魂を貪るもの
其の九 運命(ノルン)の嘲笑
1.怒りの日

 険しい崖の上に、一人の女性が佇んでいる。
 腰まである長い髪は、卵の殻の中の薄皮のように白い。
 その白髪が風に流れ、女性は閉じていた目を開けた。
 黄金色の光が瞳を染め上げる。
 その視線の先にあるのは、北欧系大企業『ヴィーグリーズ』の猫ヶ崎進出の象徴といわれる超高層ビル『ヴァルハラ』だ。
「スルトよ。極炎の魔王よ」
 哀しみと、怒りと、絶望と、嘲笑を綯交ぜにした複雑な声。
「あなたがいかに策謀を巡らせようと、『裁きの刻』から逃れることはできない」
 美しく儚い世界は、穢れてしまった。
 人の罪は重く、天の怒り、大地の嘆きは、留まることを知らない。
 絶望した長女(ウルド)は愚かしさを嘆き、仲裁すべき次女(ヴェルダンディ)は狂おしさを嘲笑し、希望を持った末女(スクルド)は怒りのうちに裁断を迫る。
 過去は過ち、現在は昏く、未来は閉ざされる。
 三姉妹の哀しみの唄が響き渡り、紡がれし糸を断ち切る。
「そう、あなたとて運命には逆らえない。炎の役割は世界を灰塵に帰し、破壊による浄化を行うこと」
 女性の黄金の瞳が、哀れみに染まった。
 光も闇も裁きを受けることになる。
「すべてが見える。それは、とても惨酷なこと」
 見たくないものが見える。
 知りたくないものを知る。
「闇に堕する寸前に脱した娘は闇を斬り裂く光となり、闇に堕し心を凍てつかせた娘は光を燃やし尽くす闇となる」
 すべては、見通した必然。
 複雑に張り巡らされた宿命の会合。
「光と闇が交差し、運命の女神は世界樹を()でる」
 未来は変わらない。
 滅びの未来。
 残虐なる行き先。
 哀しみの結末。
「私には、未来を見ることができても、変えることはできない」
 白磁の頬を一筋の涙が伝った。

 ――がしゃんっ!
 床に叩きつけられたオールド・ファッションド・グラスが砕け散った。
 氷とグラスの破片が床に散らばり、『生命の水(アクアウィータエ)』を語源とする北欧の蒸留酒(アクアビット)が床に染みをつくる。
 ミリア・レインバックは顔を紅潮させ、酷く荒れていた。
「バカな! そんなバカなことがあってたまるもんですか!」
 "凍てつく炎"を落とし入れようとした罠。
 筆頭幹部シギュン・グラムの右腕を奪った降魔師の少女を始末し、"凍てつく炎"の妹、織田鈴音を奴隷にするために拷問にかけた。
 その行為が見事に水泡に帰してしまった。
 拷問を中断し、『ヴァルハラ』に帰還した隙に、鈴音に逃げられてしまったのだ。
 しかも、見張りの話では、自分に忠誠を誓ったはずの少年に裏切られ、始末したはずの降魔師の少女も生きていたという。
 世界がぐるになって自分を騙しているとしか思えないような展開だった。
 "凍てつく炎"の澄ました顔が脳裏を横切る。
「あの女はいつも、わたくしを見下している!」
 あの女は、総帥のランディ・ウェルザーズと筆頭幹部シギュン・グラム、その二人に気に入られている。
 ミリアは、シギュンの右腕の仇である降魔師の少女の仲間として、″凍てつく炎″の妹、織田鈴音を捕らえた。
 そして、仲間の居場所を吐かせるために『尋問』中だと、ランディ・ウェルザーズに述べた。
 降魔師の少女以外の鈴音の仲間を生かしておいたのは、『尋問』へ疑惑をもたれないための保険だった。
 そこまで、策動したにも関わらず、ミリアは敗北感に打ちひしがれることになった。
 ランディ・ウェルザーズは、ミリアの″凍てつく炎″を『尋問』にかける必要があるという進言を退けたのだ。
 そして、最悪の結果として、鈴音に逃げられてしまった。
「このままでは、わたくしの気が収まりませんわ!」
 一目で十年来の友人のように打ち解けあう関係もあれば、十年付き合ってもよそよそしい関係もある。
 ミリアと霧刃の相性は最悪なのだろう。
 考えれば、考えるほど腹が立つ。
 ミリアは爪を噛んだ。

「落ちついた方が良いですね。レインバック殿」
「誰!?」
 唐突な呼びかけの主を、ヒステリックな声で誰何しながら、ミリア・レインバックは部屋を見まわした。
 ミリアのプライドが警報を鳴らす。
 何人も乱れた自分を嘲笑うことは許さない。
「私です」
 薄暗いランプに影が揺らめいた。
 きいっ、と音を立てて、ドアがゆっくりと開いた。
 端正な顔立ちをした長髪の男――ヘルセフィアス・ニーブルヘイムが立っていた。
「へ、ヘルセフィアス殿」
 シギュン・グラムに次ぐ幹部の地位にある男だ。
 そして、霧刃の妹を捕らえて手柄にしろと進言してくれた男。
「どうやら、また、"凍てつく炎"のことで、お悩みのようですね」
「!」
 ミリアの表情が狼狽の色に染まる。
「確かに、あの女は異質な存在。組織を破綻に追い込むきっかけとなるやもしれません」
 ヘルセフィアスが、ミリアの表情を伺いながら続けた。
「総帥も、シギュン殿も寛容過ぎる。そうは思いませんか?」
「……ヘルセフィアス殿」
「ヘルセフィアスで結構です」
 ヘルセフィアスは、ミリアへ甘美な声で語り続ける。
「私が力になって差し上げましょう。レインバック殿。あなたは誰よりも美しい」
「……ヘルセフィアス」
「フフフッ、さあ、私とともに……」
 ヘルセフィアスが、手を差し伸べた。
 目を潤ませ、手を重ねてくるミリアを見て、ヘルセフィアスは満足そうにほくそ笑んだ。

 すでに時刻は宵に差しかかろうとしていた。
 満天の星空ではない。
 暗雲が星々を覆い隠し、月の光を遮っている。
 闇夜だ。
 ちとせたちは、その闇に紛れて無事に廃工場を脱し、神代神社へと戻っていた。
 一足先に帰っていた迅雷と葵、レイチェリアが出向かえてくれた。
 そして、葵はすぐに鈴音の治療に取り掛かった。
「痛っ。あのサド秘書め。派手にやってくれやがって」
 鈴音が身体に走る痛みに悪態をつく。
「ごめんなさい。私のせいで、鈴音さん、こんなに酷い傷を……」
 葵は鈴音の背中に治癒を施しながら、頭を垂れた。
 ちとせとロックが鈴音と悠樹を助けに行ったあと、彼女はすぐに目を覚ました。
 そして、自分が人質になり、手の出せない鈴音が捕まったことやちとせが激しく痛めつけられたことを知ったのだ。
 だが、葵は悲嘆にはくれなかった。
 自分が足手まといになったことを後悔するよりも、二人が帰ってくることを祈り、考え、治癒術の補助になる道具を整えていた。
「葵のせいじゃないさ。戦っていれば傷つくのは当たり前。その覚悟はしてるよ」
「私は、その人が二度と傷つかないことを祈って治癒をしますのに」
「わかってるよ」
 鈴音の傷はもうほとんど塞がっているが、まだ痣の残っている部分もある。
 葵の治癒を受ける前は、女性の象徴でもある豊かな胸にも裂傷を負っていたのだ。
 それに加え、治療にあたった葵と現場にいた悠樹だけが知っていることだったが、激しい拷問により、精根を絞り取られながら、女性のもっとも大事な部分さえも徹底的に痛めつけられていたのだ。
 鈴音の消耗は見た目以上のものがあるはずだが、拷問現場から脱出する時も、治療の最中も、弱音を一言も吐かなかった。
 だが、その姿が痛々しいことは隠しようもない。
「傷だらけの道、過酷な宿命。いや、運命なのか……」
 迅雷がぽつりと言った。
 その呟きを鈴音は聞き逃さなかった。
「運命、だって?」
 鈴音が小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、迅雷を見た。
「おまえが、そんなこと言うとはな」
「……」
「そんなもん、あたしは信じない。生きる意味がなくなるだろ?」
 鈴音の目は笑っていない。
「確かに数奇な力ってのはあるだろうさ。霊力だって人知を超えてる力だからな」
 鈴音は気に入らないことがあると、よくこの表情をする。
 短い間の付き合いだけで、迅雷はそのことを知っていた。
 だが、今の鈴音の表情は、今まで迅雷が見た中で、一番鋭い目つきだった。
「でもよ、そんなものは、『生きる』って上じゃ微々たるものに過ぎない。そういうことさ」
 すべての事象が運命の奴隷ならば、生など必要ないではないか。
 生命の無限の営みは停止し、ただ生まれ、ただ死ぬ。
 あってもなくても同じ、何をしても同じ結果。
 馬鹿げた仕掛けではないか。
 それならば、最初からこの世などというものはいらない。
 無で良い。
 運命など存在しないからこそ、生命は生まれ、育まれ、種として変わっていく。
 それが鈴音の論理だった。
「運命なんてのがあるとするなら、それは『人』そのものさ。数多の意志と意志のぶつかり合い。それが織り成す事象の流れに過ぎないってな」
「そうそう。猫は運命なんて考えない」
 ちとせが真顔で言った。
「ん、何だそりゃ?」
 鈴音が素っ頓狂な顔で、ちとせを見た。
「いや、そういうもんじゃないの? 深く考えたら鈴音さんのいう通り生きる意味自体を見失う。ボクだって運命なんていうのはイイことが起きた時にしか信じないよ」
「ははっ、ちとせらしいな。でも、そういう考え方が、あたしは好きだぜ」
「もちのろん☆」
「ところで、ちとせのケガは大丈夫なのか?」
「ダイジョブだよ。まぁ、傷が残ったりしたら、悠樹に責任を取ってもらうから」
「が〜ん!?」
「手加減しないのが悪いのよ」
 ちとせが目を細めて言った。
「あああっ、どうやらぼくの判断は間違っていたみたいだ」
 悠樹は頭を抱えた。
「アタシを置いて行った罰ですね」
 レイチェリアがすかさず追撃する。
「レ、レイチェは、自分で残ったんじゃ……」
 悠樹が頭を抱えながらも、レイチェリアに反論を試みた。
「そうだっけ?」
「違うよ。迅雷先輩が猫耳山の中腹で待ってろって言ったのよ」
 ちとせの言葉に、レイチェリアは大きく頷く。
「そうですね。……てことで、迅雷サマに罰を与えます。さあ、迅雷サマの精気を……」
 レイチェリアが、にやりと笑って、迅雷に抱きついた。
「ぐおおおっ、やめろ! ていうか、罰ってなんだぁ!?」
「ア〜ン。迅雷サマのイケず〜」
「おまえは、ただ腹減っただけだろうが!?」
 叫ぶ迅雷に、レイチェリアは、おもむろに黒縁眼鏡を取り出した。
 そして、それを掛けると真顔で喋り始める。
「食欲は大脳が司る三大欲求の一つで……」
 迅雷も悠樹の隣りで頭を抱えた。
「とにかく、だ」
 鈴音が、苦笑しながら息を吐いた。
「葵が気にすることじゃないさ。悪いのは、あのミリア・レインバックとかいうサド女だからな」
「わかりました」
「よろしいっと」
 葵が頷くのを確認して、鈴音は脱いでいた上着を羽織った。
 上着と言っても悠樹のワイシャツなのだが。
「んじゃ、あたしは風呂入って来るよ」
「普通のお風呂ですか? それとも露天風呂ですか?」
「やっぱ、露天風呂だな! と、言いたいとこだが……」
 鈴音は窓から外を見て、ため息をついた。
「雲行きが怪しい。一雨来そうだから、普通の風呂にするわ」
「そうですか」
「あっ、そうそう。葵、熱燗を頼むわ。風呂上りに飲みてぇ」
「わかりました」
「鈴音さん、ホント好きなんだね、お酒」
「まあ、な」
 鈴音は頷くと立ち上がって、部屋の出口に向き直った。
 部屋の出口には、ロックが腕を組んで壁にもたれかかっていた。
 鈴音とロックの視線が合った。
 鈴音は、照れたように微笑して、前髪をかきあげた。
 ロックは、無言で片手を上げた。
「おっ、相思相愛かぁ?」
 頭を抱えていた迅雷が、ここぞとばかりに茶々を入れる。
 鈴音は笑顔で振り返った。
「殺すぞ」
「うぐっ、か、軽い冗談じゃねえか。……って、確か猫耳山でも同じような展開が……」
「お約束ってヤツだな」
 鈴音は前髪をかき上げると部屋から出て行った。

 織田霧刃は、暗雲に包まれる空を見上げていた。
 黒を基調とした千早に似た羽織、白衣、黒袴、腰には神刀・細雪を収めた黒金の鞘。
 幽鬼のごとき蒼白な顔に、濁った光を纏った真紅の瞳。
「運命」
 小さく呟き、傍らに控える魔獣ケルベロスを見やった。
「ケル……」
「何だ?」
 魔獣がくぐもった言葉を発し、首をもたげる。
「運命とは存在すると思うか?」
「我は冥界の番犬。死を語る存在。故に現世のことは解からぬ」
「……」
「有無の問題ではなく、信じる信じないの問題なのではないか?」
「……ならば、私にとって運命などは存在せぬということ」
 霧刃はケルベロスから視線を外し、羽織の前紐を締め直すと、目の前の虚空を負の感情で淀んだ瞳で睨みつける。
 そして、居合いの構えを取った。
「運命などはない。この世界を貫く唯一の真理は……力!」
 神刀・細雪を抜き放ち、青白い閃光が虚空を斬った。
「そうだ。力こそがすべてを斬り裂き、そして、すべてを……」
 その斬り裂いた空間から、波動が伝わってくる。
「正も邪もなし、唯有るは力のみ」
 瘴気が濃度を増し、細雪が脈打つように輝いた。
 霧刃の全身から禍禍しい真紅の霊気が立ち昇り、細雪の神々しい青白い光は、それに飲み込まれた。
「――(とき)は来た」
 血色の霊気に染まった刀身を、霧刃は鋭い視線で見つめ、さらに霊気を研ぎ澄ます。
 ぽつり、ぽつり、と、暗雲から天の悲涙が滴り始め、鏡のような鋭い刃に映る血色の悪い顔と暗い眼差しを消すように濡らしていった。

 超高層ビル『ヴァルハラ』の最上階の総帥室。
 ランディ・ウェルザーズとシギュン・グラムが向き合っている。
「レインバックが何やら策動していたようですが……」
「構わぬ。ミリア・レインバックは愚か者ではない。それだけで十分だ」
 シギュンの言葉に対してほとんど関心を示した様子もなく、ランディは葉巻に火を点けた。
「だが、ヘルセフィアス・ニーブルヘイム。あの男は愚か者だな」
 激しい罵詈とは違う静かな愚弄の言葉を口にして、ランディは酷薄に唇を歪めた。
「誰が駒かも、そして、世界樹が根付いた真の意味も解しておらぬ。だが、だからこそ、すべては私の思うがまま……」
 紫煙を吐く。
 そして、原初の炎たる男は、暗雲が立ち込める空に走る稲妻を憎々しげに睨みつけた。
 この自分を縛りつけるものなど存在してはならぬ。
 両目が紅く光った。
 煮え滾る血すら忌々しい。
 しかし、それも、もうすぐ終わる。
「――刻は来た」
 外の雨は暴風を纏い、豪雨の様相を呈して来た。

 降りしきる激しい雨の中。
 崖の上で、白く長い髪をした女性は憂いに満ちた黄金の瞳で『ヴァルハラ』を凝視し続けていた。
 その神へ挑むバベルの塔さながらの超高層ビルの中で脈打つ世界樹を見つめていた。
 いや、世界樹の中で蠢く運命を見つめていた。
 全身が暴雨に打たれ、びしょ濡れになることにすら構わず、一心に。
 雷光が眩い十字架を描き、灰色に覆われた世界に、白髪の女性の影絵を映し出した。
「――刻は来た」
 微かな呟きは、豪雨と落雷の轟音に掻き消された。

 ――ドクン……。
 ――ドクン、ドクン……。
 闇の中、脈動が弾ける。
 『ユグドラシル』は、急激に細胞分裂を繰り返し、己を増殖させていく。
 以前のような根だけの暴走とは、明確に違う。
 根は大地から霊力を吸い上げ、枝は縦横無尽に広がり、幹は天上を貫こうとするかのように伸び始めた。
 世界樹の葉はざわめき、刻の到来の警鐘を鳴らす。

 地の嘆きの刻。
 天の怒りの刻。
 血涙の償いの刻。
 光と闇の交錯の刻。

 ――『裁きの刻』は来たのだ。


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