魂を貪るもの
其の八 裁きの始まり
8.呪曲
「もう、あれから、五日かぁ」
屈伸運動を行ないながら、ちとせが呟いた。
セパレートのレーシング用のトップとショーツという格好をしている。
若さに溢れた張りのある健康的な肌を太陽が照らし、朝の爽やかな風が結った長い髪を靡かせた。
時間は早朝。
場所は、猫ヶ崎高校の陸上部のグラウンド。
部活の朝練の最中だった。
ちとせたちが猫ヶ崎山で、『ヴィーグリーズ』幹部ヘルセフィアスと暴走した『ユグドラシル』にまみえてから、五日が経っていた。
『ヴィーグリーズ』に、そして、織田霧刃に目立った動きはない。
平穏な日々が過ぎていた。
だが、街を包み込む異様な違和感は、日に日に見えない箇所から這い寄るように広がっている。
まるで、
ちとせは、それを敏感に感じ取っていた。
『ヴィーグリーズ』の力が増大しているのか。
それとも、『ユグドラシル』の力だろうか。
それとも、まったく別の力なのか。
「鈴音さんも修行をがんばってるし、ボクもがんばらないとね」
ちとせはそう呟いて、トラックのスタートラインで、クラウチングスタートの姿勢を取った。
ゴール付近では、陸上部の後輩がタイマーウォッチを持って、手を挙げている。
ちとせは、横でスタートの合図を送るべく立っている部員に、片目を瞑ってみせた。
準備はできているという合図だ。
ちとせはトラックに視線を戻した。
もう、ゴールへの一直線しか見えない。
スタートの合図音が木霊した。
この五日の間、ちとせは学校の授業や部活の合間を見つけては、神降しを巧みに自分のものにしようとしていた。
今では、呼びかければ、
そして、鈴音もまた、着実に修行に集中し、天武夢幻流の最終奥義『
「先輩、記録更新ですよ!」
タイムを測っていた女生徒が驚嘆と歓喜の表情で、ちとせがゴールすると同時に駆け寄ってきた。
「この調子なら、全国優勝間違いないですねっ!」
後輩がタオルを差し出してくる。
それを受けとって、ちとせは小さく頷いた。
インターハイ。
このまま平穏が続けば、何事もなく、全国大会だ。
そして、もしも何かが起きたとしても、片付けてしまえば同じことだ。
ちとせは、そう考える。
「はい、飲み物もありますよ」
気のきく後輩は、丁寧にストローを刺したスポーツドリンクを手渡してきた。
汗を拭ったタオルを肩にかけ、ちとせは後輩に微笑んだ。
「ありがと」
猫ヶ崎高校で最速の脚を持ち、陸上部の副部長の責務を怠ったことのないちとせを尊敬している後輩は、思わず頬を赤らめた。
そんなかわいい後輩の様子を見て、ちとせは思う。
いつも通りの学校での授業や部活動、修行という日常。
まったくの非日常である『ヴィーグリーズ』との見えない対峙。
二つが絡み合い、激しくも不可思議な雰囲気を奏でている。
そして、今の平穏は
嵐が来る直前の静けさにしか過ぎない。
その嵐の一欠片である恐るべき妖艶なる悪夢は、獲物を狩る準備が整ったことで、狂喜に身を振るわせた。
――ぽろろん。
――ぱろろん。
――ぽろろんっ。
奇妙な旋律が、暗闇に包まれた牢獄のような部屋に響き渡る。
一人の女性が、その闇の中に立っていた。
シニヨンに結われた豪奢な金髪が空気に冷やかな光を与えている。
顔の左半分を隠すように垂らされた前髪が、流れ響く旋律に微かに揺れる。
ミリア・レインバック。
奇妙な旋律は彼女が抱えている銀製の竪琴の音色だった。
「織田鈴音……」
濡れたように紅い唇が、艶めかしい笑みを浮かべた。
「わたくしは、あなたが"凍てつく炎"織田霧刃の妹だということを知っている」
――ぽろろん。
「わたくしは、あなたが日中一人で猫ヶ崎山に篭っていることを知っている」
ミリアはヘルセフィアスから聞いた情報をもとに、猫ヶ崎山へ斥候を何度か放っていた。
そして、鈴音が毎日のように猫ヶ崎山で修行を行なっているのを確認していた。
鈴音の仲間の動きに関する情報はまだない。
だが、ミリアには鈴音の動向さえ掴めていれば十分だった。
なぜなら、目的は鈴音だから。
「わたくしは、あなたが尋常の強さではないことを知っている」
――ぱろろん。
扉が軋んだ音を立てて開いた。
奥から男たちが、幾人も姿を見せた。
彼らは、全員驚くべき巨漢であった。
巨漢。
その言葉を完全に体現していた。
太い首、異様に広く盛り上がった肩、分厚い胸板、そして、一筋一筋がくっきり浮き出るほどの筋肉で編まれた両腕と両脚。
一人ひとりが、一目見ただけでどれほどの力を秘めているかがわかる重厚な肉体を持っていた。
だが、隆起し脈動的な光沢を放つ筋肉とは反対に、その男たちの瞳は一様に虚ろで、意思がまったく感じられない。
ミリア・レインバックは、男たちの前に一歩踏み出した。
「そして、織田鈴音。わたくしは、あなたが、わたくしにとって利用価値が高いことを知っている」
美しい金髪の下で、紺碧の瞳が妖しい紅の光を帯びる。
そして、今までとは打って変わって、竪琴を激しく奏ではじめた。
「フフフッ、さあ、死を恐れぬ
男たちの虚ろな瞳が、音楽に応えるように不気味に明滅した。
そして、大型の肉食獣の雄叫びのような咆哮が牢獄に木霊した。
鈴音は今日も朝早くから、猫ヶ崎山頂付近で修行をしていた。
黙々と鍛錬メニューをこなし、時間はすでに午後を大分回っている。
「今日は、少し身体を休めておくか」
朝から晩まで修行に費やすのが日課だが、今日は金曜日だ。
夕方から、ちとせたちが来る。
土日は、ちとせたちも泊まり込みで、修行につきあってくれる約束をしてくれているからだ。
「よっと……」
草原が隆起して、小山になっている箇所に寝転がった。
穏やかな日差しが、鈴音を照らしている。
この場所は、修行の合間に見つけた。
今では、鈴音のお気に入りの場所で、昼はここで寝転がるのが習慣になりつつあった。
腕を枕にして、空を見上げた。
雲が静かに流れていく。
風も爽やかに、草の匂いを運んでくる。
「……かといって、このまま、寝ちまうのも、もったいないよな」
無心に真っ青な空に視線を泳がせた。
だんだんと、頭が空っぽになってきて、言葉とは裏腹に眠気が襲ってきた。
やはり、身体を酷使して修行を続けているためだろうか。
自然と瞼が重くなってくる。
後、数秒で完全に眠りの誘いがやってくるだろう。
と、鈴音を眠気から呼び覚ますように、遠くから聞き慣れた声が聞こえてきた。
ちとせではない。
「鈴音さ〜ん、どこですか〜?」
「んっ?」
鈴音は上半身を起こして、辺りを見まわした。
白衣に緋色の袴という巫女装束の女性が、遠くから歩いてくるのが見える。
「葵!」
鈴音は立ち上がって、手を振った。
「あっ、鈴音さん。そこでしたか」
葵も、鈴音の声に振り向き、片手を上げて、振り返してきた。
もう一方の手には、大きなバスケットを抱えている。
その荷物がかなり重いのか、それとも巫女装束での登山が響いているのか、葵は随分と息が切れているようだ。
鈴音は前髪をかきあげてから、足早に葵に近づいた。
「その格好で、山道は辛いだろ?」
半分感心したように、半分呆れたように鈴音が葵に言った。
「いいえ、慣れていますから」
「そういうもんなのか?」
「ええ、そういうものです」
「ふぅん。……で、これは?」
片手を差し出して、葵が重そうに抱えているバスケットを支えながら、鈴音が尋ねる。
「お弁当を持ってきたんですよ」
葵は笑顔で応える。
「そいつは嬉しいな」
「携帯ポットに味噌汁を入れて来ましたから、少し重かったんですけれど、喜んで貰えて嬉しいですわ」
葵がバスケットからポットを取り出して、近くの岩場に置いた。
それで、随分とバスケットが軽くなる。
「味噌汁もか。至れり尽せりだな」
「うふふ」
葵は、嬉しそうにしている鈴音に微笑み返して、次に弁当らしきものを取り出した。
重箱だ。
それを見た鈴音が感嘆の声を漏らす。
「うわっ、豪華だな!」
「夕食はもっと豪華ですよ」
葵は手早くピクニックシートを敷き、その上に座って、テキパキと弁当を並べ始めた。
手伝う間もなく綺麗に食卓がセットされていく。
鈴音は、腰を下ろすと胡座をかいた。
「ロックさんが『今夜の夕食は、腕によりをかけて、おいしい料理を作るから楽しみにしていてくださいネ』って言っていましたから」
「へぇ、そいつは、楽しみだな」
「それで、ロックさんは、ちとせたちと後から来るそうですわ。料理の材料の買い出しもあるそうですから」
弁当を並べ終えた葵が、鈴音にお手拭と箸を渡す。
「そうか」
鈴音は手を拭いて、箸を手に取った。
「でも、ホントは、迅雷クンがいっぱい食べるから買い出しの量が多くて、荷物持ちにちとせたちを待っているそうですわ」
「あははっ、ちとせが迅雷に文句言うのが目に浮かぶぜ」
心底楽しそうに笑って、鈴音は晴れ晴れとした青い空を見上げた。
――数時間後。
陽はすでに西に傾き始めている。
夕方の部活を終え、ちとせたちは、神代神社の石段の前に集まっていた。
「お、重いぞ」
「文句言わないの。自分が食べる分でしょ?」
鈴音の予想に反して、ちとせは自分の着替えが入ったショルダーバックだけを持って、迅雷自身に荷物を持たせていた。
「む、むぅ、しかしだな。この重さは異常だぞ。まるで人間を持ち上げているようだぞ」
迅雷も自分の食料のことだけに、反論はしないで、ぼやく。
「迅雷先輩」
「何だ、悠樹?」
悠樹は無言で、迅雷が担いでいる買物袋があるべき場所を指差した。
無論、買物袋はあった。
――だが。
「きゃはっ」
他にも買物袋を抱えて、迅雷の肩に乗っているレイチェリアの姿があった。
迅雷は、買物袋を抱えたレイチェリアを肩車している状態だったのだ。
「うおっ、レイチェ、姿が見えないと思ったら、何をしてやがる!?」
「肩車ですよぉ、迅雷サマ」
「降りろ」
「え〜っ!? 眺めイイのに!」
「飛べんだろうがっ! おまえはっ!」
「飛ぶと疲れます」
「おれが疲れるのは良いのか!? 重いだろうがっ!?」
絶叫する迅雷に、レイチェリアは口を尖らせた。
「失礼ですね、アタシはそんなに重くないですよ」
「迅雷先輩、女の子に失礼だなぁ」
ちとせが、レイチェリアに加勢する。
「ぐふっ、テメーらは……」
迅雷は閉口した。
ちとせたちの会話に耳を傾けながら、ロックは楽しそうに微笑んだ。
「アッチに着いたら、すぐに食事の用意を始めますヨ」
ロックの言葉に悠樹が頷いた。
「今日は、久しぶりに、鈴音さんも葵さんも一緒ですから、一段と楽しい食卓になりますね」
「食事が楽しいことはイイコトです」
ロックが頷き返したところに、迅雷の肩から無理矢理降ろされたレイチェリアが覗き込んできた。
「じゃ、アタシも楽しく食事〜♪」
「精気を吸うのは勘弁してくださいって」
ロックのサングラスがずれた。
「じゃ、悠樹ちゃ〜ん」
言うやいなや、レイチェリアは悠樹に背中から抱きついた。
「だ、抱きつくなら、迅雷先輩にしてください」
悠樹が顔を引き攣らせて言う。
レイチェリアの胸が悠樹の背中に当たっているせいだろう。
頬を赤く染めて、抱き突いてくるレイチェリアを引っぺがした。
そこを、すかさず迅雷がレイチェリアの首根っこを捕まえた。
「あんまり騒いでると、燃えるゴミに出すぞ?」
「ア〜ン、わかりましたよぉ。静かにしますってば」
迅雷が解放すると、レイチェリアはケラケラ笑った。
「それにしても、さ」
ちとせがロックの顔に視線を向けて言う。
「何ですカ、ちとせサン?」
「ロックさん、ホント料理上手だよねえ。昨日の夕飯のパスタもおいしかったし」
「ははっ、グラッチェ」
照れたように頬を掻くロック。
「そのうち、料理屋さんでも始めたら?」
「そうですネ」
ロックは頷いた。
「それもイイかもしれませン」
だが、もし、本当に料理店を始めるとしても、鈴音を手伝い終えてからの話だ。
遠くに聳える猫ヶ崎山に視線を向けた。
その猫ヶ崎山に、魔が迫っていることを知らずに。
遅い昼食を済ませ、唐突に、葵と一緒に団欒していた鈴音の顔色が変わった。
「鈴音さん?」
不審に思った葵が話し掛けてくるのを唇に指を当てて黙らせる。
「誰か、来る」
「ちとせたちでしょうか?」
「違う。禍禍しい妖気だ!」
葵に、鈴音は鋭い声で首を横に振った。
「禍禍しいとは、ご挨拶ですわね」
その声は、鈴音の視線の先にある森の中から返ってきた。
同時に、一人の女が姿を現す。
「誰だ、テメーは?」
鈴音が女を誰何する。
髪は艶やかな黄金色で、前髪を左側だけ切れ長の目にかかるように垂らし、残りは後ろでシニヨン纏めているため、露わになったうなじが魅惑的な雰囲気を際立たせている。
濃紺のジャケットに、鋭いスリットの入ったロングタイトスカート姿は、大自然の溢れるこの場所には不似合いだったが、ため息が出るほどに洗練されていた。
そして、奇妙なことに、現代的な秘書スタイルとは裏腹な銀色の竪琴を抱えていた。
鈴音は女の服に、『それ』を見つけた。
虹の橋『ビフレスト』。
『ヴィーグリーズ』の
「『ヴィーグリーズ』か?」
厳しい表情で、鈴音が誰何を続ける。
『ヴィーグリーズ』に所属する黄金の髪を持つ女。
一瞬、ちとせが遭遇したシギュン・グラムという幹部かとも思ったが、聞いた話から想像できる女とは毛色が違う。
「わたくしはミリア・レインバック。『ヴィーグリーズ』総帥ランディ・ウェルザーズの第一秘書をしております。こんな自己紹介でよろしくて?」
――ぽろろん。
竪琴の弦を弾いて、優雅に挨拶をするミリア。
「ちいっ、やっぱ、『ヴィーグリーズ』か」
鈴音は精神を集中して、光り輝く霊気の剣を形成した。
――ぱろろんっ。
それを見たミリアが再び、弦を鳴らす。
それに呼応するかのように、背後の森から、無数の巨漢が姿を現した。
どの男も眼に光がなく、表情も虚ろで、まるで目を開けたまま眠っているかのようだ。
「織田鈴音。わたくしと一緒に来てもらいましょうか」
ミリアが甲高い声で言った。
「何だと? 一緒にって、どういうことだ?」
「そんなことは一緒に来れば解かります。ちなみに拒否する選択肢はありませんわよ」
そう言って本格的に竪琴を奏ではじめるミリア・レンバック。
すると、巨漢の男たちが一斉に構えを取った。
先ほどまで何の表情もなかった男たちの目が紅く光り、闘気に筋肉が脈動した。
「……葵、退がっていろ。こいつらの狙いは、あくまでも、あたしだ」
「鈴音さん」
心配そうに葵が、声をかけてくる。
「大丈夫だ」
鈴音は、葵を安心させるように、葵に向かってウィンクをした。
葵は、それを見て素直に後ろに退がった。
「抗うつもり?」
答えのわかりきった問いを投げかけてくるミリア・レンバックに対して、鈴音は不機嫌そうに前髪をかきあげて答えた。
「当たり前だ。この程度のヤツらなら、あたし一人であしらえるぜ」
「フフッ、それはどうかしら? このベルセルクたちは、痛みを感じず、死を恐れない狂気の戦士たち」
ミリアが竪琴を掻き鳴らし、激しい旋律を紡ぎ出し始める。
「一人でどこまで耐えられるかしら?」
獣の咆哮とともに、巨漢――ベルセルク――たちが、一斉に鈴音に襲いかかった。
鈴音が疾走する。
両側から襲ってくる二体のベルセルクを置き去りにして、正面の一体の懐に飛び込む。
一閃。
飛びこんだ勢いのまま、斬り捨てる。
正面のベルセルクは胴を上下に断たれ、崩れ落ちた。
同時に、鈴音に最初に襲いかかったニ体のベルセルクが、血飛沫を上げて倒れた。
「ま、まさか、避けると同時にすでに斬って……!?」
鈴音の素早い攻勢に驚愕の声をあげるミリア。
「あたしの敵じゃねえと言ったはずだぜ」
鈴音はミリアを睨みつけた。
「この化物たちは痛みも死も恐れぬとか言ったな? 一撃で葬っちまえば、そんなのは関係ねえぜ」
「……何て女なの」
ミリア・レンバックはヘルセフィアス・ニーブルヘイムから鈴音の強さに関しては詳しく聴いていた。
それに、"凍てつく炎"の妹だからこそ、油断なく屈強のベルセルクたちで陣を敷いたのだ。
だが、鈴音の強さは予想を遥かに超えているかもしれない。
内心の焦りをよそに、ミリアはベルセルクの不死身さを頼んで、命令を下す。
「ベルセルクたち!」
再び、三体のベルセルクが鈴音に迫ってきた。
一体が拳を繰り出す。
鈴音は紙一重で見切ってかわした。
目標を失った狂戦士の拳が地面につき刺さった。
轟音とともに地面が抉れる。
「馬鹿力め!」
鈴音は拳を放った硬直の隙に目の前の敵を斬り倒した。
そこに残りニ体が同時に拳を繰り出してくる。
鈴音は霊剣を瞬時に消して、両腕を、ベルセルクたちが繰り出してくる拳のタイミングに合わせるように広げた。
「天武夢幻流・組討・
巧みに、ベルセルクの勢いを利用して捌く。
ベルセルクたちの身体は自らの勢いで宙に浮き、次の瞬間、地面に頭から落下していた。
二体のベルセルクは、首が不自然な方向に曲がり、動かなくなる。
だが、ミリアが指揮する敵方の攻勢は止まることを知らない。
「三体一組で、取り囲みなさい!」
ミリアの指示のもと、さらに新手が、三体襲ってきた。
「後から後から……」
見れば、まだベルセルクは三十体近くいる。
司令塔であるミリアを屠れば終わりだろうが、狡猾な彼女は決して前に出ようとはしない。
鈴音は簡単にベルセルクを一蹴しているように見えるが、実際には違う。
相手の怪力は地面に大穴を開けるほどのものだ。
食らえば、鈴音とて、ただでは済まない。
その攻撃を見切って、反撃の隙を与えないように、筋肉の鎧に身を守られたベルセルクを一撃で倒さねばならないのだ。
鈴音の負担は相当なものがある。
長引けば不利だ。
そのことは、ミリアも重々承知のようで、大量のベルセルクを一気に嗾けることはしない。
獲物を取り囲める最低限の数で襲わせ、持久戦に持ち込もうとしているようだ。
鈴音は大きく息を吐き、吸い、吐いた。
「ちょうど良い。試させてもらうぜ!」
叫ぶと同時に、後ろに跳んで、敵との間合いを十分に取った。
「はあああああああっ!」
霊気の剣を再び形成して構え、大地に根を張るように足を踏ん張る。
鈴音を中心に青白い霊気が立ち昇った。
「なっ、この霊気は……!」
一気に高まっていく鈴音の霊気に、ミリアは驚き、奏でていた竪琴の音色も止む。
「何をする気!?」
「持久戦に付き合う気はないんでね。一気に片をつけさせてもらうぜ。未完成の技だがな」
鈴音は不敵な笑みを浮かべた。
その笑みに不吉なものを感じたミリアがベルセルクたちへ向かって叫んだ。
「ベ、ベルセルクたち! わたくしを守りなさい!」
「天武夢幻流最終奥義ッ!」
極限まで高めた霊気を、鈴音が霊剣に収束していく。
圧倒的な霊気量の収束に周囲の大気が揺らめく。
「覇天神命斬ッ!」
青白い軌跡を描きながら、鈴音は霊剣を振り抜いた。
一瞬、白い闇に、辺りは包まれる。
爆音。
吹き上がる土埃が視界を閉ざした。
「ふぅぅ……」
鈴音は、静かに長く息を吐いた。
「……っ!」
左腕に痛みが走り、思わず腕を押さえた。
「さすがに、まだ、ものにならねえか」
前方に視線を戻す。
砂埃が晴れ、視界が回復する。
その先に、ミリア・レインバックが驚愕の表情で立ちつくしていた。
自分の前に壁のように立っていた三十体近いベルセルクが跡形もなく消し飛んでいた。
生き残っているのは、ミリア自身を護衛するために後ろに下げていたわずか五体だけだ。
「バ、バカな。あの数のベルセルクを一瞬に!?」
「ここまで、だな」
鈴音が冷徹な瞳をミリアに向けた。
「……これほどまでとは、ね」
ミリアは歯噛みをして、鈴音を睨みつけた。
周りにはまだ生き残りの狂戦士たちがいるが、司令塔たるミリアと鈴音を阻む位置ではない。
だが、まだ、ミリア・レインバックには奥の手があった。
だから、無様にうろたえはしない。
「だけれど、わたくしにはまだ、呪曲がありますわ」
――ぱろろん。
ミリアは巧みな指使いで、竪琴を掻き鳴らした。
「呪曲だと? なるほど、そうか。テメー、その竪琴は……」
「音とは、もっとも強大な魔力」
――ぱろろん、ぱろろん、ぱろろんっ。
生き残りのベルセルクたちの瞳が紅く染まり、旋律に合わせるように唸り声を上げる。
「猛々しき戦場の法螺笛は聴く者の心を奮い立たせる」
――ぽろろん、ぽろろん、ぽろろんっ。
「そして、洗練された魅了の旋律は聴衆を虜にする。わたくしが音楽の魔力の恐ろしさを教えてあげましょう」
ミリアは奏でる調子を変えた。
「魅惑の呪曲"操"……」
艶かしい曲調が、辺りに木霊する。
「……っ!」
「わたくしの操り人形におなりなさい!」
――ぱろろん、ぱろろん、ぱろろんっ。
誘惑の旋律が鈴音の聴覚を掻き乱す。
脳の底から痺れがやってくるのが解かった。
鈴音は目頭を指で押さえ、痺れを追い出そうとしたが、旋律の侵食は止まらない。
呻きながら、目を
目の前で、ミリアが濡れたように真っ赤な唇が誘うような微笑みを浮かべている。
大理石のような白い肌と黄金の輝きを持つ髪のコントラストが、銀色の竪琴の旋律とともに脳へ、深不深く染み込んでくる。
「ちいっ!?」
鈴音の脳内に妖艶な声が響き渡る。
――あなたはわたくしの声しか聞こえない。
――わたくしの忠実な下僕。
――さぁ、心をお預けなさい。
幻だ。
強い意志を沸き立たせて、その誘惑の声に抗った。
幻は、幻だ。
――抗えば苦しむことになるわ。
響く声の妖艶さが増していく。
鈴音の視界がぼやける。
――苦しみを思い出すのよ。
五年前のあの日の光景が鈴音の脳裏に投影される。
血の海。
無惨な姿の父と母。
恋人の生首を抱いた姉。
鈴音の心が苦痛に歪む。
――苦しいでしょう。もっともっと思い出しなさい。
鈴音の脳裏に違う場面が次々と投影されていく。
そのどれもが、鈴音にとって地獄のようなものばかりだった。
彼女は天武夢幻流の使い手として、弱き人々を守ってきた。
だが、当然力及ばずに守りきれないこともあった。
それどころか身を呈して守ったはずの人々に裏切られ、彼らの保身のために敵に差し出されたこともあった。
強力な敵に散々に痛めつけられたこともあった。
戦いに敗北し、瀕死になるまで拷問にかけられたことも。
凶悪な敵の手に落ち、陵辱地獄を味わったことも。
――苦しいでしょう。哀しいでしょう。心をお預けなさい。
首を横に振る。
幻だ。
苦しみは本物でも、今は今だ。
身体の傷はいえても、心の傷は消せない。
それでも、これは幻だ。
鈴音はもう一度自分に言い聞かせた。
呪曲の誘惑に身を委ねれば、ミリア・レインバックの思うがままに操られる人形になってしまうに違いない。
鈴音の瞳の光は揺らがなかった。
「効か……ねぇなッ!」
鈴音は霊気の剣を構え直し、ミリアとの間合いを詰めようとバネを溜めた。
しかし、戸惑いの感情が鈴音に走った。
なぜなら、ミリアが自分の術が鈴音を落とし入れられていないことに少しも動揺した様子がないからだ。
それどころか、ミリアは笑みを浮かべていた。
「フッ、フフフッ……」
「何がおかしい? 万策尽きて、気でも触れたか?」
「フッ、おバカさん」
訝しがる鈴音に、ミリアは蔑む視線で応えた。
「あなたは大丈夫でも……」
ミリアは鈴音の後ろに視線を投げている。
「彼女はそうはいかなかったみたいね」
「!!」
鈴音はミリアの言葉に、はっとして振り返った。
ふらふらと無防備に、退避した茂みから出て来る葵の姿が目に入った。
「葵!?」
「……」
鈴音の呼びかけに返事をすることもなく、無言のまま、虚ろな瞳で、遠くを見つめているだけだ。
そして、鈴音が助ける間もなく、いつの間にか回り込んでいたベルセルクが容易に葵の両腕を捕らえ、身動きを封じる。
同時に、気を失って崩れ落ちる葵。
「くそっ……」
鈴音は唇を噛んだ。
葵を人質に取られた形だ。
これでは、手が出せない。
「形勢逆転。これで、わたくしの勝利は確定ね」
ミリアが惨酷な笑みを浮かべ、自らの勝利を宣言した。
「たっぷりと可愛がってあげます」
ミリア・レインバックは、睨んでくる鈴音に冷笑で報いた。
「わたくしがあなたに贈るのは、レクイエムの旋律」
儚くも妖しげな指の動きで竪琴を奏で始める。
音色は鎮魂曲を奏でるが、目の前では鎮魂とは無縁の光景が始まろうとしていた。
生き残りのベルセルクの一体が無造作に鈴音に近づく。
鈴音は動けない。
攻撃の意志がないことを示すように、両腕を垂らして力なく立ち尽くす。
葵を人質に取られた鈴音にできることは、無防備な状態を晒すだけだ。
その鈴音の鳩尾目掛けて、ベルセルクの丸太のような腕から繰り出された拳が容赦のなく叩き込まれる。
「うっ!?」
ベルセルクの拳は地面を砕く程の威力だ。
鍛えてあるとはいえ、天武夢幻流は筋肉重視の武術ではない。
無防備な腹に叩き込まれては、さすがの鈴音も堪らない。
「げほっ、げほっ……」
鈴音は腹を両手で抑えて咳き込み、両膝をついて跪く。
ミリアがレクイエムを演奏しながら、生き残りのベルセルクたちを集結させる。
葵を捕らえている一体を脇に呼び寄せ、残りの巨漢たちに鈴音を取り囲ませた。
そのうちの一体が、跪く鈴音の背中を蹴りつける。
「ぐぁっ!」
蹴りの衝撃で前のめりに倒れそうになる鈴音の頬を、前に立っている別のベルセルクの蹴りが捉えた。
棍棒で殴られたかのような重い衝撃に一瞬吹き飛びそうになる意識を、鈴音は懸命に繋ぎ止める。
地面へと倒れ込んだ鈴音の髪の毛を掴んで無理矢理に立ち上がらせ、正面のベルセルクが腹を殴りつけた。
「うぐあっ……」
竪琴の旋律の合いの手のように、ベルセルクの容赦のない拳や蹴りが飛び交う。
鈴音に反撃の手立てはない。
手を出せば、人質に取られた葵に危険が及ぶ。
いくら自分が傷つこうと構わないが、葵の身の安全だけは守らなくてはならない。
鈴音は拳を封印し、これからその身に襲い掛かるだろう生き地獄を受け入れる覚悟を決めていた。
暴力の嵐が抵抗できない鈴音の肉体を責め立て、破壊していく。
その光景を見ながら、ミリア・レインバックは心底楽しそうな笑みを浮かべ、陶酔しきった表情で死の曲を奏で続けた。
山頂付近で繰り広げられている悪意の宴を知らぬまま、ちとせたちは猫ヶ崎山の中腹に辿りついていた。
目の前には、観光客のためのキャンプ場や、先日、鈴音たちが利用した温泉宿が建っている。
ちとせたちは、カフェテラス形式の喫茶店で一息ついていた。
「あと一息だな」
迅雷は山頂を見上げていた。
「ボクは、昼間に先に行った姉さんが樹海に迷い込んでないか、ちょっと心配だよ」
ちとせが抹茶ケーキを口に運びながら言う。
「ははっ、姉貴さん、少し天然入ってるからな」
迅雷は珈琲を啜った。
「それに姉さんが鈴音さんとイチャついていないかも、心配だよ」
「女性同士でイチャつくって……」
悠樹が顔を微かに赤らめる。
「秘密の花園☆」
ちとせがウィンクして、妖艶に微笑む。
レイチェリアが舌なめずりをして、話題に食いついてきた。
「ソレって、とっても楽しそうな……」
レイチェリアの言葉が、途中で切れる。
全員の視線が、レイチェリアに集まった。
ビクンッ。
突然、レイチェリアが身体を震わせた。
「どうした、レイチェ?」
不審そうに尋ねる迅雷の声に、その場の全員がレイチェリアを振り返る。
それまでの陽気なレイチェリアの面影はなく、顔面を蒼白にして、全身を震わせていた。
「いる」
言葉を無理矢理絞り出すように言うレイチェリア。
「いる?」
迅雷が眉を曇らせた。
レイチェリアは寒気を抑え込むように自分で自分の肩を抱いた。
「夢魔族」
「夢魔? レイチェと同じサッキュバスとかだよね?」
レイチェリアは怯えた表情で微かに首を縦に振った。
「山頂にいる」
その言葉に、全員の表情が硬くなった。
「まさか、『ヴィーグリーズ』が?」
「鈴音がやられるとは思わねえが、イヤな予感がするぜ」
「急ぐよ!」
迅雷がカップを置いた時には、すでにちとせは椅子から立ち上がっていた。
「ま、待ちなよ、ちとせ」
慌てて悠樹も席を立って、歩き出したちとせを追いかける。
ロックも席を立ったが、尋常でない怯え方をしているレイチェリアを心配そうに見つめていた。
「迅雷クン。レイチェさんは……」
「おう、わかってる。レイチェ、おまえは、ここで待ってろ。高位の魔族じゃ相手が悪い」
迅雷は、レイチェリアにカフェテラスに残るように言った。
「は、はい。気をつけてくださいね」
レイチェリアは素直に頷いた。