魂を貪るもの
其の七 激動
6.修行開始

 猫ヶ崎山は、猫ヶ崎市の中心部から私鉄猫ヶ崎線で一時間ほどの場所にある。
 富士山に匹敵するといわれる標高と、猫の耳のように中腹から分かれた二つの山頂を持つ。
 猫ヶ崎市の中でも霊的な力場の強い場所でもあった。
 時刻は夕方の少し前。
 鈴音たちは、すでにキャンプの用意を終えていた。
 鍋の中でカレーが、ぐつぐつと煮えている。
 その近くで鍋の番を兼ねて、ロックがレイチェリアの相手にカードを披露していた。
 目まぐるしく変わるカードのシャッフルに合わせて、レイチェリアの目がグルグル回っている。
 よく目を回さないものだ。
 ロックが手の動きを止める。
「ポーカーでもやりますカ?」
「うふふっ、じゃ、アタシが勝ったら精気貰っちゃおっかな」
「いや、それはチョット……」
「あん☆ 残念さんなのぉ」
「あ、あはは……」
 引き攣った笑いを浮かべながら、ロックがずれかけたサングラスを直した。
 彼はどうも、レイチェリアが苦手だった。
 孤児のロックには母親というものがいなかったし、ファミリーの仲間は屈強な男ばかりだった。
 元マフィアとはいえ、彼はファミリーの表の顔という仕事柄、女性と接する機会は多くあり、それなりに女性の扱いには慣れたが、イタリアの男性としては珍しく性格的に女性の相手はもともと得意ではない。
 しかし、レイチェリアはロックを気に入っているようで、まとわりついて離れない。
 別に変なことをしてくるわけではないのだが、掴みどころのない色気がロックを困惑させていた。
「んじゃぁ、え〜と……」
 人差し指を顎に当てて、考え込むレイチェリア。
 その仕草だけで魅惑的な雰囲気を作り出すのは、さすが、夢魔サッキュバスといったところか。
「……」
 無言で、その様子を見るロック。
「え〜〜〜〜とぉ……」
 半分上の空のような表情のレイチェリア。
「……」
「カレーの味見して来よっ」
「がくっ」
 突っ伏すロック。
 サングラスがずり落ちた。
 レイチェリアはケラケラ笑い、背中に翼を生やしてホバリングしながら、カレーの鍋に向かった。

 テントから少し離れた場所に、鈴音の姿があった。
 迅雷から拝借したシャツの上にデニムジャケットを着込み、ズボンもジーンズで合わせている。
「……」
 無言で目を閉ざし、集中した顔つきで佇んでいる。
 身体を淡く青白い光が、ぼうっと包み込んでいた。
 耳から、自然の声が聞こえてくる。
 小川のせせらぎ。
 小鳥の囀り。
 涼風に靡く木の葉のざわめき。
 草花の揺らめき。
 穏やかな霊気の流れ。
「平常心と集中力、それに気の流れを滞ることなく流すようになれることが重要だな」
 猫耳山の麓で、迅雷は鈴音の修行すべき点を客観的に述べた。
 自然の気の流れを保つ。
 鈴音が痛感していることだった。
 山頂に着くと、鈴音は迅雷に断って、一人になった。
 修行開始の前に、静かに霊気を練りながら、己を見つめ直したかったのだ。

 ぱきっ。
 ふと、地面に落ちている小枝が折れる音。
 同時に気配。
 鈴音は目を開けた。
「だいぶ霊気が練れてきたじゃねえか」
 迅雷だ。
「迅雷か」
「何だ? あのイタリア人の兄さんが良かったか?」
「ははっ、殺すぞ」
 鈴音は笑顔で答えた。
 殺気が漂っている笑顔だった。
「うぐっ。か、軽い冗談じゃねえか。……って、目が怖いぞ」
 鈴音が前髪をかきあげ、目をすぅっと細くして、迅雷を見返す。
「そういうテメーは、風紀委員の彼女とはどこまで進んでるんだ?」
「だっ?」
 思いがけない反撃に、迅雷が言葉を詰らせる。
「教えろよ」
「おれが悪かった」
「誤魔化すなって」
「くそっ、ちとせめ。余計なこと吹き込みやがって」
 迅雷が悪態をつく。
「お・し・え・ろ・よ〜」
 目つきの悪い表情で、迅雷を突っつく鈴音。
 口元が笑っている。
「だあぁぁっ! んなことはいいから、さっさと修行始めるぞ!?」
「わかった、わかった」
 くくっと喉で笑いながら鈴音は、迅雷から少し間合いを置いた。
 そして、息を吸い込むと、一変して表情を締める。
 全身に気合いが入り、目が真剣な光を帯びた。

「はああああああああああぁぁぁっ!」
 鈴音が霊気を高める。
 迅雷との勝負の時とは比べものにならない。
「うおっ、すげぇな!」
「まだ、三分ぐらいだぜ」
「マヂかよ」
 傷が完治し、集中力が持続している時の鈴音には、目を見張るものがある。
 それが迅雷の正直な感想だ。
 迅雷が心から驚いているようなので、鈴音は少し得意になった。
 勝負をした時、本調子でなかったとはいえ、迅雷に余裕であしらわれてしまったことが、プライドに響いていた。
 相手の力量がわからないほど、鈴音の実力は低くない。
 迅雷が強い力の持ち主であるということを今は認められるし、倒すべき霧刃の力量が自分を上回っていることも頭の隅では理解できているのだ。
 ただ、感情が先走って判断を見誤ることがあるだけだ。
 それが今の鈴音には致命的なことであり、感情に押し流されない気を練り、理想な精神状態を維持させることが修行の課題なのだ。

「で、おれはどうすれば良いんだ? おれは天武夢幻流の修行法とか知らないしな」
「あたしと同じくらいまで、霊気を高めてくれ」
「おう」
 迅雷も霊気を鈴音と同じレベルまで高める。
「さすがだな」
 迅雷の霊気の高まりを肌で感じながら、鈴音が感心したように言う。
 鈴音は三分程度の霊気を解放したと言ったが、迅雷にもまだまだ余裕があるようだった。
「まあな。さて、どうすんだ? このまま、実戦行きか?」
「霊気の波長を近づける」
「わかった」
 鈴音と迅雷の霊気が同調、共鳴を始める。
「おっ?」
 と、迅雷の頭に、波のイメージが浮かび上がってくる。
 鈴音の霊気そのものというより、鈴音自身の発する波のようなものが、はっきりと脳に映し出されてきたのだった。
「何だ、こりゃ……?」
 思いがけない現象に迅雷が、不審そうに声をあげる。
 視界と心の中が同時に目に投影されている不思議な感覚だった。
 鈴音は落ちついている。
 予定通りのことのようだ。
「波みたいのが見えるだろ?」
「ああ、何だこりゃ?」
「あたしの脳波だ」
「なぬ!?」
「霊気の共鳴状態を利用して、お互いの脳波を飛ばしあってんだよ。脳波のインターネットみたいなもんだな」
 迅雷の疑問に、鈴音が自分の頭を人差し指で指しながら答える。
「鈴音、すげえ特技だな」
 迅雷は心底驚いているようだったが、鈴音は迅雷の感想を簡単に否定した。
「違うな。誰でもできることだ。知らないだけだよ」
「そうなのか?」
「虫の知らせとか、予感とかも、共鳴状態が原因の一つなんだぜ。まあ、さまざまな要因の一つにしか過ぎないがな」
「ほう……」
「もっと深く共鳴させれば、テレパシーみたいに思念だって飛ばせるし、相手の思考だって読むことだってできる」
「ぎくっ」
 鈴音の言葉に、迅雷の顔が焦ったように引き攣る。
「読まねぇよ。あたしだって、おまえに読まれたくないよ」
「そうか、お互いさまか」
 安心した表情で、腕を組む迅雷。
 鈴音は、前髪をかきあげた。
「一方通行じゃねぇからな」
「てことは、おれの脳波も見えてるわけだ?」
「ああ。ビックリしてるわりには、『α(アルファ)波』がたっぷり出てやがる。さすがだな」
「あるふぁは?」
「人間の脳波には、リラックスした時に現れる『α波』と、緊張した時に現れる『β(ベータ)波』の二つがあるって聞いたことないか?」
「知らん」
「素直なヤツ」
「知らないことを知らないと言うのは恥じゃないぜ」
 実際、知らないことを堂々と知らないといえる人間は少ない。
 鈴音は迅雷の態度には好感を持った。
「まあ、やりたいことはだいたい察しがついたぞ。『α波』ってのは、『平常心』のことだろ?」
「ああ」
 迅雷の言葉に鈴音が頷く。
「で、普通なら『β波』しか現れない戦闘において『α波』を意識的に持続させること。やりたいのはそういうことだろ?」
「飲み込みが早いな」
「フッ、これでも成績優秀で通ってんだぞ」
「へぇ、人は見掛けに寄らないな」
「をい」
「あっ、『β波』が強くなった」
「だあっ、おれをからかって面白いか!?」
「ああ」
 鈴音は即答した。
「……さっさと続けるぞ」
「怒るなって」
 前髪をかきあげる鈴音。
 迅雷が指を額に当てた。
「……」
「どうした? まさか本気で怒ったとか?」
 不審そうに眉を寄せて迅雷を見ながら、再び前髪をかきあげる鈴音。
「なあ?」
「何だよ?」
 聞き返しながら、前髪をかきあげる鈴音。
「ずっと気になってたんだが、……前髪、邪魔なのか?」
「はぁ……?」
「邪魔なら結べよな」
 どうやら、迅雷は鈴音が髪をかきあげるのが気になって仕方がないようだ。
「癖だよ、癖。仕方ねぇだろ」
 そう言いながら再び、前髪をかきあげる鈴音。
 迅雷のこめかみが引き攣る。
「……おまえ、……わざとやってるだろ?」
「はぁ……?」
 間の抜けた返事とともに鈴音は髪をかきあげていた手を止める。
 完全に自分では気づいていなかったようだ。
「……」
「……」
「で、この訓練の眼目は、どんな状況でも『α波』の持続できるようにすること。つまり平常心を保つ修行ってことで良いんだよな?」
 しばらくの沈黙の後、迅雷は額を抑えた。
 何やら葛藤があったようだ。
「ああ」
「おまけもつけてやろうか?」
「おまけ?」
 不審そうな表情で首をかしげる鈴音。
 迅雷がにやりと笑って、左腕に霊気を集めた。
「むぅんっ!!」
 その霊気で、輪を作り出す。
 鎖のようなものが、輪から伸びている。
「何だ、それ?」
「おれの気で作った『枷』だ」
「枷?」
「鈴音、手首貸しな。付けてやる」
「をい」
 鈴音の目が険しくなる。
 険悪といってよい視線で、迅雷を睨みつける。
「どうした?」
「こんなもん付けろってのか? テメー、見損なったぜ!」
「違わいっ! 何を想像してやがる!」
「だって、おまえ、こういうのは……」
「まぁ、つけろって。ただの『枷』じゃないぜ。ほれ、手出しな」
 そういうと、鈴音の両手首に、輪を嵌めた。
 枷から出ていた鎖のような霊気が、鈴音の腕に絡みつき吸い込まれるように体内へと消える。
「かっ、はっ……?」
 瞬間、鈴音が跪く。
 両腕が地面に吸いつけられるように重い。
「うぐっ、これは……!」
「どうだい?」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 しかも、息が乱れれば、乱れるほど、身体が軋む。
「常に霊気の量を一定に保ちな。乱せば、身体に激痛が走るぜ」
 何とか息を整える。
 立ち上がるだけで、相当の疲労だ。
「いきなり……、はぁ……、はぁ……、キツいこと、……してくれやがる」
「へへっ、鍛えがいがあるからな」
「ちっ……」
 舌打ちしながらも、鈴音の唇が微かに笑みを帯びる。
 ここまでやられちゃ、応えないわけにはいかないぜ。
 絶対強くなってみせなきゃな。
「霊気の剣を出してみな」
「はあっ!」
 いつもの倍以上の気合いを込めて、霊剣を現出させる鈴音。
 途端に、身体中に激痛が走る。
「うぐっ!」
 予想以上の身体を軋ませる苦痛に、鈴音は顔を歪めて膝を折った。
 全身から汗が吹き出してくる。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 何とか呼吸を整え、立ち上がる。
「ほら、どうした? 霊気は一定になったが、脳波は『β波』が上昇するだけだぞ?」
 迅雷の脳に投射される鈴音の脳波から『α波』が感じられないのだ。
 見えるのは乱れた『β波』だけだ。
「くそっ……」
「しっかり、霊気を練りな」
 鈴音は目を閉じ精神を集中させる。
 霊剣の輝きが揺らめき、鈴音が呻く。
「霊気もちゃんと保て。両立させなきゃ意味がないんだぞ」
 迅雷の言葉に、鈴音が長く静かな息を吐く。
 霊剣に輝きが戻る。
 そして、迅雷に見える鈴音の『α波』上昇した。
「そうだ、平常心のままで、霊気を使え。その感覚を自在に出せるようになりな」
 ホントに叩きがいがあるな。
 叩けば、叩くほど、跳ね返ってくる力も強い。
 鈴音は本物だ。
 迅雷はそう確信し、満足げに笑みを浮かべた。

 ――コツコツコツ。
 廊下に、乾いた靴音が響き渡る。
「シギュン殿」
 傍らから声をかけられ、『ヴィーグリーズ』の筆頭幹部シギュン・グラムは足を止めた。
 声をかけてきた男は、彼女と同じく『ヴィーグリーズ』幹部の席にあるヘルセフィアス・ニーブルヘイムだった。
「ヘルセフィアスか。何か用か?」
 恐ろしく素っ気無い。
 ヘルセフィアスを一瞥して懐から煙草を取り出し、マッチで火を点けた。
「『世界樹(ユグドラシル)』の調子はどうですかな?」
「今は安定している。だが、完全に制御下に置くには、まだ時間がかかるだろう」
「しかし、あれほどの強大な力があれば、世界を手にすることも容易というものですな」
「世界を手にするか」
 そのようなことには興味もないというように、シギュンが愛想の欠片も見せずに紫煙を吐く。
「私には、どうでも良いことだ」
「さようですか」  シギュンの無関心は、装っているものではないことをヘルセフィアスは知っている。
 野望もなく、ただ血を求めるだけの戦闘狂。
 "氷の魔狼"と恐れられる目の前の女性をヘルセフィアスは胸のうちでそう評価し、嘲笑していた。
「おまえは、世界が欲しいのか?」
 シギュンがヘルセフィアスに問う。
 紫煙が、二人の間を隔てるように舞う。
「いいえ、そういうわけではありません。シギュン殿のお考えを訊いておきたかっただけです」
「……おまえも、『ヴィーグリーズ』の名の由来は知っているだろう」
「北欧神話において神々と巨人たちとの最終決戦が行なわれた地の名でしたな」
「我々の存在意義とは、そういうことだ」
「……と、申しますと?」
「すべてを喰らい尽くす獰猛さだよ。『世界樹』も、そして、神々さえも、な」
「確かに、我々は他者から何かを奪わずには生きてはいけませんからな」
 ヘルセフィアスがゆっくりと頭を下げる。
 シギュンは、彼の視線が彼女の義手を一瞬捉えたのを見逃さなかった。
 頭を下げているためにヘルセフィアスの表情はうかがえない。
 だが、彼の肩に越し掛けている少女の人形の口元が笑っているように見えた。
「奪うことに夢中になるあまり、逆に奪われることにならぬように気をつけることだ」
 シギュンはヘルセフィアスとすれ違いざま、義手で煙草を握り潰した。
 獣性を秘めた瞳に氷の殺気が宿る。
 周囲の温度が下がり、空気が凍りつくようなビキッビキッという音が鳴る。
 その双眸にはヘルセフィアスの姿は映されていない。
 放たれた殺気さえ作り物なのかとも思えてしまう。
 だが、そうではない。
 ヘルセフィアス・ニーブルヘイムという男がシギュン・グラムの瞳に映される価値がないのだ。
 嘲笑は許せぬが、関心事ではないのだ。
 二人ともお互いの進行先の廊下を見つめたまま、歩き出す。
 そして、二人は無表情のまま、反対の廊下に去った。


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