魂を貪るもの
其の九 運命(ノルン)の嘲笑
7.八神悠樹

 戦いの熱風が、悠樹の髪を舞い上げた。
 世界蛇ヨルムンガンド。
 魔神ロキと女巨人アングルボダの子にして、魔獣フェンリルの弟たる北欧神話最大の巨妖。
 世界の終末に海底より姿を現し、津波を起こして大地を飲み込み、巨体で地上を破壊し、猛毒の瘴気を撒き散らしながら、雷神トールと戦う。
 激しい戦いの末、雷神の巨鎚ミョルニルに頭を叩きつぶされ、世界蛇は息絶えるが、トールもまたヨルムンガンドの毒息により倒れるという。
 その伝説の巨獣が目の前に立ちはだかっている。
 同じ北欧神話の最強の魔獣フェンリルを見た時、強力な力を感じても、それはシギュン・グラムの降魔の力として半実体の存在だった。
 霧刃とともにいるギリシアの魔獣ケルベロスは実体を持ち、強大な力はあったが、これほど巨大ではなかった。
 このヨルムンガンドは、そのどちらの魔獣とも異なる。
 存在自体が凶器であった。
 その巨体。
 その力。
 その毒息。
 その圧倒的な存在感。
 見た目は『蛇』であっても、その『在り方』は、しばしば魔獣の王と伝承される『竜』と比べてすら遜色はないだろう。
 神話が目の前にいる。
 風が、悠樹に告げていた。

 ――ガキィッ!
 不快な音を立てて、鈴音の霊剣がヨルムンガンドの鱗に弾かれる。
 世界蛇の鱗には傷一つ付いておらず、弾かれた鈴音の腕が反対に痺れた。
「ちいっ、なんて固い鱗をしてやがんだ!」
 舌打ちして、華麗な体捌きから、数回斬撃を繰り出すが、ことごとく頑丈な鱗に跳ね返されてしまった。
「くっ、霊剣が……!」
「そのような非力さで、我を傷つけようなどとはな」
 世界蛇は哀れむように鈴音を見下すと、その巨大な尾を勢いよく振った。
 ぶわああっ!
 尾と言ってもその太さは小さな家ほどもある。
 食らえば即死は確実だろう。
 横に避けるには尾に幅がありすぎるし、上に避けるには高さがありすぎる。
 軽く後ろに跳び、霊剣に全霊を込める。
 受け止めることはできないが、全霊を防御に回して、直撃を避けるつもりだ。
 凄まじい衝撃が来る。
「ぐああああっ!」
 そのまま、尾に運ばれて吹き飛ばされ、天を舞い、近くの柱に叩きつけられる鈴音。
「がはっ……!」
 鈴音の全身が柱に食い込み、そこから亀裂が走って柱を砕いた。
 音と煙を上げて崩れ去る柱の瓦礫の中に、鈴音の姿が消える。
「鈴音さん!」
「カアアアアアッ!」
 ちとせが鈴音の安否に一瞬の気を取られた隙に、世界蛇はどす黒い瘴気の息を吐きかけてきた。
「きゃあああああっ!」
 毒の息を浴びせられて、ちとせが悲鳴を上げて跪いた。
「ちとせサン!」
「げほっ、ううっ、ロックさん。ダメよ、霊力がなきゃ……毒が……げほっげほっ!」
 虚をつかれた為、かなりの毒気を吸ってしまった。
 そうでなくても、強力な毒は、外側から徐々に身体を侵食してくる。
 ブレザーのジャケットやブラウスの袖や裾が、腐食してボロボロになっていく。
 霊気がなければ、即死だろう。
 ちとせはロックが自分の元に走ろうとしているのを見て、制しようとするが、毒に侵されて立つことすらままならない。
 意識が薄れる。
 ロックは身を呈して、濃厚に残っている毒霧の中に走り、もがき苦しむ少女を抱えて毒の及んでいない場所まで転がり出た。
「ぐうぅっ……」
 毒に侵される苦痛に耐えながら、ロックがちとせに肩で支える。
 二人とも、全身から毒の煙が上がっており、今にも倒れそうだ。
「風よ!」
 悠樹がすかさず二人を蝕む毒の空気を、風で吹き飛ばした。
 ロックはこれで大丈夫だろうが、ちとせはまともに毒の息を吸い込んでしまったようで、かなり消耗してしまっている。
 毒で臓腑が焼け爛れたりはしていないようだが、足元がおぼつかない。
「ちとせ、立てる?」
「まだ、ちょっとフラフラするね」
「深呼吸して。体内から浄化するから」
 悠樹が指に風を纏わりつかせて、ちとせに向かって円を書くように振った。
 ちとせが風を吸い込んで、大きく呼吸をする。
 口から黒い霧の塊が吐き出される。
 ちとせの体内を蝕んでいた毒気だ。
「ロックさんは?」
「グラッチェ。オレはなんとか大丈夫ですヨ」
「ところで、鈴音さんは? ド派手に吹っ飛んでたけど……」
 ちとせは毒が抜けたことで元気を取り戻したようだ。
「あんまり心配している口調じゃないね」
「まあね」
 ちとせが頷いた途端、鈴音が吹っ飛ばされた辺りから、砂柱が立ちあがった。
「あ〜っ、痛っ! 畜生! ぺっ! ぺっ!」
 埃塗れになりながら、口の中に入った砂利を吐き出して、憤然と立ちあがる鈴音の姿が目に入った。
「化物め。あたしの霊剣が効かないなんて。くそっ、蛇のくせに!」
 世界蛇を睨みつける鈴音を見て、ちとせが悠樹にウィンクをする。
「ほら、無事じゃない」
「あの人は不死身か」
 悠樹は大きく息を吐いて応じた。
 世界蛇はその様子に唸った。
「人の身にしてはやるではないか。我の攻撃を食らって死なぬとは」
 世界蛇が尾を持上げる。
「あくまで『人間にしては』だがな」
 そして、勢いよく地面を叩いた。
「きゃあっ!」
 地震が起こり、ちとせたちの動きを一瞬封じる。
 さらに世界蛇の一撃で砕けた地面が、巨大な岩の飛礫となって、ちとせたちを襲った。
「うわっち!?」
 地震にこけそうになりながらも、岩に潰されては堪らないと慌てて、その場を飛び去る。
 ずがんっと、派手な音を立てて巨石が、今まで、ちとせたちがいた場所にめり込んだ。
 その衝撃で、ちとせたちの足が地面から浮いた。
「うわわっ」
「カアアアアアアッ!」
 毒の息を撒き散らす世界蛇。
「はああああああああああっ!」
 悠樹が両腕を突き出して、風の壁を作り出して、毒を霧散させる。
 その後ろで、ちとせが霊気を両掌に凝縮して、巨大な霊光球を生み出した。
「てりゃあああっ!」
 霊気のプラズマを帯びたちとせの霊光球が毒の息を裂きながら、世界蛇に突き進む。
 猫耳山で迅雷と組手をした時に地面に巨大なクレーターを作ったのと同適度の強大な霊気球だ。
「小賢しい」
 世界蛇は、その巨大な霊気の塊に向かって、尻尾を叩きつけた。
 爆音とともに、霊気球は粉砕された。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……、そんな!」
 世界蛇は無傷である。
 強力な霊気を使った攻撃が通じなかったことと、毒気のダメージの反動で、ちとせはかなりのショックを受けているようだ。
「所詮、矮小な存在に過ぎぬな」
「あたしをなめるなよ、蛇のくせに」
 嘲笑う世界蛇に、鈴音が額に青筋を立てた。
 先ほど吹き飛ばされたことでも、すでにだいぶ頭に来ていたようである。
「人間如きが……」
 世界蛇は再び、尾を地面に叩きつけた。
 地響きとともに、地面に亀裂が入る。
 割れた地面からマグマが噴出し、世界を赤く染める。
 亀裂は、鈴音に直進した。
 灼熱の溶岩が鈴音の足元まで吹き上がる。
「天武夢幻流刀剣が奥義!」
 鈴音が目を見開いて吠えた。
虚空裂刺閃(こくうれっしせん)ッ!」
 滑るように突進しながら、突きを繰り出した。
 銀なる閃光が、溶岩で染まった真紅の世界を斬り裂く。
 凄まじい剣気に、鈴音を呑み込みにかかるマグマが押し戻される。
 鈴音はマグマの道を割って、世界蛇まで突き込んだ。
 そして、繰り出された霊気の刃は、先程とは異なり、弾かれることなく世界蛇の鱗を貫いた。
「グヌヌッ……」
「りゃあっ!」
 鈴音はそのまま、突き刺さった霊剣を力任せに横に振り切った。
 世界蛇の傷口から青色の血が流れ出た。
 巨体のほんのわずかだが、傷を負わせることに成功した。
「どうだ!」
 鈴音は、その様子を見て、にやりと笑った。
 世界蛇の目が、赤い光を放つ。
「愚か……」
 馬鹿にしたような声で、世界蛇が鈴音を見た。
「何?」
 鈴音が斬りつけた傷口から、黒い霧が吹き出した。
 慌てて、飛び退く鈴音。
「ちいっ、これは毒か……!」
「我が体内は毒壷なり。我を傷つけること叶わず」
「厄介な野郎だ」
 鈴音は前髪をかき上げて、霊剣を構え直した。

 鈴音の勇姿を見て、ふと悠樹は昨晩読んでいた小説のことを思い出した。
 『ラ・ピュセルを殺したのは誰か』というタイトルの歴史推理小説だった。
 百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクを処刑に導いたのは誰なのか、何なのか。
 王権なのか、教会なのか、それともイギリスの策謀だったのか。
 そういう内容だった。
 後半部分はまだ読んでいないし、昨夜読んだ箇所には今日への不安であまり内容を覚えていないところもある。
 悠樹は推理そのものには、あまり興味を覚えなかった。
 だが、作者が描くジャンヌ・ダルクの心理描写が好きだった。
 オルレアン解放戦で、無謀な突撃を敢行する自分のことを「主が地上に遣わせた聖女」と称え憧れる兵隊たちに囲まれながら、いつの間にか、神の声ではなく人々の求める声に応えている自分に、そして、人々の笑顔を見るのが好きになっている自分に気づく場面が好きだった。
 それは、しかし、神だけをひたすら信じてきたジャンヌに隙が生まれた瞬間でもあった。
 無敵の聖女が、人間になってしまったのだ。
 それでも、悠樹は、この瞬間からの、人間になってしまってからのジャンヌ・ダルクにこそ魅入った。
 ジャンヌは最終的に、祖国フランスに裏切られ、異端の魔女として、わずか十九歳で処刑される。
 しかし、人の価値とは、死に方によって決まるものではないのだと思う。
 長く生きたから偉いというわけでもない。
 その生の中で何を成したか。
 どれだけ長く生きたかではなく、どう生きたか。
 ジャンヌ・ダルクは実際に救国の英雄であり、短い生で悲劇の最期を迎えたが、彼女の生き様は人々の記憶に鮮明に残り、無限に語り継がれている。
 悠樹は、自分のジャンヌ・ダルクに視線を這わせた。

 ちとせのポニーテールの長い尻尾部分を後ろから指で掬う。
「うわっ……」
 ギョッとして、振り返るちとせ。
「何すんのよ、悠樹。ビックリするじゃない」
「いや、相変わらず、きれいな髪だなって。毒で服とかボロボロになりかけてるのに、戦いの中でも全然痛んでないし」
「いつからフェチになったのよ」
「さあ? そういうのもイイかなって」
「なにが、『そういうのもイイ』なんだか……」
 ちとせが肩を竦める。
 悠樹は楽しそうに目を細めた。
「ちとせ、耳貸して」
「えっ、何なに? 息吹きかけないでよ?」
「作戦だよ、作戦。ロックさんも耳貸してください」
オ・カピート(わかりました)
 ちとせとロックが頷くのを確認して、悠樹が二人の耳元で囁いた。
「風を乗せます」
「はっ?」
 悠樹の言葉の意味をはかりかねて、ちとせが小首を傾げた。
「ちとせとロックさんの攻撃にぼくの風を乗せるってことだよ」
「合体技ってことね」
 ちとせが半分納得して半分疑問が残っているような顔になった。
 悠樹の風を、ちとせの技に乗せて、攻撃の威力を上げたことは何回かあった。
 ただ、それだけなら打ち合わせするほどでもない。
「でも、オレの攻撃に風を乗せるって……拳銃にですか? あまり威力が上がるとは……」
「大丈夫です。鋼鉄の鎧も、繋ぎ目は弱いものですから」
「繋ぎ目?」
「世界蛇の鱗の隙間だよ。ぼくの風なら入り込める」
「なるなる。ボクたちの攻撃で、悠樹の風を運べばイイってことだね」
 ちとせの言葉に、悠樹は深く頷いた。

「カアアアアアッ!」
 一塊になっているちとせたちを一網打尽にしようと考えたのか、世界蛇が毒息を吐きかけてきた。
「手筈通りに!」
 頷いて、三人は思い思いの方向に跳び散る。
 悠樹は呼吸を整え、ちとせとロックの動きに備えた。
「三人で内緒話かよ」
 鈴音が、悠樹の隣に、跳び退いてきた。
「ええ、鈴音さんには内緒です」
「をいをい」
 鈴音が前髪をかき上げる。
「ははっ、でも、鈴音さんには援護不要でしょ」
「いや、あの鱗を突き破るのはけっこう重労働だったぜ。鱗と鱗の溝を霊剣で突けりゃ楽なんだがな。滑らかな鱗をしてやがって、隙間がなかなかありゃしねえ」
 悠樹はギクッとした表情で、鈴音の顔を見た。
「そうだろ、悠樹?」
 にやりと笑う鈴音に、悠樹は頭をかいた。
 百戦錬磨の鈴音には敵わない。
「なら、できるだけ撹乱してください。そっちの方が疲れないと思いますから」
「ああ、任しとけって」
 鈴音は気安く請け負った。

 鈴音は安請合いしただけある実力を発揮しながら、世界蛇に挑発的に攻撃を加え始めた。
 世界蛇はその巨体そのものが凶器と言える代物だが、骨格は蛇のそれである。
 それに、鈴音の天武夢幻流は相手の動きを読むことに長ける。
 ヨルムンガンドの恐るべき巨大さと破壊力に気をつけていれば、その動き自体の予想は、鈴音にとって造作もないことだった。
 鈴音を狙う世界蛇に、ちとせが霊光弾を放ち、ロックの拳銃が火を吹く。
「無駄なことを。汝らに我を傷つけること叶わず。まして、人間の生み出した脆きからくりにできようはずもない」
「さて、それはどうかな☆」
 ちとせが世界蛇に向かって髪を振る。
 霊気球と銃弾が炸裂したが、世界蛇には、やはり傷一つついていない。
「無駄だと言ったのだ」
 ヨルムンガンドが哀れみの視線で、ちとせを見下ろす。
 その視線をちとせは余裕の表情で受け止めた。
「こっちは、それはどうかな、と言ったのよ☆」
 攻撃が直撃した箇所から世界蛇の血が吹き出した。
「ヌッ、グッ!?」
 世界蛇は身体の周りに満ちる精霊力の異変に気づいた。
「これは、風か?」
 風の力が鱗の隙間から肉を断ったのだ。
 傷自体はたいしたことがないが、世界蛇はその巧妙な攻撃に目を剥いた。
 精霊力の流れを辿り、源を見つけ睨みつける。
「ヌウッ、汝か」
「……世界蛇よ。災いもたらす大地の杖よ」
 悠樹は世界蛇の視線にも怯まずに、透き通った声で応じた。
「道を空けてください。でなければ、真の不幸を受けるのはぼくたちではなく、あなたとなるでしょう」
「浅き傷をつけた程度で、調子に乗るか。不遜なり」
 世界蛇は、悠樹に毒息を吐きかけた。
 悠樹は風で毒を吹き飛ばし、舞った。
 鈴音が世界蛇の目を引き、ちとせとロックが悠樹の風の援護を受けて、世界蛇の鋼鉄の鱗を切り裂く。
 見事な連携で、世界蛇に傷を負わせていく。
 しかし、攻めて攻めても世界蛇は生命力があるかの如く、一向に弱っていく様子がない。

 ちとせは、目眩に襲われた。
「げほげほっ、うぅっ……」
 ちとせが足を踏ん張る。
 吐き気が止まらない。
「我が毒液、汝らの不幸なり」
 全身から血を滴らせて、世界蛇が吠えた。
「毒が……」
 世界蛇の血とともに流れ出す毒液と毒霧で空間が満たされ、ちとせたちの呼吸が困難になっていく有様だった。
 追い詰めているようで、逆に追い詰められているようなものだった。
 毒に身体が侵食されていく。
「我は滅びぬ。我が毒液は無限なり」
 世界蛇は全身をうねらせて、毒で動きの鈍ったちとせたちを巨体で潰そうとした。
 だが、ヨルムンガンドの身体は意志に反して、痺れたように動かない。
「ヌウ、いかなることか……」
 世界蛇の身体をバチバチッと電撃が駆け抜ける。
「此は……」
 驚愕し、ヨルムンガンドが呻く。
「ヌググッ、何故だ? 何故、我が身体が動かぬ?」
「風に微弱な電撃を加えておいたのです」
 ヨルムンガンドの疑問に答えるように、突風が巻き起こった。
 悠樹だった。
 悠樹が空間に充満する毒霧を消し飛ばす。
「どうやら、あなたも身体は電気で動いているらしいですね。傷口に風に乗せて電気を流し込み、電気信号を変換して神経系を麻痺させました」
 悠樹の作戦の本当の目的は、世界蛇の鋼鉄の防御を破ることではなく、動きを封じることだった。
「巨大な世界蛇も、動けなければ、木偶と変わらねえな」
 鈴音が呟く。
「雷神の力を以って、我を縛り上げたところで、汝らに我を倒すことなどできはせぬ」
 我は無限の存在。
 雷に不覚を取ったとはいえ、敗れることなどない。
 矮小なる人間どもが、いかに我が肉体に武器を突き立てようが無力なり。
 痺れが取れてから、ゆっくりと殺せば良いだけのこと。
 世界蛇は嘲笑った。
 悠樹が風の翼を纏って、優雅に世界蛇の頭の前に浮かび上がった。
「確かに、鋼鉄の鱗も繋ぎ目は弱いとはいえ、外からの攻撃じゃたいして効かない。でも、体内も鋼鉄でできているのですか?」
「汝……」
「試してみましょうか」
 悠樹の言葉の意味に気づいて、世界蛇は目を剥いた。
「我が体内は猛毒の宮殿。我を屠ろうとすれば、汝も死ぬぞ」
「そうですね。北欧神話で世界蛇ヨルムンガンドを倒した嵐の神トールは、蛇の猛毒に侵されて結局は相討ちになったとか」
 悠樹が纏う風の力を強めながら言う。
「でも、ぼくの風なら毒気を弾いていける。死ぬのはあなただけです」
「矮小なる人の子如き!」
 ヨルムンガンドは、己が、この少年に慄いていることに気づいた。
 ――この強大なる世界蛇が!
「人は決して矮小じゃない。人の想いは、世界蛇ヨルムンガンド、あなたよりも大きい」
 悠樹が、爽やかに笑った。
「終わりだよ」
「カアアアアアアッ!」
 身体を走る雷撃を弾き飛ばすように吠えながら、世界蛇は毒を吐いた。
 本能が、告げていた。
 この少年は、危険だ。
 ――『敵』だ。
 後で、ゆっくりと殺そうなどとは甘い考えだったのだ。
 今、始末しなければならない。
 世界蛇は悪寒を覚えていた。
 悠樹は風で、毒を吹き飛ばしながら、世界蛇の口に目掛けて飛ぶ。
「はああああああぁぁぁっ……」
 一陣の風となって、世界蛇の口を裂く。
「この我が……世界の支柱たるこの我が……!」
 世界蛇は咆哮していた。
 終わりだ。
 無限の生が尽きる。
「我が……世界の鎖が……大地の杖がァァァァァァァァァ!」
 風が内部から肉を裂く。
 抉り、断ち、粉々に切り刻む。
 嵐が世界蛇を内部から破壊していく。
 莫大な生気が迸り、無限の命が朽ち果てる。
 生命が放出され、空間を赤く染めていく。
 毒と血を撒き散らしながら世界蛇の身体が、口から裂ける。
 巨大な肉塊となり、文字通り"血の雨"を降らせた。
 悠樹は風の力で空中に浮きながら、世界蛇の最後を見下ろす。
 轟音を立てながら、世界蛇は倒れた。
「さよなら」
 悠樹が静かに呟いた。

「わおっ、毒塗れで、ご帰還おめでとっ。勇者さま」
 風を解いて舞い降りる悠樹を、ちとせが迎えた。
 悠樹の服がヨルムンガンドの血と毒で染まっている。
「あははっ、嫌味?」
「ほめてんだけど」
「棘があるよ」
「世界蛇の口に飛び込むなんて聞いてませんからネ。ねぇ、ちとせサン?」
 ロックがサングラスを指で押し上げた。
「そ。まったく、鈴音さんじゃあるまいし、あんま無茶するもんじゃないよ」
「をいをい」
 苦笑いする鈴音。
 と、地鳴りが起こった。
 世界蛇の骸が、砂のように崩れて行くのが見えた。
 ヨルムンガンドの骸が崩壊していくのに合わせるように、空間にも異変が生じ始めた。
 真っ白だった空間が、ガラスが割れるように剥がれ落ちていく。
 そして、世界蛇が護っていた巨大な門に亀裂が入る。
「門が崩れる」
「結界が消えていく」
 世界蛇の骸が完全に消え去ると、『門』も跡形もなく崩れ落ちた。
 空間を維持していた世界蛇を失って、結界が解けたのだろう。
 無限の広さを誇った空間が崩壊し、本来の『ヴァルハラ』内部の姿へと戻っていた。
「ホントの『突入』はここからだね」
 ちとせたちは、頷き合うと、『門』が存在していた箇所にある扉に手をかけた。
 先に待つは、世界樹。
 そして、"凍てつく炎"織田霧刃、"氷の魔狼"シギュン・グラム。
 扉を開け、足を踏み込んだ。

 ちとせたちが去った空間に残されたのは、世界蛇の死に黙祷を捧げるように、開け放たれた扉から流れる静かな風だけだった。


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