魂を貪るもの
其の一 来訪者
2.予兆

「はじめまして。神代ちとせです」
 挨拶とともに頭を下げると、少女の尻尾部分の長いポニーテールに結われた髪がさらさらと揺れた。
「あたしは、織田鈴音だ。行き倒れのあたしを助けてくれたんだってな、礼を言うよ」
「お礼なんて良いですよ。倒れている人を助けるのは当たり前でしょ」
 ちとせは心からそう思っているように自然とした態度でそう言って、あたしに微笑んだ。
 ――かわいい娘じゃないか。
 年の頃は十六、七歳か。
 長い睫毛に縁取られた猫のような大きな瞳をしていて、眼力(めぢから)の強さが、この神社の祭神である天宇受賣命( アメノウズメノミコト)に関する『いむかふ神と面勝つ神なり』という伝承を想起させ、意志の強さも窺わせる。
 整っていながら清楚というよりも活動的な印象の顔立ちに、ポニーテールがよく似合っている。
 全体的に凛と引き締まった雰囲気なのは、高校の陸上部に所属していて欠かさないという自主トレーニングの賜物なのだろう。
 その一方で、前を開けたスウェットパーカーの下に着たセパレートタイプのレーシングトップを内側から盛り上げている豊かな胸のラインが色香も感じさせる。
 弾けるような若さと健康さとほどよい色香がブレンドされた美少女。
 そう表現しても誰からも文句は出ないだろう。
 こんなにかわいい娘が血塗れで倒れてたあたしを見て、よく卒倒しなかったものだぜ。
 うん、確かに気は強そうだが、それだけじゃないな。
 隣に座っている葵とかいう彼女の姉も。
 血筋か。
 びんびん感じるぜ。
 霊気を、な。
「鈴音さん、身体の方は大丈夫なんですか?」
 ちとせが心配そうに聞いてくる。
 あたしが負っていた傷は急速に回復に向かっていた。
 この場所――神代神社は非常に強力な霊力が溢れていて、肉体の治癒力を増進させているようだった。
 それに誰かが、たぶん感じられる霊気の波動から察するに葵だろうと思うが、あたしに治癒術を施したに違いない。
 この神代姉妹は、あたしと同じように霊気を操る力に優れている。
 いわゆる霊能力者といわれる輩だな。
 退魔師であるあたしには、それが容易にわかった。
 そして、きっと、ちとせと葵も、あたしが霊力(ちから)を有していることには気づいているはずだ。
 霊力を有しているもの同士であれば、お互いに感覚でわかるものだ。
 霊力なんてあるのかって?
 あるぜ。
 それに、霊や悪魔、妖魔といったものたちも存在してる。
 そこら辺に、うようよしてやがるぜ。
 昔からの隣人のように当然に傍らにいるんだ。
 まあ、普通の人間には見えないんだけどな。
 それに、人間にちょっかい出すような悪霊どもは、思ってるより少ないんだよ。
 もっとも、あたしは退魔師だから、人間を狙ってくる悪魔やら悪霊ばかりを相手にしてるんだけどな。
「ああ、おかげでだいぶ良い。体力の回復が追いつかないがな」
 傷口は完全に塞がっているし、痛みも無くなってきている。
 だが、体力は回復していない。
 全身に疲労がたまっているのが、自分でもよくわかる。
 しばらくは満足に歩けそうにもない。
「良くなるまで、ゆっくりしていってくださいね」
 葵が声をかけてきた。
 ――ゆっくりか。
 本当は休んでる暇はないんだが、身体が動かないんじゃどうしようもないな。
 それに、あたしが追ってる『あいつ』は、この街にいる。
 感じるんだ。
 だが、今は身体を休めるのが先決らしい。
「すまないが、お言葉に甘えさせてもらって休ませてもらえるか?」
 ちとせと葵は微笑んで頷いた。
 きびきびとした感じのちとせと、おっとりとした雰囲気の葵だが、姉妹らしく、二人とも笑顔の感じはよく似ている。
 ――姉妹、か。
 ちとせたちが部屋を出るのを確認して、あたしは布団の上に仰向けに寝転がった。
霧刃(きりは)……」
 天井に浮かんだ『あいつ』の顔を睨みつける。
 『あいつ』の幻は、あたしを睨み返すことすらしないで、静かに消えていった。
 首から下げたままの銀色のロケットペンダントを手に握った。
 冷たい感触が手のひらから伝わり、昂ぶりそうになった気分が落ち着いてくる。
 あたしは両瞼を閉じ、眠りについた。

 今朝の神代家の食卓は、いつもより慌ただしかった。
 朝食の当番であった葵が鈴音の看病に付きっ切りであったことと、ちとせと悠樹も鈴音のことで頭がいっぱいであったことから、全員が時間を気にしなさ過ぎたためだ。
 特にちとせは早朝トレーニングで流した汗を洗い流すのにシャワーの時間を割いたために、朝食の時間も十分に取れなかった。
「いってきますっ!」
 ちとせがトーストを口にくわえたまま、第二ボタンまで外してラフに着た白いブラウスの襟にリボンタイを緩巻きにして、その上からブレザーに袖を通しながら、猫のぬいぐるみが付けられた重そうなスポーツバッグを肩にひっかけている。
 玄関を飛び出して、歴史を感じさせる荘厳な神明鳥居を勢いよく潜り抜け、石段を駆け下りていく。
 短めにカスタムしているチェック柄のプリーツスカートが石段を下りる度にひらひらと揺れ、スカートの裾と黒いオーバーニーソックスの間から見える健康的な太腿の面積が広がるが気にしている余裕はないようだ。
「うっわ〜、まさか、トーストくわえてダッシュ登校ってベタな場面を現実に見れるとは。いや、あれは、ここぞとばかりに、ちとせはわざとやってるね」
 悠樹が先を行く尻尾部分の長いポニーテールを見ながら、時間がない時でも悪ノリしているちとせに苦笑する。
「っと、ぼくも急がないとね。……いってきます」
 柔らかそうな髪をそよ風に揺らしながら、悠樹も玄関を出た。
 こちらは白いワイシャツに青基調のストライプのタイを締め、ブレザーもスラックスも一部の隙もなくしっかりと着込んでいた。
 陸上部のエースであるちとせには及ばないものの、悠樹もそれなりの俊足で鳥居を抜け、石段を下りていく。
「気をつけてね」
 二人を見送った葵は、これからのことを整理してみようと思いつつ、朝食で使った食器を洗いに家へ戻っていった。

「ねぇ、悠樹」
 私鉄猫ヶ崎線の猫ヶ崎駅前の交差点の信号で一息吐き、ちとせが悠樹に話しかける。
 周りは、猫ヶ崎駅の改札口へ向かう人々と改札口から流れ出る人々、そして、駅前のバスターミナルを利用する人々でごった返している。
「あれって何かな?」
「あれ?」
「あれだよ。あれ!」
 ちとせが示した方向には、混み合っている駅前にあって、一際目立つ大きな人だかりができていた。
 赤色警光灯を点滅させた白黒パトカーも数台、止まっている。
「事故……かな?」
「ねっ、ちょっと見に行ってみる?」
「……遅刻するって」
 市内とはいっても、神代神社から猫ヶ崎高校まではかなりの距離がある。
 ちとせも悠樹も、バスや自転車を利用して通学することもあるくらいなのだ。
 もっとも、バスは交通事情で通学時間が変わってしまうので、今日のように急いでいる時はあまり利用したいとは思わない。
 自転車は自転車で、通学自体は楽になるのだが、神代神社の高く長い石段を昇降させるのが一苦労であるために、二人とも基本は徒歩での通学なのだ。
 今もバスも自転車も利用せずに、ここまで全力疾走してきたのだ。
 おかげで、このまま歩いていけば遅刻せずに済む程度には余裕ができていたが、寄り道をすれば、そういうわけにもいかなくなる。
 下手をすれば、また走ることを余儀なくされるだろう。
「む〜、……ダ、ダイジョブだよ。ちょっとだけだからさ?」
「今日の校門前での風紀委員の挨拶当番は、天之川(あまのがわ)だよ?」
「えっ、……か、香澄(かすみ)ちゃんだったっけ!?」
 ちとせが表情を強張らせる。
 天之川 香澄は、ちとせや悠樹と同じ二年生でありながら、猫ヶ崎高校の風紀委員長と剣道部の副部長を努めている文武両道の才女だ。
 他人にも自分にも厳しく、校則違反や公序良俗に反するような行為に対しては断固とした姿勢で臨む。
 生徒の間では、校内でも五指に入る美少女との評判を持ちながら、その定規のように融通の利かない謹厳さから敬遠されがちな女生徒だった。
 どちらかというと陽気なちとせは、堅物である香澄を嫌いではなかったが、苦手ではあった。
「……となると遅刻は命に関わるね。ううむ、……で、でも、気になるなぁ、あれ」
 そう言っている間にも信号は青へと変わってしまう。
 未練がましく人だかりを見ながらも、ちとせはしぶしぶと横断歩道を渡り始める。
 と、その時、群衆の中から、見知った顔が二人に手を振りながら走って来るのが見えた。
「よっ、二人がこんな遅い時間に登校とは珍しいな。特に神代は、陸上部の朝練はお休みかい?」
 クラスメイトの吉田という少年だった。
 茶味がかった髪と、垂れ気味の目が特徴的だ。
 社交的で砕けた性格の持ち主で、ちとせたちとも仲が良い。
「今日は、陸上部は朝練なしなのよ。まあ、ちょっと遅めの登校になっちゃってるのは、それとは別にいろいろあって、ね」
「いろいろってなんだよ?」
「いろいろは、いろいろよ。ねっ、悠樹」
「ぼくに振らないでよ。まあ、とにかく、いろいろさ、吉田」
「なんだ、そりゃ?」
「それよりも、吉田くん、あれ見てきたの?」
「ああ、あれね」
 吉田が如何にも明るそうだった顔を、沈痛な表情に変える。
「人が死んだんだってよ。しかも、殺人らしいぜ」
「ええっ、人殺し!?」
 ちとせと悠樹は目を丸くした。
「ああ、すごい惨殺死体らしいぜ。……頭がぐしゃって潰れていて、地面に血やら脳漿(のうしょう)やらが飛び散ってたって話だ」
 吉田が胸の前で何かが破裂したようなしぐさをする。
「うわ、スプラッタだね」
 神職の家の娘としては不謹慎な軽い答えを返したちとせだが、さすがに頬の辺りを引き攣らせている。
「……で、犯人とかはどうなの?」
「さぁね、まだ捕まってないみたいだけど?」
 学校前の商店街に差し掛かった。
 活気のある商店街として市の内外を問わずに有名なのだが、登校時間にしては遅いものの、商店が開店するには早い時間帯なだけに、シャッターの開いている店は、ほとんどない。
 通勤のサラリーマンや猫ヶ崎高校の学生以外の人影も多くはない。
「おっ!?」
 突然、吉田が驚いたような声を上げた。
「どったの、吉田くん?」
「ん、わりぃわりぃ。あの犬でっかいなあと思ってよ」
「犬?」
 ちとせと悠樹が、吉田の視線の先を見る。
 吉田の言葉通りに大きな犬を連れた女性が歩いてくるのが目に入った。
「ホントだ。おっきい犬だね」
 種類まではわからなかったが、非常に大きな犬だ。
 太い四肢と迫力のある顔は犬というよりも獅子を連想させたが、両目は知性の高さを表すかのように穏やかな色をしている。
 その大型犬を連れているのは、美しい女性だった。
 肩の辺りでばっさりと切られた黒髪をしており、黒基調のロングコートを身に纏っていた。
 その黒い髪や服装とは対照的な白い顔をしている。
 だが、それは雪のようなという表現には当てはまらない病的な白さだった。
 そして、もっとも印象的なのは、血のように鮮やかな赤い色をした瞳。
 氷のような冷たさと燃え盛る炎のような激しさを同時に湛えた、真紅の瞳をしていた。
 その視線は、見たものすべての心臓を射抜くような威圧感を持っている。
 それでも彼女を見た者は、その美しさから目が離せなくなるだろう。
 実際、ちとせも悠樹も、そして、吉田も、背筋の凍るような凄絶な美しさに釘付けになってしまっていた。
 だが、女性の全身から発せられる雰囲気は、明確に他者との交わりを拒絶していた。
 彼女は自分に向けられている視線も、まるで意に介さず、そして音も立てず、ちとせたちの横を通り過ぎる。
 大型犬も従順に女性の後に付いて行く。
「ん……?」
 ちとせが一瞬、ピクリと肩を震わせる。
 奇妙な感覚を味わった。
 しかし、それが何かはわからない。
 ただそれとは別に一つだけ、ちとせにわかったことがある。
 女性の内側から感じられる、抑えていても強力な霊気の波動。
 明らかに、『霊力(ちから)を扱える者』だった。
 しかも、自分などは足元にも及ばないほどの霊気の使い手のようだ。
 もしかしたら、彼女に従っている大型犬も、ただの犬ではなく、使い魔なのかもしれない。
 だが、ちとせが味わった奇妙な感覚は、女性が『霊気を扱える者』であるということから感じたものではなかった。
 むしろ、霊気そのもの、そして、女性の姿かたちそのものから感じられるものだった。
 ただ、その正体が何かは、わからない。
「どうしたんだ、神代?」
 吉田が不思議そうに尋ねてくる。
「お得意の霊感か?」
「何でもないよ。ちょっとボーっとしてただけ」
 ちとせは適当に誤魔化し、ポニーテールとスカートの裾を揺らしてくるりと身を翻した。
「う〜む」
 吉田が真面目な顔をして唸った。
 今度はちとせが不思議そうに小首を傾げる。
「そっちこそ、どったの、吉田くん?」
「うむ、神代。なぜ、今の動きでスカートの中身が見えんのだ。その短さならチラるだろ、どう考えても」
「ちょっ、この……ドアホ!」
 ちとせが猫を思わせる大きな目で吉田を睨み、鋭いローキックを食らわせる。
「ぐあっ!」
 涙目で痛がりながら太腿を抑えて飛び跳ねる吉田。
「痛って〜! 陸上部で鍛えた脚で蹴るなよ! ていうか、今の蹴りでもスカートの中身が見えないのは、おかしいだろ!」
「まだ言ってるし。真正のドアホだね」
 結局、三人が校門の前で、風紀委員長の天之川香澄の堅苦しい「おはようございます」で迎えられたのは、朝のホームルーム開始を告げる予鈴の数分前。
 雑談しながらであったためか、思ったよりも時間がかかってしまったものの、どうにか遅刻はせずに済んだ。
 しかし、吉田だけは前日のクラスの清掃当番を怠って早々に下校していたことが発覚していたため、あとで天之川の厳しい説教を受けることとなった。


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT