魂を貪るもの
其の八 裁きの始まり
2.風の翼

「ん〜っ 良い天気だね」
 ちとせが笑顔で、悠樹に話しかける。
 腰に神扇がしっかりと括られている。
 服装は二人とも猫ヶ崎高校の制服だ。
 ちとせはブラウスの上にブレザーを着ており、ボトムはプリーツスカートで、黒いニーソックスを穿いている。
 悠樹はブレザーとネクタイは身につけておらず、白いワイシャツにスラックスという格好だ。
「ホント気持ちがイイね」
 悠樹の髪が涼やかな風に揺れる。
 ちとせと悠樹は猫耳山の頂上付近で修行している鈴音たちの元へ向かっていた。
 葵は神社に残って本業の巫女の仕事をしながら、『ヴィーグリーズ』の情報を集めてくれている。
 日差しは穏やかで、山登りには快適だ。
 斜面の上の平面に視線を向けたちとせが、そこにテントが張られているのを見つけた。
「見えたよ。テントがあそこにある」
「あれね」
 悠樹が風でなびいた髪を抑えながら、テントに目を向ける。
 炊事のものらしき煙が昇っている。
 と、霊気の波動で、大気が震えた。
 ちとせと悠樹に、風の波が軽い衝撃を運んでくる。
「おっ、やってるみたいだね」
 ちとせと悠樹は、斜面を登る速度を上げた。
 
「あ、ちとせサン」
 テントに近づくと、声が後ろから飛んできた。
 ロックの声だ。
「ロックさん、……って、その格好は?」
 ちとせと悠樹は振り返って、ロックの格好を見た途端、目を丸くした。
 ロックはいつものサングラスはそのままだったが、頭には三角巾。
 イタリア製のダークスーツとネクタイの代わりに、ふりふりエプロン。
 右手にはお玉を装備していた。
 お嫁さんいらっしゃい。
「いや、レイチェさんに料理をいろいろ教えて欲しいと言われましてネ。ハハハ……」
 ロックが苦笑しながら、サングラスの縁を少し押し上げた。
 自分で着たのか、レイチェリアに着せられたのか。
 それは謎である。
「めちゃくちゃ似合ってるし……」
 ちとせが呟く。
 ロック・コロネオーレの奥さま仕様は元々が端正な顔立ちのため、恐ろしく似合っていた。
 ちとせはちらりと悠樹に視線を移した。
 悠樹はロックに輪をかけて女性的な顔立ちをしている。
 一瞬、ちとせの脳内に悠樹の女装が頭に浮かぶ。
 やばい。
 かなり可愛い。
「悠樹も似合いそうだよね」
「いいっ!?」
 ちとせの言葉に、悠樹が頬を引き攣らせた。
「ジョーダンだよ、ジョーダン☆」
 本当は冗談ではない。
「ところで、鈴音さんたちはあっち?」
「ええ、滝で修行だとカ言ってましたヨ」
「滝で修行ねえ。滝に打たれてるってわけじゃなさそうだけど……」
 ちとせが半分呆れたように、半分興味深々に、ため息を吐いた。
「まっ、見に行けばわかるか」
「あっ、オレはレイチェさんの相手をしてますんで」
「がんばってね、ロックさんも」
 ちとせは尻尾の長いポニーテールを揺らしてウィンクをした。
 
 轟々と流れ落ちる滝。
「あっ、鈴音さん、見っけ」
 ちとせは、目を閉じたまま滝壷の正面に立っている鈴音を見つけた。
 だが、その鈴音の姿から何か不自然な印象を受けた。
 まず、その全身がずぶ濡れなのだ。
 赤いシャツの上にデニムジャケット、それにデニムパンツという格好なのだが、袖や裾から水が滴っている。
 そして、服のところどころが破け、泥が其処彼処に付着している。
 まるで激しい戦闘の後のような姿だが、表情は静かで対照的だった。
 だが、ちとせが鈴音の姿が不審に思えた最大の要因は別にあった。
「水の上に立ってる!?」
 ちとせが素っ頓狂な声をあげる。
 鈴音は文字通り水面の上に立っていた。
 つま先が青白い霊気を帯び、足元を中心に水面に波紋が広がっている。
 滝壷に流れ込む水流が作り出す流れは不思議と波紋に掻き消されていた。
「水面と足の間に霊気を張って水を弾いて、水面の上に立っているんだ」
「相当集中して、霊気を一点に集めなきゃ無理な芸当だね」
 ちとせが感心したように首を振った。
 
「準備いいか?」
 鈴音の正面、少し離れた場所から迅雷の声が聞こえてきた。
 見れば、迅雷が構えを取って立っている。
「何をする気かな?」
「さあ?」
 ちとせと悠樹が首を傾げていると、再び迅雷の大声が聞こえてきた。
「目、開けるなよ?」
「わかってら! 今度こそ避け切ってみせるぜ!」
 鈴音は目を閉じたまま応じて、水面の上で構えを取る。
「そんじゃ、行くぞ! オラァ!」
 迅雷は叫ぶと掌から同時に霊気の弾を一発放った。
 それは一直線に飛んで行き、滝口の側にあった巨大な岩に炸裂した。
 轟音とともに、砕けた岩が降り注いでくる。
 鈴音は華麗に水面をステップして、そのことごとくをかわしていく。
「すごっ、目を閉じたままなのに!」
「大気の流れ、風の流れを感じてるんだ」
 悠樹の前髪が微かに揺れた。
 鈴音は落下してくる岩の破片を全て避け切った。
「よし、直線は問題ないな。次行くぜ。さっきみたいに当たるなよ」
 迅雷が再び、霊気弾を放った。
 しかし、今度は一発ではない。
 数十発の霊気の塊だ。
 速い弾、遅い弾、弧を描く弾。
 ありとあらゆる軌道とスピードの弾が個々に鈴音に向かって解き放たれた。
「今度こそ避けきってみせな」
 独り言のように迅雷が呟く。
 霊気の弾群の一部が鈴音に到達する。
 鈴音は気の流れを読みながら、弾幕を辛うじてかわしていく。
「さすがに今度は辛そうだね。あの霊気弾は岩みたいに直線的な動きじゃなからね」
 ちとせが顎に手を当てて、眉を眉間に寄せた。
「うん。今度は難しいよ。避けた後の硬直を少なくしないと避けきれないよ」
 悠樹も心配そうに鈴音の動きを追う。
「微かな流れの変化も逃さない集中力がいるし、さっきよりもっと動きを少なくしないとダメだよ」
「鈴音さん、ガンバ!」
 しかし、ちとせの声援も虚しく、鈴音の呼吸は乱れ始めていた。
 それでも、どうにか十数発の霊気弾を凌いでいたが、鈴音の身体が突然電撃にでも打たれたかのように痙攣し、その動きが止まってしまった。
「くっ、枷が……!」
 彼女の両手首には、迅雷が作り出した『枷』が今日も嵌められていた。
 呼吸の乱れが、『枷』を刺激し、激痛が鈴音の全身を襲ったのだ。
 苦痛で動きを止めた鈴音の腹に霊気の塊の一つが炸裂した。
「うっ!?」
 そして、残りの霊気弾が後を追うように次々に炸裂する。
「ぐうっ!」
 ついに絶えきれなくなり衝撃とともに吹き飛ばされ、鈴音は滝に突っ込んだ。
 残りの気弾が滝の中まで追撃して行く。
 辺りに凄まじい轟音が響き渡り、滝から水柱と煙が上がった。
 
「うっわ、さっきの衝撃ってコレだったわけね」
 山を上って来る最中の大気の揺れを思い出した。
 そして、鈴音がボロボロの服で、全身びしょ濡れだった理由も理解した。
 鈴音は『わかってら! 今度こそ避け切ってみせるぜ!!』と言っていた。
 つまり、一度、今と同じように霊気の雨を受けたわけだ。
「あちゃあ、ダメだったか」
 迅雷が額に手を当て、滝の方に視線をやりながら近寄ってきた。
 どうやら途中から、ちとせたちが来ていることに気づいていたらしい。
「はろ。迅雷先輩。ハードにやってるね☆」
「ああ、おれはもう少しソフトでもイイと思ってんだけどよ。鈴音がやる気満万だからな」
 迅雷は苦笑しながら、ちとせに向き直った。
「そっちは神降ろしの契約、うまくいったみたいだな」
 ちとせは腰に携えていた扇を手に取った。
「うん、カ・ン・ペ・キ☆」
 迅雷に向かってウィンクをする。
 魅力的な笑顔だった。
「後で見せてあげるよ、ボクの神降し」
「おう、楽しみにしてるぜ」
「ところで、鈴音さんは大丈夫かな? 滝から全然出てこないけど……」
「大丈夫じゃねえのか。鈴音ならアレくらいの霊撃でまいったりしないだろ」
「いや、そうじゃなくてさ。溺れてたりしてないかなって、凄い勢いで滝に突っ込んでたし」
「……そういえば、さっきよりも出てくるのが遅いな」
 ちとせの言葉に少し不安になった迅雷が滝に視線を戻す。
 水面には滝が流れ落ちる波紋だけが広がっている。
 鈴音は依然として姿を現さない。
 もしも、吹き飛ばされた勢いで頭でも打っていたら、溺れているかもしれない。
「そうだな、さすがに様子を見に行った方が良いか」
 迅雷が決心した途端、 滝壷から水柱が上がった。
「げほげほっ! ……くっそ〜、水飲んじまった! ……げほげほっ!」
 滝から鈴音が這い出てきた。
 ちとせたちは、ほっと安堵の息をついた。
 鈴音の格好はさらにボロボロになっている。
 デニムジャケットは破れに破れ、申し訳程度の生地がシャツに張り付いているようにしか見えない。
 おかげで、ずぶ濡れのシャツが透けて、下着の線がくっきりと見えてしまっていた。
「やほ、鈴音さん」
「おっ、げほげほっ、……ちとせと悠樹か」
 咳き込みながらも鈴音が、笑顔で手を振るちとせへ向き直る。
 ちとせの中に今までと違う力を感じたのか、鈴音の顔に微かな驚きが浮かんだ。
「そっちは契約うまくいったみたいだな」
 そして、納得したように微笑み、それから濡れて額に張りついた前髪をかきあげる。
 もちろん、いつものようにさらさらとは落ちては来ない。
「こっちはなかなか、な」
 鈴音がシャツの裾の水を絞りながら、自分に悪態をつく。
 呼吸が整っていないため、霊気の流れに乱れが生じ、まだ時折『枷』が苦痛を送り込んでくる。
「今やってた修行、凄かったですね」
 悠樹が鈴音に言う。
「足元に霊気を集中させて水面に立った上で、目を閉じた状態で全ての攻撃を見極める修行だ」
「うええっ!? そんなのできるわけないじゃん!」
 ちとせは驚いた拍子に、手に持っていた神扇をバッと開いてしまった。
「集中力、気の流れ、読みの速度。あたしの天武夢幻流なら、できるはずなんだけどな」
 何が悪いのかと、頭を掻く鈴音。
 暗い感じはない。
 悩んではいるようだが、前向きな悩み方だった。
 鈴音に必要な集中力、精密な霊気のコントロール、そして、天武夢幻流の先読みの速度と精密さの上昇。
 滝での修行は三拍子をあわせて鍛えるための荒行だった。
 迅雷が鈴音の肩をポンッと叩く。
「見えないものを見る。そう簡単にできることじゃない。それは鈴音が一番わかっているはずだろ?」
「ああ」
「だが、集中力はかなり増してきたな」
「この『枷』のおかげだよ。でも、さっきは呼吸が乱れちまって痛い目を見ちまった」
「枷?」
 ちとせが不審そうに鈴音の手首に嵌められた枷を覗き込む。
「おれが鈴音に付けたんだが。まあ、簡単にいえば、呼吸が乱れたりすると鈴音の身体に激痛が流れる仕掛けになってる」
「迅雷先輩」
「ん?」
「えすえむ?」
「違うわいっ!」
 赤面して怒鳴る迅雷。
「ふふっ、嘘、嘘」
「ったく。さてと、修行の続きと行きたいところだが、せっかく、ちとせたちが来たわけだし、組手でもやるか?」
「四人でバトルロイヤルか?」
「う〜ん、ボクは一対一の方がイイな。それに、鈴音さんは悠樹と組手をして欲しいんだ」
「悠樹と? あたしは別に構わないけど?」
「ぼくが鈴音さんと組手?」
 戸惑う悠樹に、ちとせが頷いた。
「そ。で、ボクは迅雷先輩とやるから」
「ほう。おもしろいじゃねぇか。ちとせとは仕合ったこともないしな。よし、それで行くか」
「じゃあ、悠樹。よろしく頼むぜ」
 鈴音が悠樹にウィンクをする。
「ええ」
「悠樹、がんばってね☆」
 ちとせに悠樹は笑顔で手を振り、悠樹は親指を立てて応じた。
 
 場所を昨夜、鈴音が迅雷と組手を行っていた場所に移して、鈴音と悠樹は向き合った。
 お互いに礼をして、構えを取る。
 その少し離れた場所で、ちとせと迅雷は観戦の態勢に入っていた。
「よう、ちとせ。どういう魂胆だ?」
「ん? 魂胆って?」
「何で、悠樹を鈴音の相手に選んだかってことだよ」
「ボクが迅雷先輩と組手をしてみたかったから」
「をいをい」
 ちとせはゆっくりと息を吐き出すと、悠樹を見たままで言った。
「ボク、悠樹の本気って見たことないんだよね」
 ちとせの表情が急に大人びる。
 親しい迅雷ですら数回かしか見たことのない顔だった。
「やさしいし、自然とか好きみたいだし、争いごととか嫌いなんだと思う。でも、悠樹の『風』は強い」
「……押しも引きも変幻自在。あいつの動きは読みにくいな、確かに」
「そもそも風はもっとも身近でもっとも驚異的な自然の力。鈴音さんの修行には良い効果が出ると思うんだよね」
「なるほどな」
 迅雷は納得したように頷いた。
 彼もまた、八神悠樹の本気を見たことがない。
 
「さて、悠樹、始めようぜ」
 『枷』を刺激しないように、心を落ちつかせたまま、鈴音が霊気を練り上げていく。
「お手柔らかに頼みます」
 悠樹も霊気を解放した。
 身体の周りに風が巻き起こる。
 霊気で大気が震えたわけではない。
 悠樹の気そのものが風と融合しているのだ。
「風か。確か、雷も使えたっけ?」
 鈴音が悠樹が戦っている場面を思い出して言った。
 風と雷。
 この少年はやさしげな風貌に似合わず嵐のような力を使う。
「ええ。でも、基本的には風ですね。雷の力は風の力の副産物みたいなものです」
 悠樹が右手に風を纏わせる。
 吹きつける風に鈴音の前髪が靡いた。 
「そういえば、悠樹ってどこで武術覚えたんだ?」
「神代神社に伝わる古武術で、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)の舞踊がもとになっているという話です。ちとせと一緒に護身術として習ってたんですよ。まあ、二人とも部活の方が楽しくなって、やめちゃいましたけど。あはは」
 そういえば、構えも動きも、ちとせと似ている。
 もっとも、細かいところはかなり違うから自分なりにアレンジをしているのだろう。
「でも、退魔とか除霊とかいろいろ頼まれちゃってますから、技を磨いたりもしてるんですよ、一応。ほぼ自己流になっちゃってますけどね」
 悠樹は頬を掻いた。
「風の霊力(ちから)は?」
「母方がそういう血筋らしいんですけど……」
「ですけど?」
「血が古すぎて、発現するのは珍しいって言ってましたよ。実際に母は使えませんし、困ったもんですね」
「困ったもんなのか……?」
「う〜ん、別に困ってはないですね、よく考えたら」
 悠樹の応えに、鈴音はガックリと肩を落とした。
「あ、あのなぁ。まあ、どっちでもいいか。よっしゃ。そろそろ行くぜ!」
 鈴音は無造作に横に移動しながら、悠樹の足もとへ霊気球を放った。
 それが組手の始まりの合図だった。
 悠樹は滑らかな動きで、鈴音の初撃をかわす。
「風よ」
 爆風と土埃に紛れるようにして、悠樹が手に霊気を溜めつつ、鈴音の懐に飛び込む。
 右の拳、左の拳と続けて、拳撃を見舞う。
 その二撃を防ぎながら、鈴音は後ろへと退がった。
 悠樹は三撃目に、溜めていた霊気を両掌から解放して、鈴音に叩きつける。
 風と交じり合った霊気に防御していた両腕を弾かれ、鈴音は舌打ちして仰け反った。
 勝機と見た悠樹が続けざまに回し蹴りを繰り出す。
 鈴音の目が光った。
「へへっ、まだまだ!」
 鈴音は悠樹の蹴足を右腕に絡ませる。
 そして、悠樹の勢いを利用して、腕を軸に投げ飛ばした。
 悠樹は、しかし、風を纏うと、減速して、すんなりと着地した。
「やるじゃないか」
 軽やかな悠樹の動きに鈴音が舌を巻く。
 彼が懐に飛び込んで来た時の速度はかなりのものだった。
 それに、風を巧みに技に織り交ぜてくる。
「だけど、それくらいのスピードじゃ、あたしには勝てないぜ」
「じゃあ、もっと速く行きますね」
 悠樹が笑顔で言った。
 もともとが女性と見間違えられる美しい顔立ちをしているだけに、やさしい笑顔だった。
 周囲に巻き起こった風が、柔らかな髪を舞いあがらせる。
 いや、悠樹自身が、地面から風力で浮いた。
「なっ……」
 さすがに、鈴音も一瞬唖然とした。
「行きます!」
 風の翼が、悠樹をさらに加速する。
 虚を突かれた形の鈴音は、地面を転がって悠樹の攻撃を避けた。
 立ちあがると、すぐに次の攻撃が来た。
 真正面からのストレートだ。
「速いっ!!」
 左腕でその攻撃を防ぐ鈴音。
 そして、右拳で悠樹へ殴りかかる。
「うわっち!?」
 しかし、カウンター気味の拳を、悠樹は悲鳴だけを残して流れるように避けた。
「な、に……?」
 鈴音は少なからず動揺した。
 今のカウンターは絶対に入るタイミングだった。
 いくら速くても避けきれない。
 いや、カウンターだからこそ、なまじ速い相手には有効打だったはずだ。
 相手が迅雷だろうと、霧刃だろうと当たるはずの攻撃だった。
 『枷』を気にし過ぎて力を抑え過ぎたというわけではない。
 間合いが掴み切れていないのか?
 初めての経験だ。
「ちいっ!」
 鈴音は舌打ちすると、悠樹に追い討ちをかけた。
 一方的に攻め込む。
「うわっ!?」
 悠樹は、反撃すらできずに身をかわす。
 だが、鈴音は焦った。
 悠樹は防御で手一杯という感じで反撃する余裕がないのだが、鈴音自身の攻撃も悠樹に当たらないのだ。
 迅雷相手にも、ここまで攻撃が当たらないということはなかった。
 このままでは、いつか速さに慣れられて反撃を食らう。
 焦れた鈴音が闇雲に拳を放つ。
 大振りだ。
「その風の流れは不自然ですよ」
 悠樹は難しい顔で呟くと、体勢を崩した鈴音に烈風を浴びせる。
「くっ!」
 鈴音は身体を捻って、その攻撃を紙一重で避ける。
「!」
 しかし、次の瞬間には、再び風の翼を纏った悠樹の加速した攻撃が来ていた。
 屈んだ体勢から、矢のような肘打ちを鈴音の鳩尾を狙って見舞ってくる。
 鈴音は得意の捌きも間に合わずに、悠樹の肘打ちを掌底で受け止める。
 衝撃に腕が痺れた。
 ダメージこそなかったが、内心では冷汗ものだ。
「悠樹、巧いな。いや、違う。何だ……?」
 鈴音は、悠樹の両目を見つめた。
 流れ。
 さっき攻撃に来る前にそう言ったのが聞こえた。
 風の流れ。
「悠樹の風は、悠樹の霊気。風の流れは、霊気の流れ……」
 頭の中で何かが閃きかけた。
 全霊力を開放すれば、鈴音が悠樹を倒すことは容易かもしれない。
 だが、力押しだけでは何も得られない。
 悠樹の動きを理解してこそ、彼と組手をした意味がある。
 悠樹が再び、超高速の攻撃を繰り出してくる。
「見えた!」
 打撃を避けた瞬間、拳から迸る光が見えた。
 微かに宿る風。
 悠樹は特に変わった動きをしているわけではなかった。
「流れのままに」
 無駄な力を使わずに、力を適正な方向に流す。
 相手の力の行方を見据え、自分の力をそこへ向ける。
「自然と一体化し、自分が風となれば、無理なく、淀みなく、すべては流れる。風となった己の気で、相手の気の流れを読み、相手の意識の向いている場所を見定め、相手の力を風となった己で和せば、無限に戦える」
 鈴音は苦笑した。
「天武夢幻流の基礎と同じじゃないか」
 大地の気を感じ、天空に流す。
 呼吸を整え、静かに、深く、肺に空気を流し込み、ゆっくりと吐き出す。
「迅雷のおかげだな。修行前より霊気の循環が柔順だ。それに悠樹にも感謝だ」
 意識が次第に膨らんでいく。
 風が五体を吹き通っていくような感覚。
 涼やかな光が瞳に宿る。
 風と光は淀みのない霊気となり、全身を駆け巡る。
 『枷』は反応することなく静かに光り輝いている。
 鈴音は流れるように悠樹の攻撃を避け、反撃。

 鈴音の拳は吸い込まれるように悠樹の頬に当たった。
「!」
 悠樹は殴られて、吹き飛ばされる。
 風を操って、空中で回転して体勢を整えた。
 唇が切れて、血の筋が流れる。
 鈴音の拳から微かな青白い光が迸ったのを悠樹は見逃さなかった。
 それは、迅雷が昨日感じた瀕死の鈴音が最後に繰り出そうとした青白い霊気と同じものだった。
 大気の流れを感じ、風に乗っている。
 悠樹は唇の血を拭うと、にっこり微笑んだ。
「さすがですね、鈴音さん。ならば、ぼくは楽しむだけです。さあ、ぼくの風」
 風が舞った。
「はああああああああああ!!」
 気合いの声とともに背中に風の翼を纏う。
 右腕に風を集める。
 烈風を纏った風が霊気で青白く光り輝く。
 そして、悠樹は今までで最高速度で、鈴音へと向かって飛んだ。
 風を纏った弾丸のようなその突撃をまとも受ければ、鈴音とて無事に済みそうにはない。
「渦巻く風よ!」
「天武夢幻流・空蝉落(うつせみおとし)!」
 鈴音は悠樹の攻撃を紙一重でかわし、その右腕を掴み取った。
 さっきまでの鈴音では、見極められなかっただろう。
「!!」
 そして、そのまま遠心力に任せて悠樹の頭部を右腿で挟み込み、地面に叩きつけた。
 本来なら相手の後頭部を踵で蹴りつけ、神経系を破壊するところだが、生死の勝負をしているわけではない。
「あははっ、やっぱり負けちゃいましたね」
 土埃に塗れた悠樹が笑いながら軽い調子で言った。
「首、大丈夫か?」
「ええ、何とか大丈夫です」
 埃を払いながら悠樹は立ち上がろうとしたが、足がよろけてしまい倒れそうになった。
「はぁ、やっぱ、鈴音さん凄いですね。霊気の剣とか出さないで、霊力も抑え気味で……」
「そりゃ、キャリアが違うからな」
 悠樹を腕で支えた鈴音が、ニッと笑った。
「でも、最後はあたしも本気だったぜ。それに参考になったよ、悠樹の風。無理のない霊気の流し方とかに」
 鈴音は精神を落ちつけ、その鋭すぎる霊気を安定させる感覚のコツがわかってきた。
 『枷』による矯正と、悠樹の気の使い方を見せられたおかげだ。
「このまま修行続けていけば、最終奥義の修得もできそうだ。さっきの霊光球を避ける修行もな」
 鈴音は組手が終わったことを告げるために迅雷たちに手を振った。
 
「ボクが予言してあげるよ」
 鈴音と悠樹の組手を見届けた後、ちとせが迅雷に言った。
「あん?」
「迅雷先輩じゃ、鈴音さんには勝てなくなるよ、きっと」
「ん? まぁ、そりゃ、女相手に本気でってのは、おれの柄じゃないけどな」
「少し違うけどね」
 ちとせは軽く息を吐いた。
「本気でやっても勝てないってのか?」
「そゆこと」
「どうしてだ?」
「迅雷先輩は誰よりも強い。だから、誰にも勝てないってことかな」
「何だ、そりゃ?」
「真理が見える人間は弱いってね」
「……」
 難しい顔で考え込みそうになる迅雷をよそに、ちとせは腰の神扇を手に取った。
「さてと、迅雷先輩。ボクの神降しを見せてあげるよ」
 


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT