魂を貪るもの
其の九 運命(ノルン)の嘲笑
4.約束

 回る、回る、運命の車輪。
 カラカラと、カラカラと。
 音を立て、回すは女神三姉妹。

 純白の髪が湿り気を残して額に張りついている。
 彼女は、嵐であった昨晩からずっと、この『ヴァルハラ』を中心に猫ヶ崎全体を望むことができる崖の上に立っていた。
 一晩中、豪雨に打たれながらも、決して閉じることなく世界樹を見つめ続けていた神秘的な黄金の瞳を閉じ、静かに息を吐いた。
「この世界が始まる遥か以前。唯一人存在していた男がいました」
 冷え切った彼女の唇から言葉が零れ落ちる。
「何故なら、この世界の前に存在していた世界を滅ぼしたのが、彼だったからです」
 声は小鳥の囀りよりも美しい。
「彼は、その世界の、さらに前の世界をも破滅に導きました。その前も、その前も……」
 その前も、その前も、その前も……。
 原初の世界から、まったく変わることのない普遍の摂理。
「すべての世界で、破滅を阻止しようとした者たちがいましたが、ことごとく、彼に討ち滅ぼされました。彼は触れた者を焼き尽くす極熱の炎を統べ、不死身の肉体を持っていたからです」
 炎は浄化の力。
 穢れたものを全て焼き尽くし、灰塵と化す。
「ですが、それの真実は、『彼が最強』という運命の女神の決定を受けていたためでしかない。運命が彼に最強の力を与え、『太陽が東から昇り、西に沈む』が如く、彼が勝利することを当然の事象に定めたに過ぎないのです。世界が罪穢れに満ちた時、再生への浄化を行なわせるために」
 運命神(ノルン)三姉妹の祝福であり、呪いであり、嘲笑、それが彼。
 『勝利するようにできている』決定事項であり、『負けるようにはできていない』のだ。
「彼は運命に呪縛された真の自由を知らぬ黒き炎の魔神。いかに足掻こうと運命の裁きを変えられはしない」
 哀しさを宿した黄金色の瞳を再び開き、卵の薄皮の如き白い髪を持った彼女は崖から運命を見続ける。

 ちとせたちが神社に戻ったのは夕方近くだった。
 彼女たちは今、葵とロックを交えて、作戦会議を開いている。
 レイチェリアは、「むずかしい話はわかんな〜い」と言って、露天風呂に逃げ込んでいた。
 が、実際にはそれほど難しい作戦会議、というほどのものではない。
 要は、明日の準備だった。
「ん〜、おいしいね。このお菓子」
 ちとせが、見るからに甘そうなデザートを口の中に放り込んで嬉しそうに目を細める。
 ロックのお手製である。
「カッサータというんですヨ」
「うおおっ、甘っ! 激甘だっ!」
 一気に頬張った迅雷が、あまりの甘さに目を白黒させている。
「イタリアのマフィアは皆、こんなもん食ってんのか?」
「いや、そう言うわけでは……」
 ロックが苦笑して、水を差し出した。
 迅雷はそれで口の中の甘さを一掃する。
「あたしもイタリアで食べたな。その激甘のお菓子……」
 鈴音が迅雷を見ながら遠い目で言う。
 きっと同じように、食べてみたら激甘で水を一気飲みしたに違いない。
 もっとも、鈴音の場合、水ではなく酒だったということも考えられるが。
「シチリアの郷土菓子ですからネ」
「ふふっ、ボクは気に入ったよ、これ。それで、話の続きなんだけど、姉さんは居残り組みね?」
「ごめんなさい。私は神社を守らねばいけませんから」
 葵が申し訳なさそうに答えた。
 世界樹の影響で生まれた魔物が霊地の一つであるこの神社を狙ってくるのを守らなくてはいけないのだという。
 この神代神社も、神々の時代から続くとされる由緒正しい神社であり、(いにしえ)から街を鎮護している建物の一つだ。
 破壊されれば、街にどのような悪影響が起こるかわからない。
 それが、葵が述べた神社に残る理由だった。
「でも、それだと、『ヴァルハラ』で傷を負った場合、治療できる人間がいなくなりますね。まあ、仕方ないとは思いますけど」
 悠樹が腕を組んだ。
「それなんですけれど、私は今夜、治癒術を込めた勾玉を用意しておきますから、明日はそれを携えてください」
「すごいな、姉貴さん。そんなものまで作れんのか」
 迅雷の称賛に、葵は微笑んだ。
「私の力では四つか、五つぐらいが限界ですけれどね」
「それだけあれば、十分だよ」
 ちとせが姉に片目を瞑って見せた。
「鈴音さんと、ボクと悠樹、それにロックさんは『ヴァルハラ』行き。それに姉さんは居残りで、後は……迅雷先輩」
「おう!」
 当然、明日は先陣を切るつもりの迅雷は威勢良く応じた。
 腕が鳴る。
 そんな迅雷に、ちとせは言った。
「先輩は、居残り組みにさせてもらうわ」
「何っ?」
 迅雷が驚きの声を上げる。
「先輩には街の方を頼みたいのよ。今日が平穏だったからって、明日が平穏とはかぎらない。まして、ボクたちが『ヴァルハラ』で暴れるんだもの。何が起こるかわからないわ。街中に生えた世界樹の根っこも気になるしね」
 ちとせは、常に冷静な悠樹を怖いと言っていたが、自分も十分に冷徹な計算をできる娘だった。
 迅雷は唸った。
 理解はできる。
 だが、納得はできない。
 敵の本拠である『ヴァルハラ』の内部は、街とは比べられないほど危険なはずだ。
 ちとせたちに危険を任せ、自分だけ一歩引いて守りにまわる。
 ちとせとロックが、鈴音と悠樹を救出に行った時ですら、迅雷は断腸の想いで待っているだけだった。
 感情的に納得いかない。
 理で割り切れないものがあるのは確かなのだ。
「だ、だけどよ……」
 反論しようとする迅雷は葛藤に苛まれ、苦しそうだった。
「別に永遠の別れになるわけじゃないじゃない」
 ちとせは肩を竦め、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべ、迅雷の口を封じた。
 さらりとした軽い口調だった。
 永遠の別れになるわけじゃないじゃない。
 当然のように少女の口から流れ出た言葉に、迅雷の葛藤は吹き飛んでしまった。
「わかった。街は任せろ。おれはおれのやり方で戦おう」
「うん、任せるよ」
 懸念というものをまったく含んでいない調子で、ちとせが応じる。
「なら、……おれは、ここにいる必要はないか」
 迅雷は鈴音に視線を移した。
「負けるなよ」
 誰に負けるなとは言わない。
 自分自身に負けるな。
「ああ。おまえとの修行のおかげで、あたしは強くなれた」
「違う。強くなったのは、おまえ自身の力だ」
「迅雷……。おまえと出会えて良かったよ」
「おれもだ。鈴音」
「あ〜、何だか、そのセリフってば、お別れっぽいなあ」
 ちとせが表情を曇らせた。
 永遠の別れにはならないと言ったばかりなのに。
「ははっ、そうだな。なら、言い直そう」
 鈴音は一度、前髪をかき上げ払った。
 そして、右手のひらを拳に固めて、迅雷の顔の真正面に突き出す。
「迅雷、次に闘る時は、あたしが勝つ!」
 そう言って、鈴音がにやりと笑った。
 迅雷も、唇を笑みの形に歪めて、鈴音の拳に自分の拳を突き付ける。
「そう簡単に負けてやるかよ!」
 しばらく見詰め合った後、二人は拳を離した。
 迅雷が息を吐く。
「じゃあな」
 迅雷は、鈴音から、悠樹、葵、ロック、鈴音と順番に見渡してから、後ろを向いた。
 玄関まで歩いて行った時、遠くで水音がした。
 迅雷は何かを思い出したように動きを止めると、ばつが悪そうに一同を振り返った。
「レイチェを忘れてた」

 迅雷とレイチェリアが去り、夜が訪れた。
 夕飯を取り、軽い談笑をした後、各々は部屋へと帰り、明日の準備を始めた。
 深夜過ぎには、時折、葵が用意していた勾玉へ治癒霊術を込める儀式の音が聞こえてくるだけで、神代神社は珍しく静寂に包まれていた。

 悠樹はリビングで紅茶を啜っていた。
 テーブルの上には、先日から読みかけの推理小説が置いてある。
 先程、一度手にして、二、三ページ読み進めたあたりで内容が、まったく頭に入っていないことに気づき、しおりを挟んで置いたものだった。
 悠樹は紅茶を一口啜って、軽く息を吐いた。
 と、後ろで気配がした。
「まだ、起きてたんだ」
 ちとせだ。
 いつもポニーテールにしている長い髪を下ろしているので、印象が変わって見える。
 悠樹は、紅茶の入ったカップを置いた。
「眠れなくてね」
「悠樹は繊細だからね」
「ちとせも眠れないんじゃないの?」
「ボクは姉さんの手伝いをしていたから。もう、寝るよ。ぐっすりとね」
「ぐっすりね。でも、明日を意識しないで普通に過ごすのって、やっぱ難しいと思いよ。ぼくなんか、そこの推理小説、全然頭に入らなかったしさ」
「そういうもんかな?」
「だって、明日死ぬかもしれないよ?」
「ダイジョブ、死なないよ」
「自信たっぷりだね」
「まあね。ボクはまだ、おいしいものを食べたいし、もっと速く走りもしたい。勉強もしたいし、化粧もしたいし、歌も唄いたい。恋をして、結婚して、子供と遊びたい。まだまだ、これからやりたいことは、いろいろあるわ。ほら、どう考えても、まだ、死なない」
 『死にたくない』でも、『死ねない』でもなく、『死なない』であるところに、ちとせの良さがある。
「なるほどね」
 納得した顔で悠樹は頷いた。
「そんなに心配なら、悠樹にリラックスできるおまじないをして、あ・げ・る☆」
「おまじない?」
「そう、おまじない。由緒正しい太陽神の巫女神の血筋の娘がしてあげるんだから効果抜群だと思うよ」
 ちとせはそう言って悪戯っぽくウィンクをすると、悠樹の頬に口付けした。
 まるで予想していなかった奇襲を受けた悠樹は赤面しつつも、ちとせの長い髪に手を回して指ですくった。
「ありがとう、ちとせ」
「どういたしまして」
 ちとせは、極上の笑顔で返した。

 同時刻。
 鈴音は部屋の窓から外を見つめていた。
 気の抜けたような顔をしている。
 いつもの鋭い表情はない。
 虚ろな瞳で闇を傍観していた。
「静か、だな……」
 猫ヶ崎は闇の結界に包まれ、魑魅魍魎たちが跋扈している。
 だが、今、この瞬間は、それらと無縁と思えるほどに静かだった。
 明日は、『ヴァルハラ』に乗り込むのだ。
 鈴音は、この静寂の中で、頭と身体を休めるつもりだったが、なかなか寝つけずにいた。
 夜の闇を、眺めていた。
 ごんごん。
 扉を叩く音が響いた。
「鈴音サン。起きていますか?」
「ロックか。ああ、起きてるよ。入りな」
 夜中に男が訪ねてくれば、女性なら警戒すべきだろうが、鈴音はロックを部屋に招き入れた。
 ロックは信頼に値する男だったから。
 彼は珍しくサングラスを外し、ダークスーツを脱いだワイシャツ姿だった。
 透明感のある青い瞳が美しい。
「すみません。少し、お話をしたいと思いましてネ」
「話?」
 鈴音は、前髪をかきあげた。
「明日は、『ヴァルハラ』に突入ですネ」
「ああ。壮烈な戦いになるだろうさ。ロックも覚悟しとくんだな」
「ははっ、そうですネ。自分は鈴音サンの足手まといにならないことを祈りますヨ」
 ロックは頬を指でかいた。
「もっとも、霧刃の事は、ちとせや悠樹にさえもほとんど関係ない。あたしの問題だけどな」
「ちとせサンが聞いたら怒りますヨ、今の言葉」
「ああ。『ボクたち仲間でしょ』ってな。それに、世界樹のことは、もう個人の問題じゃない。それでも、霧刃のことだけは、あたしの問題さ」
 鈴音の言葉に、ロックは静かに頷いた。
 人は一人では生きられない。
 だが、一人で立ち向かわなければならないこともある。
 心から信頼できる仲間でも手を出せないことはある。
 それでも、支える力にはなれる。
 鈴音はすべてをわかっていて、霧刃のことは自分の問題だと言うのだった。
 見つめるロックに、鈴音は照れたように前髪をかきあげた。
「で、話ってのは、今話したことかい? それとも、緊張を解しにでもきたのか?」
「いいえ。余計な話をして、逆に緊張が高まってしまいましたヨ」
 ロックは頭に手を当てた。
 そして、鈴音を正面から見据えた。
 表情が引き締まり、瞳に真剣な光が宿る。
 鈴音は、ロックの雰囲気を感じ取り、襟を正した。
「鈴音サンは……」
 ロックは一呼吸置いた。
「鈴音サンは、『彼女』と決着をつけた後、どうするつもりなのですか?」
 鈴音にとって予想外の質問だった。
 目が自然に大きく見開かれる。
 彼女。
 織田霧刃。
 鈴音の姉であり、ロックのファミリーの仇である相手。
「決着をつけた後……」
 考えたことがなかった。
 霧刃を止める。
 止める。
 止まらなかったら?
 いや、止めてみせる。
 なら、止めたあとは?
「……わからない」
「そうですか」
 鈴音の答えに、ロックは静かに頷いた。
「オレは……」
 そして、言った。
「オレには、夢があります」
「夢?」
「ええ。夢です。先日、ちとせサンに、『ロックさんは料理が上手いからお店でも開いたら?』と言われたんですヨ」
「ははっ、それはイイかもな」
「オレも、流浪に飽きました。そろそろ腰を据えてもいいかもしれないとネ」
「そうか」
「店の名前も、もう決めてあるんですヨ」
「へぇ。何て言うんだい?」
「『Suono delle campana』。イタリア語で、『鈴の音色』です」
「えっ……」
「鈴音サン」
 ロックは鈴音の瞳を覗き込んだ。
 どきりっと、鈴音の心臓が撥ね上がる。
 頬が紅潮した。
「すべてに決着をつけることができたなら、オレと一緒に……、そう、オレと一緒に暮らしてくれませんか?」
 鈴音は、頭の中が真っ白になった。
 何を言われたのか、瞬間には理解できなかった。
 砂に水が染み込むように、脳に告白が染み込んできた。
 心に染み込んできた。
「ロック……」
 鈴音の頬を一筋の涙が伝った。
「あれ……?」
 涙が止まらない。
「あたし、何で泣いてるんだろ」
 嬉しかった。
 嬉しいのに涙が、止め処なく溢れ出てくる。
「鈴音サン」
「ロック。あたしは、あたしは……」
 苦しかった。
 なぜか、無性に苦しかった。
「あたしは……」
 ロックは、鈴音の背中に手を回すと、優しく抱き締めた。
 鈴音は嗚咽を洩らしながら、目を閉じた。
 ロックの温もりが伝わってくる。
「あたたかい」
 鈴音は、ロックと唇を重ねた。
 二人は瞬く間に一つに溶け合った。


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