魂を貪るもの
其の一 来訪者
3.凍てつく炎

 猫ヶ崎市の海の入り口、猫ヶ崎湾。
 華やかな海上公園が設けられた市内でも有数のデートスポットの一つであり、観光名所としても知られている。
 だが、海上公園から東側に少し進むと運輸産業の倉庫街になっており、出荷の時間を過ぎれば運輸関係者の姿も消えてしまい、釣りの穴場を探しに来る釣り人だけだった。
 その人気のなくなった倉庫街を一人の女が歩いていた。
 傍らには狼のような大きな犬を連れている。
 肩の辺りでばっさりと切られた鴉色の髪と同じ色のロングコートを着こなしている。
 目を見張るような美貌の持ち主であったが、病的なほど肌が白く、顔色が悪い。
 そして、何より特徴的なのは、その氷点下の光を湛えた瞳だ。
 女と目の合ったものすべてが、冷たさで焼かれるような感覚を味わうだろう。

 女は倉庫街の一角まで来ると足を止めた。
 一番奥の倉庫から、常人ならば吐き気を催すような瘴気が濃く漂っている。
 大型犬もまた、女に従って動きを止めた。
「出てきなさい」
 女は決して大きくはないが、漂っている瘴気を切り裂くような鋭い声を奥の倉庫へ向かって放った。
「まさか、あんたが出向いてくるとは、な」
 女の呼びかけに太く低い声が応じ、物陰から男が一人姿を現す。
 男は背こそ高いが凛々しいというに雰囲気とはかけ離れている容姿をしていた。
 ぼさぼさの髪で、無精ひげを生やし、くたびれたスーツを着ている。
 一言で表すならば、見栄えのしない中年男といったところだろう。
 だが、前髪の間から覗く双眸だけは、猛禽類のように鋭い。
「始末する」
 女が男に向かって、感情の込められていない事務的な口調で言った。
 その視線は冷たくはあったが、目の前の男への興味というものがまったく感じられず、道端の石ころ程度にしか認識していないように見える。
「……悪かったな。『あいつら』が喰らいたいっていうもんだからよ。適当に見繕って、頭を割って脳漿を食らわせてやったんだよ」
 男は不気味な笑みを口元に称えながら、女の正面まで移動した。
 女は微動だにしない。
 が、初めて男の存在を認識したように、無感情だった瞳に微かに不快な色が浮かぶ。
 男はそれに気づかずに、肩をすくめた。
「一人ぐらい仕方ないじゃないか?」
「……」
「あんただって、その犬の姿をした魔獣が人間を喰いたいって言ったら、オレと同じことをするだろう?」
 男が女の傍らの大型犬を顎で示す。
 だが、女は反応を見せず、ただその刃のような視線で男を射抜くだけだ。
「ふぅ、最初から許す気はない、か」
 やれやれという風にため息を吐き、男が肩をすくめてみせる。
 女は無表情のまま、依然として平板な口調で言葉を紡いだ。
「私が許す許さないの問題ではない」
「あんたも一時的な雇われ身のわりには組織に忠実なことだな」
「……」
「まあ、あんたと闘ってみるのも一興だ。裏世界最高、いや、世界最高の退魔師にして退魔師狩りと言われるあんたを倒せば、次の雇われ先には困らないからな」
 にやりと笑って、男が指を鳴らす。
 同時に女の周りを囲むように黒い影のようなものが五つ出現した。
 大型犬の姿をした魔獣が、女の傍らで低い唸り声を上げる。
「犬好きらしいあんたに、オレの可愛い猟犬たちも紹介しよう。魔女を統べる女王ヘカテの猟犬バーゲストどもだ。もっとも、猟犬の姿が絶対ってわけじゃないが、な」
 勝利を宣言するように男は言った。
 影たちは、各々が闇色をした獣人のような姿をとった。
 あるものは、鋭い角と鋭利な牙を持った黒犬に。
 あるものは、赤い目をした隈のような怪物に。
 あるものは、首のない人間のような姿に。
 ――魔女の猟犬バーゲスト。
 イギリスの民間伝承に登場する邪悪な存在たちの総称だ。
魔女の猟犬(バーゲスト)は、あんたが従える地獄の番犬ケルベロスのような有名な神話背景は持たないが、不吉の先触れともされとして長らく恐れられてきた異形たちだ。その力とくと味わうんだな」
 召喚した魔物の由縁を話す男の態度は自信に満ちていた。
 このバーゲストたちの力を使役して、男は数々の仕事を成功させ、裏世界で名声を得て来たのだ。
 今まで立ちはだかった何人もの名うての退魔師の生命をも奪っても来たのだ。
 それでも、男の名声は裏世界一として轟いている目の前の女の雷名には遠く及ばない。
 だが、彼女を殺せば、裏世界最高の退魔師にして退魔師狩りという称号を得ることができる。
 男の頭には、敗北するなどという考えは微塵も存在していない。
 目の前の女は、虚栄心を満たし、伸し上がるための生贄でしかない。
「さて、"凍てつく炎"さんよ、ご自慢の腰の物、必死で振るってもらおうか」
 男が女のコートから垣間見える黒金の鞘に視線を送りながら笑った。
 女が腰に帯びているのは、日本刀だった。
「必要ない」
 女はまったく腰の得物に手を伸ばす素振りを見せず、素っ気無く、男に応えた。
「余裕のつもりか。五体のバーゲスト相手に徒手空拳で何ができる」
 男は笑いを収めた。
 不快そうにまなじりを吊り上げ、眼光に苛立ちを漲らせる。
「裏世界一と呼ばれた奢りか。気に障る女だな。貴様の名声など機会に恵まれただけに過ぎないことを思い知らせてやる」
 男は、この不快極まりない女退魔師を嬲り殺すことに決めた。
 まずはバーゲストたちに女の四肢の腱を断たせ、自由を奪う。
 そして、血反吐を吐くまでじっくりと痛めつけ、許しを請うまで犯し抜いた後、女が腰にぶら下げている刀で心臓を貫いて殺してやる。
 死体はバーゲストどもに骨の欠片も残らぬように喰らい尽くさせてやろう。
「無様に這いつくばって死ぬが良いぜ」
「あの男でも見誤ることがあるのか」
 女が傍らに控えているケルベロスへ声をかけると、冥府の番犬として魔女の女王ヘカテとも関係がある魔獣は頷くような素振りを見せ、くぐもった声で応じた。
「(巨大な組織だ。末端にまでは目が届かぬこともあるだろう)」
「……」
「(魔女の女王(ヘカテ)とは縁がある。我が始末をつけよう)」
「いや、ケル、……おまえは下がっていて良い」
 女はそう言って、一歩だけ前に出た。
 黒髪と長いコートの裾が潮風になびく。
 犬の姿をした魔獣は女に反論せず、出番はなくなったとばかりに、その場にゆっくりとうずくまった。
 その魔獣の行動も男の癇に障った。
 魔女の猟犬(バーゲスト)たちがじりじりと間合いを詰めるが、女は構えることさえしない。
 無防備に立っているだけだ。
 まともに戦う気がないというのか。
「殺れ!」
 怒りの込められた声で男が号令を発すると同時に、バーゲストたちが一斉に女に襲いかかる。
 正面から二体、左右から一体ずつ、そして背後から一体。
 女を引き裂かんと鋭い爪を振り上げるバーゲストたち。
 大気が震えた。
 女の全身から立ち昇るのは、禍々しい真紅の霊気と、すべてを凍てつかせ、すべてを焼き尽くす、殺気。
 暴虐と殺意の真紅の光が男の目を焼く。
 勝利を確信していたはずの男は、女の莫大で強大な霊気に息を呑み、無意識に数歩後退っていた。
「はぁ!」
 女が気合いと共に右手を薙ぎ払うように正面に突き出す。
 不可視の衝撃波が放たれ、正面の二体の魔物を跡形もなく吹き飛ばした。
 残った背後と左右のバーゲスト三体は、消し飛ばされた仲間の死に怯んだ様子も見せずに、息を合わせて女へと飛び掛る。
天武夢幻流(てんぶむげんりゅう)組討(くみうち)散花(ちるはな)ッ!」
 しかし、その三体は女の閃光のような捌きで容易に投げ捨てられた。
 魔物は三体とも首から地面に叩きつけられ、口からどす黒い血を吐き出してそのまま動かなくなった。
 一瞬の出来事だった。
 生命を失った魔物たちは塵のように崩れ去り、この世から姿を消した。
「バ、バカな……」
 男は目の前で起きた光景が信じられないという表情で立ち尽くしていた。
 確かに女の殺気と霊気は圧倒的だった。
 力のある妖魔や魔獣は、神話や伝承に名を残し、その中でも強大なものは、神や悪魔と呼ばれる。
 魔女の猟犬(バーゲスト)は、確かにケルベロスのように、英雄と対峙したりするような強大な神話背景を持っておらず、人間たちの間で認識される知名度も及ばないだろう。
 だが、男がこの戦いの開幕時に述べたように、この魔女の猟犬(バーゲスト)たちは、ヘルハウンドやブラックドックとも呼ばれ、不吉な存在として長く民間に伝承されてきた存在なのだ。
 民間に長く、『不吉な存在』として長く伝えられてきたからこそ、その力は純粋に『不吉』なものであり、不幸をもたらすもののはずなのだ。
 そして、個体にある程度の差はあるとはいえども、基本的には、腕に覚えがある退魔師でも苦戦を免れないであろう力を有する魔物なのだ。
 その恐るべき魔物を、男は精神力を限界まで使って、五体も同時に召喚したのだ。
 だからこそ、どのような実力者でもこの布陣を容易に打ち破ることはできないと男は確信していた。
 だがしかし、男の目論見と裏腹に、女は五体ものバーゲストを簡単に葬り去ってしまった。
 しかも、強力な退魔の力を秘めているだろう腰の刀を抜きもせず、徒手空拳で、一瞬にして、だ。
 次元が違う。
 自信を持って布いた鉄壁の陣を瞬時にして失った男には、もはや勝機は欠片も残っていない。
 そして、その現実を男が受け入れるよりも前に、女は男の懐へと入り込んでいた。
 女は、呆けている男の顔の下半分――頬から顎にかけて――を右手で鷲掴みにした。
「ぐへっ!」
 潰れたような悲鳴が漏れ、男の両目が恐怖に零れ落ちんばかりに見開かれる。
 男を見る女の瞳は全身から放たれている禍々しい霊気と同じ真紅の色をしていた。
 そこには一片の慈悲もない。
 あるのは凍てつくほどの冷たさと昏さ。
 これが本当に人間の目なのか。
 男は、この女の顔をこれまで何度も見ているはずだった。
 だが、女のこの恐ろしい視線に今まで畏怖を感じてはいなかった。
 いや、畏怖を感じようとしなかったのだ。
 この女の殺気の正面にまともに立ったことがなかった。
 男は頭の中だけで女と自分とを比べていた。
 女が世界一の実力と謳われるのを、ただ名を売る機会に恵まれただけに過ぎないと曲解し、本当の実力では自分の方が優れていると自惚れていただけだった。
 だからこそ、この女が絶対零度の心と灼熱の殺気を持つ死神だということに、今まで気づかなかったのだ。
 そして、今際の際になって、それを思い知らされた男は哀れであった。
 男の全身は女の発する雰囲気に凍てつき、震えていた。
 迫り来る絶対の死によって、心が焼き尽くされる恐怖を味わっていた。
 ――助けてくれ!
 男が声にならない悲鳴で許し請うが、女の凍てつく視線は殺意の炎を消すことはなかった。
「下郎が」
 女は吐き捨てるように言った。
「力なきをあの世で後悔するが良い」
 男の顎を掴む女の手が禍々しい赤い光を発した。
 莫大な霊気が男の頭へと流れ込む。
 ぐしゃりと音を立てて、男の頭が内部から砕けた。
 脳漿が飛び出し、鮮血が女の頬を濡らす。
 今朝、男が殺した人間と同じ姿で、男自身は死んだ。
 女は自分とは何も関係のないものを見るような視線をしばらく死体へ浴びせ、ぱちんと指を鳴らした。
 青白い炎が男の死体を包み込む。
 数秒と待つことなく男の死体は骨一つ残さずに燃え尽きた。
「行くわよ、ケル」
 女が忠実なる魔獣ケルベロスに目をやり、ロングコートの裾を翻して静かに歩き始める。
 うずくまっていた魔獣もゆっくりと立ち上がり、その後ろに従った。
 女は振り返ることなく倉庫街を離れた。
 女の二つ名は"凍てつく炎"。
 真名は、織田(おだ) 霧刃(きりは)


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