魂を貪るもの
其の九
7.我侭
「ヨルムンガンドめ。敗れおったか」
魔人は知った。
世界を司る蛇が倒れたことを。
大地の杖が折れた。
魔人は漆黒の炎を纏いながら、唇を歪めた。
崩れていく。
世界の均衡が崩れる。
忌まわしき女神たちの笑い声が、己の胸に植えつけられた本能を呼び覚まそうとしている。
「結界が弱まるか。だが、我が張り巡らせた糸は容易く断ち切れるものではない」
部屋の壁が高温のあまり沸騰し、ぐつぐつと音を立てる。
「むしろ、我が意の通りよ。クククッ、ハハハッ……」
男の全身から黒い影が蠢き、その影も、ともに笑う。
何重にも哄笑が響き渡った。
ちとせたちはヨルムンガンドを倒し、『ヴァルハラ』内部を探索していた。
世界蛇ヨルムンガンドの結界が解けた『ヴァルハラ』は、典型的なオフィスビルの構造をしており、ところどころに近未来的なデザインになっている。
そして、最新のコンピュータ技術の粋を集めたセキュリティが施されていた。
だが、今は世界樹が蔓延り、コンピュータ等はまったく機能していない。
壁は脈動する不気味な根に覆い尽くされ、瘴気が漂っている。
まるで、廃墟のような印象を受ける。
再びの静寂の訪れだ。
世界蛇に遭遇する前と同様に、敵らしき影はない。
罠という可能性を考えたが、そうだとしても世界蛇以降、静寂が続き過ぎていた。
『ヴィーグリーズ』も何らかの意図があって、無用な戦闘を回避しようとしているのか。
気に入らないな。
鈴音が前髪をかきあげた。
「エレベータは止まってるね」
ちとせが目の前のエレベータを見ながら言う。
扉は世界樹に絡まれて強制的に半開きになっており、完全に電源がショートしているのがわかった。
「まぁ、動いていたとしても乗らないけどね」
敵地で楽に移動しようとは思わない。
この小さな箱に身を委ねれば、逃げ場を失う。
狙われれば、一網打尽だ。
軽いため息をついて、ちとせはエレベータに背を向けた。
「ん? 悠樹?」
見れば、足元がおぼつかない様子で、悠樹が額に手を当てている。
先程までの颯爽とした面影は無い。
「具合悪いの?」
立ち眩みでも起きたのか、悠樹の身体が、ぐらりと揺らめいた。
「悠樹!」
「おっと……」
倒れそうになる悠樹を、鈴音が後ろから抱き抱えた。
「ほとんど一人で世界蛇屠っちまったんだ。ぶっ倒れてもおかしくねえって。一人で頑張り過ぎだぜ」
鈴音の指摘に、悠樹は大きく息を吐いた。
「はは、 頑張り過ぎですか」
確かに、少し気張り過ぎた感はあった。
ちとせはシギュン・グラムと、鈴音は織田霧刃と刃を交えねばならない。
望もうと望まざろうと、だ。
だから、少しでも彼女たちの障害を排除しておきたかったのだ。
「ちとせ。葵に貰った勾玉を持ってるだろ」
「にゃ。五つ作って貰ったよ」
懐から、紅い勾玉を取り出す。
奇妙な淡い光に包まれた勾玉だった。
「もったいないですよ。少し立ち眩みがするくらいですから」
「ホントに大丈夫か?」
鈴音の甘い息が耳にかかる。
悠樹は身震いした。
後ろから抱えられているので、鈴音の豊かな胸の膨らみが背中に当たっている。
どうしても、背中に神経が集中してしまう。
「大丈夫です、大丈夫ですよ。ホントに。だから、鈴音さん……その、ちょっと、あの、もう少し身体を離して……」
「まあ、この後、何が起こるかもわからないんだ。人生最後に役得気分って思えば悪くないだろ?」
「人生最後の役得って……」
鈴音の性質の悪い冗談に悠樹は乾いた笑いを浮かべた。
ちとせが大袈裟な身振りで、頬を引き攣らせる悠樹と彼を抱えてる鈴音を指差す。
「ああっ、鈴音さんが悠樹を誘惑してるよ、ロックさん!」
「そこで、何で、ロックに振る!?」
顔を真っ赤に染めて叫ぶ鈴音。
そんな鈴音を気にした様子もなく、ちとせが悠樹に笑いかける。
「だって、ねえ?」
「ぼくの勝ちですね」
悠樹が、ちとせの笑顔に応じて、後ろの鈴音に声をかけた。
「……ったく」
鈴音は悠樹をちとせに向かって放り投げた。
「うわわ!?」
「きゃあっ!?」
「あたしをからかった罰だ」
鈴音は、そっぽを向いた。
そして、歩き出そうとして、表情が厳しくなる。
鈴音の表情に冷汗を流すちとせ。
「鈴音さん、そんなに怒らないでよ」
「違う。次のステージへの順路を見つけたぜ」
鈴音の言葉に、ちとせたちが鈴音の視線の先に目をやる。
階段だ。
『ユグドラシル』の根に寄生されながらも、階段は元の姿を保っていた。
上階と下階への繋ぎとして存在している。
「上にも、下にも行けるけど……」
「どちらからも、『ユグドラシル』以外の霊気を感じるね」
『ヴァルハラ』の上階からも、下階からも、『ユグドラシル』以外の霊気を感じることができる。
と言っても、何者の霊気なのか区別はつかないほどの微かな霊気の残し香のようなものだ。
シギュン・グラムなのか、織田霧刃なのか、それともそれ以外の誰なのかということもわからない。
上と下、どちらへ行くべきなのか。
初歩的な疑問にぶち当たった。
『ユグドラシル』をどうにかするならば、地下の根元を目指せば良いのだろうか。
だが、『ヴァルハラ』の主、『ヴィーグリーズ』の総帥の部屋は最上階にあるはずだった。
『ヴィーグリーズ』の総帥ランディ・ウェルザーズ。
ちとせたちもテレビで何度か、その姿を見たことがある。
今朝方も『ヴァルハラ』変貌を伝えるニュースで、過去のインタビューの映像が放映されていた。
後ろに撫でつけられた金髪、年輪を刻んだ彫りの深い顔、長身で、肩幅が広く、意外に太い首からダークスーツに包まれた身体が、引き締まった肉体であることを想像させた。
今、ちとせたちの中で、彼をただの実業家だと思っているものはいない。
人間かどうかも疑わしい。
シギュン・グラムのように人間でありながら"力"持つ存在か、それとも、ミリア・レインバックのように人間ではない存在か。
『ヴィーグリーズ』の最高峰である彼が、この『ヴァルハラ』の変貌の立役者であることは間違いない。
ランディ・ウェルザーズに接触するならば、彼の部屋がある上階を目指すべきだろう。
彼がそこにいるという保証はないが、当てもなくさ迷うよりは効率が良いだろう。
「上かな」
「でも、地下の根本で制御してるってことも考えられますネ」
「そだね。北欧神話では、運命の女神が泉の水を汲んで、『ユグドラシル』の根にかけているってことになってるしね。う〜ん、どうしよっか」
ちとせが顎に手をかけて、考え込む。
悠樹にも、ロックにも見当が付かない。
「……」
鈴音は一人無言のまま、階段の奥を睨みつけていた。
意見を述べることもなく、ただ、じっと深い闇を見続けている。
「……」
「鈴音サン?」
ロックが不審そうに鈴音に声をかけた。
「……」
「鈴音さん。どうかしたの?」
ちとせも気づいて、鈴音の顔を覗き込んだ。
鈴音は、ちとせの視線をしっかりと受け止めて応えた。
「別れよう」
鈴音の言葉は、ちとせの虚をついた。
別れよう。
それは、階段の上下階に、別れて行動しようと言うことだ。
二手に別れるという案は、考えていなかった。
「えっ? でも、それじゃあ戦力の分散になるし、危ないよ」
「それはわかってるつもりだ」
鈴音は微笑んだ。
「これは、あたしの我侭さ」
「我侭……?」
「ちとせたちは上に行ってくれ。下は、あたし一人で行く」
ちとせは、鈴音の言いたいことを察した。
「鈴音さん、もしかして、それって……」
「感じるんだ。下に"あいつ"がいる」
"あいつ"。
寂しそうにそう呼ぶ。
彼女たちは引かれ合う。
姉妹だから。
だが、それは血という意味ではないし、運命などというものでもない。
純粋に、"姉妹"だからだ。
引かれ合わずにはいられない半身だからだ。
だからこそ、ちとせには、わかっていた。
ここで、鈴音に反対しても無駄だと。
自分たちが信用されていないわけではないことを。
「お願いだ」
懇願する鈴音の瞳は澄んでいた。
ちとせは、悠樹を見た。
悠樹は力強く頷く。
「わかったよ、鈴音さん」
「ありがとう」
「でも、一人じゃ、危険なことには変わりない。だから……」
ロックに視線を向けた。
「
「……ロック」
「鈴音サン。これはオレの我侭ですヨ」
「……わかった」
鈴音は大きく息を吐いた。
ちとせが懐から、勾玉を取り出す。
「んじゃ、これも分けなくちゃね。五個あるけど、どうしよっか」
「一人一つずつ。残り一つは、ちとせが持っていれば良いさ」
「鈴音さん、一個でダイジョブ?」
ちとせが悪戯っぽく微笑む。
「ははっ、バカにすんなって」
鈴音は、お決まりの前髪かき上げポーズで応じた。
「あたしは大丈夫だ。それじゃ、行くぜ!」
鈴音が、ビシッと、ちとせと悠樹に向き直った。
ちとせは、鈴音とロックに向き直った。
「うん、また、あとで」
「ああ、必ずな」
必ず、またあとで。
鈴音とロックの姿が階段の奥に消えるまで見送り、ちとせと悠樹は階段を昇り始めた。
何段の階段を昇ったのか覚えていない。
だが、ちとせは感じていた。
抑え切れぬ殺気の混じった強大な霊気が、白い冷気を伴って空気を伝わってくる。
次の階だ。
次の階に、いる。
"彼女"が。
悠樹を振り返り、頷き合った。
息を整え、一段一段静かに昇る。
扉はなく、階段は直接その部屋に続いていた。
上に向かうには一度部屋に入らねばならない構造だ。
決して、避けて通れぬように。
かなり天井が高く広い空間になっているようだ。
きっと、彼女がこの部屋を選んだのは存分に戦うためだろう。
もしかしたら、世界蛇のように結界で空間を作り出したのかもしれない。
階段の最後の一段を昇り切り、部屋に足を踏み入れる。
すらりとした人影が目に入った。
奇麗に手入れされた革靴。
黒地に白のストライプの入ったスマートなシルエットのブランドスーツ。
胸の前で組んだ両腕。
その袖口から見える右腕は、生身の血が通ったものではなく機械的な義手。
絶対零度の冷たい輝きを放つ月色の長い髪。
神像を思わせる完璧な造形の冷たい顔。
そして、すべてを飲み込む奈落を連想させながらも、何も映さない硝子玉のように虚ろな双眸。
「待っていたよ。降魔師の少女」
復讐という名の獰猛さを秘めた冷徹な声が、その薄く美しい形の唇から紡がれた。
ちとせは唾を飲み込んだ。
「シギュン・グラム……!」
"氷の魔狼"フェンリルが咆哮を上げる。