魂を貪るもの
其の十 蠢く闇
1.誇り

「待っていた。この瞬間を、な」
 ――待っていた。
 その言葉を繰り返し、シギュン・グラムはブランドスーツの懐から煙草を取り出して火を点じた。
「降魔師の少女、おまえを今から殺す。覚悟はできているだろう?」
 言葉とは裏腹に、すぐに襲ってくる気配はない。
 ゆっくりと紫煙を吐く。
 ちとせの目に映るシギュン・グラムは、戦いに酔いしれる戦闘狂ではなく、復讐に狂った復讐鬼でもない。
 凛とした、美し過ぎるほどに美しい女性だった。
 ただ、動作には一分(いちぶ)の隙もない。
 気を抜けば一瞬で殺される。
 そう感じさせる凄みがあった。
 この戦いは避けることができない。
 ちとせが望んではいなくとも、シギュンは決して逃してはくれない。
 そして、この戦いに負けることはできない。
 敗北すれば待っているのは、確実な死。
 シギュンは、ちとせを殺すために戦うのだから。
 だが、ちとせが勝った時にシギュンを殺せるかといえば、答えは明確に「NO」だ。
 戦いたくて戦うのではない。
 殺したくて戦うのでもない。
 生きるために、迫りくる"氷の魔狼"の牙に挑むのだ。
 ちとせは何度か、神社の仕事の手伝いとして除霊や退魔を通して『戦い』を経験して来た。
 そして、『ヴィーグリーズ』との『戦い』も。
 そのうちのいくつかは、命懸けといっても良いものだった。
 だが、『死』というものを実感したことはない。
 あの魔獣ケルベロスと戦った時でさえ、心のどこかで助かると思っていた。
 だが、今、シギュン・グラムを目の前にして、ちとせは初めて『死』がすぐ傍にあるということを感じていた。
 頭の中で、本能の警報が鳴り響いている。
 それは恐怖だった。
 シギュン・グラムは今まで戦った者たちと格が違う。
 生まれついての魔狼なのだと、悪寒が知らせてくるのだ。
「一つだけ聞きたいことがあるわ」
 ちとせが心の警鐘を理性で抑えつけながら、完璧な美しさを刻み込んだ氷像のようなシギュンの顔に視線を向ける。
「死に逝くものが、何を知りたいというのか?」
 ゾクリッ……。
 シギュンの不吉な死の宣告ともいえる言葉に、ちとせの背中を悪寒が駆け抜ける。
 以前向き合った時は、まるで、ちとせを『敵』として認めていなかったのかもしれない。
 だが、今、ちとせを見る彼女の視線は、『敵』を見るものだ。
 その冷たくも虚ろな双眸に、微かな高揚の輝きが認められる。
 高揚の正体は、殺意。
 そして、その殺意は、自分に向けられているのだ。
 シギュン・グラムは、神代ちとせを殺すことを目的として、ここにいるのだ。
 その事実に、気圧されそうになる。
 このままでは、戦う前から負ける。
「……あなたたち、『ヴィーグリーズ』の目的。なぜ、『ユグドラシル』を?」
 脚が竦みそうになるのを気丈に押し留め、ちとせは質問を続けた。
「『ユグドラシル』を使って何をするつもりなの? 世界制覇?」
「笑わせてくれる」
 微塵も笑うような雰囲気を感じさせずに"氷の魔狼"はそう言った。
「そんなものに『ユグドラシル』など必要ない。世界制覇など、『ヴィーグリーズ』の力だけで容易にできる。もっとも、今さら表社会にまで進出する意味はない。すでに多くの国家の政治機関や統治機構にも我らの手は及んでいるのだ」
 権力は目的を果たすためにこそ必要なものであり、権力そのものを目的とするのは愚か極まりない。
 すでに『ヴィーグリーズ』は目的を果たすための権力も機構も手に入れており、世界制覇などというものは余分で必要のない愚行でしかない。
 煙草を口から離し、シギュンが紫煙を吐く。
「『ヴィーグリーズ』は『ユグドラシル』の『力』など欲してはいない。手元に置いておくほうが好都合だった。それだけのことだ」
「なっ……?」
「この猫ヶ崎は『ヴィーグリーズ』の目的を達成するのに適した土壌だった。猫ヶ崎病院に派遣した堕天使ユフィールに命じた『ユグドラシル』を抑える結界の強化実験も、爪研川における堕天使ニスロクによる『ユグドラシル』へ注ぎ込む霊力の調節実験も、計画通りに進んだ」
「それを邪魔したのがボクたちだったワケ?」
 シギュン・グラムは冷徹で冷酷な眼差しを返してくるだけ、ちとせの問いに答えようとはしなかった。
 自らが吐き出した紫煙に包まれながら、淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「"裁きの刻"は近い。この世のくだらぬ仕組みを消す。悪夢を終わらせる。ただ、それだけだ」
「"裁きの刻"……? 悪夢……?」
「理解する必要はない。おまえたちは、ここで死ぬのだから」
 話は終わりとばかりに、シギュンが煙草を投げ捨てた。
 煙草は空中で氷の塊と化し、床に落ちると粉々に砕け散った。
 極寒の冷気が収束し、氷の爪が左手の甲に生えるように形成される。
 そして、それに呼応するかのように、ジャキッという金属音を発して、右腕の義手から鉄爪が伸びた。
 氷の爪と鋼鉄の爪。
「毒を制するのは毒のみ。おまえたちの命も私が蟲毒(こどく)となるための糧となる」
 両腕を胸の前で交差させ、爪の刃を重なり滑らせると、刃が心を斬り裂くような鳴き声を上げた。
 シギュン・グラムにとっては、失われた右腕の復讐であり、踏み躙られた誇りの問題であり、油断の代償たる屈辱を払い落とすための戦いだ。
 だが、彼女にはその前にやるべきことが一つだけあった。
 シギュンの虚ろな色のない瞳が、ちとせの傍らに控える少年を捉える。
 風のように、柔らかく鋭い気を発する少年を。
「……!」
 まともに視線に射抜かれて、悠樹の頬を冷汗が伝った。
 ――息苦しい。
 世界蛇との戦いで消耗が激しいとはいえ、狂気を内包する双眸に睨みつけられただけで力を奪われそうになる。
 シギュン・グラムは"氷の魔狼"だ。
 それを否応なしに実感させられる。
 生唾を飲み込む悠樹に、ちとせが心配そうな視線を向ける。
「悠樹?」
「大丈夫。連携で行くよ」
「そだね。ニ対一。……ちょっと卑怯かな?」
「命懸けに卑怯も何もないと思うよ」
 さらりと言う悠樹。
「さすが、悠樹。その発想怖いね」
「そうかな。シギュン・グラムだって、そのつもりだと思うよ。だから、部下も配置してない」
「なるなる。ボクと一対一でやりたいなら、悠樹の足止めに部下を使うもんね」
「そういうこと。ちとせ、神降しを。それとも、奥の手に取っておくつもりだったりする?」
「まっさか。生身でやったら、きっと秒殺されちゃうわよ」
 ちとせが、力を受け入れるように胸をそらせて両腕を広げる。
 ――どくんっ。
 体内の血液がリズミカルに跳ねた。
 美しき女神が、器たる少女に天空より舞い降りる。
「この短期間で降魔を自在にする術を身につけたか。なるほど、以前のように暴走はしないようだな」
 女神の力が浸透するとともに巫女装束に包まれていくちとせの姿を見て、シギュンの唇の端がわずかに吊り上がる。
「だが、それでこそ、だ。それでこそ、私の右腕の仇だ。そう思うだろう、フェンリルよ」
 シギュンの背後で、巨大な狼の影が唸り声を上げる。
 獰猛に牙を剥き、爪を閃かせる。
 神を食らう狼にして北欧神話最強の巨妖、"氷の魔狼"フェンリル降臨。
 シギュン・グラムの全身から発せられる冷気の圧力が暴虐の氷河となり、周囲の温度が急激に下がっていく。
 壁という壁、床という床が、白銀の霜に覆われていく。
「行くぞ」
 シギュン・グラムがゆっくりと重厚に距離を詰めてくる。
「はぁ!」
 ちとせが先制して、霊気を球状に収束して放った。
 切れるように冷却された大気を切り裂きながら突き進んだ霊気球は、しかし、シギュンの魔爪によって簡単に引き裂かれ、地面に炸裂した。
 煌めく霜が舞い、細氷(ダイヤモンドダスト)となって、ちとせたちの視界を塞ぐ。
 その一瞬をついて、シギュンが滑るように突進して来た。
 斬撃。
 ちとせは、ぎりぎりで義手から生えた魔爪の一撃を避ける。
 間髪いれずに、ニ撃目。
 かろうじて、神扇で受け止める。
 重い衝撃に全身が軋む。
 ギリッと歯を食いしばる。
 シギュン・グラムは狂眼に色を浮かべずに義手の魔爪を押し込んできた。
 神扇にかかる力に、ちとせの腕が悲鳴を上げる。
 どちらかといえば、細身のシギュンのどこにこれほどの力があるのか。
 だが、これは"氷の魔狼"フェンリルをその身に降臨させて得ている力とは違う。
 実戦に実戦を重ね、無数に奪ってきた命で培ったしなやかで獰猛な野獣の筋力だ。
「うくっ……!」
「力が足らないようだな」
「か弱い女子高生だからね!」
 ちとせは軽口を叩くが、それでどうにかなるほど、シギュン・グラムの攻撃は甘くはない。
 以前戦った時には、ちとせがシギュンを押し気味な場面もあったが、今の戦いにそれはまったくない。
 ちとせを"敵"として認めたシギュン・グラムに死角はなかった。
「ちとせ!」
 悠樹がちとせの後ろから烈風を放った。
 ちとせは敏感にそれを察して、意図的にシギュンの攻撃に押し倒される格好で倒れ込んだ。
 つっかえ棒が倒れたように、シギュンの体勢が崩れる。
 不可視の霊気の風がシギュンを襲う。
 だが、彼女は前に倒れ込む勢いを利用し、ちとせの神扇を軸にして、空中へ前回転しながら舞い上がった。
 跳んだシギュンの足の下を、風の刃が突き抜けて行く。
 ちとせも倒れ込むと同時にバク転して体勢を整える。
「悠樹の風を今のタイミングで避けられた!?」
「ちとせ!」
 悠樹の叫びが耳に飛び込んで来た。
 背中に激痛が走る。
 シギュンが空中から爪を振るって、ちとせの背中を斬り裂いたのだ。
「きゃああああああっ!」
 ブレザーに鋭利な切れ目が走り、血飛沫とともに鮮血が滲み出る。
 仰け反って悲鳴を上げるちとせの背中に、シギュンの回し蹴りが入った。
「がっ!」
 ちとせは吹き飛んで、まともに胸から壁に叩きつけられる。
 さらに、振り返ったちとせの目の前にシギュンの爪。
 ザシュッ!
 今度は胸から脇腹へ裂傷が走り、血が飛び散る。
「うぁ、あああああっ!」
「ちとせ!」
 追い詰められるちとせを救うべく、悠樹が風を纏ってシギュンに拳を放った。
 シギュンはその動きを予想していたかのように優雅に避けると、悠樹の脇腹に膝蹴りを浴びせた。
 カウンター気味の強力な蹴りを食らい、よろめく悠樹。
 シギュンが追い打ちに爪を振るうが、悠樹は何とかそれを避け、間合いを取り直すべく、後ろに跳んだ。
 だが、シギュンはそれを許さない。
 獲物に追走する狼のように、執拗に、そして、的確に間合いを詰めてくる。
「戦いの中で不用意に跳ねるか、少年」
「ぼくには風がありますからね」
 着地間際を狙ったシギュンの一撃を、空中で風を操って着地速度を変えて避ける悠樹。
 逆に空を切った攻撃の隙を突き、シギュン・グラムに向かって拳撃を放つ。
 鋭利な風の刃を纏った凶器と化した拳だ。
 正確にシギュンの左胸を狙っている。
 心臓を狙っている。
 "氷の魔狼"であろうと食らえば、ただでは済まない。
 シギュンは身を反らせるが、放った一撃の勢いで一瞬動作が遅れた。
 悠樹の風が、シギュン・グラムを貫く。
 鮮血が飛び散った。

 だが、その血はシギュンの胸から溢れ出たものではなかった。
 悠樹の腕に裂傷が走っていた。
「これは……」
 ばりんっ。
 硝子が砕けるような音が鳴り響き、シギュン・グラムが割れた。
 いや、シギュン・グラムの姿を映し出していた氷が砕けだのだ。
「氷の……!」
 氷の鏡。
 空気中の水分を凍らせて、鏡を作り出したのだ。
「知っているか?」
 悠樹の背後で声がした。
「絶対零度の世界では空気すら凍ることを」
 シギュンが爪をなめる。
 すべてを凍てつかせる冷気が渦巻いている。
 悠樹は空気の流れが変わったことに気づいた。
 ――こ、この風の威力は……!
「しまっ……!」
「邪魔だ」
 振り返った悠樹の目に閃光と冷気の奔流を発する軌跡が飛び込んできた。
 シギュン・グラムの爪――義手の魔爪だ。
 悠樹の胸を鋭く熱い痛みが駆け抜けた。
 氷の世界では嘘のような熱さを伴った痛みだった。
 爪は悠樹の胸部を深く斬り裂いていた。
 そして、冷やかな光が何度も閃く。
 悠樹の全身を魔爪と氷爪が斬り、裂き、貫き、極寒の吹雪が凍てつかせていく。
 悠樹は激痛に声を上げようとしたが、代わりに口から洩れたのは吐血だった。
 次いで、身体中の裂傷から血が吹き出す。
 その血すらもシギュンの冷気で一瞬にして凍りついていく。
「ぐああっ、か、風よ!」
 必死に風を纏って攻撃から身を守ろうとする。
「無駄なことを。全てを凍りつかせる」
 シギュンの言葉通り、悠樹の身体から発する風は、シギュンの冷気に触れると、液状になり、氷となって砕け散っていく。
 身体を守るどころか、氷の刃と化し、発せられた軌跡のまま伸び、悠樹を貫く風の氷すらあった。
 シギュン・グラムの爪による攻撃は激しさを増し、悠樹は全身から力が抜けていくのを感じ始めた。
 目の前が暗くなり、氷の世界が自分を呼んでいるような錯覚に陥る。
 シギュンの一際大きく振りかぶった一撃が、悠樹の意識を断った。
 血に染まった氷の結晶を纏いながら、悠樹は吹き飛ばされる。
「悠樹!」
 ちとせが絶叫をあげて、悠樹に駆け寄る。
 悠樹は地面に倒れたまま、ピクリとも動かない。
 身体中に深い裂傷が走っていたが、それすらも凍りついており、血は流れ出していなかった。
「ゆ、悠樹……」
 ちとせが悠樹の横に膝をつく。
「降魔師の少女よ。少年は、まだ死んではいない。急所は外したからな」
 シギュン・グラムは爪にこびりついた悠樹の鮮血を冷却して、振り落した。
 ちとせが悠樹の脈を取る。
 弱々しいが、脈はあった。
 確かに死んではいない。
「その少年は、おまえが私を殺そうとした時、私の命を救うという愚挙を犯した」
 悠樹は以前の戦いで、ちとせに降臨した憑依体に殺されかけたシギュンの命を庇った。
 命を庇われる。
 シギュン・グラムにとって屈辱だった。
 それはある意味、右腕を奪われたことよりも、大きな屈辱であった。
 だが、風使いの少年に命を救われたという事実は否定しようもない『借り』だった。
「だから、一度だけだ。一度だけ、命を助けてやろうというのだ」
 少年への『借り』は返した。
 次は、容赦なく殺す。
「風使いの少年の傷を癒して、再び共に挑んでくるか。おまえだけが戦うか。見殺しにするか。好きにするが良い」
「シギュン・グラム!」
 すでに、ちとせは、シギュン・グラムの気に呑まれてしまっていた。


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