魂を貪るもの
其の九 運命(ノルン)の嘲笑
2.猫ヶ崎高校にて

 ――明朝。
 一晩中、暴風を伴って降りつづけた豪雨が止んでも、猫ヶ崎の空には暗雲が渦巻いていた。
 胸を圧迫するような瘴気が街中を覆い隠し、街全体を境界線で囲むようにして、闇が存在していた。
 闇は結界のように、外界と猫ヶ崎市を遮断していた。
 白昼、物の怪や悪魔が平然と姿を現し、人々を驚愕と恐怖に陥れ始めた。
 そして、『ヴィーグリーズ』の猫ヶ崎支社『ヴァルハラ』に異変が起きていた。
 猫ヶ崎の天空を貫く尖塔のように建っていた超高層ビルは、一夜にして変貌を遂げていたのだ。
 巨木。
 巨大な樹木が、建物内から、縦横無尽に枝を伸ばし、『ヴァルハラ』自体を呑み込んでいた。
 その樹木は猫ヶ崎市全土に縦横無尽に根を広げ、街の其処彼処に巨大な根の姿が確認された。
 そして、時折、不気味な赤色に発光し、脈打つ。
 まるで、猫ヶ崎から、何かの力を吸い上げるように……。

「──この事態を何と言い表して良いのか。私たちには判断もつきません。猫ヶ崎を覆い尽くす『闇』は外部との連絡を完全に遮断しています。電話はおろか、自衛隊の通信も使えない状態なのです」
 女性キャスターが厳しい表情でニュースを伝えている。
「この状況を重く見た市長は、『吾妻コンツェルン』及びその中核企業である『吾妻グループ本社』に援助を申し入れました。これに対して、『吾妻コンツェルン』は自警団を投入して市民の安全を守るとともに、事態を打開すべく、全力で調査をすることを約束しました」
 『吾妻コンツェルン』は、猫ヶ崎の建設・鉄鋼・流通・通信・メディア関係を網羅している猫ヶ崎最大の、そして世界でも屈指の財力を誇るグループ企業だ。
 その現総帥であり、『吾妻グループ本社』の代表取締役でもある吾妻 龍大(りゅうだい)は、猫ヶ崎高校の理事長も務めている傑物だが、性格は温和であり、市民に慕われている。
「また、最近、この街に進出して来た北欧系企業『ヴィーグリーズ』の支社ビル『ヴァルハラ』が巨大な樹木に飲み込まれるという事件があり、猫ヶ崎市警は怪現象との関連を……」
 画面が切り替わり、異様を映し出した。
 それは、昨日まで『ヴィーグリーズ』の猫ヶ崎支社だったものだった。

「世界樹だね」
 ちとせは画面を見て、大きく息を吐いた。
「しかし、『ヴィーグリーズ』の本拠地が飲み込まれちまったってのは、どういうわけだ?」
 迅雷の問いに、鈴音が口を開いた。
「制御を失って自滅しちまったか、それとも最初からこうなることが目的だったか、だな」
「どっちにても、本格的に危険な状況になって来たことには変わりないですね」
 悠樹が首を振った。
 どうするべきか。
 『ヴァルハラ』に乗り込むべきか。
 それは危険が大きい。
 今の状況を把握できていないからだ。
 それとも、『ヴィーグリーズ』が何か仕掛けて来るのを待つべきか。
 それは下策だ。
 いたずらに時間を費やせば、それだけ世界樹は成長を続ける。
 なら、どうするべきか。
「今日一日様子を見て、『ヴィーグリーズ』に動きがなければ、『ヴァルハラ』に乗り込もう」
 それは、中庸だが、堅実な選択だ。

「(一夜にして世界樹がここまで成長するとは……)」
 ケルベロスの驚嘆の響きを帯びた声に、織田霧刃は僅かに瞳を動かした。
「(ランディ・ウェルザーズ。……世界樹を抑えきれぬか。それとも、制御して成長させたか)」
 ケルベロスが呟く。
 霧刃は、そのどちらが真実であろうと、あまり興味はなさそうだった。
 いつも何事にも無関心な態度だ。
 それが命懸けの戦いでもあっても、だ。
 細雪を振るい、天武夢幻流を使役し、自らの身体が壊れていくことにさえ無頓着のように思える。
 ただ、興奮してくると狂気に取り憑かれたように分別がなくなった。
 霧刃が力を欲していることは知っている。
 ひたすらに強い力を。
 その霧刃と行動を供にして来て、死を司る魔獣は時たま疑問に駆られた。
 織田霧刃にとって『生きる』ことは、どうでも良いことなのか、と。
 だが、ケルベロスは、霧刃に直接問うことはなかった。
 と、猫ヶ崎市警の警官や、猫ヶ崎テレビの報道陣が『ヴァルハラ』を遠巻きにしているのが見えた。
 誰も『ヴァルハラ』に近づこうとしない。
 いや、近づかないのではない。
 近づけないのだ。
 理由は、瘴気だ。
 世界樹の周りを空気が暗くなるほどの瘴気が取り巻いている。
 霧刃とケルベロスは気にした風もなく、その瘴気の空間に足を踏み入れた。
 重い。
 それに暗く、視界が悪い。
 『ヴァルハラ』に近づけば近づくほど、空気が重くなってくるのがわかる。
 常人ならばすぐさま気を失うか、下手をすれば命を失いかねない。
 霧刃の腰で細雪が微かに揺れた。
 と、霧刃の視線が鋭くなった。
 前方の瘴気の濃度が変わり、闇が凝縮する。
 ヒヒヒッと、耳障りな笑い声が響いた。
 次いで、凝縮した闇が分裂し、幾つもの奇怪な姿を取った。
 あるものは、耳が尖り、口は奇妙に捻じ曲がり、顔の中心で一つ目が爛々と輝く鬼。
 あるものは、見上げるような巨体で、申し訳程度の布を腰に巻きつけ、巨大な斧を握り締めた怪物。
 あるものは、人の姿でありながら、全身が半透明で、顔についているのは口だけという物の怪。
 その他にも、ドロドロの液体に皺だらけの顔が張りついたものや、全身に無数の瞳がついた球体など不気味なものもいる。
「食らいたい。食らいたい」
「ひもじい。ひもじい」
「ウマソウダ。ウマソウダ」
 そのどれもが、品性の感じられない食欲に塗れた声とも思念ともつかぬものを霧刃に向けてきた。
「……」
 霧刃は平然と無数の妖魔(ワイルドハント)たちの中央に歩を進め、ケルベロスが従う。
 瘴気に一筋の光が閃いた。
 妖魔たちの動きが止まる。
 霧刃を襲うでもなく、逃げるでもなく。
 霧刃はその妖魔たちの間を抜けて、『ヴァルハラ』の正面玄関に着いた。
 ぴしっ。
 妖魔たちの身体に亀裂が走った。
 途端、血飛沫が上がる。
 硬直していた妖魔たちが細切れになっていた。
 そして、断末魔さえ上げることなく消滅する。
 ぱちぱちぱち……。
 玄関の影から拍手の音が聞こえ、凛としたスーツ姿の女が姿を現した。
「さすがは、"凍てつく炎"。抜刀の閃光しか見えなかった」
 瘴気の中でも、豪奢な金髪の輝きは失われない。
 "氷の魔狼"シギュン・グラム。
 霧刃は興味もなさそうに、シギュンに視線を向けた。
「掃除の手間が省けた。玄関の前は常に美しくにしておかなくては、我が社のイメージに関わることだからな」
 シギュンが右腕の義手で肩にかかった髪を後ろに流しながら言う。
 下手な冗談だ。
 拠点である超高層ビル『ヴァルハラ』自体が、世界樹に飲み込まれ、瘴気の壁に包まれているのだ。
 今更、玄関前の美しさの問題ではない。
 霧刃は黙殺した。
「世界樹の瘴気が、先程のような知性の欠片もない下級の妖魔どもを生み出している。ヨルムンガンドの結界が張り巡らされている『ヴァルハラ』内でさえ、抑えは効かない。面倒なことだが」
 シギュンの言葉には余裕が感じられる。
 すべては、ランディ・ウェルザーズの思惑。
 この世界樹の状況は予想外のことではなく、望んでなった、というわけか。
「もっとも、この世界樹の瘴気のおかげで、小うるさい報道陣も近づけないから静かで良いかもしれない」
 シギュン・グラムが懐から煙草を取り出し、火を点けた。

「まだ平穏みたいだね」
 街を見て周っての、ちとせの第一の感想はそれだった。
 だが、それは、ちとせが想像していたよりは遥かに平穏だったということに過ぎない。
 猫ヶ崎市は世界樹によって外界と遮断され、世界樹の根が街中に蔓延(はびこ)っていた。
 不気味だった。
 嵐の前の静けさ。
 陳腐だが、その表現が今の猫ヶ崎にもっとも合っている表現だった。
 ちとせは、それを敏感に感じ取って、憂鬱そうに息を吐いた。
 ちとせ、悠樹、鈴音、迅雷は、街を一通り周って、猫ヶ崎高校へ訪れていた。
 葵、レイチェリア、ロックの姿はない。
 葵たちは、この先、何が起こるかわからないので、神代神社に残っているのだ。
「学校も無事みたいだけど」
 今日は日曜日。
 本来なら休みだが、広大な敷地と最新鋭の設備を持つ猫ヶ崎高校は地震などの災害に備えた緊急避難場所に指定されており、近隣一帯の人々が集まって来ていた。
 驚愕、困惑といった表情がどの人たちからも感じられる。
 緊張した面持ちではあるが、意外に怯えの色は少ない。
 避難というより、今の街の情報を求めて集まっているようだ。
 それは実害が大規模に起こっていない証拠ともいえた。
「『会議は踊る。されど進まず』ってとこか」
 ざわめく群集を見ながら、迅雷が言った。
「別に会議してないじゃん」
「言葉のあやだ」
 ちとせの突っ込みを受け、迅雷が頭を掻いた。
「さて、情報を集めたいところですね。ここで、こうしていても埒があきませんから」
 悠樹が周りをざっと見回してから、提案した。
「ほまれ先輩を探しましょう」
「なぬっ!?」
 悠樹の一言に、迅雷が慌てた。
「何で、ほまれを探すんだよ!?」
「ほまれって、誰だ?」
 鈴音がちとせに尋ねる。
 彼女には猫ヶ崎市のことについては、ほとんど分からない。
 猫ヶ崎高校内のことならば、尚更だ。
 内輪の会話ほど部外者につまらないものはない。
吾妻(あづま) ほまれ先輩。猫ヶ崎高校の生徒会長だよ」
「ふぅん。それにしても、吾妻か。もしかして、『吾妻コンツェルン』と関係あるのか」
「さっすが鈴音さん、勘がイイね。ほまれ先輩は『吾妻コンツェルン』の総帥のひとり娘だよ」
 ちとせの説明を聞いて、鈴音は納得したように頷いた。
 街最大の実力者のひとり娘であり、生徒会会長でもある吾妻ほまれの手許にならば、いろいろな情報も入ってくることだろう。
「なるほど、学校で情報を集めるなら、そいつに聞くのが一番ってことか」
「そゆこと」
「おれはやめたほうが良いと思うぞ」
 迅雷は一人、反対姿勢を取った。
「何でだよ?」
 怪訝そうに鈴音が尋ねる。
「迅雷先輩と、ほまれ先輩は仲悪いのよね」
「そう言えば、前に聞いたことがあるな。態度が悪いから、生徒会長に目をつけられてるって」
「と、とにかく、おれは反対だ」
 反対意見で押し切ろうとする迅雷を見ながら、ちとせが、ぽんっと手を叩いた。
「ん〜、なら、香澄ちゃんを探そう!」
「をい……」
 迅雷の顔が引き攣った。
「ええっと……、香澄って、『歩く書庫』だっけ? 風紀委員長の?」
 鈴音は、以前に霧刃の情報を求めていた時、猫ヶ崎高校の関係者として、天之川香澄の名が挙がり、悠樹が『歩く書庫』と表現したのを覚えていた。
「す、鈴音さん。余計なこと覚えてますね。本人の前で言わないでくださいよ」
 少し焦った声で言う悠樹に、鈴音は笑いながら頷いた。
 そして、そこで、あることにふと気づいた。
「ん、風紀委員長って、確か……」
 鈴音の視線が、迅雷に向く。
 迅雷は動揺した。
 鈴音の視線が意地の悪いものに変化していたからだ。
「迅雷の……」
「ぐっ……」
 気づかれた。
 風紀委員長は迅雷の彼女。
 鈴音は、そう聞いている。
 鈴音の唇が、にやりと歪んだ。
「よし、決定。香澄ってヤツを探そう」
「て、テメーらは……」
 迅雷が内心の動揺を怒りに変えて、ちとせと鈴音に怒鳴ろうとした瞬間、一同の背後から声がかかった。
「あれっ、神代先輩!」
「火乃くんじゃないの」
 声の主を見て、ちとせが手を振る。
 後ろに立っていたのは、シャロル・シャラレイの占いについての情報を提供してくれたパソコン部員の火乃浩平だった。
「元気してた?」
「ええ。街がおかしくなってますけど、私は無事です」
「街の人、皆ここに避難して来てるの?」
「だいたいの人は。状況がはっきりとしてないので、避難して来てない人もいますよ」
「ま、ボクたちも今来たばっかだし、別に避難しに来たわけでもないしね」
「クラスと部活には顔を出しておいた方が良いですよ。神代先輩や八神先輩の姿が見えないのも珍しいですからね」
「剣道部はどうだ?」
「おわっ、影野先輩も一緒でしたか」
「おう」
「剣道部や空手部は校内の見回りをしていますよ。天之川先輩の提案で」
「そうか。香澄は見回りか」
 腕組みをする迅雷。
「で、火乃くんは何してんの?」
「私は、吾妻会長の言いつけで、『アーク』を駆使して防護策を考えているんですよ」
 そう言いながら、火乃は自慢の人工知能搭載のノートパソコンを取り出して、キーを叩いた。
「猫ヶ崎高校内の重要警備ポイントをクリックして……」
 火乃が猫ヶ崎高校の見取り図を画面に映し出す。
 校内の施設の何箇所かが、点滅していた。
 その、一箇所にポインターを持っていく。
「グキキキッ」
 妙な声が響いた。
 火乃が、キョロキョロと辺りを見回す。
 ちとせと目があったが、首を傾げられてしまった。
 火乃は視線を『アーク』に戻す。
「えっ? 画面が……」
 『アーク』の画面に映し出されているはずの校内見取り図は消えていた。
 その代わりにディスプレイには、緑色の肌をした口が頬まで裂けた悪魔のような顔が現れていた。
「グキキキッ」
 『アーク』の全体でスパークが弾けた。
「うっわああぁ!」
 火乃は、『アーク』を取り落とす。
「私の『アーク』がぁぁ!?」
 画面の中の魔物が、不気味な機械音声で笑った。
「キキッ、キキキッ」
 そして、その魔物はディスプレイから腕を伸ばし、這い出して来た。

「グレムリンだね!」
 ちとせが叫ぶ。
 グレムリンは二十世紀初頭にイギリスの空軍パイロットの間で存在が噂され始めた妖魔の一種だ。  人間を嫌っており、機械やコンピュータを壊すのを趣味としているといわれる。
「雑魚だな。手っ取り早くいくか」
 鈴音が面倒くさそうにしながらも、グレムリンに右の手のひらを向けた。
 青白い霊気が、収束していく。
 その輝きが放たれようとした瞬間。
 ぽん!
 ぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんっ!
 いやに威勢の鼓の音が響き渡った。
 鈴音が顔に疑問符を張りつけながら音の方を振り返ると、一人の女生徒が立っていた。
 なぜか、モップを手に握っている。
 足元には、一匹の毛並みの良い黒猫。
 そして、その傍らにスピーカーが設置されている。
 どうやら、鼓の音はそこから流れているようだ。
「……一つ」
 女生徒は静かに言った。
「人の世の生き血を啜り。……二つ、不埒な悪行三昧。……三つ、醜い浮世の鬼を……」
 そこまで淀みなく喋ると、女生徒はモップを刀のように構えた。
「退治てくれよう、音無スー!」
 ビシッと、モップで、グレムリンを指す女生徒。
「グギィ?」
 グレムリンは、女生徒に爛々と輝く赤い目を向ける。
「アギィ、アギィ……」
 不愉快そうな声を牙の間から漏らし、蝙蝠のような翼で羽ばたいた。
 そして、凶悪に鋭い鉤爪を振り上げながら、女生徒に飛びかかった。
「成敗!」
 女生徒は、カッと目を見開くとモップを一閃した。
「グギャアアァァッ!」
 その一撃をまともに食らって、グレムリンは地面に倒れて消滅した。
「フッ、悪の栄えたためしなし!」
 モップを刀に見立てて、決めのポーズを取る女生徒。
 ちとせは、そんな女生徒を気にする風もなくササッと、黒猫を取り上げた。
 そして、頬擦りをする。
「にゃーん。クロちゃん、にゃーん」
「うにゃあっ」
 もがく黒猫。
「ああっ、ちとせ、何すんのよ! カッコ良く決めたのに雰囲気が!?」
「スーちゃん。時代劇に凝るのもイイけど、モップはどうかと思うよ」
 ちとせが黒猫の毛皮の感触にうっとりしながら、女生徒に言った。
 鈴音は唖然としている。
「何だ、あれ?」
「音無スー。友だちですよ。自称正義の味方で時代劇マニア。文芸部ですけど」
 鈴音の問いに、悠樹が大らかに答えた。
 なぜ、自称正義の味方が文芸部なのだろう。
 素朴な疑問が鈴音の脳裏を過ぎる。
「時代劇マニア? ……まったく猫ヶ崎高校って変わってるヤツが多いな」
 ちとせや迅雷を横目で見ながら、鈴音が言う。
「ていうか、平和だ」
 鈴音は、前髪をかきあげた。


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