魂を貪るもの
其の八 裁きの始まり
1.蠱毒(こどく)

 シギュン・グラムは、ロックのかかっているドアのセンサーに磁気カードを通した。
 圧縮空気音がして、ドアが開く。
 悠然とした足取りで廊下からロビーに通り抜ける。
 奥のエレベーターの前まで歩を進め、壁の上方にある昇降機のある階を示すランプを見上げた。
 幾つかエレベーターが設置されていたが、どれも来るには少し時間がかかりそうだ。
 呼び出しボタンを押して、書類を脇に抱え直す。
 灰皿の設置されている喫煙所に足を運び、懐を探る。
 愛用の煙草とマッチを取り出して、火を点けた。
 近くの柱に寄り掛かり、煙草を吹かす。
 肺に煙が満ちた。
 寛いでいる間に、エレベーターが通り過ぎてしまうかもしれないが、その時はその時で構わない。
 急いでいるわけではないのだ。
 視線をロビーに向ける。
「あれは……」
 ふと人影が目に入った。
「"凍てつく炎"」
 肩のあたりで無造作に切られた鴉色の髪に、墨色を基調としたロングコート、冷たく、暗い真紅の瞳。
 そして、肌身離さず身に付けている神刀・細雪が納められている黒金の鞘。
 "凍てつく炎"織田霧刃だ。
 正面玄関に向かっているようだ。
 シギュン・グラムは昨日、ランディ・ウェルザーズが"凍てつく炎"に外出する時は直接許可を取れと言っていたのを思い出した。
 許可を取っていないのだとすれば、通すわけにはいかない。
 シギュンは目の前を霧刃が通りかかるのを見計らって声をかけた。
「また、お出かけか?」
「……」
 霧刃は一瞥をくれただけで足を止める気配はない。
 相も変わらず愛想の欠片もない女だ。
 シギュンは自分もまた愛想などとは無縁なのだが、あからさまに無視するような霧刃の態度には、さすがに、ため息とともに紫煙を吐く以外には反応の仕様もない。
「許可は取ったのだろうな?」
 シギュンは霧刃の前に義手の右手を掲げた。
 霧刃の目の前で、指に挟まれた煙草が紫煙を上げている。
 霧刃は立ち止まった。
 そして、シギュンの方を見向きもしないで短く答えた。
「仕事よ」
「仕事?」
「……」
「ランディさまの命令か?」
「……」
 無言のまま、シギュンの掲げた腕を避けるように歩き出した。
 わかりきったことに答える必要はないとでもいうように。
 シギュンは義手の右腕を戻し、煙草を口元に運んだ。
 そして、紫煙を吸い込み、一呼吸おいてから再び、霧刃に声を投げた。
「待て」
「……」
 今度はその声だけで、霧刃は足を止めた。
 だが、振り返りはしない。
「一つ忠告しておいてやろう」
「……」
「レインバックに嫌われているようだが、気をつけることだ。あの女は敵に回すと後が恐いからな」
「……」
 シギュンの言葉を受けて霧刃が静かに目を閉じる。
 微かな鍔鳴り。
 しばらくの静寂。
 霧刃は目を開いた。
 シギュンへは視線もくれない。
 そして、沈黙したまま何事もなかったかのように歩き始めた。
 霧刃の後姿を見送ると、シギュンは柱に再び寄り掛かるように背中預けた。
 自分の忠告を霧刃が聞き入れたかどうか解からなかった。
 『ヴィーグリーズ』の幹部として、ミリア・レインバックとの付き合いは長い。
 彼女の歯向かう者を徹底的に排除する偏狭な性癖も熟知している。
 だが、ミリアの作戦能力や実務能力は眼を見張るものがある。
 そうでなければ、第一秘書の座につくことも、地位を守ることもできはしないからだ。
 だから、普段なら、ミリアが自分に牙を向けない限りは無理に抑えつけようとは思わない。
 霧刃に忠告したこと自体、気まぐれの産物だった。
 いや、気まぐれとは言い切れないかもしれない。
 昨夜、ランディ・ウェルザーズに聞かされた話のせいで"凍てつく炎"への興味が芽生えたのかもしれない。
蠱毒(こどく)か……」
 小さく呟き、側に設置してある灰皿に煙草を押しつける。
 ちょうど、エレベーターの扉が開いた。
 箱に乗り込み、地下十階を示すボタンを押した。

 ――前日、深夜。
 シギュン・グラムは書類をランディ・ウェルザーズに渡すため、『ヴァルハラ』の最上階にある総帥室を訪れていた。
 秘書のミリア・レインバックの姿はない。
 総帥の代わりに各部署への視察に赴いているのだろう。
 ランディは手渡された書類を机の上に置くと、東側の窓の前に立った。
「シギュンよ」
「はい」
「蠱毒を知っているか?」
「コドク?」
 シギュンは、ランディの突然の問いを不審に思いながらも、自らの記憶を辿る。
「東洋の呪法の一つと記憶していますが」
「一つの壷の中に無数の毒虫を入れる。毒虫どもはお互いを殺し合い、最後に生き残った一匹が一番強い毒を持っているという」
 共食いのすえに生き残った一匹は、死んだ毒虫たちの精気を取り込み、強力な式神となる。
 その式神を使って、標的の相手を呪い殺すのが、蠱毒の呪法だ。
「いわば弱肉強食の究極の形態とも言えるな」
 ランディは、冷徹な瞳で窓ガラスから猫ヶ崎を見下ろしながら、言葉を紡ぐ。
「我々は闇を自らの本分だと言い聞かせながら存在している。だが闇とは何だ?」
 眼下に見える美しい夜景から目を離さずに続けた。
「光と闇、法と秩序、それほど世界は単純ではない。物事には、ありとあらゆる側面がある」
 ランディが手のひらを広げる。
 そこに、灼熱の紅蓮が生まれた。
「光あれば闇あり。闇があればこそ光もある。光と闇は表裏一体。そして、その境界線は実に曖昧だ」
 獄炎の焔が手のひらより吹き上がり、瞬間的に全身を蛇のように這った。
「それでも、我らは闇を自称し、法の及ばぬ場所に生息し、外法の力を我がものとしている」
「御意」
「だが、"刻"を紡ぎし糸が断ち切られれば、全ては世界樹へと還り、"無"となる」
「それが、裁きというわけですか」
 ランディがシギュンを顧みる。
「その運命をも捻じ伏せる力こそが、蠱毒に他ならぬ」
 そして、拳の中の炎を握り潰す。
「すでに刻の警鐘は鳴り響いた。『ユグドラシル』を制御できれば良し、だが、それが叶わぬ時のことも考えておかねばならん」
「はい」
「強き力。世界樹すら従える力だ。だが、"凍てつく炎"は最後の駒になりえるかわからぬ」
「……あの女が"運命"を憎んでいるのは間違いないでしょう」
「そして、あの女も力を追い求める者ではあるがな。私としては"氷の魔狼"に期待したいところだ」
 ランディは机の前に戻った。
 向き合ったシギュンが軽く頭を下げる。
 前髪で顔の上半分が隠れて、その表情は確認できない。
 だが、ランディ・ウェルザーズは知っている。
 シギュン・グラムが今浮かべているだろう表情は、ランディへの忠誠でも、期待されることへの神妙でもない。
 彼女にとって慇懃など形式上のものに過ぎない。
「我が魔狼の牙は狩るために研ぐもの。その牙を突き立てるべき相手が"運命"というのであれば、獲物に申し分はありません」
 シギュンの右腕の義手が、キリッ、キリッ、と、まるで疼くような金属音を立てた。

 目的の階へ着いたエレベーターのドアが開く。
 シギュンは回想から我に返った。
 箱から降りてすぐに、シギュン・グラムの何も映さない双眸は、その存在を捉えた。
 巨大な存在を。
 それは、巨大な樹木。
 この世のすべてを生み出した母なるトネリコ。
 世界樹。
 宇宙樹。
 そして、『ユグドラシル』。
 硝子越しに映るその巨木には、さまざまな呼び名があった。
 その存在は、世界そのものだ。
 時折、赤く発光しながら脈打つ太い幹から、周囲を圧倒する強烈な存在感を放っている。
 圧倒。
 まさに、圧倒だ。
 "氷の魔狼"と呼ばれる彼女でさえ、見上げて凝視続けていると脳内が消し飛びそうになる。
 シギュンは虚ろな目線を外し、額に指を当て軽く頭を横に振った。
 部屋に視線を移す。
 幾台ものコンピュータが整然と並び、その一台一台の前で、『ヴィーグリーズ』の社員が各々に与えられた仕事を行なっている。
「どうだ?」
 この管制室を統括している主任に向かって、シギュンが声を投げかける。
 主任は亜麻色の髪をした赤いフレームの眼鏡を掛けた女性で、彼女は眼鏡のレンズにコンピュータに映し出されている複雑な演算式を反射させながら、生真面目な声で答えた。
「先日、回収した『力』は相性が良かったようです。エネルギー吸収率、次元歪曲率ともに正常範囲内です」
「反作用フィールドはどうだ?」
「厄介ですが、何とか抑え込んでみせますよ」
「そうか」
 シギュンが懐から煙草を取り出し、マッチで火を灯す。
 紫煙を吐き、再び、世界樹を見上げた。
「世界樹よ。我らを受け入れよ。もし、それを拒否するというならば、早々に朽ちよ。運命など必要ないのだ」
 世界樹は禍禍しい赤色を放ちながら、変わることなく脈動していた。

 ドクン……。
 ドクン……、ドクン……、ドクン……。
 頭痛が訪れた。
 シャロル・シャロレイは、痛みの鼓動を繰り返す額に手を当て、息を吐いた。
「頭が……、痛い……」
 割れるように頭が痛い。
 ここ数日、特に激しくなってきているのを感じている。
 足元がおぼつかない。
 シャロルは、頭痛薬ではこの頭痛がどうにもならないことを知っていた。
 これは病気ではないのだ。
 もっと原因は別にある。
 私にはすべてが見える。
 だが、すべてを知ることができるという事は残酷なこと。
「裁きの……、刻は……、近い……」
 ふらつく足取りで、玄関に向かう。
 玄関に建てかけてある札を『準備中』にするためだ。
 頭痛はまるで収まりそうにない。
 占いのできる状態ではない。
 玄関を出て、『営業中』の札を裏返す。
 そして、館の中に戻ろうとした。
 できなかった。
 足を止め、息を呑んだ。
 背後に恐ろしいほどの殺気を感じた。
 シャロルは、頭痛の増す額に手を当てたまま、振り返った。
 そこには、すべてを燃やし尽くすような、すべてを凍てつかせるような霊気が渦巻いていた。
 物影から、黒鉄の鞘が伸ばされた。
 続いて、その鞘を握っている人影がゆっくりと姿を現した。
 卵の殻の中にある薄皮のようなシャロルの長く白い髪が風に揺れた。
「あ、あなたは……」
 額を覆うように当てた指の影から、目の前の女性の姿を認知する。
 "凍てつく炎"織田霧刃。
 シャロルの前に姿を現したのは、霧刃だった。
「……」
 霧刃は無言のまま、音も立てずに一歩踏み込んだ。
 シャロルは動かない。
 彼女の血の気の引いた顔は、血色の悪い霧刃と同じくらいに蒼白だ。
 二人の目が合った。
 昏く凍りついた霧刃の真紅の瞳。
 黄金の憂いを帯びたシャロルの紺碧の瞳。
 霧刃が細雪の柄に右手を重ねる。
「!」
 そして、銀色の光が閃いた。


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