魂を貪るもの
其の九 運命(ノルン)の嘲笑
5.世界蛇

 ちとせたちは、『ヴァルハラ』を前に立っていた。
 天を目指したバベルの塔の如き威圧的な超高層。
 まるで、神に挑戦するかのように建てられた威容。
 それに世界樹が絡みき、骨組みを半ば崩壊させ、そして、また、その骨組みを支えながら取り込んでいる。
 時折、樹皮が赤く発光しては、脈動していた。
 不気味な容貌は昨日と変わりはない。
 その世界樹から漂ってくる瘴気の中を無数の魑魅魍魎(ワイルドハント)が跋扈している。
 世界樹の麓、『ヴァルハラ』の正門は常世への入口の相を呈していた。
 ちとせたちに気づいた魍魎どもが這い寄ってくる。
「うっわ、どっから湧いて来たのよ。こんなにいっぱい!」
「『ヴァルハラ』に入る前からこれじゃあ、先が思いやられるな」
「どうします?」
 悠樹の問いに、鈴音は腰に手を当てて、首をコキコキと鳴らした。
 鈴音は気に入っているのか、以前と似たチャイナドレスを身につけていた。
 動きやすさを重視してか、はたまた鈴音の趣味なのか、腰までの深いスリットが入っているため、身体を動かすたびに裾から美しく長い脚が覗く。
「雑魚どもの相手なんかしてたら、きりがねえ。無視して突っ切るぜ」
 そう言って、スリットから太腿を晒して、足首をぶらぶらと振った。
 幸いに門を抜けて正面玄関までは真っ直ぐの道のりで距離も短い。
「ふふっ、ボクは速いよ」
 ちとせが全身から力を抜くように軽くジャンプした。
 こちらは、いつもと同じように猫ヶ崎高校の制服姿だった。
 挑発的に第二ボタンまで外した白いブラウスに、リボンタイを緩めるようにして付け、短めにしているチェック柄のプリーツスカートと、トレードマークともいえる黒のオーバーニーソックスを履いている。
 ちとせが跳ねるたびにリボンで纏めた尻尾部分の長い変形ポニーテールと、プリーツスカートの裾が揺れる。
 ――到底これから戦いに赴く服装には見えないよな。
 悠樹がちとせと鈴音を見て心の中で呟く。
 そう思っている悠樹自身も戦闘的な姿ではない。
 何しろ、彼も猫ヶ崎高校の制服姿なのだ。
 ワイシャツの上に、ブレザーを着込み、ボトムはスラックスと紐靴タイプの革靴を履いている。
 さすがにネクタイはしておらず、ワイシャツを第二ボタンまで開けていることだけが、いつもと違う。
 ロックは、いつもの全身黒ずくめのスーツスタイルである。
 四人一緒にいると、はたから見れば、なかなか奇妙な雰囲気ではあったが、目の前の魑魅魍魎の集団に比べれば、取るに足らないことで済まされてしまうだろう。
「さて、行きますか」
 残りの三人を振り向いて、ちとせがウィンクをした。

 ちとせたちは疾走していた。
 前に立ち塞がる魍魎を薙ぎ払い、横から襲い来る魍魎を避けながら。
 後ろからも、大量の魍魎が追いかけて来る。
 しかも、魍魎は、思ったより足が速い。
 足が無いものも混ざっていたが。
「ひゃあああっ!?」
 妙な悲鳴を上げながら、先頭を走るのは、ちとせ。
 本来なら、『ヴァルハラ』の正門から玄関までは、ちとせが本気を出せば数秒という距離だったが、大量の魍魎を避けながらではそうはいかない。
 足を止めないように、走るのがやっとだ。
 その後ろに悠樹。
 ちとせが前からの敵を薙ぎ払うのに対して、悠樹は横からの魔物の襲撃を叩き潰しながら走っている。
 良いコンビネーションだ。
 そして、最後尾で、鈴音とロックが後ろの敵を牽制して走り続ける。
「マンマ・ミアー!」
「ロック、こけんなよ! 捨ててくぞ!」
 一見すれば、霊力のないロックのフォローを、手練の鈴音が的確にこなしているように見える。
 だが、ロックの拳銃が鈴音にまとわりつこうとする魍魎に火を吹くこともしばしばだった。
 何匹かの魍魎を神扇で砕いたちとせの視界に、『ヴァルハラ』の正面玄関が入った。
 目の前に魔物は、もういない。
 全員が全力で駆け抜ける。
 ぷしゅーっ。
 気の抜ける空気音が響き、自動ドアが開く。
 予想に反して、自動ドアは正常に作動しているようだ。
「早く早く!」
 ちとせたちは急いで、ドアの中に駆け込む。
「封印!」
 ちとせが、ドアが閉まると同時に、素早く指で五芒星の形に印を切る。
 と、自動ドアの表面に真紅の五芒星が浮かび上がり、ドアに溶け込むように消えた。
「これで、ボクが封印を解かない限り、このドアが開くことはないよ」
「一先ず安心……ってわけにはいかねえな」
 ちとせの言葉に肩を撫で下ろしそうした鈴音だったが、周りの光景を見て、唖然とした。
 奥の壁が見えない。
 天井も見えない。
 外観から想像できる限界を超えた奇妙な空間がそこにあった。
 果て無き空間に全員が目を見張った。
「こいつは幻覚か? それとも、空間自体が捻じ曲がっているのか?」
「う〜ん。ようこそ地獄へってとこだね」
 ちとせは外部に漂っていた瘴気とは、また違った空気を感じていた。
 妖気と瘴気が綯交ぜになった奇妙な感触と、それを抑え込むような不気味な"力"を感じる。
「結界が張られているな。しかも、かなり強力だ。これほどの結界力を感じるのは初めてだぜ」
「これは困ったね。果ての見えないこの空間をどこまでも歩いて行くわけにもいかないし」
 目印になるようなものは一切ない。
 微かに白い霧のようなものが漂っているが、それとて目印になるわけではない。
 一見して、無限に広がっているこの空間を、あてもなくさ迷うのは危険が大きすぎる。
 無闇に行動すれば、自分のいる位置すら解からなくなりかねない。
「待って。微かな風の流れを感じる。きっと出口から流れてきてると……」
 悠樹の前髪が揺れた。
 他の三人には風など感じられない。
 ましてや、髪が揺れるなどありえない。
 風の力を持つ悠樹の鋭敏な感覚のみが、微かな空気の揺れを感じ取っているのだ。
「これは、悠樹クンが頼りですかネ」
「だな。戻ろうにも、いつの間にやら入口まで消えちまってる」
 鈴音が、入って来た自動ドアがあった背後を示して肩を竦めた。
 そこには何もない。
 ちとせが封印したはずのドアは跡形もなく消えていた。
 前方に広がるのと同じ、果てなき光景だけが見て取れた。
「ダメ。封印から出てるはずのボクの霊力の波動も全然感じられない」
 ちとせが、お手上げというように首を横に振った。
「進むしかないね」
「迷宮程度なら予想の範囲内だったんだがな」
 『ヴァルハラ』は『ヴィーグリーズ』の猫ヶ崎支社として使われている建物なのだ。
 簡単に侵入者が進める構造ではないとは考えていたが、建物の外観から思いつく構造を無視した、この無限の空間はまったく想像の範疇を超えていた。
「逆に、無限に広くて、目標物も何も無いとなると、マッピングすらできませんからネ」
 鈴音もロックも、仕事柄、仕掛けられた迷路のような建物や遺跡に侵入した経験も何度かあった。
 入り組んだ道をさ迷う危険、油断の死を降らす死の罠を回避する為に、建物内の構造を把握することが必須であることを知っている。
 だが、地図にも描きようがない果ての見えない空間は初めてだった。
「右ですね。右から風が来る」
 悠樹が、右手を掲げて風を払った。
「『右』って言われてもね。人間、視界に目印がなくて真っ直ぐ歩けるもんじゃないって」
 ちとせがポニーテールを揺らしながら首を振った。
 いかにバランスの良い人間でも、真っ直ぐ歩いているつもりで、実は段々曲がって進んでしまうものだ。
 気づかぬ小さなずれが進行方向を狂わせて、最終的には目的地と大きく違った場所に出てしまうだろう。
「風を感じられるのは悠樹だけだからな。悪いが悠樹、先導を頼む」
「ええ」
 鈴音に、悠樹は深く頷いた。
「じゃあ、ついて来てください。障害物が何もないから逸れることはないと思いますけど、気をつけて」

 もう小一時間ほど歩いただろうか。
 ただひたすら、悠樹が風の痕跡を追い、その後を三人が黙々とついていく。
 時々、軽口を交わして気を紛らわせていたが、だいぶ疲労が堪ってきている。
 別に足を止めて休んでも危険はなさそうなのだが、ここは休憩するには殺風景過ぎた。
 何もない空間というのはそれだけで、どうにも心を圧迫してくる。
 通常の空間というものが、いかに雑多なものであふれていることか。
 そして、その雑多なもので心が煩わされると同時に癒されているか、この何もない空間は教えてくれる。
 もし、四人ではなく、たった一人でこの空間に足を踏み入れていたら、発狂していてもおかしくはないだろう。
「あっ、景色が変わったかな」
 ちとせが遥か彼方に巨大な黒い塊を見つけた。
「柱だな」
 どうやら巨大な柱のようだ。
 その柱の向こう側にも、また柱が立っているのが見える。
 白い霧の空間に、巨大な柱が一定間隔で現れ始めた。
 その一本一本はとてつもなく巨大であり、上方を見上げたが天井を見極めることはできなかった。
 それでも、一行は無限に広がる何もない空間から解放され、少しでも変化のある今の視界に景色の変化に安堵していた。
 先程までは、同じ景色の連続で本当に進んでいるのかも疑わしかったのだから、それも当然といえる。
「とりあえず、無限ループからは脱出できたみたいですネ」
「やっと一歩前進って感じ」
「それにしても、魔物の一匹も出ないってのは、快適なようで暇だな」
 鈴音が前髪をかきあげる。
 と、はるか前方に巨大な大理石でできた門らしきものが見えた。
「門……? どうやら、終着点みたいですね」
 風に髪を靡かせながら、悠樹が期待と不安の綯交ぜになった声で呟いた。
 高く聳え立った門柱は、他の柱同様、その天井は見えない。
 この途方もなく広い空間に相応しく、とてつもなく大きな門だった。
 門は重々しく閉じられている。
 その巨大で荘厳な門を護るように巨大な影が蹲っているのが遠目にも確認できた。
「何だ、あのバカでかいのは!?」
 鈴音でさえ、その魔物の巨大さに圧倒された。
 今まで、ありとあらゆる魔物を打ち倒してきたが、これほどに大きく、これほどに威圧感のある魔物は初めてだった。
 竜。
 いや、正しくは大蛇だ。
 翼もなく、腕も足もない。
 滑らかな連続を描く鱗がびっしりと生えた巨体。
 その大きさは、並の大蛇とは比べられるほどではない。
 小山だ。
 巨体でとぐろを巻いた姿は小山ほどもある。
「ほら、鈴音さんが暇とか言うから……」
「あたしのせいかよ」
 鈴音が顔をしかめる。
 大蛇はとぐろを解きながら、頭をもたげた。
「果てなき果てへ、道なき道より。我が結界を侵した哀れなる旅人よ」
 青い舌をちらつかせながら、人間の言葉で話し掛けてきた。
「此は禁断の扉。入ること叶わず。退くが良い」
 鈴音は前髪をかきあげ、大蛇の爛々と輝く赤い瞳を睨みつけた。
「この空間を、この結界を作り出しているのは、テメーだな?」
「いかにも。我は世界(ミッドガルド)を取り巻く存在。我は世界(ミッドガルド)を繋ぎし鎖、我は大地の杖。我が名は世界蛇ヨルムンガンド」
「ヨルムンガンドだかミッドガルドだか知らねえが、ここを通してもらうぜ」
 鈴音は霊剣を現出させて、いつでも斬り込めるように構えを取った。
「其は許されぬ。終焉の樹たる世界樹は不可侵。無限に成長する彼の樹木には無限の牢獄が必要なり。退け、人間ども!」
 ヨルムンガンドは不快そうに低く吠えた。
「退けって言われても困っちゃうな。ボクらはその世界樹に用があるのよね」
「それに、あたしには奥に待ち人がいる」
「退かぬ気か。ならば、我が牙、我が毒液が、汝らの不幸となろう」
 世界蛇の言葉に、ちとせが本当に困ったような顔で頬を掻いた。
 目の前の大蛇と一戦するのは、確かに困ったことであった。
 少なくとも、この奥には、"氷の魔狼"シギュン・グラムと"凍てつく炎"織田霧刃がいるのだ。
 その二人と出会う前の体力の消耗は避けたかった。
 すべての敵を避けて行こうとは思わなかったが、この大蛇のような巨大な化物が立ち塞がるとは思ってもみなかった。
「仕方ないね」
 ちとせは覚悟を決めて、神扇を広げた。
 それを合図にするかのように、悠樹の風が渦巻き、鈴音が世界蛇に向かって突進し、ロックが横に跳んだ。
「死すべき定めの人の子如きが、本気で我を屠る気とは、笑止!」
 世界蛇が巨大な首をもたげて、舌をちらつかせた。

 


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