魂を貪るもの
其の十 蠢く闇
2.血海

 ちとせは、葵によって治癒術が込められた勾玉を取り出した。
 葵に五つ作って貰った勾玉のうち、ちとせが持っているのは二つ。
 そのうちの一つを、倒れている悠樹に翳した。
 勾玉に込められていた葵のぬくもりを感じさせる霊気が解放され、悠樹の全身を淡い光が包む。
 シギュン・グラムにつけられた裂傷や凍傷が、見る見るうちに癒されていく。
 傷は完全に塞がり、息遣いも安らかになったが、悠樹が目を開ける様子はない。
 大量に血を失い、体力と霊力を激しく消耗しているせいかもしれない。
 だが、少なくとも、これで命に別状はないはずだ。
 悠樹の安眠を妨げることのないように、できるだけ静かに立ち上がった。
 背中と胸の裂傷が焼けるように痛い。
 だが、悠樹はこの数倍の痛みを受けたのだ。
 これ以上精神を弱くしてはいけない。
 シギュン・グラムに気圧され続ければ、完全に勝ち目がなくなる。
 戦う前に、勝負が決してしまう。
「一人で来るか。それも良い。おまえの誇りが、そう望むならな」
 ちとせが悠樹を起こす気がないのを見て取って、"氷の魔狼"が無感情に言った。
「誇りなんかじゃないわ」
 ちとせが神扇を構え、シギュンに真正面から対峙する。
「悠樹はボクがピンチの時、いつも護ってくれた。だから、今度はボクが悠樹を護る」
「依存し合っている甘ちゃんの考えそうなセリフだな」
 シギュンの冷酷な碧眼は微塵も揺らめかない。
「さて、……休憩はもう充分だろう?」
 ちとせに右腕の義手の手のひらを向け、シギュンは冷気を全身から解放した。
 シギュンの足もとから床が氷結し、ひびが入っていく。
「そろそろ狩りの続きを始めさせてもらう」
 地面が砕け、氷の華が咲いた。
 シギュンの周囲から氷の絨毯が真っ直ぐと伸びてくる。
「うわっち!」
 ちとせが慌てて跳び退って身をかわし、氷の波は後ろの壁を直撃した。
 みるみるうちに凍りつく壁を見て、ちとせが生唾を飲み込む。
 その一瞬、ちとせの気が反れた隙をついて、シギュン・グラムが疾走し、間合いを詰めてくる。
 義手の魔爪が、ちとせを捉えようと伸ばされた。
 間一髪、鉄爪を避けたが、すぐに、下から掬い上げるようなニ撃目が来た。
 その攻撃も紙一重で、避ける。
 その際に、爪の切っ先が前髪を掠めたのか、髪の毛が数本氷結する大気に舞った。
 散った髪の毛は舞っているうちに凍りつき、空中で砕ける。
 シギュン・グラムの攻撃は止まらない。
 右から左から。
 上から下から。
 四方八方から魔爪が襲ってくる。
「動きが違い過ぎる!」
「おまえは人を殺したことがないだろう。私は数え切れないほど殺してきた」
 シギュンが虚ろな双眸で、ちとせの動きを追いながら、虚ろな口調で、攻撃の手を休めずに言う。
「私は奪った命で力を手に入れてきた。この"氷の魔狼"フェンリルの力も、な」
 連撃を繰り出しながら揺れる黄金の髪の背後でフェンリルの姿が揺らめき、シギュンの魔爪とは別の半実体の狼の爪がちとせを襲う。
 ちとせは神扇で何とかその攻撃を受けるが、シギュンの手数の増加により完全に防戦一方となり、反撃する余裕はまったくなくなる。
 そして、シギュンの攻撃が徐々に神気でできた巫女装束を掠めるようになり、焦りが心に生じて来る。
 焦燥心は抑えようとすればするほど大きくなっていく。
 もはや主導権は、確実に"氷の魔狼"が握っていた。
 その時、追い討ちをかけるように、ちとせを不幸が襲った。
「きゃあ!」
 凍てついた床に足が滑ったのだ。
 シギュン・グラムが、その隙を逃すわけがない。
「不運だったな」
 義手の魔爪が、ちとせの喉を貫こうと伸ばされる。
「やばっ……!」
 ちとせは咄嗟に、左腕を喉を守るように突き出した。
 その左腕をシギュンの爪が貫き、鮮血が舞う。
「あぐぅっ、ああっ!」
「腕を盾にしたか。だが、その程度では防ぎきれてはいない」
 腕を貫かれた激痛に喘ぐちとせを見て、シギュン・グラムの虚ろな狂眼が微かに冷たい光を帯びる。
 ちとせの左腕が爪の貫いている箇所から、急速に凍り始める。
「きゃあああああ!」
 一瞬にして、爪が突き刺さっている肘から先が霜に覆われ、皮膚も筋肉も凍りついていく。
「やばっ……!」
 ちとせは無事な右腕に霊気を収束し、シギュンに向かって放った。
 この至近距離ならば、避けることはできないはずだ。
 だが、シギュンは、ちとせの放った霊気球を半実体しているフェンリルの顎で噛み砕いた。
「なっ……!」
「至近距離とはいえ、真正面からの攻撃など、そうそう効きはしない」
 左腕全体が完全に凍りつき、シギュンの爪が貫いている傷口から、ひびが走り始める。
 このままでは、全身が凍りつく前に左腕は粉々に砕けるかもしれない。
「大人しく凍って砕けるのだな」
「お断りよ……!」
 完全に凍りついている左腕に意識を集中させる。
「宇受賣さま、今から『勢い強いこと』をやるけど、ボクの左腕護ってくださいね」
 一瞬、降りていた女神の姿が、ちとせの身体からぶれて、左肩に溶けるように消えた。
 それを確かめて、ちとせはもう一度、右手のひらに霊気を収束させて、輝く球体を作り出した。
 シギュン・グラムが色のない眼差しを向けてくる。
「通じないと言ったはずだ」
「ええ、あなたにはね!」
 ちとせは、顔を強張らせて笑った。
 そして、自分に向かって、霊気の塊を解き放った。
「何!?」
 さすがのシギュンも、その虚ろな瞳孔を驚愕に収縮させる。
 ちとせは自分の放った霊気球で後ろに吹っ飛ぶ。
 その勢いで、ちとせの左腕を貫いていたシギュンの爪も抜けた。
「ううっ、げほっ、げほっ……、左腕が砕けなくて良かった。さっすが、宇受賣さま」
 ちとせが唇の端から血を流しながらも、吹き飛んだ勢いで自分の左腕がなくなっていないことに感謝した。
「まさか、自分に攻撃を加えて、その勢いで引き抜くとはな」
「ふふっ、驚いたでしょ?」
 ちとせが右腕で左腕を擦りつつ、霊気を巡らせて氷を溶かしながら、不敵な笑みを浮かべる。
 余裕があるわけではない。
 虚勢を張っていなければ、一気に崩れてしまいそうな予感がしているのだ。
 霊気を巡らせて氷から解放された左腕も、血液の循環は取り戻したものの、感覚は完全に死んでいる。
 ほとんどいうことをきかない。
 完全に不利な状況だった。

「たいした精神力だが……」
「お誉め頂いて光栄ですわ、おほほっ」
 ちとせが口元を神扇で隠しながら、シギュン・グラムへ煽るような軽口を返す。
 動かぬ左腕を懐に入れる。
「それで挑発のつもりか、それとも体力回復の時間稼ぎか?」
「まっさか、こんな極寒で体力回復なんてできないわよ」
「それは、……どうか、な」
 シギュン・グラムの色のない底冷えするような視線は、ちとせから片時も外れない。
「先程、少年を回復したマジックアイテム。アレ一つではないはず」
「……ッ!」
 シギュンの指摘に、ちとせの顔色が変わる。
 ちとせは挑発する素振りを装って、神扇で影を作りながら懐から取り出そうとしていたのだった。
 目論見を見抜かれた動揺で、危うく動かぬ左腕でようやく握った勾玉を取り落としそうになる。
「当たりのようだな」
 シギュン・グラムが疾走してくる。
 舌打ちしながら、ちとせは懐から勾玉を取り出した。
 だが、勾玉から治癒術の力を解放するよりも速く、シギュンの爪が襲いかかって来た。
 使える右手で神扇を構えて迎え撃つ。
 だが、シギュン・グラムは腕一本で防ぎきれるほど甘い攻撃を仕掛けてくる相手ではない。
「しまっ……!」
 攻撃の受け流しに失敗してバランスを崩し、勾玉を床に落としてしまった。
 執着心というより、流れのままに、ちとせの視線は、床に転がった勾玉に釘付けになってしまう。
 歴戦の覇者であるシギュン・グラムがその一瞬の無防備を逃すわけがない。
「終わりだ、小娘」
 シギュンの義手の魔爪が、ちとせの心臓に向かって伸びる。
 そして、それが伸びきった瞬間。
 魔爪を下から押し上げるような衝撃が貫いた。
「何!」
 ちとせが身体を捻って、魔爪を蹴り上げたのだ。
「貴重な回復手段を犠牲にするのは辛いけど、死ぬよりはマシッ!」
 ちとせの脚は、シギュンの義手の魔爪を破壊し、そのまま蹴り抜く。
 シギュン・グラムは後方に回避しようとしたが、ちとせの心臓を貫こうと腕を伸ばしきっていたため、体勢を整えるのが間に合わない。
 それでも卓越した戦闘センスで、ちとせの蹴りを顔面に食らう寸前に仰け反った。
 だが、完全には避けられずに、額を浅く切り裂かれた。
 反撃に出ようとしたが、ちとせはすでに攻撃の範囲外に逃れていた。
 ツーッと、シギュンの額の傷口から血が流れ落ちる。
「誘ったつもりか?」
 シギュンは狂眼をすうっと細め、指で血を拭うと、ペロリと舐めた。
「中々鋭い蹴りだった。おかげで、また義手が疼く……」
 義手をパキパキと鳴らし、折られた魔爪部分を取り外して、床に投げ捨てた。
 魔爪は絶対零度の冷気に触れて粉々に砕け散る。
「あの体勢から、直撃を避けるなんて」
 シギュンが繰り出す怒涛の攻撃をカウンターに取って、彼女の義手から生える魔爪を破壊したまでは良かった。
 だが、本来は、そこから、さらに頭部へ蹴りを直撃させるはずだったのだ。

 ちとせは今の攻撃で逆に追い詰められていた。
 勾玉をも囮に使ったのに、シギュンにたいしたダメージを与えることができなかったのだ。
 そして、シギュンは二度と同じような誘い、いや、誘い自体に乗って来ないだろう。
「良い小細工だったが、もうそろそろ打ち止めというところだろう?」
「くっ……」
 ちとせは呻いた。
 事実、攻め手はない。
 片腕が動かない状況では、防御も文字通り手薄になる。
 だが、諦めれば、待っているのは、確実な死。
 ならば、待つことはできない。
 攻めるしかない。
 攻撃は最大の防御。
 ちとせは、単純明快に、意識を切り替え、この先は攻めに徹することに覚悟を決めた。
「はあっ!」
 シギュンへ向かって神扇から霊気球を放つ。
 霊気球を弾かずに、シギュンは一歩引いて避けた。
 ちとせは霊気球の軌道を追って、シギュンの懐に入ろうとしたが、それも軽々とかわされてしまう。
「必死になっても、もう、その程度の力しか出ないか」
「それはどうでしょうね」
「まだ軽口が叩けるか。だが、限界は近いだろう。ならば、弄る趣味はないが、限界まで体力と気力を削ぎ、確実に殺すことにしよう」
窮鼠(きゅうそ)猫を噛むって知ってる? ボクを殺るなら一撃をオススメするよ!」
 ちとせが神扇を振るう。
 今度は、シギュンは避けようともしない。
 それどころか、微動だにしなかった。
 神扇がシギュンを捉える。
 瞬間、砕け散るシギュン・グラム。
「氷の鏡、……その手は食わないよ!」
 背後に現れた気配に、ちとせは慌てた感じもなく、神扇を構えて振り返った。
 予想通り、氷爪を振り翳したシギュンの姿が目に飛び込んできた。
 ちとせは氷爪を避けると同時に、神扇を振るう。
「えっ……!?」
 ちとせの神扇はいとも簡単に、シギュン・グラムを捉えた。
 いや、摺り抜けた。
 神扇だけではない。
 ちとせの身体が、シギュンに重なる。
「幻影!?」
「二度同じ手を使うと思ったか?」
 シギュンの幻影が嘲笑う。
「舞い散る細氷(ダイヤモンドダスト)。砕け散った氷の幻覚結界」
 そう告げて、幻影は漂う冷気に溶けるように消え失せた。
「これでもう、おまえは決して私を捉えられない」
 言葉と同時に、突如として目の前にシギュンが現れ、ちとせの胸を爪で斬り裂いた。
「きゃあああ!」
 巫女装束の生地が舞い、裂傷から血が滲み出す。
 シギュンの姿は再び霧に消えた。
「うくっ……」
 ドクドクと流れ出す出血もそのままに、ちとせは必死になって周りを見回す。
 何人ものシギュンの幻が姿を現し、消えていく。
 ちとせは闇雲にそのうちの一人に飛びかかったが、それは攻撃を受けると同時に掻き消えた。
 その隣のシギュン・グラムが氷でできた神像のごとき完璧な美貌と反するような虚ろな狂眼を獲物へと向けた。
「残念だが、正解は私だ」
 鋭い打撃がちとせを捉えた。
 フック気味にちとせの頬を殴りつける。
 頬に爪痕が走り、血が吹き出した。
 強力な衝撃に、ちとせの髪を纏めていたリボンが解けて、宙を舞って地面に落ちる。
「ううっ……」
 長い髪を垂らせて、頬から溢れる血を拭うちとせ。
 続いて、脇腹に衝撃。
 シギュンの蹴りが、ちとせの肋骨を襲った。
「がっ!」
 脇腹にめり込むシギュンの足に神扇を叩きつけるが、その姿は霧散した。
 そして、再び、シギュンの攻撃が死角からちとせを襲う。
 その繰り返しだ。
「はぁ……、はぁ……、ダメ。姿も、気配も、まったく掴めない……」
 シギュンは巧みに幻覚を利用し、一撃一撃を決めてくる。
 胸を斬られ、顔を殴られ、背中を斬られ、腹を殴られる。
 どれも致命傷には至らないが、"氷の魔狼"の攻撃を受けるたびに血と体力を奪われ、ちとせは一歩一歩、確実に死に近づけられていく。
 意識が朦朧として真っ直ぐ立っているのも、ままならなくなってくる。
 今度は、右肩をシギュンの氷の爪が捉えた。
 残り少ないであろう体内の残された血が吹き出す。
「きゃあああっ!」
 神扇が弾き飛ばされて、床を滑っていく。
「しまっ……!」
 これで、自由の効いていた右腕と武器を同時に奪われた。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……、うくぁっ……」
 項垂れ、荒い息を吐く。
 唇の端から血が滴り落ちる。
 半分意識が飛んでいるのか、瞳にいつも湛えられている強い光が失われ、(もや)がかかったようになっている。
 ちとせの限界を示すように霊気が弱弱しくなっていく。
 身体に降ろしている天宇受賣命の姿が重なったようになり、女神の表情が苦しそうに歪む。
 そして、女神の姿は次第に薄くなって姿を消した。
 神降ろしの霊力(チカラ)を維持できなくなったのか、天宇受賣命の神気で形成されていた巫女装束が解け、ズタボロに全身を切り裂かれたブレザーとブラウスの制服姿へと戻った。
「降魔師の少女よ。これでチェックメイトだ」
 背後からシギュン・グラムの冷やかな声が聞こえた。
 次の瞬間。
 シギュンの氷爪が、ちとせの背中に根元まで突き刺さった。
「がっ!?」
「!」
 わずかに眉を跳ね上げたシギュン・グラムが、ちとせの背に捻り込ませていた氷爪を引き抜いた。
 冷やかなる凶器をぬらぬらと血色に光らせたまま、シギュンの身体が反転する。
 勢いを乗せた強烈な蹴りが、血の溢れ出しているちとせの背中に叩き込まれる。
 弓なりに身体を仰け反らせたちとせの両目が大きく見開かれる。
 衝撃で数歩前へとよろめく。
 そして、ちとせの動きが止まった。
「がはっ……!」
 大量の吐血が唇を割って出る。
 ガクンと脱力したように両膝が折れる。
 そのまま、前のめりに崩れ落ちた。
 ちとせから流れ出た血が、白銀なる氷の世界を真っ赤に染めた。


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