魂を貪るもの
其の九
6.思惑
『ヴァルハラ』の中枢部、コンピュータ管制室。
数台のコンピュータの電子音が響き渡り、十数人の社員たちが忙しく動いている。
その中の一人――栗色の髪をした赤いフレームの眼鏡をかけた女性社員――の後ろで、ランディ・ウェルザーズの秘書ミリア・レインバックが、作業を見つめていた。
「何者かが、『ヴァルハラ』内に侵入。世界蛇ヨルムンガンドと接触している模様です」
女性社員が、ミリアを振り返る。
彼女は才覚を認められて管制室の主任を務めているのだが、今はミリアに報告を送る役目を必死にこなしていた。
オペレーターは他にいくらでもいるのだが、主任という立場からミリアに名指しされて、こき使われているのだ。
「あの無限空間を抜けて、世界蛇にまで辿りついたものが……?」
「はい。世界蛇の結界の影響で鮮明な画像が映し出せませんので、何者かはわかりません」
主任の女性はコンピュータに向き直り、キーボードを叩いたが、モニターは周波の合っていないテレビのようにただ波打つ画像を映し出すばかりだ。
ミリアが苛立たしそうに舌打ちすると、主任の女性の肩が怯えたようにビクリと震えた。
「フン。この状況で、この『ヴァルハラ』に乗り込み、世界蛇まで辿りつく者だ。それ相応の覚悟と理由がなければなるまい」
唐突に、後ろから男の声が響いた。
ミリア・レインバックと主任の女性が声の方を向き、その主を確認すると、二人は恐縮した表情になる。
声の主は、総帥ランディ・ウェルザーズであった。
「ランディさま」
ミリアがそそくさと道をあけ、主任の女性が椅子から立ち上がって深々と頭を下げる。
ランディ・ウェルザーズは、モニターの前までは歩みを進めず、妖艶を絵に描いたような女秘書の隣で足を止めた。
「侵入者は、シギュンの右腕を奪った少女と、その仲間どもだろう」
「筆頭幹部殿の……?」
ランディの予想に、ミリアの瞳に憎悪が宿った。
「で、では、"凍てつく炎゛の妹も、それに、あの"風使い"の少年も!」
忌々しい"凍てつく炎"の妹、織田鈴音と、自分を騙した少年。
顔を思い出すだけで腹が立つ。
ミリアの表情を見て、ランディは面白くもなさそうに、懐から葉巻を取り出した。
「ミリアよ、すぐ頭に血が上るのは、おまえの唯一の短所だ」
自らの生み出した炎で、葉巻に火を点ける。
「私は部屋にこもる。もっとも、『影』どもが、うろつくかもしれんがな」
「『影』、でございますか?」
要領を得ない表情で、ミリアが尋ね返す。
「
曖昧とも思える言葉で返し、ランディは煙を吐いた。
「ミリア。『ヴァルハラ』の指揮は、おまえに任せるが、シギュン・グラムと"凍てつく炎"には自由に行動させろ」
「はい」
「ヘルセフィアスも、おまえの好きに使って構わん。そのかわり逆上して自分を見失うなよ」
「かしこまりました。ランディさまのご意志のままに」
ミリアが深深と頭を下げる。
ランディは満足そうに頷き、踵を返した。
自動ドアが開閉し、ランディ・ウェルザーズの姿が見えなくなると、ミリア・レインバックは頭を上げて主任の女性に指示を出した。
「筆頭幹部殿と"凍てつく炎"に侵入者のことを伝えなさい。わたくしは、ヘルセフィアス殿と対処します」
そして、主任の女性の返事を待たずに、管制室を出た。
ミリアは廊下に出ると、周りに誰もいないことを確認して、ネックレスを軽く叩いた。
軽い振動とともに、ネックレスが微かに発光する。
「ヘルセフィアス」
ネックレスに向かってミリアが口を開いた。
「どうしました?」
イヤリングから、ヘルセフィアス・ニーブルヘイムの声が返ってくる。
ミリアが微かに俯き、シニヨンに結って左側だけ垂らしている前髪が片目を隠した。
その美しい唇は笑みの形に歪められている。
邪悪な笑みの形に。
「この『ヴァルハラ』に侵入者が現れたわ。もちろん、期待通りのね。そして、総帥はわたくしに指揮を任せて、総帥室にこもったわ」
「ほぅ……」
「あとは、筆頭幹部殿の動き次第ね」
ミリアの言葉を受けて、イヤリングから歓喜の笑い声が聞こえてきた。
「フッ、フフフッ……、すべては、思惑通りというわけですか……」
「ええ、すべて『思惑通り』だわ」
そう。
すべては、思惑通り。
ミリア・レインバックの垂らした前髪の間から見える切れ長の瞳が、妖しく輝いた。
「侵入者か」
シギュン・グラムは通信機から入った報告に耳を傾けていた。
「はい。映像が不鮮明なため、何者かはわかりかねますが……」
「かまわん。想像はつく」
通信を入れてきたのは、聞き知った女性社員の声だった。
シギュンが見るところでは『ヴィーグリーズ』の中でも有能な社員で、管制室の主任を務めているが、真面目過ぎる感があり、融通が上手いタイプではない。
本来なら、管制室を統制しなければならない主任の立場である彼女が直接通信を入れてくるなどないのだが、ミリア・レインバックの指図によるものらしいことは、最初に彼女の口から聞いていた。
ミリア・レインバックに使われるということは、ミリアがそれだけ彼女のことを評価しているか、目をつけられているかのどちらかであるが、彼女の場合は、前者だろう。
シギュン・グラムの目から見ても、彼女は十分過ぎるほどに有能な社員だからだ。
だが、真面目なだけに、ミリア・レインバックなどに当り散らされば、非がなくても萎縮してしまうような性格だった。
だからこそ、生真面目に自身で通信を入れてきたのだろう。
「それで、ランディさまは?」
「それが……」
シギュンの問いに女性主任の声が滞った。
「何か言い難いことでもあるのか?」
「い、いいえ。ランディ総帥はレインバックさまに『ヴァルハラ』の全権を託され、自室にこもられました」
「なるほど」
筆頭幹部を差し置いて、総帥が秘書のミリア・レインバックに全権を託したということで、気を遣っているのだろう。
やはり、気が回り過ぎる。
通信機から聞こえてくる戸惑いの混じった声を聞き、氷の精神を持つ"氷の魔狼"も、この主任が有能であるがゆえに無視することはできなかった。
無用な不安を取り除くように誘導してやらざるを得ない。
「私ではなく、レインバックに指揮を任せるのか疑問か?」
「い、いいえ……」
「私には私の、レインバックにはレインバックの役割があるのだ。その程度のこと、気に病む必要はない」
「はい」
シギュンの言葉に安堵したかのような声が返って来た。
「では、通信を切るぞ」
通信機のスイッチを切るとシギュンは懐を探り、愛用の煙草を取り出した。
マッチで火を点じ、口元に運ぶ。
肺いっぱいに煙を吸い込んだ。
「ふぅ……」
血の通わぬ義手が疼いた。
冷やかに輝く黄金の髪がざわめく。
唇が歪んだ。
「さぁ、降魔師の少女よ。世界蛇を破り、私のもとへ辿りつけ」
右腕の借りを返さなくてはならない。
このシギュン・グラムは、誇り高き"氷の魔狼"なのだ。
屈辱の泥は払い落とさねばならない。
「闇も光も裁きを受けるならば、私はおまえを殺して"蠱毒"に近づこう」
シギュンにとって今、重要なことは、『ヴァルハラ』の指揮を任されることではない。
そもそも権勢や権力に興味もない。
ランディ・ウェルザーズに協力しているのは、彼の器にと目的に共鳴する部分があるからだ。
だが、当のランディ・ウェルザーズが、シギュンに指揮系統からはずれ、自由に行動することを許したのだ。
ならば、彼の真意がどこにあろうと、シギュン・グラムはただ己の心に従うまでだ。
そう、何にもまして今重要なことは、あの降魔師の少女と再び
その結果がどうなろうとも……。
「鈴音か」
"凍てつく炎"織田霧刃は、鈴音が『ヴァルハラ』に侵入していることを感じ取っていた。
織田家の血の繋がりがそうさせるのではない。
細雪が教えてくれるのでもない。
理由など必要ない。
ただ、感じ取れたという事実があった。
霧刃は、静かに細雪を鞘から抜いた。
血の色に輝く禍禍しい赤い気が発せられる。
「……嫌な色ね」
呟き、瞼を閉じる。
邪気に染まった自らの霊気。
五年前、絶望の中で身につけた強大な力。
悲鳴。
悪魔。
血の海。
父。
母。
細雪。
そして、霧刃の脳裏に、『あの人』の姿が過ぎった。
カッと目を見開く。
「……!」
ヒュッ!
風が哭いた。
霧刃が胸の中の遺影を断つように、目の前の空を斬ったのだ。
そして、大きく息を吐き、細雪を鞘に納めた。
「(霧刃……?)」
ケルベロスが、霧刃の不可解な行動に頭をもたげた。
と、霧刃の口から苦悶の声が漏れた。
激痛が、霧刃の胸を襲っていた。
「ぐっ……」
苦しそうな表情で、心臓の鼓動を鎮めるように左胸を抑えながら、激しく咳き込み始める。
錐で心臓を突かれ、掻き回されるような激痛。
「(霧刃!)」
「ごほっ……、ごほっ……、ごほっ……!」
胸の痛みと咳を無理矢理に抑えつけようとする。
だが、痛みは心臓を貫き、熱い液体が喉を逆流して来た。
「ごほっ、ごほっ……、ごぼぉっ……!!」
鮮血が口から零れた。
――ぴちゃあっ!
添えた手で抑え切れずに溢れた血が、床を赤く染める。
吐血により呼吸が困難になり、さらに激しく咳き込み、霧刃は膝をついた。
「ごぼっ……!! ぐっ……、はぁっ……、ゼェーッ、ゼェーッ……」
数度の吐血が、床に小さな血溜まりを作っていた。
尋常な吐血量ではない。
「(霧刃!)」
寄り添おうとするケルベロスを、霧刃は手で制した。
そして、荒く息をつきながら唇の端から流れ落ちる鮮血を拭う。
「くっ、はぁ……、はぁ……、大丈夫。いつもの……発作よ、はぁ……、はぁ……」
「(しかし、霧刃。まさか、心臓が……)」
発作の周期が短くなってきている。
ケルベロスは、霧刃の身体の異常に気づいていた。
いつも粘りつくような咳と少量の吐血はあった。
そして、胸の痛みも多少はあったようだ。
だが、今回の発作の霧刃の苦しみようは、『いつもの発作』ではない。
明らかに心臓の痛みが酷くなっているようだ。
細雪の聖なる力の浸食か。
それとも、元来の身体の弱さの影響か。
どちらにしても、霧刃の顔色は血の気を失っている。
その身体で、鈴音と戦うというのか。
ケルベロスの考えを見抜いているように、霧刃はゆらりと立ち上がった。
そして、静かに息を吐き、呼吸を整え、ケルベロスに視線を戻した。
「かまうな、ケル。"裁きの刻"まで、私は……」
「……霧刃」
ケルベロスが口を開きかけた瞬間、電子音が部屋に響き渡った。
――ピッ。
――ピピッ、ピピッ。
部屋に設置されている通信機が音を上げているのだ。
布で鮮血に濡れた手を拭ってから、霧刃がボタンを押して応じる。
「"凍てつく炎"さま。『ヴァルハラ』に侵入者です。迎撃の準備をお願いします」
「知っている」
「はいっ?」
通信機の向こうから間の抜けた声が返ってきたが、霧刃は無視して機械の電源を切った。
腰に細雪を吊るし、黒を基調とした千早に似た羽織を纏うと、ケルベロスを振り返る。
その顔は相変わらず青白い。
その挙動にも力強さはない。
だが、目は違う。
まるで、すべての生命力が双眸に凝縮してしまったのではないかと思われるほどの強い念が宿り、その瞳を禍々しい真紅に染めている。
「行くわよ」
「……」
霧刃は魔獣を従えて、部屋を後にした。