魂を貪るもの
其の八 裁きの始まり
9.豹変

 ミリア・レインバックの奏でる竪琴の旋律は佳境に入ろうとしている。
 一体のベルセルクが鈴音を羽交い締めにして抑えつけ、その狂戦士とは別の一体が鈴音の腹を蹴り上げた。
 体内まで届く打撃に、鈴音の唇を割って血の混じった唾液が吐き出される。
「かはっ……!!」
 さらに連続で何発もの蹴りが、鈴音の腹に打ち込まれる。
 巨大な杭を打ち込まれるような衝撃が腹筋を抉り、内臓にダメージを刻んでいく。
「がふっ、がっ、うぐうっ!?」
 強烈な蹴りの連打に鈴音は苦痛の呻きを漏らすことしかできない。
「ごほっ、げほっ、げほっ、……ごぼっ!」
 背後のベルセルクが咳き込む鈴音の頭を掴んで持ち上げた。
「ぐ、あ……」
 ミシミシと頭蓋骨が嫌な音を立て、鈴音の額から血が流れ落ちる。
 そこへ、違うベルセルクが、今度は鈴音の背中に向かって拳の連打を打ち込む。
「あうっ、がっ、うああっ!」
 強力な殴打を無数に浴び続け、鈴音の意識も限界に来ていた。
「そろそろ頃合いかしらね。ここで死なれても困りますし……」
 手も足も出せない鈴音が痛めつけられるさまをもう少しだけ見ていたい気もしたが、ここで死なれては、"凍てつく炎"を罠に嵌めるという目的が達せなくなってしまう。
 それに、目的は一つだけでもない。
 ミリアは、竪琴を掻き鳴らす指を止めた。
 そして、ベルセルクたちに鈴音を連行するように命令を出そうとした、その瞬間。
「オラァァァァァッ!!」
 気合いの声が響き、鈴音の頭を鷲掴みにして絞め付けていたベルセルクの頭部が消失した。

 頭部を失ったベルセルクは、首から血を撒き散らせながら後ろに倒れた。
 同時に、解放された鈴音が、前のめりに地面へと崩れ落ちる。
「なっ!?」
 ミリア・レインバックが雄叫びの聞こえてきた方向に視線を向ける。
「織田鈴音の仲間か……!」
 背の高い逞しい男の姿が目に入る。
 ベルセルクの頭を吹き飛ばしたのは迅雷だった。
 続いて、鈴音の近くに駆け込む人影をミリアの視線が捉えた。
 先ほどまで鈴音に蹴りを加えていたベルセルクが、飛び込んできた人影を押し潰そうと拳を叩き降ろす。
 次の瞬間、銃声が響き渡り、ベルセルクの眉間に穴が穿たれた。
 硝煙の香りを漂わせるリボルバー。
 漆黒の髪に、ダークスーツ、そして、サングラス。
 ロック・コロネオーレ。
 眉間から煙を立たせながら巨体を揺らすベルセルクから視線をはずすと、ロックは倒れている鈴音を抱き起こそうと近づく。
「危ない、ロックさん!」
 ちとせの鋭い声が飛び、ロックが、はっとした表情で鈴音を抱き抱え、横に跳躍した。
 ぶぅんと唸りを発してロックがいた場所に巨大な拳が叩きつけられ、地面が大きく割れた。
 霊力のないロックが食らえば、ただでは済まない一撃だ。
 そして、恐るべきことに腕を振るったのは、リボルバーで眉間を撃ち抜かれたベルセルクだった。
 その強靭な生命力にロックは寒気を覚える。
「ぐがあああああっ!!」
 死を超越した狂戦士が、再び雄叫びを上げる。
「宇受賣さまっ!」
 ちとせが女神の力を降ろして、神扇に収束した霊気をベルセルクに放った。
「降魔! ……ということは、あの娘が筆頭幹部殿の右腕を奪った少女!」
 目の前で降臨した女神の力を感じ取ったミリアが、ちとせをシギュン・グラムの右腕を奪った少女だと確信する。
 ちとせの放った螺旋の矛のような霊気が、狂戦士の巨体の右半分を吹き飛ばした。
「烈風!」
 さらに、悠樹が、雄叫びを上げるベルセルクに風の刃を浴びせ、その全身をズタズタに切り裂いて、とどめを刺した。
 ロックが油断せずに、狂戦士が今度こそ動かなくなったのを確認して、鈴音へ視線を戻した。
「鈴音サン、しっかり!」
「ロ、ロックか……」
「鈴音さん!」
 ちとせと悠樹、そして、迅雷も駆け寄って来る。
「ちとせたちも一緒か。ごほっ……」
 血の混じった唾液が咳とともに、鈴音の口を割って出る。
 ロックがやさしく鈴音の唇を濡らす血を拭ってやる。
「ひどいことをしやがる」
 迅雷は、ぐったりとしている鈴音に視線を這わせた。
「情けない姿を見せちまったな。せっかく、修行に付き合ってもらったのに、よ」
「鈴音」
 あまりにも激しい暴行を受けたために、鈴音の衣服はボロボロに破けている。
 先ほど集中的に蹴りと殴打を食らわされていた腹部と背中の衣服は完全に削ぎ取られて、肌が露わになり、痛々しい紫色の痣が覗いていた。
「だが、鈴音ほどの使い手をどうやってここまで。どうやら、あの金髪の女がレイチェの言っていた夢魔のようだが」
 迅雷の言葉に反応して、ミリアが意外そうな顔で眉を片方跳ね上げた。
「わたくしの正体を見破るとは、人間にしては冴えていますわね」
 ミリアが迅雷に向かって感心したように首を振り、ロックと悠樹に視線を這わせる。
「フフフッ、他の男の子も美形が揃っているわね」
 そして、ちとせに向き直ると優雅に竪琴を掻き鳴らした。
「改めて名乗らせていただきますわ。わたくしは、『ヴィーグリーズ』の総帥秘書ミリア・レインバック」
「『ヴィーグリーズ』!」
 ちとせが神扇を構えるが、ミリアは気にした様子もなく続けた。
「そして、夢魔が一族にして、セイレーンと呼ばれし者」
「セイレーン。船乗りを美しい唄声で魅了するという夢魔ですね。すると、あの竪琴は……」
 悠樹がミリアの持っている銀の竪琴に注意を向けると、鈴音は相槌を打った。
「ああ、あの女は竪琴の呪曲を使う」
 鈴音が、よろめきながらも気力を振り絞って立ち上がる。
「……ちとせ、まずい時に来ちまったな。今は最悪のタイミングってヤツだぜ」
「最悪のタイミング?」
「わたくしにとっては、最高の瞬間ですわ」
 鈴音の言葉の意味を測りかねて困惑するちとせへ、ミリア・レインバックが艶然とした笑みを向ける。
 そのミリアを睨みつけ、鈴音が重い声で告げた。
「葵を人質に取られて、手が出せねえんだ。ごほっ……」
「姉さんが人質に!?」
 ちとせが驚いて、目を丸くする。
「その通りよ、降魔師の少女」
 ミリアは竪琴に這わせていた指を広げて、細くしなやかな腕を横に伸ばした。
 その先には、ベルセルクに気を失って捕らえられている葵の姿があった。
「ね、姉さん!?」
「姉貴さんを人質にして、手の出せない鈴音を痛めつけていたってわけか」
 迅雷が込み上げてくる怒りを抑えきれず、舌打ちする。
「汚いヤツだ」
「汚い? 負け犬の遠吠えね。考えてもみなさい。ほとんど労力を使わずに、あなたたち全員の動きを抑えている状態よ。相手を制するためのスマートな手法と言って欲しいですわ」
「スマートだと!? ふざけやがって!」
「イイわ。実践してあげる。わたくしの手法がいかに効率的であるかをね」
 怒りのあまりに目を剥く迅雷をミリアは嘲笑った。
「そうね。例えば……」
 少し思案した後、ミリアはちとせを指差した。
「降魔師の少女。身体に降ろしているチカラを消しなさい」
「なっ……」
 ちとせは神扇を握る手に力を込めたが、葵を人質に取られては言うことを聞くしかない。
 実の姉を見殺しにすることなどできはしない。
「さあ、早くしなさい。逆らえば、あなたのお姉さんの大きな胸を一寸刻みにするわよ」
「や、やめろ!」
 ちとせが怒りの視線でミリアを射抜く。
「そう思うなら、素直に従うことね」
「くっ……」
 ちとせの全身から霊気の奔流が立ち昇り、舞い上がった女神が悲哀の表情で天上へと消える。
 同時に、巫女装束に包まれていたちとせの容姿が猫ヶ崎高校の制服であるブレザーとチェック柄のプリーツスカート姿へと戻った。
「フフフッ、元から中々の霊力の持ち主みたいだけれど、降魔が解けてしまえば、戦闘能力のダウンは大きいわね」
 ミリアがちとせを見ながら言った。
「どうかしら? わたくしは命令するだけで、その娘の力を削いでみせたわ。これで、人質がいかにスマートな手法かわかったでしょう?」
 拳を握り締めて睨みつけてくる迅雷をミリアが挑発するような視線で見返す。
 ミリアの姦計に反論をしようと迅雷の口が開く。
「なるほど。よくわかりました」
 だが、返事をしたのは、迅雷ではなかった。
 声は、ちとせの隣から飛んだものだ。
 応えたのは、悠樹だった。
「ゆ、悠樹?」
 ちとせが驚いて、悠樹を見た。
「悠樹、今なんて?」
「『わかりました』と言ったんだよ、ちとせ」
 涼やかな瞳でそう言って、悠樹は髪の毛をかき上げた。
 そして、爽やかな微笑みを浮かべ、唐突にちとせの鳩尾を殴りつけた。
「かはっ!?」
 自分の腹に深々と打ち込まれた悠樹の拳を信じられないという風に見つめ、ちとせは苦痛の呻き声とともに息を吐き出した。
「悠樹!?」
 思いもかけない悠樹の突然の行動に迅雷が驚愕の声を上げる。
 驚いたのは、鈴音もロックも一緒だった。
 そして、敵であるはずのミリアの顔も驚きに包まれている。
 悠樹は苦痛に呻くちとせから拳を引き抜こうとはせず、逆にさらに力を込めて軋むほどにちとせの腹に捻じ込んだ。
「がっ!」
 これ以上ないほどに目を見開き、顔を苦悶の表情に歪めるちとせをよそに、悠樹はミリアへ涼しい表情を向ける。
「確か、お名前は、ミリアさんでしたね」
「どういうつもり?」
 ミリアは好奇と不審の混じった表情で悠樹を見返した。
 悠樹はちとせの鳩尾に食い込ませたまま拳を振るって、近くの岩にちとせを背中から叩きつけた。
 岩と拳に挟まれた状態で、強烈な衝撃がちとせの腹を貫く。
「あぐううぁっ!?」
 苦痛の悲鳴を上げ、ちとせが悶え苦しむが、悠樹は容赦なく拳に力を込めて、ちとせの鳩尾へ深々と押し込む。
「うああああっ……!」
「ちとせぇ!!」
 それを見て、絶叫する迅雷。
 悠樹がちとせを痛めつけている光景など、彼の想像の範疇を超えていた。
 ちとせの身体を突き抜けた衝撃が、打ち付けられている岩に放射状の亀裂を走らせている。
 悠樹の打撃に容赦など一切存在していない。
「がはぁっ……!」
 ちとせは腹を圧迫される衝撃に血の欠片の混じった息を吐き、ぐったりと項垂れた。
 その吐き出された血が、悠樹の頬にかかる。
「どういうつもりかと言われましても」
 悠樹は困ったような口調で、ミリアに応じる。
 そして、頬にかかった返り血を拭うために、ちとせの鳩尾に杭のように込まれていた拳を引き抜いた。
「うくっ……、ぁ……、げほっ、げほっ、げほっ……」
 ちとせは磔にされていた岩に寄り掛かるようにずるりと崩れ落ち、地面に尻餅をつく。
 鈍く痛む腹を押さえて力なく咳き込むと、新たに口から溢れ出た血が地面を点々と紅に染めていく。
「ミリアさん自身が今説明してくれたことを理解しただけです。葵さんを人質に取られては、ぼくたちに勝ち目はない」
 悠樹はロックに支えられてやっと立っている鈴音に目をやり、次にベルセルクに捕われている葵を見て、そして、最後にミリアに視線を戻した。
 そして、爽やかに言った。
「ミリアさん。ぼくはあなたに付くことにしました」
 悠樹の声は冷たく澄んでいた。
「何だって……?」
「……悠樹! テメーは何をトチ狂ってやがるんだ!!」
 鈴音が信じられないという表情で呟き、迅雷は悠樹の言葉に怒号を発した。
「なら、迅雷先輩は、このまま抵抗もできずに死にたいんですか?」
 迅雷は青筋を立てて、悠樹を睨んでいる。
「風は自由。風は誰にも縛ることはできない。一箇所に滞ることもない。そういうことです」
 悠樹の瞳を見た迅雷は背筋に震えが来るのを感じた。
 冷徹とか冷酷といった感情からすら離れた透明な目をしていた。
 昏く濁った目や怒りに染まった目をした人間ならば、迅雷は幾度も見たことがある。
 だが、悠樹の瞳は綺麗に澄んでいた。
 いや、澄み過ぎている。
 人形に命を吹き込んだら、こうなる。
 そんな瞳だった。
 だからこそ、迅雷は戦慄した。
「……イイわ。すごくイイわぁ。坊や、面白いことをしてくれますわねぇ」
 ミリア・レインバックは、この突発的に起こった事柄を理解し、歓迎した。
 今の悠樹のような行動をする人間を、ミリアは何人も知っていた。
 我が身が一番可愛い。
 それは人間の本能だ。
 他人のために尽くすとか、誰にでも優しく接するとか、それらはすべて自分が不利益を被らないための打算の行動に過ぎない。
 人間は自分の身を守るためなら、裏切りもするし、嘘も吐く。
 それがミリア・レインバックの考えだ。
 だから、悠樹の行動も、ミリアにとっては必然だった。
「坊やは、わたくしの愛人にしてあげてもイイわ」
 舌なめずりして心底楽しそうに頷き、ミリアが迅雷とロックに首を向ける。
「そっちの背の高い男と、サングラスのお兄さんにも、チャンスをあげましょうか?」
「誰がテメーなんぞに! 人質を取るような下衆の仲間になるくらいなら死んだ方がましだ!」
 迅雷は即答で否定した。
 言葉の後半は怒りを込めて、悠樹に向けたものだったが、風使いの少年は涼しい顔で聞き流していた。
 ロックの表情はサングラスに隠れてわからないが、ミリアの誘いを肯定するような雰囲気はない。
「頭のイイ子はあなただけみたいね、残念だけれど。まあ、イイわ。わたくしが用のあるのは、織田鈴音と降魔師の少女だけ。もっとも、降魔師の少女はついでですけれどね」
 ミリアの目配せを受けて、悠樹は腹を抑えて苦しんでいるちとせに向き直った。
「ゆ、悠樹……、どうして……?」
 ちとせは苦痛に顔を歪めながら、ケルベロスと戦った時、自分を命懸けで守ってくれた少年の瞳を覗き込んだ。
「……貢物です」
 悠樹は応えず、ちとせをミリアに向かって蹴り飛ばした。
「うあぁっ、ああ……!」
「フフフッ、ありがたく受け取るわ」
 ミリアは艶然とした微笑を浮かべて、転がってきたちとせの胸に蹴りを入れた。
「あぐうっ! ごほっ、ごほっ、ううぅっ……」
 胸を襲った衝撃に、ちとせの意識が朦朧となる。
「あらあら、いくら降魔が解けて防御力が下がっているからといっても、もうお休みってことはないわよね?」
 甲高い声で笑いながら、ミリアがちとせの胸をハイヒールで踏みつける。
「うあああっ……!」
 胸を潰される苦痛に、ちとせの失いかけていた意識がはっきりと覚醒する。
 ミリアはそれを見て淫靡に笑った。
「女子高生にしては、イイ胸をしているじゃない。おかげで、とっても踏みやすいわ」
「うぅっ、あっ、くっ、あああっ!」
 ちとせの呻きを聞いたミリアの瞳が嗜虐の愉悦に揺れる。
 そして、さも心地良さそうにハイヒールで、ちとせの豊かな胸を踏み躙り始める。
 つま先で捏ねるように、ヒールを突き刺すように、ブラウスを盛り上げている形の良い隆起をめちゃくちゃに踏み潰す。
「うくっ、ああっ!」
 ちとせが苦しめば苦しむほど、ミリアはその妖艶にして淫靡な笑みを深くした。
 あまりにも激しく胸部を踏みしだかれ、ちとせのブラウスのボタンが弾け飛んだ。
 肌蹴たブラウスから覗く、清潔さを感じさせる水色のブラジャーに包まれた高校生らしからぬ豊かな胸。
「あら、狙いやすくなったわね。せっかくだから思い切り潰してあげるわ」
 ミリアは唇の端を吊り上げ、ちとせの瑞々しいふくらみを狙って、高く上げた脚を勢いよく踏み落とした。
 どすんという鈍い音を立てて、ミリアのハイヒールがちとせの左胸をぐにゃりと踏み崩す。
「あああああっ!!」
 胸を踏み潰される激痛と屈辱に大きく首を振り、絶叫を上げるちとせ。
 ミリアは靴底から伝わってくる弾力を楽しみながら、まるで地ならしをするように丹念にちとせの豊かなふくらみを踏み潰し続ける。
「さあ、もっとお啼き!」
「くっ、あくっ、うううっ、ああああっ!」
「ちとせ!」
 陵辱といっても差し支えない暴虐を見かねた鈴音が拳を震わせる。
 自分が痛めつけられることは耐えることができるが、他人が痛めつけられるのを見せつけられるのは鈴音にとって最大の苦痛だった。
 まして、神代姉妹は、鈴音にとって、かけがえのない存在となっている。
「次は鈴音さんの番ですよ」
 悲痛に叫ぶ鈴音に向かって、悠樹がやさしく微笑み、風を纏った。
 そして、風の力で羽ばたき、鈴音へ向かって高速で飛び込む。
「ロック、退いてろ!」
 鈴音は自分を支えていたロックを突き飛ばし、仁王立ちになった。
「悠樹、目を覚ませよ!」
 悠樹の風の翼は美しい。
 そう思った。
 自分の修行に付き合ってくれた時のままだ。
 だから、悠樹の豹変を信じることができず、防御の姿勢も取らなかった。
「ぼくの目は覚めています。鈴音さんには眠ってもらいますけどね」
「悠樹!」
「おやすみなさい、鈴音さん」
 悠樹が鈴音に向かって、旋風を纏わせた拳を振るった。
「ぐああああああっ!」
 強風の直撃を受け、鈴音は全身から鮮血を迸らせながら吹き飛ばされ、地面へ激しく叩きつけられる。
「うっ、くっ、……がはっ!」
 懸命に起き上がろうとした鈴音だったが、ダメージが限界を超えたのだろう。
 口から血を吐き、がくりと項垂れ、瞼が閉ざされた。
「鈴音ぇ!」
 迅雷が、怒りに全身を震わせる。
 手を出すことができない迅雷とロックを尻目に、ベルセルクの一体が鈴音を抱え上げた。
 ミリアが満足そうに竪琴の線を弾いた。
「坊や、ホントに可愛いわ」
「……」
 ちとせは地面に倒れたまま、恍惚の表情のミリアを覗った。
 ミリアのハイヒールはちとせの左胸を容赦なく踏み潰し続けていたが、その妖艶な視線は完全に悠樹の方を向いている。
 自分から注意が反れている。
 胸を踏み潰される苦痛を噛み殺し、神扇を密かに握り締めた。
 今なら、ミリアを倒せるかもしれない。
「さて、次は、この降魔師の少女を……」
 ミリアが下を向いた瞬間。
「てりゃあっ!」
 ちとせが、ミリアの喉元を狙って神扇を投げつける。
「なっ!?」
 しかし、驚きの顔のミリアの目の前で、神扇は突風を受けて軌道を変えた。
「ゆ、悠樹!?」
「危ないですよ、ミリアさん。ちとせは抜け目のない性格なんですから」
 風を操って、悠樹が神扇を手に収める。
「舐めた真似をしてくれるじゃないの!」
 ミリアがちとせの髪を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。
 そして、苛立ちに表情を歪め、ちとせの頬を平手打ちにする。
「うくっ!」
 ちとせの唇が切れて、血が滴る。
「坊やに感謝することね。わたくしの命が消えれば、わたくしの呪曲支配を失ったベルセルクに、あなたのお姉さんは引き裂かれて死んでいたところよ」
 ミリアがちとせの唇から流れる血を指で拭い、その赤い液体に濡れた細い指をツーッと獲物の首からブラウスの肌蹴た胸の谷間へとなぞらせた。
 ブラジャーの左右のカップの繋ぎ目に爪が掛けられ、シュッという音が鳴った。
 拘束力を失った下着が真っ二つに分かれ、外れかかる。
 押さえのなくなった乳房がブラウスの内側で大きく揺れるのを見て、ミリアが苛立ちを消して、にぃっと笑った。
「筆頭幹部殿に引き渡す前に、たっぷりと嬲って犯して、その生意気な性根を蹂躙し尽くしてあげるわ」
「ペッ……」
 嫌悪感に駆られ、露骨に表情をしかめたちとせが、血の混じった唾をミリアの顔へと吐きかけた。
「なっ……!」
 ミリアは頬に手で撫で、赤い唾が指先を濡らしたのを確認すると、その目に再び憤怒を宿らせた。
 秘書スーツからハンカチを取り出し、頬と手を拭う。
 そして、金切り声で叫ぶように悠樹へ呼びかけた。
「坊や!」
 悠樹はおもむろに頷き、ちとせの後ろから挟み込むように両拳を振るって、左右の脇腹に拳を埋めた。
「がはっ!?」
 両脇腹からの突き上げるような衝撃に、ちとせは肺の中の空気をすべて吐き出す。
 さらに、悠樹が、両脇腹を押し潰すように埋めた拳でちとせの身体を締め上げる。
「がっ、あっ、ああううっ!」
「さぁ、ミリアさん。正面は残してありますよ」
 苦しむちとせの耳元で、悠樹がミリアを誘う。
「フフッ、素晴らしいわ。坊や」
 ミリアは口を三日月のような形に歪ませて笑い、悠樹の両拳が押し上げているちとせの腹に拳を叩き込んだ。
「がっ!?」
 腹に左右正面から計三つの拳を同時に埋められ、ちとせの両目の瞳孔が針の先端のように窄まる。
 神降ろしを解き、霊気も抑えた状態の生身の身体に、防御もままならない状態で、凶拳を打ち込まれたのだ。
 内部のダメージは計り知れない。
 そのことを象徴するように、腹部を破壊する衝撃によってちとせの口から強制的に吐き出された空気には、赤い色をした熱い液体が混じっていた。
 悠樹とミリアが息を合わせたように腹から拳を引き抜くと、ちとせは半分失神した状態で力なくよろめいた。
 倒れかけるちとせの首を、悠樹が掴み、締め上げた。
「う、うう……っ!?」
「わたくしの靴を舐めると誓いなさい。そうすれば、今までの侮辱を許してあげるわ。あなたは筆頭幹部殿への大事な貢物ですからね」
「誰がおまえみたいな性格ブスのバカ秘書に……!」
 首を締め上げられ、苦痛に顔を歪ませながらも、ちとせは猫のような大きな瞳でミリアを睨みつける。
「なっ、何ですって!」
「はんっ!」
「ゆ、許しませんわ。このわたくしをコケにするものは誰であろうと許しませんわよ!」
 顔を真っ赤に染めて目を怒りに染めるミリア。
「気が! 気が変わりましたわ。筆頭幹部殿へ差し出すつもりでしたが、この場で、……この場で殺してあげる!」
 ハンカチをグシャッと手のひらで握り締め、肩を怒りに震わせたミリアが、ヒステリックな甲高い声で叫ぶ。
「坊や!」
 ミリアの目配せを受けて、悠樹はちとせの首を掴んだまま、風を纏って舞い上がった。
「ミリアさんの美貌に唾を吐きかけた報いだよ」
 そして、高速で空を駆け、ちとせの後頭部を大木に叩きつけた。
「がっ!」
 ちとせの髪を縛っていたリボンが解け、長く美しい髪が舞った。
 どろり。
 その髪の合間から血が流れて、ちとせの顔に真っ赤な線が幾条も流れ落ちる。
「この神扇は、ちとせの形見として大事に持っていてあげるよ」
「うっ、……ゆ、悠樹!」
「さよならだ、ちとせ」
 悠樹が冷酷に言い放ち、風の力のすべてを解放した。
 巨大な竜巻の柱が天に昇り、ちとせの全身を包み込んだ。
「きゃあああああああああ!!!」
 絶叫。
 荒れ狂う風の刃によって、ちとせの全身が切り刻まれ、鮮血が飛び散る。
 風の柱が真っ赤に染まり、ちとせの姿が見えなくなる。
「ち、ちとせぇっ!!」
 迅雷は大声で叫んだ。
 ちとせが、ちとせが!
「始末しました」
 悠樹の手の先にちとせの姿はない。
 あるのは、暴風に抉られ、ちとせのものであろう大量の血痕を吸い込んだ地面だけだった。
「素晴らしいわ、坊や。降魔師の少女を殺したことは忠誠の証として受け取ることにしましょう」
 ミリアは満足そうに竪琴を掻き鳴らした。
「悠樹、テメー!?」
 迅雷は怒りに拳を震わせて、悠樹に向かって駆け出しそうになった。
「動かないでください、迅雷先輩。葵さんも、ちとせのように跡形もなく消し飛ばしてしまいますよ?」
 悠樹の冷たい声に、ミリアは満足げに微笑んだ。
 計画は上手く行き、そのついでに若い男も手に入れた。
 降魔師の少女の命をシギュン・グラムに献上できなかったこと以外は、すべてが自分の予定通りに行っていると確信していた。
 あとは、鈴音とかいう"凍てつく炎"の妹を上手く利用すれば、良いだけだ。
 真に必要なことは、織田霧刃を嬲り殺すための周到な罠を張ることだ。
「今のわたくしは機嫌が最高よ」
 ミリアは、葵を抑えているベルセルクに目配せをした。
「その娘は返してあげるわ。そして、あなたたちの命も助けてあげる。降魔師の少女を始末し、織田鈴音を手に入れた今のわたくしには用のないものですからね」
「おれは、おまえを許さねえ。おれを生かしておいたことを後悔することになるぜ」
 血の出るほどに拳を握り締めて、迅雷がミリアに激しい怒気をぶつける。
「そうかしら? 駒は生きていてこそ駒。それに駒は全部手元に置いておけばイイってものでもないわ。そういうこともあるのよ」
 ミリアの言葉が終わると、ベルセルクが葵を解放する。
 気を失ったまま、葵は地面に倒れ込んだ。
「姉貴さん!」
「わたくしの邪魔は誰にもさせない。追ってくることも許さない。もし、わたくしの邪魔をするなら、織田鈴音にもっとひどい目にあってもらうことになるわ。覚えておきなさいね」
 葵のもとへ駆けようとする迅雷に、ミリアは馬鹿にしたような口調で言った。
 そして、悠樹の手を取った。
「さあ、行くわよ、坊や」
「はい」
 悠樹が、迅雷たちを振り返ることはなかった。

「くそっ、何てことだ!!」
 迅雷は荒れ狂っていた。
 鈴音が連れ去られ、ちとせは悠樹に……。
「迅雷クン。キミは葵サンの手当てを頼む。オレは、ちとせサンを探しに行く」
 ロックは、そんな迅雷に冷静に言った。
 怒っているだけでは、事態は好転しない。
「し、しかし、ちとせは悠樹に!」
 迅雷は、自分の中で、ちとせの存在が大きかったことを改めて思い知らされていた。
 恋ではないが、とても暖かい大切な存在だった。
「まだ、誰も彼女の生死を確認していない。なら、信じるだけです」
 ロックの声は、極めて冷静だ。
 鈴音を連れ去られて、心が乱れてないわけがないのに、表面にはおくびにも出さない。
 迅雷は、ロックの言葉に頷いた。
 ちとせの死を確認していない。
 よくよく考えてみれば、いくら悠樹の竜巻の威力が凄まじかろうと、あの一瞬で跡形もなく切り刻めるはずがない。
「そうだな。おれは、おれは……」
 迅雷は必死に心を落ちつかせた。
 瞬間。
「そだよ、迅雷先輩。ボクを勝手に殺さないでよ!」
 ごずんっ!
「ぐはあっ!?」
 聞きなれた声と衝撃が、迅雷の後頭部に降ってきた。
 迅雷が涙を浮かべて、後頭部を押さえながら振り返る。
「もう、悠樹、全然手加減してくれないから、制服もボロボロだよ」
 そこには、満身創痍のちとせが立っていた。
「ちとせ!」
「ちとせサン!」
「ちゃお☆」
 驚きの声を上げる迅雷とロックに、ちとせはウィンクをして応じた。
「あ〜、お肌に傷が残ったら、責任とってもらわなきゃね」
 そして、ちとせは悠樹の風で切り裂かれた傷の具合を確かめながら、顔をしかめた。

「わざと……だと?」
「そうよ。悠樹はボクを助けるために裏切ったフリをしてるんだよ」
 驚きの声を上げる迅雷に、ちとせは軽い口調で答え、ボロボロの制服を確かめながら、「あっちゃ〜、着替えないとダメだね」と呟いた。
「ミリアとかいうあの女は、鈴音さんだけでなく、ボクも生け捕りにして、シギュン・グラムに差し出す気だったはず。そうすれば、きっとボクは殺されちゃうわけ」
 まるで他人事のように語りながら、血が流れている額をハンカチで拭った。
「だから、悠樹は咄嗟に裏切ったフリをして、ボクをあの場から逃がしてくれたんだよ。そして、鈴音さんを殺させないために、あの性悪女について行った」
 べっとりと染み込んだ血に顔をしかめる。
「んで、ボクたちが追跡できるように、奪ったように見せかけて、神扇を持って行ったんだよ。神扇は、ボクの神降ろしの契約の証。血の染み込んだ神器。霊気を辿って探し出すのは簡単なことだから」
「一瞬で、そこまで考えて……」
 そして、打合せもせずに、ちとせも一瞬で悠樹に同調した。
 迅雷は呻いた。
「怖いでしょ?」
 悠樹のことが怖いでしょ?
 その大きな目を細めて、ちとせが言った。
「すっごく頭が切れる。冷徹冷静に物事を判断してくる。普段が穏やかなだけに一層怖い」
 そこまで言って、ちとせは何かを探すように不意に辺りを見回した。
 悠樹の竜巻によって抉られた地面に視線を這わせ、一点で止まる。
 そこには、ちとせが髪を結っていたリボンが落ちていた。
「怖い怖い。でも、ボクはそういうところも含めて悠樹が好きなんだよね」
 ちとせはリボンを拾って、猫のように笑った。
「さぁ、さっさと、悠樹と鈴音さんを助けに行こっか」
「待て、ちとせ」
 歩き出そうとするちとせの腕を迅雷が腕を掴んだ。
「あっ……、うっ……」
 ちとせの顔が歪み、制服の脇腹辺りから血が染み出し、健康的な太腿を伝って流れ落ちる。
「やっぱな。おれが見たところ、おまえの傷、そんなに軽傷じゃないと思ったぜ」
 迅雷の言葉に、ちとせは傷口を抑えながら目を背けた。
 ミリアを欺くために、悠樹の攻撃は容赦がなかった。
 ちとせは気丈に振舞っているが、散々殴られた腹は鉛を打ち込まれたような鈍い痛みが走っているし、風による裂傷の激痛が絶え間なく身体中を苛んでいる。
「それに、姉貴さんをこのままにして行くわけにもいかないだろ。レイチェも放っておくわけにはいかないしな」
 迅雷は気を失っている葵を抱き抱え、姿を隠しているレイチェリアのことを思い出した。
 ロックも頷いて、ちとせに言った。
「無理はいけませんヨ。応急手当てだけでもするべきです。悠樹クンと鈴音サンの居場所がわかるのは、ちとせサンだけなんですヨ」
「だからこそ、早く助けにいかないと……」
「あのミリアとかいう女は、鈴音サンを簡単には殺しませんヨ」
 ロックは、ちとせの肩に手を置いた。
「根拠は?」
 ちとせが意気込んで尋ねる。
「悠樹クンがついています」
「それはわかってるよ。でも、悠樹だって、鈴音さんを庇うのにも限界があるわ」
「あのミリアとかいう女は、鈴音サンに用があるから、この場で殺さなかった。この場で殺ろうと思えば、オレたち全員を抹消できたはずです」
 ロックの言う通り、ミリアの行動は不可解だった。
 全員を抹殺することも簡単にできたはずだが、あえてそうしようとはしなかった。
「それをしなかったのは、すぐに殺すわけにはいかないから。生かしておく価値があったわけです」
「『駒は生きていてこそ駒』、あの女の捨てゼリフだったな」
 迅雷が呻くように言った。
「でも、命が無事だからって五体満足でいられるとは限らないじゃない。鈴音さんが、あんな女の言うことを聞くわけがないからね」
「わかってますヨ。ですが、準備不足で行くのは危険です。ああいう女性は自分を守るためなら何でもやるタイプです」
 ロックの声は淡々としていた。
「鈴音サンは、何があっても屈しない。耐え抜いてくれますヨ」
 サングラスに隠れて、表情は分からない。
「わかったよ、ロックさん」
 ちとせの承諾したのを受け、ロックは迅雷を振り返った。
「迅雷クン。ちとせサンの手当てが済んだら、オレとちとせサンの二人で、鈴音サンと悠樹クンを助けに行く。キミは残って、葵サンとレイチェさんの側にいてください」
「ケガ人のちとせに行かせて、おれには残れってか?」
「ボクが行くのは当然。ボクしか神扇の場所がわかんないんだから」
 ちとせがロックの代わりに応え、葵に視線を向けて続けた。
「隠密行動だから、人数は少ない方がイイし。それに、治癒術の真似事は迅雷先輩しかできないじゃない」
 治癒は先天の力だが、自らの『霊気』をケガ人に送り込むことで『生命力』を活性化させることができる。
 だが、それは自らの『命』を相手に分け与えるという至難な技であるため、使えるのは高等能力者に限られてくる。
 ロックが霊能力を持っておらず、ちとせが満身創痍である今、そのような芸当ができるのは迅雷だけだ。
「姉さんは外傷はないみたいだけど、もしも容態が悪化したら迅雷先輩しか対処できない。ロックさんはそこまで考えて言ったのよ」
「むぅ、さっきまで、その姉貴さんを放って行こうとしてたのはどこの誰だ?」
 迅雷の指摘に、ちとせは、いかにもわざとらしく咳き込んだ。
「ごほごほっ、な、何のことかな。ううっ、ごほっ……、はっ、血がこんなに! 早く手当てしなくちゃ」
「血を吐く演技で誤魔化すなよ。紛らわしい」
 迅雷は肩をすくめた。


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