずりまわる。
世界樹は男の手足となり、根から『力』を吸い上げ、男に送り込む。
どんどんとヘルセフィアスに流れ込む力が際限の無いがごとく増大していく。
世界樹と同じ、毒々しい赤色の魔力を発しながら……。
「ちいっ、何だってんだ!」
鈴音が怒声を発しながら、青白い光を放つ霊気の剣を振るう。
彼女はロックとともに『ヴァルハラ』の地下深くへ向かっていたが、世界樹を養っていたためか、思ったよりも地下回廊は長く、彼女はなかなか霧刃のいるであろう最下層へ辿り付けないでいた。
そこへ、突然の異変。
『ヴァルハラ』の上方から、巨大で邪悪な気が膨脹したかと思った途端、それまで大人しく建物の壁に貼りついていた世界樹の無数の根が、襲いかかってきたのだ。
猫ヶ崎山で、ヘルセフィアスの襲撃を受けた時のように、世界樹の触手が無尽に伸びてくる。
「ロック、大丈夫か?」
「ええ、何とか凌いでますが……」
ロックは必死になって、鈴音が斬り損ねた根をかわしながら、時折、伸びてくる触手を援護射撃で牽制する。
銃弾などでは世界樹の触手を完全に破壊することはできないが、着弾の衝撃で一瞬くらいなら動きを止めることができる。
その隙に鈴音が木っ端微塵に切り刻んでいた。
「ちとせサンたちの身に何か?」
「……かもな」
鈴音は微かに表情を曇らせたが、すぐにキッと襲い掛かってくる触手を睨みつけた。
「だからと言って、ここで立ち止まるわけにもいかねえ。ちとせは、あたしの我侭をきいてくれた」
霊剣を一閃して、触手を薙ぎ払う。
薄暗い地下回廊はまだまだ先が見えない。
「ちとせたちを信じて振り返りはしないさ」
霧刃と対峙するまでは、止まるわけにはいかない。
『ヴァルハラ』の地下最深部にいる霧刃もまた、『ユグドラシル』の根に襲われていた。
世界樹の根元にもっとも近いとも言えるこの場所では、鈴音たちが遭遇している触手の攻撃よりも、さらに激しい執拗な触手の攻撃が行われていた。
だが、霧刃はまったくの無傷だった。
霧刃に襲いかかる触手は、襲いかかったと思うとバラバラになっている。
剣閃どころか身体のこなしすらほとんど見えない。
残像すら残らないほどの凄まじい速さの動きだ。
「ヘルセフィアス、離反したか」
異変の原因は見当がついていた。
影使いヘルセフィアス・ニーブルヘイムがランディ・ウェルザーズに叛旗を翻したに違いない。
「だが、それもすべては、"獄炎の魔王"のたなごころの中」
霧刃の背後に無数の触手が迫る。
「
霧刃が小さく呟く。
次の瞬間には、霧刃を背後から貫こうとした触手はすべて無に帰っていた。
猫ヶ崎は大混乱に陥っていた。
世界樹の触手が、猫ヶ崎を取り囲み、うねるように街中を這いずりまわっている。
そして、世界樹の瘴気に呼応した悪魔たちが跋扈している。
街は歪み、狂い、悶えていた。
道路が割れ、鉄橋が拉げ、洩れたガスの爆発でビルが崩れ落ちる。
多くのケガ人が出ている。
日常世界から、地獄へと変貌したのだ。
当然、絶望をもって、この災厄を受け入れる者たちもいた。
自分の身だけを守ることに必死になった。
だが、多くの人々はそうではなかった。
力あるものは武器を取り、力なきものは傷ついたものに手を貸してケガ人を運び出している。
この街だけがそうなのか。
それとも、人間の多くはそうなのか。
大切なものを護るために人は無限の力が引き出せると言う。
勇気は人に無限の力を与えてくれるとも言う。
嘘か、真実かは分からない。
だが、信じたい。
そう思う。
そう思わせてくれる。
迅雷は、神代神社の鳥居の前で、荒く息をつきながらそんなことを考えていた。
彼は、今の今まで、猫ヶ崎高校を始めとする街の主要避難場所を回って多くの人たちを救っていた。
数分前、神代神社から上がった凄まじい霊気を見て、何事かと全力で駆けて来たのだ。
迅雷は鳥居の内側まで、強力な結界が張られていることに気づいた。
時折襲来する『ユグドラシル』の触手も、迅雷が手を下すまでもなく、結界に触れて朽ち果てて行く。
世界樹の力に触発されて姿を現した下級妖魔どもなどは、それこそ、一瞬で消滅した。
表社会だけではなく、裏社会を知る迅雷ですら、これほど強力な結界は見たことも聞いたこともなかった。
「たかまのはらにかむづまりますすめらがむつかむろぎかむろみのみこともちて……」
葵の朗々とした声が境内から、鳥居の外にいる迅雷のところにまで響き渡っていた。
結界を張っている術者は葵なのだ。
「やおよろずのかみたちをかみつどひにつどひたまひかむはかりにはかりたまひて……」
神々しい霊気が、神社全体を包み込んでいる。
「姉貴さん、すげえ結界術だが、これほどの霊気の放出量じゃあ長くは持たないんじゃねえのか」
迅雷が境内の奥を気にしたように呟く。
「ちとせの言った通りだったな。『ヴァルハラ』に向かうも危険。街に残るのも危険ってか」
突然起こった世界樹の異変に、葵は即座に対応して、この強力な結界を作り上げたのだ。
神社を護るために。
多くの神社は、建立された地を鎮護しているものだ。
この神代神社とて例外ではない。
崩壊すれば、街の異変に拍車がかかるかもしれない。
また、祭神である天宇受賣命を降臨させているちとせにも悪影響が出るかもしれない。
葵は、巫女として、そして、ちとせの姉として決して退けない状況にあるのだ。
「しかし、『ユグドラシル』め。街ごと飲み込む気かよ」
迅雷が拳を握り締める。
高台にあるため、この神社から街の様子を伺うことができた。
巨大な触手が何本も街を無尽蔵に穿っているのが見える。
「くそっ、一人でできることは限られてるってことを実感するぜ」
猫ヶ崎高校に残してきた恋人の顔が脳裏を過ぎる。
剣道部で迅雷自身が鍛えた少女だ。
冷静な性格は少しぐらいの異変では動じない。
余計な心配は無用だろう。
それに、レイチェリアを一緒に置いてきたから、よほどのことがない限り安全なはずだ。
レイチェリアは魔族の中でも高位に属するサッキュバス。
下級妖魔なら何十匹も自由自在に召喚できるし、その気になれば、相手を即死させる死の呪文だって唱えることができる。
普段の彼女からは信じられないが、それこそ相当高位の魔族か魔獣でも襲って来ないかぎりは切り抜けられる実力はあるのだ。
そう考えると、あの猫ヶ崎山でミリア・レインバックとかいうセイレーンが葵を人質を取っていたとはいえ、鈴音をあそこまで痛めつけていたというのも頷けることだった。
ミリアは、レイチェリアよりも、さらに高位にある魔族なのだから。
それに、目の前で強力無比な結界を張っている葵の意識を奪って人質に取る力量は確かにあったわけだから、ミリアの実力はかなりのものだったのだろう。
しかも、正面から挑んで来ない分、始末が悪い。
『ヴィーグリーズ』の本拠地『ヴァルハラ』に、そのミリア級の敵が何人もいるとなれば、ちとせたちの苦戦は必至。
少なくともミリア自身と、猫耳山で遭遇したあのヘルセフィアスという男、それに、迅雷は見たことがなかったが、その二人を上回る実力を持つシギュン・グラムという幹部がいる。
そして、『ヴィーグリーズ』総帥ランディ・ウェルザーズや鈴音が『必死で追う相手』もいるのだ。
「ちとせたちのためにも、ここは守り切る。帰る場所が残ってないんじゃ、あいつらの死闘も報われねえからな」
迅雷の表情が引き締まった。
近づいてくる巨大な妖気に気づいたのだ。
「……客か。こいつは今までのヤツらとはレベルが違う。結界に攻撃されたら、姉貴さんの消耗もハンパじゃないな」
迅雷が妖気を辿り視線を移す。
その妖気を発する存在を見て、迅雷は驚愕の表情を浮かべた。
何故なら、それはここにいるとは思ってもみなかった人物だったからだ。
後ろに撫でつけた金髪に、漆黒のスーツに身を固めた男。
ローカルテレビ局のニュース番組で何度か見たことのある顔だった。
『ヴァルハラ』の主にして、北欧系大企業『ヴィーグリーズ』の総帥。
「ランディ・ウェルザーズだと!?」
ゆっくりと歩いてくるのは、迅雷自身は知る術もなかったが、『ヴァルハラ』で世界樹に貫かれて死んだはずのランディ・ウェルザーズその人だった。
「『ヴィーグリーズ』の総帥が何で、この神社に……」
迅雷の呟きを聞きとめて、"それ"は笑った。
人形のような笑いだった。
「違うな。我はランディ・ウェルザーズであって、ランディ・ウェルザーズでは無き存在」
虚ろな声だった。
"それ"は両腕を交差させた。
「我は数多なる影の一つ。世界浄化のためのプログラム。魔王スルトの炎の一柱」
彼はゆっくりと近づいてきた。
「さあ、そこを退け。世界は滅ぶ。まもなくな。それが"運命"だ」
「滅ぶ運命だと?」
「『ヴァルハラ』の魔王スルトが望まなくても、『影』たる私の炎が滅ぼすのだ」
『影』を名乗る男は自らの周りに炎を灯した。
「たいそうな大言だが、この先には神社しかないぜ。暴れるなら他でやってくれ」
迅雷が油断なく構えながら、『影』に言う。
『影』は、にんまりと笑った。
「私の本能が言う。この神社こそが、街の要だとな」
「神代神社が街の要?」
「この神社を壊せば、この街に眠る霊力は解放され、その力を吸収して世界樹は世界を覆うのだ」
「考えられないことじゃねえな。ちとせも
思い出したように言い、迅雷が全身の霊気を高める。
『影』の周りの灯火が大きさを増し、業火の塊となる。
迅雷は構えた。
「なら、なおさら、ここから先には行かせることはできねえってことだ!」
「クククッ、予想通りの反応だ。では、私の灼熱の血を抑えてみせるが良い」
『影』が両腕に炎を這わせた。
「言われなくても、やってやるぜ!」
最大限まで高めた霊気を右腕に滾らせ、迅雷が『影』に突進した。
「オラァッ!」
気合いの声とともに男を拳で殴りつける。
容赦などしなかった。
目の前の『影』を名乗る男は危険だ。
迅雷の戦闘本能が、そう感じていたから。
だが、男は迅雷の拳を軽々と右手で受け止めた。
「なにッ!?」
「所詮はこの程度か」
『影』は纏っている炎とは逆に冷たい表情で迅雷を睨んだ。
その手から、紅蓮の炎が迸る。
途端、迅雷の右腕が燃え出した。
「うおあああぁぁッ!」
絶叫を上げて、慌てて飛び退る迅雷。
燻った煙を上げる右腕を左手で抑える。
「……バケモノめ」
「光栄だ。私にバケモノと言ったのは、おまえで二人目だ。一人目は『前の世界』で唯一私の炎を受け止めた男だったが、当然、もう生きてはいない」
『影』は猛る炎を全身に侍らせる。
「そして、私に挑んだ他の者たちは、その台詞を吐く前に灰になってしまったからな」
対峙しているだけで疲労してくる圧迫感を感じながら、額に汗を浮かべる迅雷。
今の一瞬で、迅雷は理解していた。
――こいつは真の怪物だ。
『影』は笑いながら、周りを漂っている血の色をした炎気を迅雷に向かって撃ち出した。
「だが、ここから先へは意地でも行かせるわけにはいかねえ!」
迅雷が腹の底に力を込め、全身から最大限にまで高まった闘気を立ち昇らせる。
そして、爆炎が周囲を覆い隠した────。
「ふふふ、ははははははははははははははははっ!」
ヘルセフィアス・ニーブルヘイムの狂ったような笑い声が、『ヴァルハラ』に響き渡り続けていた。
「力が……力が……無限に沸いてくるぞ!」
身体へと流れ込む膨大な量の霊気に心地よく酔っていた。
やがて、気づいたように、ちとせたちに視線を向ける。
「さっそく、あなたたちを始末することで、私の力を試すこととしましょうか」
ちとせと悠樹が激しい視線で、ヘルセフィアスを睨みつける。
ヘルセフィアスが、端正な形の唇を残酷な笑みに歪める。
「ですが、その前に……」
背中から串刺しにされて気を失っているシギュン・グラムに視線を移す。
「シギュン・グラム。ランディ・ウェルザーズのもとへ送って差し上げよう」
ヘルセフィアスが右腕を上げると、シギュンを貫いている世界樹がうねった。
そして、シギュン・グラムを壁に叩きつける。
衝撃に、シギュンの腹の傷口から大量の血が吹き出す。
「がはっ……!」
そのまま、意識を取り戻すことなく吐血し、壁から崩れ落ちるシギュン。
倒れた彼女を世界樹の触手が、ヘルセフィアスの思念に従って取り囲む。
その先端が邪悪な真紅の光を宿し、霊気が収束する。
「さあ、これで最期です」
無数の触手から、レーザー状の真紅の光が、シギュンに降り注いだ。
爆音。
そして、爆風。
舞い上がった埃がヘルセフィアスの視界を覆い隠した。
「おや、どうしました?」
ヘルセフィアスの瞳の中で疑問符が揺らめいた。
心の底から理解できないという響きを声に含みながら、ゆっくりと息を吐いた。
「シギュン・グラムを庇いだてするのですか?」
ヘルセフィアスの視線は、空気の中に拡散していく煙の向こうに注がれていた。
「くさすらいうしないてばつみというつみはあらじと……」
その先から、朗々とした呪の言葉が流れてくる。
「はらいたまいきよめたまうことをあまつかみくにつかみやおよろずのかみたちともにきこしめせともうす」
そこには、神扇を片手に印を結びながら、一心に祝詞を唱えているちとせと、風の盾を作り出している悠樹の姿があった。
シギュン・グラムは腹の傷から血を大量に流しながら倒れたままだったが、今の触手からの攻撃で新たなダメージを負った気配はない。
「その女は敵に救われても感謝などしませんよ。それどころか、屈辱を刻む気位いの持ち主です」
ヘルセフィアスには、ちとせたちの行動が理解できなかった。
ちとせも悠樹も、シギュンに全身を切り裂かれ、瀕死の重傷を負わされたはずだった。
恨みこそあれ、命を救う理由などない。
それなのに、なぜ、シギュン・グラムにとどめを刺そうとする私の邪魔をするのか。
「そんなことは知ってるよ」
祝詞を唱えるのを止めて、ちとせが応じた。
ヘルセフィアスは、ちとせのスラリと応じる口調に不快感を覚えた。
「ならば、なぜ助けたのです?」
「さあ、ね。別に正々堂々決着をつけたいとか、そんな殊勝な考えで助けたわけじゃないよ」
ちとせが軽く肩をすくめる。
「ただ、おまえみたいなヤツの好き勝手にさせるのは虫が好かないってだけだね」
そして、神扇をヘルセフィアスへ向けた。