魂を貪るもの
其の八 裁きの始まり
7.歪み

 女刑事はパトカーを降りると、眉の間に皺を寄せて、美しい顔を微かに歪めた。
 まだ、建物が全焼した熱気が残っている。
 現場に目をやると、ますます、彼女の表情は暗くなった。
 建物があった場所には黒焦げた瓦礫が、墓標のように立っているだけだ。
 それを取り囲むように、何人かの警察官が動き回っている。
「……」
 無言で現場を隔離するために張り巡らされたテープを潜り抜ける。
「佐野倉先輩」
 黒縁の眼鏡をかけた怜悧そうな刑事が声をかけてきた。
「麻宮クン。被害者は?」
 敏腕女刑事と噂されている佐野倉マリアは微かに頷いて、声をかけてきた後輩、麻宮刑事に問い返した。
「建物は、有名な占い師シャロル・シャラレイの自宅兼営業所ですが、被害者のシャロル・シャラレイの行方はわかっていません」
 鑑識の報告によると、館はかなりの火力で燃えていたようだ。
 もし、シャロルが火事に巻き込まれていれば、骨も残っていない可能性もあると言う。
 そして、麻宮刑事は付け足すように言った。
「出火した場所は、シャロル・シャラレイが占いを行なっていた部屋のようですが、玄関とこの部屋のドアの鍵に壊されており、外部から何者かが侵入していた形跡があります」
「物取り?」
「まだ何とも言えませんが、証拠隠滅のために放火をしたのかもしれませんね」
「そう……」
 マリアは形の良い顎に手を当てて、溜め息をついた。
「猫ヶ崎も物騒になったものね」
 悩ましげに美しい栗毛を靡かせた。

 神代葵は、台所で夕食の用意をしていた。
 居間のテレビはつけたままである。
 無論、台所にいるので画面は見えない。
 葵の癖だった。
 家に一人でいる時はいつもテレビをつけている。
 葵は静寂が好きだったが、一人でいる時の静寂はあまり好きではなかった。
 つまりは、寂しいので、テレビをつけて紛らわせているのである。
 音だけが聞こえてくる。
 夕方のニュースが始まったところだ。
「──政府与党は……」
 冒頭のニュースを生真面目なキャスターの声が読み上げている。
 葵は放送されている内容には興味も薄そうに、野菜を刻んでいた。
 しばらくして、流れてくる内容がローカルニュースに変わった。
「──次のニュースです。今日正午過ぎ、猫ヶ崎市で有名な占い師シャロル・シャラレイさんの自宅が全焼する火事がありました。警察の調べによりますと、出火原因に不審な点があり放火の疑いがあるということです」
 葵は耳を疑った。
 思わず野菜を刻んでいた包丁を取り落としそうになって、慌ててまな板の上に置いた。
「またシャロルさんの行方が掴めておらず、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとして捜査を進めています。では、続いて……」
 葵の顔は蒼ざめていた。
「シャロルさんの館が火事?」
 背中に寒いものが走った。

 ――歪みが生じていた。
 目に見えない小さな、小さな歪み。
 見えないがゆえに、肌にざらついた感触を残す異様な歪み。
 それは、ゆっくりと、猫ヶ崎を侵蝕し始めていた。
 ――ゆっくりと、ゆっくりと。
 それを感じ取れている者は、極わずかに過ぎない。

 ちとせと悠樹、迅雷とレイチェリア、そして、ロックは猫ヶ崎山からの帰路に着いていた。
 鈴音は、修行を完成させるために猫ヶ崎山に篭っている。
「ロックちゃんも残れば良かったのに」
 レイチェリアが言った。
 それはここにいるロック以外の全員が思っていることに違いなかった。
「修行の邪魔はしたくありませンから」
 ロックはサングラスを指で撫でた。
「邪魔じゃないと思いますけどね」
 悠樹が言う。
 それもまた、ここにいるロック以外の全員が思っていることに違いない。
 だが、ロックは、曖昧に微笑しただけで、何も応えなかった。
 迅雷は頭を掻いた。
「んん? ちとせ、何やってんだ?」
 ちとせが何やら本らしきものを、ぱらぱら捲っている。
「ん〜」
 ちとせが、悩ましげに額に手を添えた。
 それは、悩みを抱える女性としての魅力的な姿として迅雷の瞼に写った。
 調子でも悪いのだろうか。
「明日の英語がねえ」
 ちとせは、溜め息をつきながら、本を捲る。
 どうやら、本は英語の単語帳のようだ。
 結構、勤勉家かもしれない。
「だ〜っ!」
「何よ?」
「それかよ!」
「それかよ! ……て、ねぇ。これはこれで、『ユグドラシル』以上に、ボクには重要な問題なのよ。 Do you understand?」
 ちとせが前髪をいじくりながら、迅雷に言った。
「うおっ、なんだか、ムカツク言いようだな、おいっ!」
 迅雷が喚く。
 二人のやり取りを見ていたレイチェリアが、おもしろいものでも見つけたように、ちとせの真似をする。
「ドゥユアンダスタ〜ン♪」
「レイチェ、おまえが理解してないだろ。その英文の意味をよ」
 迅雷が溜め息をついた。
「家に帰ってから、一緒に勉強しようか」
 悠樹が、ちとせの軽く肩を叩く。
「そだね☆」
 ちとせは、パタンと単語帳を閉じて、頷いた。
「昼間に鈴音さんに教えてもらったから、けっこう覚えられたしね。それに、ここだと迅雷先輩がうるさいし……」
「何ぃっ!」
 目を剥く迅雷を軽くあしらって、ちとせは単語帳を仕舞う。
 そして、悠樹にウィンクをした。
「んじゃ、悠樹。夜、部屋に行くね☆」
「あ、ああ、うん。オッケー」
 悠樹は頷いて、髪の毛をかきあげた。

「遅かったですわね、ヘルセフィアス殿」
 ミリア・レインバックが『ヴァルハラ』に帰還したヘルセフィアス・ニーブルヘイムを出迎える。
 暴走した『ユグドラシル』の処理はうまくいった。
 『ユグドラシル』は再び強力な結界に閉じ込められ、『ヴィーグリーズ』の監視下に置かれている。
 そのためか、ミリアの機嫌は良さそうだ。
「それが、少々、邪魔が入りましてね。手間取りました」
「邪魔?」
「ええ。そのことで、秘書殿のお耳に入れておきたい話があります」
 ヘルセフィアスは小声で、ミリアに耳打ちした。
「私に?」
「はい。"凍てつく炎"のことです」
「!!」
 "凍てつく炎"という名を聞いて、ミリアの表情が鋭くなる。
 あの女の情報なら喉から手が出るほどに欲しい。
 そこからあの女を嬲りものにする口実を得られるかもしれないからだ。
「私が『ユグドラシル』の根を追い、猫ヶ崎山に行った時」
 ヘルセフィアスが、ミリアの表情を覗いながら言う。
「あの女、"凍てつく炎"の妹に出会いました」
「"凍てつく炎"の妹……ですって?」
 衝撃的なヘルセフィアスの言葉に、ミリアの目が大きく見開かれた。
 霧刃は世界一と呼ばれた力を持ち、裏世界ではその名を知らぬ者はいないとまで言われている。
 だが、彼女の過去に関しては、日本有数の退魔師の家系である織田家の一族だということと、その織田家の血筋は数年前に皆殺しにされたということが知られているだけだ。
 だから、ミリアも"凍てつく炎"に妹がいるとは思わなかった。
「ええ。しかも……」
 ヘルセフィアスは心の中の企みをおくびにも出さず、心底驚いているように続けた。
「彼女は、シギュン殿の右腕を奪った少女と仲間のようなのです」
「なっ……?」
 さすがのミリアも一瞬絶句する。
 そして、間をおいて、ヘルセフィアスに小声で尋ねた。
「そのこと、まだ、ランディさまと筆頭幹部殿には申し上げていませんわね?」
「はい。今、帰還したばかりですから。それに、まずは秘書殿のお耳にと……」
「まずは、私に?」
「あのお二方は"凍てつく炎"を気に入っていますので、讒言と取られてはかないませんからね」
 ここが重要だと、ことさら慎重にヘルセフィアスがミリアの耳元に囁く。
「そう……」
 ――お二方は"凍てつく炎"を気に入っています。
 ヘルセフィアスの囁きに、ミリアの肩が震えた。
「そう、……そうですわね。ありがとう」
 しばらく何やら思案しているようであったが、ミリアは意を決したようにヘルセフィアスに告げた。
「このことは、お二方には黙っておいてくださるかしら?」
「それは構いませんが……」
「"凍てつく炎"ごときのことで、お二方の心を煩わせたくありませんからね」
 ミリアの目が妖しく輝くのを見て、ヘルセフィアスは満足したように頷いた。
「ランディさまと筆頭幹部殿も、筆頭幹部殿の右腕を奪った少女と"凍てつく炎"の妹を捕らえれば、私の独断で行なったことであっても納得してくださるはずですわ」
 ミリアは自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 一方、『ヴィーグリーズ』筆頭幹部シギュン・グラムは、『ヴァルハラ』の最上階――ランディ・ウェルザーズの部屋へ来ていた。
「ヘルセフィアスという男は信用できませんね」
「どうした、シギュンよ?」
 ランディは興味深そうに部下の顔を眺めた。
「他人の陰口とは、おまえらしくもないではないか」
 シギュン・グラムの表情に暗い翳りはない。
 そして、ランディの言葉に肯定も否定も返してこなかった。
 ただ冷たく虚ろな眼差しで、見つめ返してくるだけだ。
 "氷の魔狼"の視線はいつも冷たい。
 そして、その紺碧の瞳に何も映していない。
 この『ヴィーグリーズ』の総帥であるランディ・ウェルザーズの姿でさえ映すに値しないとばかりに透明に輝いている。
 ランディは、それを知っている。
 咎めるつもりはない。
 この魔狼を飼うことは誰にもできないと知っている。
 だからこそ、手許においている。
 そして、彼女の獣性を抑える理性を与えるように部下として扱い、命令を下している。
「わかっておる。あの男は腹中に、大それた野望を秘めている」
「ならば、なぜ放置しておくのです。あの男がいなくても計画には支障はないはずですが」
 私情ではない。
 シギュンは、あのヘルセフィアスという男の心の奥に、自分たちがいる闇とは違う色――俗物の闇――を見ていた。
 それをランディに忠告しているのだ。
「シギュンよ」
「はい」
「私にとっては不確定要素が多い方が良いのだよ。あの男が何を考えていようとな」
「……」
「あの男は私の駒に過ぎんよ」
「そこまでのお考えならば」
 シギュンは頭を垂れた。
 それは彼女にとって敬意を表した行動ではない。
 会話を終了するための形式に過ぎない。
 彼女は言うべきことは言った。
 そして、判断するのは自分ではない。
 すでに関心事ではなくなった。
 ヘルセフィアスなどは彼女にとっての何の価値もない。
 そして、ヘルセフィアスを放置したランディ・ウェルザーズが被害を被ろうとも、どうでもよいことなのだ。
 シギュンは退出すべく一歩後ろに退がった。
「シギュン・グラム」
 ランディは、シギュンをフルネームで呼んだ。
 総帥室から出て行こうとしていた"氷の魔狼"が動きを止め、振り返る。
 シギュンの氷でできたような瞳を見て、ランディは静かに言葉を紡いだ。
「おまえも私にとって駒に過ぎんとしたら、どうする?」
「私があなたにとって駒の一つに過ぎぬとしても、それは私にとっての関心事となりません。私は私が最良に思った道を進むまでのこと」
 シギュンの瞳は相変わらず何も映していない。
 ランディに向けられた双眸は冷ややかに何も刻むことなく、輝いている。
「そうか、最良の道か。さすが誇り高き魔狼の返答だな。忠誠を誓いますなどというよりよほど信頼できるというものだ」
 ランディは深く息を吐いた。
「しかし、最良の道とは、あの少女を狩ることか?」
「右腕の仇は取らねばなりません」
 シギュンは直接的な答えは述べなかった。
 彼女の瞳が微かに揺らすことができるのは、誰かを食い殺したいという狼としての本能だけだ。
 そして、それは今、一人の少女に向きかけている。
 だが、その少女も双眸に映すにはまだ足りない。
 屈辱だけでは、足りない。
 だから、あの少女を待っている。
 シギュン・グラムは何も映していない目を伏せた。


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