魂を貪るもの
其の八 裁きの始まり
6.撃退

 織田霧刃は、青白い霊気を立ち昇らせている刀を鞘に収めた。
 目前で、シャロル・シャラレイの占いの館が炎上している。
 霧刃は、その炎すらも凍りつくような視線で、館の燃え崩れていく様を見つめていた。
「……っ!」
 ふと、霧刃の真紅の瞳が収縮した。
 視線を腰に帯びた黒金の鞘へと落とす。
「鈴音か……?」
 妹の名を呟き、空を仰ぎ見る。
 一瞬だけだが、肌を打つような大気の震えと、凄まじい霊気が感じられていた。
 続いて遠くから聞こえてきた消防車とパトカーのサイレンに眉をひそめる。
「……」
 霧刃は路地裏に移動した。
 そして再び、占いの館を包み込む炎をしばしの間、何の感情もない瞳で眺めていた。
「……」
 細雪が微かに青白い光を帯びてくる。
 淡くて濃い、不可思議な光だ。
 細雪の柄を霧刃が締め上げる。
 途端に青白い光は消えるように収まっていく。
 と、霧刃の真紅の瞳に苦痛の色が生じた。
「くっ……、こほっ……、こほっ……、ごほっ……」
 絡みつくような咳が、白い喉を突いて出る。
 胸の奥を鋭い錐で抉られるような激しい痛みに、美しい顔が歪む。
「ごほっ……ごほっ……」
 霧刃は口元に手を当てて、咳を無理やり抑え込む。
 息を整えて、唇から手を放す。
 手のひらに赤い液体が滲んでいるのを見て、霧刃はぐっと手を握り締めた。
「――忌々しい」
 小さく呟き、霧刃は黒色のロングコートの裾を翻して暗がりに姿を消した。
 その背後で、完全に炎に包まれた館の壁が崩れ落ちた。
 煤と血に汚れた占い師の法衣の切れ端が、熱風に舞っていた。

「これで何度目だ。一体何度目の終末(ラグナロク)なのだ」
 ランディ・ウェルザーズは、ソファに深く越しかけたまま、憎しみを込めた瞳で宙を睨みつける。
 その視線の先には何もない。
 だが、ランディには見えている。
 自分を玩具として扱い、嘲笑を浮かべている憎い存在が。
世界樹(ユグドラシル)よ。そして、運命(ノルン)よ。また破壊の炎の揺らめきを見せるのか?」
 ランディの腕を灼熱の炎が駆け巡る。
 破壊の炎の揺らめき。
 それを発しているのは、自分であって、自分ではない。
 極炎の魔神。
 魔火の王。
 漆黒の焔。
「刻は近いか。邪心が、破滅の本能が疼きよるわ」
 ――本能。
 理性を超え、根本を司るもの。
 遥か古より植えつけられし、徹底した浄化の宿命。
「忌々しいことよ」

 鼓膜を破るような轟音が静まり、閃光が晴れて視界が戻る。
 ちとせが翳していた手のひらを下げて、視線を『ユグドラシル』の巨大な根が存在していた場所に戻す。
 そこには何も残っていなかった。
 いや、猫ヶ崎山の森は、そのまま残っていた。
 森を覆い尽くしていた『ユグドラシル』の根だけが、綺麗になくなっていた。
 唖然とした表情で、辺りを見まわす。
 あれだけ蠢いていた『ユグドラシル』の根は影も形もない。
 呆然とする悠樹。
 立ちつくす迅雷。
 そして、霊気の剣を振りきったまま、荒く息をついている鈴音。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 鈴音は自分自身に驚いているようだった。
 まじまじと自分の手のひらを見つける。
「無我夢中だった。だけど、今の技は、まさか覇天神命斬(はてんしんめいざん)?」
 手の五本の指を開き、閉じ、開き、閉じる。
 今の一撃の感覚が刻まれている。
 鈴音は、『ユグドラシル』のあった場所に視線を移した。
 世界樹の姿はない。
 仲間は全員無事なようだ。
 ちとせも、悠樹も、迅雷も無事だ。
 それを確認した途端、安堵が押し寄せてきた。
 強大な敵を撃退したという事実よりも、仲間が無事であるということが、鈴音にとっては重要だった。
「……やった、か」
 鈴音は呟くと、力尽きたように膝をつく。
「鈴音さんっ!」
 ちとせの声に我に返った悠樹が、崩れ落ちる鈴音に駆けよって肩を貸す。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。ちょっと疲れただけだ。少し休めば、何てことはないぜ」
「あれほど凄まじい威力の技を放ったんだ。身体に無理な負担がかかって当然だ」
 いつの間にか側まで来ていた迅雷が、悠樹が支えているのとは反対の鈴音の肩を支える。
「気付けに霊気を送ってやろうか?」
「バカ言え、死にそうでもないのにそう易々と他人の霊気に頼れるかってんだよ」
「ふらふらのくせによく言うぜ」
「おまえが過保護過ぎるんだよ。悪い癖だぞ、迅雷」
「悪い癖か。そうかも知れないな」
「まぁ、それが迅雷先輩の良いところですけどね」
 悠樹がフォローを入れる。
「がっはっはっ、長所と短所は表裏一体ってことだな」
「……ったく、すぐ調子に乗るんだから」
 ちとせが肩を竦めた。
「んだとぉ?」
 反論しかける迅雷の唇に、ちとせが人差し指を当てて黙らせる。
 緊張した面持ちだ。
 迅雷は素直に押し黙った。
 彼も気づいたのだ、敵が残っていることに。
「そこっ!」
 ちとせが神扇を投げつける。
 狙い違わず神扇は、木陰に突き刺さった。
「がああああああああああっ!」
 絶叫が響き渡る。
 よく見れば、神扇は草木の影の中のさらに濃い黒い影を貫いて、地面に縫いつけている。
 叫び声は、その影から発せられている。
 噴水のように、影から黒い柱が盛り上がった。
「おのれ」
 影は人の形を取った。
 それは実体化し、ヘルセフィアスの姿になる。
「我が術を見破るとは……」
「そうか、影。影使いか」
 迅雷の呟きに、ちとせは頷いた。
「そだよ。本体は、人形ではなく影。瞬間移動も、影の中を移動してたんでしょ」
 神扇はヘルセフィアスの肩に突き刺さり、その部分から煙が上がっている。
 苦痛を噛み殺して、ヘルセフィアスは笹の葉が幾枚も重なったかのような形状をした扇を引き抜いた。
「シギュン・グラムを退けた力。偶然ではなかったということです、か」
 神扇を握り締めた右手からも、肉が焼ける音とともに煙が上がる。
 ヘルセフィアスは舌打ちして、神扇をちとせに投げ返した。
 それは心臓を狙った弾道はずだったが、ちとせは一歩も動くことなく簡単に神扇を受け止める。
 まるで、持ち主の手に吸い込まれるようだった。
「観念しなさい」
 ちとせが神扇を握り直し、ヘルセフィアスを睨みつける。
「悠樹、鈴音を頼むぜ」
 迅雷も鈴音を悠樹に預けて、その手に霊気の剣を形成する。
「散々コケにしてくれたからなァ。ただじゃおかねぇ!」
 怒声を上げる迅雷を、ヘルセフィアスは冷徹な目で見つめた。
「あなたたちは私の障害になるようですね」
「私の障害?」
 ちとせが目を細める。
「『ヴィーグリーズ』の障害、じゃないの?」
「……」
 ――ぱちんっ。
 ヘルセフィアスは、ちとせには応じず、指を鳴らした。
 黒い影が生き物のように蠢き始める。
「覚えておくが良い」
 突然、影が柱のように吹き上がってヘルセフィアスを飲み込んだ。
「あなたたちがどう足掻こうと、最後に笑うのは私だということを!」
 ヘルセフィアスは捨て台詞を吐き、姿を晦ました。
「待てっ!」
 ちとせたちは後を追おうとしたが、ヘルセフィアスの姿は文字通り影も形も残っていなかった。
「逃がしたか」
 迅雷が悔しそうに舌打ちする。
 その脇では鈴音がまだ、時折自分の手のひらを見つめていた。
 いつもの鈴音なら敵を逃がしたことに悔しがるか、悔しがる迅雷を宥めるか、とにかく、もう少し反応があるはずだ。
 不審に思った迅雷が尋ねる。
「どうした、鈴音?」
「ん?」
「さっきからおかしいぜ。やっぱ、霊気が枯渇しているんじゃないのか?」
「い、いや、大丈夫だ」
「なら、良いけどよ。具合が悪かったら、すぐ言えよ」
「あ、ああ」
 鈴音は曖昧に頷いた。
 迅雷は納得いった様子はなかったが、ちとせたちの方に向き直った。
「さてっと、ロックさんとレイチェを探しに行かないとね☆」
「おう、そうだな」
 ちとせたちは、ロックとレイチェリアを探すために歩きはじめる。
 その後ろで、鈴音はもう一度、自分の右手を見つめた。
 そして、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
覇天神命斬(はてんしんめいざん)
 それは、鈴音が目指している天武夢幻流の最終奥義の名だった。
 天を覇し、神の命すら斬り裂く夢幻の刃。
「撃てたのか、あたしは?」
 一度だけ。
 一度だけ、父親が見せてくれた幻の技。
 だが、忘れようもない極限の威力を持つ技。
 天武夢幻流の正当後継者のみに伝えられる必殺の最終奥義。
 今までどんなに強くなっても撃つことができなかった究極の技。
 無我夢中とはいえ、それを放てたというのか。
 ――いや、無我夢中だからこそか。
 そして、修行をやり直しているのが正解のようだった。
 覇天神命斬を放った時のあの青白く透き通った霊気は、今まで暗黒面(ダークサイド)の感情で満たされていた精神力では耐え切れないはずのものだった。
 まだ修行二日目だが、鈴音は自分が変わりつつあるのを実感としている。
 自分を見つめ直す時間がいかに重要であるのか。
 この街に辿りつくまでは霧刃を追うことだけに想いを囚われ、自分の姿さえ見えていなかった。
 修行を怠り、実戦だけを求めていた。
 実戦で強くなった。
 実際、修行で得た技術は、実戦を行わなければ使い勝手さえわからないものだった。
 それに現実では修行の精神論が通じることは極端に少なく、生き地獄ともいえる過酷さを伴っていることがしばしばだった。
 今、鈴音に再修業の機会が訪れたのは、偶然なのか、必然なのかは分からない。
 だが、以前の彼女にはなかったが、今の彼女には確実に存在するものがあった。
 自分を強くしてくれる存在。
 仲間。
 ちとせ、葵、悠樹、レイチェリア、迅雷。
 そして、ロック・コロネオーレ。
 かけがえのない仲間だ。
 鈴音は拳を握り締め、天武夢幻流の理を思い返していた。
 弱い人たちを、大切な人たちを守る、そのための退魔武術。
 ――仲間を守るために、そして、霧刃を止めるために、あたしは覇天神命斬を極めてみせる。
 鈴音は心の中で、再度そう誓った。
 そんな鈴音を、ちとせは笑顔で振り返った。
 鈴音の心を読んだような不思議な笑みだった。
 ――手伝ってあげる。
 涼やかな瞳はそう言っているように見えた。
 鈴音は、ちとせの瞳に視線を合わせて頷いた。
 ちとせは満足そうに頷き返して、顔を前方に戻す。
 と、ちょうど、少し離れた場所にいるロックとレイチェリアの姿が視界に入った。
「二人とも無事みたいだね」

「いきなり、何か樹木の根っこみたいのが襲ってきてビックリしちゃいましたよぉ」
 レイチェリアは、ちとせたちに合流すると興奮も冷めやらぬ顔で言った。
「しかも、樹海の魔物が霊的磁場の激変に反応したのか、狂暴化しちゃって大変でした」
 ちとせたちと離れている間に、天狗に襲われたり、鬼に出くわしたりと大変だったようだ。
「でも、ロックちゃんがいたから心細くなかったですけどぉ」
 レイチェリアがケラケラ笑いながら言う。
 このサッキュバスはロックという人間がかなり気に入っているようだった。
 ロックちゃん。
 そう呼ばれて頬を引き攣らせるロック。
「レイチェさん、ちゃん付けはちょっと……」
 ロックが小声で抗議しようとするが、レイチェリアはまったく気づかない。
「拳銃の二丁撃ちで、バンバンッ! 天狗をしとめちゃって、すっごいの〜!」
 はしゃいで、ピョンピョン跳ねまわるレイチェリア。
 ロックの銃さばきは、なかなかのものであるらしい。
「へぇ、それは、見てみたかったかも」
 ちとせが、興味津々の面持ちでロックを見る。
 ロックが拳銃を持っているのは知っていたが、使うところは見たことがなかった。
「あまり他人に見せるものではありませんのでネ」
 ロックはそう応えて、微笑むのみだった。
 他人に見せるものではない。
 法治国家の日本で拳銃を見せびらかすものではないという意味と、奥の手は易々と見せるものではないという意味。
 二つの意味が含まれている。
「まぁ、全員無事で何よりです」
 悠樹が髪をかき上げる。
「問題は山積みだけどね」
 ちとせが思案顔で言った。
 ――『ユグドラシル』。
 あの巨大な根を持つ樹木のことをただ単に『ユグドラシル』と呼称しているだけとも思えない。
 なぜなら、あれは並の力ではなかった。
 たかだか暴走した根の一本だけで、屈指の霊力を所持しているはずのちとせたちを圧倒し、霊山と謳われる猫ヶ崎山を蹂躙するだけの力を持っていた。
「『ユグドラシル・プロジェクト』ね」
 『ヴィーグリーズ』は、この世界樹を支配し、使役しようとしている。
 『ユグドラシル』の圧倒的な力をもってすれば、できぬことなどないように思えた。


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