魂を貪るもの
其の七 激動
5.神代ちとせ

 神代ちとせ。
 猫ヶ崎高校二年生。
 神代家の次女として生を受ける。
 性格は、明朗快活で社交的、友だちの信頼も厚い。
 誰とでも会話を弾ませ、楽しい雰囲気を作り出してくれる。
 猫のように大きな瞳が印象的な美人で、トレードマークは尻尾部分の長いポニーテールと好んで穿く黒いオーバーニーソックス。
 頭の回転が速く、成績は中の上、運動神経は抜群で、猫ヶ崎高校の陸上部副部長を務める。

 神代家は、起源を神の御世とされる猫ヶ崎きっての名家であり、代々神代神社の神職を務める社家でもある。
 家名の由来は、二つある。
 一つは、神代(かみよ)より続くとされる家ゆえ、時代とともに読みが変わり、『かみしろ』となったという説。
 もう一つは、『神降ろし』の家系、即ち、『神のよりしろ』であるから、『かみしろ』となったという伝承である。
 神代家では、後者が真実であると強く支持されてきた。
 さらに、伝承によれば、神代家の創始者は、祭神である天宇受賣命(アメノウズメノミコト)とされている。
 つまりは、女神の血を引きし末裔ということになるわけだ。
 神代の血脈が霊力に恵まれた家系なのは、そのためともいわれる。
 そして、神聖なる『神降ろし』に覚醒したものは、天宇受賣命と契約を交わすのが通例となっていた。
 契約の儀式は、"契約の儀"と呼ばれ、神代神社の大神楽殿で行なわれる。

 大神楽殿の中は、奇妙に明るかった。
 神代神社の自慢の一つでもあるこの神楽殿では、毎年、巫女コンテストの神楽舞いが舞われている。
 初心者から、本職の巫女まで、多くの女性が、自分の好きなように踊る。
 神楽舞いだけではなく、日本舞踊や、社交ダンス、果てはヒップホップダンスに至るまで、さまざまに好きなように踊るのだ。
 格好や、様式は問わない。
 楽しく踊ること。
 それが参加資格だ。
 ちとせも去年、ここで神楽を舞った。
 そして、見事に優勝した。
 陸上部の短距離の選手としてインターハイ出場が決定したことの次に嬉しかった。

 神代の娘なら自分の神楽舞いが認められたことを一番に喜ぶべきなのかもしれない。
 だが、ちとせには陸上部の短距離のほうがより魅力的だった。
 初めはただ「走ること」に惹かれた。
 走っている間、頭の中が空っぽになれる爽快感。
 毎朝夕のトレーニングは、陸上を始めた時から続けている。
 中学の時に、短距離の楽しさを知った。
 スタートの緊張感。
 そして、風になる。
 自分でも信じられないくらい集中力が、瞬間の勝負を生む。
 ほんの数秒の戦い。
 緊張と解放感の共演。
 心地良かった。
 ちとせは熱中した。
 競技の時は、自らに霊気を封じる術を施して挑むのが常だ。
 ちとせは『術』の類は得意ではなかったが、この『自分自身への封霊術(ふうれいじゅつ)』は、熱心さを発揮して短期間で覚えた。
 その理由は、単純にして明快。
 国際競技連盟が、競技の公平性を保つために、選手や会場に『封霊』を施すという非公式な噂など問題ではなかった。
 ちとせにとって、陸上競技が、"霊力(ちから)持つ者"としてではなく、一個の人間として挑みたい世界だから、だ。
 練習で鍛え上げた瞬発力、そして、走力。
 肉体と精神。
 それだけで、挑みたい世界だった。
 ちとせにとって陸上、特に短距離は、それだけの魅力があった。
 だから、高一の時、県大会で優勝して、インターハイ出場が決定した時は、柄にもなく泣いた。
 嬉しかった。

 ちとせは、手にした『神扇』を、マジマジと見つめる。
 神楽殿の空気と共鳴しているような気がする。
 殿内には、いつもよりも強く、明るさが満ちているように感じられた。
 目で感じられる明るさだけではない。
 気分が高揚してくるのがわかる。
 天宇受賣命は高天原一の踊り手。
 その威光に相応しいリズムを生み出す力があるのだろうか。
 ちとせは、"契約の儀"にあたって、禊を行なった後に、独特の尻尾部分の長いポニーテールを解き、白衣に緋色の袴という巫女装束に着替えていた。
 身体に緊張感と高揚感が複雑に絡みあった感触が沸き上がってくる。
 後ろには、悠樹と葵が控えている。
 儀式を始めるタイミングは、ちとせの心一つであった。
 今、ちとせは短距離のスタート地点に立っている時と似た緊張感を感じていた。

 小一時間前。
 鈴音とロックを修行に送り出したあと、ちとせと悠樹は、宝物殿の扉の前で、葵に"契約の儀"についての話を聞いていた。
「この宝物殿の奥に、神代家に伝わる神器の一つ、『神扇(シンセン)』と呼ばれる扇が祭られています」
 葵も実際には、"契約の儀"を見たことはなかったので、両親に聞いた概要を覚えている限り、説明する。
「神扇? 神さまの扇ですか?」
 悠樹が尋ねる。
「ええ。『神扇』は、別名を『笹葉』とも言って、天照大御神(アマテラスオオミカミ)さまが御隠れになった天岩戸(アマノイワト)の前で、天宇受賣さまが舞った時に手にしていたといわれる伝説の扇です」
 葵は神妙な顔で答える。
「それを手にして、大神楽殿で天宇受賣さまの降臨を願うのです」
「大神楽殿で?」
 ちとせが意外そうな声をあげる。
「ええ。天宇受賣さまは舞踊のお好きな御方ですから、そうなったといわれていますわ」
「踊るのかな?」
「さあ? そこまでは、私もわからないのだけれど」
 両開きの門を開く。
 宝物殿は、天井が高く、広々としていた。
 中央に祭壇のようなものが設けられており、その上に銀製らしい扇が飾られている。
 その形状は、笹の葉が幾枚も重なったようにも見え、葵の教えてくれた『笹葉』という別名を彷彿とさせるには十分で、一目で神代家に伝わる神器だということがわかった。
「あれが、『神扇』……」
 ちとせがため息を吐くように呟き、葵が深く頷く。
 宝物殿の中に入ると、透明感ある音色のようにひんやりした空気が満ちていた。
「天宇受賣さま」
 神扇の前で、女神の名を唱える。
 ちとせは、小さく息を吐き、神扇を手に取った。

 大神楽殿内。
 ちとせは、悠樹を振り返った。
「……」
「……」
 ほんの一呼吸。
 お互いの視線を交わして頷く。
 そのまま、ちとせは振り返らずに、大舞台に上がった。
「天宇受賣命よ。我が神代の始祖にして、高天原(タカアマハラ)の女神よ。我に力を与え給え、我と契約を結び給え」
 神扇が、青白く輝く。
 風が舞った。
 ちとせの目が大きく見開かれる。
 神扇から、青白い光の柱が立ち昇る。
 光の柱は次第に明るさを増していく。
 そして、弾けた。
 空気が震え、神楽殿を莫大な霊気の風が駆け抜ける。
 光の柱が消え去る。
 ちとせの目の前に半透明の女性の姿が浮かび上がっていた。
 色香の溢れる肢体に豊かな胸元が覗く艶やかな衣を纏い、宝石を通した蔓草で長く美しい黒髪を飾り、手には神扇と同じ笹の葉が重なったような形の扇を持っていた。
 時折、全身を、軽やかな音色が駆け抜ける。
 女性の両瞼は閉じられている。
「天宇受賣さま」
 ちとせが目の前の女神の名を呟く。
 圧倒されていた。
 その霊気と、その美しさに。
 呼びかけに、女神がゆっくりと長い睫毛に彩られた両瞼を開いた。
 高天原の主宰神である天照大御神に『いむかふ神と面勝つ神なり』と称賛された強烈かつ魅力的な視線が、真正面からちとせを射抜く。
「はじめまして、我が末葉、神代の者よ」
 鈴が鳴るような綺麗な声だ。
 歌声のような響きと躍動。
「はじめまして、天宇受賣さま。私は現在の神代家の次女、神代ちとせです」
 緊張した面持ちで、ちとせが言葉を紡ぐ。
 一人称も普段の『ボク』ではなく、『私』だ。
「神代ちとせ。我が直視を受けても目を逸らさぬあっぱれな魂の持ち主よ。あなたの契約の意志受け止めましょう」
 女神は、ちとせの猫のように大きな瞳を覗き込み、その目に自身に劣らぬ眼力(めぢから)を感じて満足そうに頷いた。
「これより、我が身をあなたに降ろします。偽りなく心を開いて」
「心を……?」
「契約は魂と魂を結ぶ儀式です。私があなたの一部となり、あなたは私の一部とならねばなりません。あなたの魂が私の存在力に耐えることができる精神力を示しなさい」
 ちとせが、ゆっくりとゆっくりと息を吐き、心を落ちつかせる。
 女神がすぅっと目を細める。
「緊張していますか?」
「緊張しています」
「緊張しつつ、退かぬ意、進む志。それでよろしい。それでこそ、我が身を降ろすに相応しきもの。では、始めます」
「はい」
 ちとせの明瞭な返事を聞いて、天宇受賣命は両瞼を閉じた。
 同時にその姿は上昇し始め、すぅっと薄らいでいく。
 そして、大気へと溶けるように消えた。

 ――ビクンッ。
 震えが来た。
 ちとせの足元から霊気の奔流が身体を囲うように渦巻く。
 長い髪が波動になびき、巫女装束の白衣の袖や緋袴の裾が激しく揺れた。
 吹き上がった霊気の青白い光が、ちとせに重なる。
 静寂。
 ――ドクンッ、ドクンッ。
 ちとせの心拍音に重なって、天宇受賣命の鼓動が渦巻き始める。
 リズミカルな音楽が身体の底から刻み付けられる。
「あっ……!」
 ちとせは、自分自身の中へと天宇受賣命が降りてきたのを感じた。
 巨大な光に包まれているような気分だ。
 陽気を超え、恍惚の表情へ。
 流れる血液の波に乗って押し寄せてくる舞踊の高揚。
「かっ……はっ……!」
 突然の苦痛。
 肺の中の空気を吐き、崩れるように両膝を床につく。
 四肢を凄まじい痛みが突き抜ける。
 全身が熱い。
 神代の血脈の躍動と、人としての神を受け入れる歪み。
 それが激痛となって、ちとせの中で荒れ狂う。
「ちとせ!」
 駆け寄る悠樹。
 抱き抱えようとして、ちとせの傍らに片膝をついた。
 だが、動きが止まった。
 息を吹き返したちとせが、鋭い眼差しで悠樹を制したからだ。
 儀式は、まだ終わっていないのだ。
 息を呑みながら、悠樹は後ろに退がった。
「ちとせ」
「悠樹クン、大丈夫よ」
 葵が静かに言う。
 軽快なメロディーと、耐え難い雑音。
 矛盾する音が、ちとせの中で混じり、血を沸騰させ、肉を叩く。
 その苦痛を超えるために、ちとせは我知らず、舞を舞い始めていた。
 血脈のリズム。
 足を踏み鳴らし、華麗に舞う。
 それは、女神の力との対峙。
 天と地を結び、心と心を奏でる。
 美しいハーモニーが響き、絶妙な神楽へと変わる。
 魂と魂の神楽。
 人の魂と神の魂が融合していく。
 ちとせが舞いを終えた時には、強大な神の力をその身に降ろす激痛は消えていた。
 身体の芯から霊気が止め処なく湧き出してくる。
 力が増したのがわかる。
 ちとせは契約の試練に耐えたのだ。

「神代ちとせ、契約は成されました」
 朗々たる声が響く。
 天宇受賣命が再び、ちとせの正面に姿を見せた。
「あなたの心を認めました。あなたが望めば、いつでも応えましょう」
 やさしい笑みを湛え、ちとせに告げる。
「その扇は、あなたを認めた証です。穢れを祓い、禍々しきものを退けるの霊力が込められています。役にお立てなさい」
 と、女神の足もとから霊気の風が吹き上げ、その艶やかな姿を包み込む。
 そして、風は、ちとせにも及び、長い髪を舞い上げた。
「ありがとうございます。天宇受賣さま」
「気楽に宇受賣と呼んでけっこうですよ。堅苦しいのは苦手なのです」
「いやいや、神さまですから! しかも、うちの祭神ですから!」
「では、一応敬称付きで、『宇受賣さま』で、どうかしら?」
「ま、まあ、それなら……」
「それでは、これからも、よろしくね。我が末葉よ」
 ちとせの曖昧な了承に、女神はにっこりと微笑み返す。
 そして、天宇受賣命の姿は、ちとせに重なり合うように溶け込んだ。
 静寂が訪れる。
 ちとせは大きく息を吐いた。
「ちとせ!」
 悠樹と葵が駆け寄ってくる。
 ちとせは笑顔で応えた。
 短距離走でゴールを駆け抜けたあの瞬間に似た感動が胸をいっぱいにしていた。


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