魂を貪るもの
其の七 激動
4.吐息

 間もなく、悠樹とロックが、迅雷とレイチェリアを連れて帰ってきた。
「ケガの具合、良さそうじゃねえか。……って、おれの服!」
 帰宅後、鈴音を見た迅雷の第一声。
 鈴音はすぐに、「悪い。あたしが……」と、謝りかけたが、ちとせが鈴音の唇に指を押し当て黙らせた。
「ボクが勧めたんだよ。鈴音さんだって、いつまでも血でダメになった服じゃ、可哀想でしょ?」
 ちとせが、笑顔で、迅雷に事情を説明する。
「ま、まぁ、それは、そうだけどよ」
 ちとせの雰囲気に流されてしまう迅雷。
 それを見計らって、ちとせが鈴音の唇から指を離した。
「悪い」
 鈴音が、頭を下げた。
 ちとせに宥められた後に、真面目に素直に謝られては、迅雷も返す言葉もない。
 もともと、別に怒っていたわけでもない。
 帰って来て、鈴音が自分のシャツを着ていたので面食らっただけだ。
「まぁ、服のことは、もう良いぜ」
 迅雷が頬を掻きながら、ため息を吐く。
「それで、これからどうするんだ?」
「それなんだけどね」
 ちとせが、鈴音に視線を送った。
 鈴音は頷き、真剣な瞳を迅雷に向けた。
「迅雷、折り入って頼みがあるんだけど」
 そして、鈴音は迅雷に胸の内を語り、自身の鍛錬に付き合ってくれるように頼んだ。
「つまり修行ってことか」
 話を聞いた迅雷が腕を組む。
「ああ」
 鈴音の瞳には、強い意志が感じられる。
 迅雷を冷たくつき放す色は失せ、勝負に負けたしがらみもないように思えた。
 一流だ。
 一流は、負けたことを次のステップへのバネにできる。
「頼む。あたしは、強くなりたいんだ!」
 ――強くなりたい。
 それは心からの言葉だった。
 鈴音は心の底から姉を止められるだけの強さを欲している。
「もちろん、構わねえぜ」
 迅雷の頬が僅かに緩む。
 強くなりたいという純粋な意志を受け止める。
「いくらでも力になってやるって言ったろ。おれも腕が鳴るってもんだ」
「んじゃ、お弁当作っちゃいましょうねっ」
 なぜか、レイチェリアがはしゃいで、ロックの手を取ってピョンピョン跳ねている。
「は、はぁ……?」
 ロックは、サングラスがずり落ちそうになるのもそのままに、動きが止まっていた。
 レイチェリアのノリについていけないようだ。
「ふふっ、ロックさんは、レイチェと女の子の口説き方でも修行すれば?」
 ちとせが、ロックに耳打ちした。
 ロックは困ったような顔をしたが、レイチェリアにされるがままだ。

「ちとせ。おまえはこれからどうするんだ? 一緒に修行でもするか?」
 迅雷が、ちとせに訊く。
「ううん。神社に帰るよ」
「ちとせは、神降ろしの"契約"があるんだ」
 前髪をかきあげながら、鈴音が付け足す。
「何? ちとせ、ポニーテールの髪下ろすのか?」
 ばきっ。
 ちとせが、迅雷を『ぐー』で殴った。
「ぐはっ」
「くだらないこと言わないの」
 頬をさすりながら迅雷が態度を改めて、ちとせに問う。
「む、むぅ、神降ろし? 降魔か?」
「そ。迅雷先輩、よく知ってたねぇ」
 「感心感心」と首を縦に振るちとせ。
「なるほどな。ちとせが降魔の器として覚醒したってわけか」
「そゆこと」
「それにしても、ちとせが降魔師か。確かに巫女の血筋にはそういう才能が多いらしいとは聞いてたけどよ」
 よくよく考えれば、葵には先天の力である治癒能力が備わっていたわけだから、妹のちとせにも血筋から来る力があっても不思議ではない。
 その力が、石になるか珠になるかは、使い手次第だ。
 葵の力は珠だ。
 鈴音も力を磨いている。
 ちとせも血筋だけに頼る人間ではない。
「ところで、何降ろしたんだ、ちとせ?」
「堕天使長ルシファー」
 ちとせがあっけらかんとした調子で短く答えた。
「何ぃっ?」
 迅雷が驚愕する。
 ルシファーといえば、神が生んだ巨大なる闇の申し子。
 『明けの明星』の名を冠した輝ける最高位の天使にして、天での反乱に敗れた堕天使たちを率いる魔王とされている。
 伝承におけるその強大さは計り知れない。
「マジか?」
「ジョーダンだよ☆」
「おいおい」
「ホントは何か凄いのが降りてきて、意識も奪われちゃったからね」
「そ、それはそれで、驚愕だぞ」
 ちとせは冗談めかして言ったが、降臨してきた力が魔王と呼ばれる存在に匹敵するということもありえなくはない。
 ちとせの器は、自分自身が思っている以上に大きい。
 北欧神話最強の魔獣フェンリルをその身に降ろしたシギュン・グラムを一撃で退けることができる力を有する存在が降りてきたのは間違いないからだ。
「ふふっ、だから、契約をちゃんとしないといけないのよ」
 ちとせがウィンクをしながら、指を振った。

「するってぇと今日は修行場に神代神社は使えないってことだな」
 迅雷が考え込むように言った。
「そうだな。霊的なバランスを崩すのは不味い」
 鈴音も頷いた。
 霊的力場の面からすれば、神代神社は、霊能力の修行場にはもってこいの場所である。
 だが、"契約"のような繊細な儀式を行うなら、霊場の波長を乱すことは決して得策ではない。
 しかも、鈴音と迅雷の霊気は並ではない。
 神社で修行をすれば必ず、ちとせの契約に影響が出るだろう。
「神社の裏山はどうでしょう? 少し距離もありますから影響も低いと思いますけど」
 葵が遠慮がちに勧める。
「いや、今日は、別の場所にしよう」
 鈴音は好意だけ受け取って断った。
「そうだな。万が一ということもあるしな、少し離れた場所の方がいいだろう」
 迅雷も頷いて、どこか良い場所はないかと考え込む。
 猫ヶ崎に霊の力場は多いが、修行となると場所は限られてくる。
 それなりの空間、鈴音と迅雷、二人の霊力の衝撃に耐えられる力場でなければならないからだ。
 少なくとも、鈴音が全力を出しても周囲に影響のない場所でなければ意味がない。
 猫ヶ崎の地理を理解していない鈴音は、迅雷の結論を黙って待っている。
 迅雷はしばらく思案していたが、思いついたように口を開いた。
猫耳山(ねこみみやま)にするか」
「猫……耳……?」
 鈴音が擦れた声で呟きながら、こめかみを指で押さえた。
 どうやら、山の名前から、ちゃんとした修行場なのか不安になったらしい。
「猫耳山なら、ここから見えますよ」
 悠樹が、迅雷の部屋の鈴音が開けた大穴を指差す。
 半分修理が完了している穴へと鈴音が目を向けると、修理している時は気づかなかったが、確かに遠くに山が見える。
「あれが?」
「ええ、本当は猫ヶ崎山(ねこがさきさん)というんですよ。形が猫の耳みたいだから、皆、猫耳山って呼んでますけど」
 猫耳山。
 正式名称は、『猫ヶ崎山』といい、猫ヶ崎に点在する霊山の中でも最も強い力場の一つだ。
 山の中腹で二股に分かれており、まるで猫の耳に見えるので、街の人間は猫耳山と呼んでいるのだ。
 下層部はピクニックコースにも指定されているが、頂上付近の険しさで有名で、時折、修験者が修行に来ているという。
 また、深い木々の生い茂った山奥は天狗などの妖怪の住処となっているという噂もある。

「山篭りですか〜? んじゃ、やっぱり、お弁当ですね〜」
 レイチェリアは、相変わらずピクニックの乗りである。
 相手をしているロックは、どっと疲れているようだが。
「山篭りって程でもないだろうけどな。まあ、猫耳山なら、修行にはもってこいだろう」
 ちとせの神降ろしの儀式が終われば、神社で修行するのも悪くはない。
 鈴音にとっては、神代神社でゆっくり修行する方が良いのではないかと迅雷は密かに思った。
 戦ってみた感じでは、関節も柔軟だし、筋肉も引き締まっているし、肉体的修行はかなり進んでいる。
 霊気も充実している。
 だが、鈴音は感情によって、強さが変わる。
 霊気を制御しきれない精神の弱さがある。
 迅雷と戦った時の鈴音は、ケガの影響もあったのだろうが、実力の半分も出しきれていなかった。
 心が乱れ、霊気の流れが滞っていた。
 鈴音が修行すべきは、精神面だ。
 それは、鈴音自身も痛感しているに違いない。
 戦いだけではない。
 霧刃だけに捕らわれて周りを見る余裕がなかった自分をどれほど不甲斐なく思っているだろう。
「猫耳山なら今から支度すれば、夕方には着くな」
 迅雷が、時計を見ながら言った。
「じゃあ、あたしも一度、ちとせたちと一緒に神社に帰って荷物取ってくるよ」
 鈴音の荷物は神社に置いたままだ。
 もちろん、迅雷も荷物一式揃える準備がいる。
「よし、待ち合わせは、アパートの前で良いか?」
「ああ」
 前髪をかきあげながら、鈴音が頷いた。

「迅雷」
 鈴音が靴を履きながら、見送りに玄関の外まで出た迅雷に声をかける。
 傍らには、ちとせの姿しかない。
 葵と悠樹とロックは、先にアパート前で、ちとせと鈴音を待っている。
 レイチェリアは部屋の中で支度を整えていた。
「何だ?」
「明日は日曜日だけど、月曜からは泊り掛けってわけにはいかないだろ?」
 迅雷は、ちとせと同じ、れっきとした猫ヶ崎高校の学生だ。
 平日には学校があるのだ。
「鈴音さんの修行が良い口実だからって、学校サボっちゃダメだよ、先輩☆」
 すぅっと眼を細めて、ちとせが迅雷に釘を刺す。
「わ、わかってるぜ。でもよ、どうしても鈴音が付き合って欲しい時は、学校サボってでも……」
 内心、「学校をサボる口実ができた」と考えていた迅雷が、慌てて言い訳を口にしようとした。
 しかし、迅雷の心、鈴音知らず。
 鈴音が、きっぱりと言った。
「いや、平日は、自主練で良いよ」
「ぬぅ、そ、そうか」
 迅雷は、少し哀しそうに答えた。
「ふふっ、そんなにサボりたかったら、麗しの生徒会長か、愛しい風紀委員長に頼む?」
「い、いやっ、それは勘弁してくれ!」
 ちとせの提案に、迅雷が滑稽なほど慌てて答える。
「何、慌ててんだ?」
 鈴音が不思議そうに、訊いた。
「迅雷先輩目立つから、生徒会長に目をつけられてるのよ」
「ふぅん、すると、風紀委員長の方にも?」
 興味深げに、鈴音が尋ねる。
 ――やっぱ、どんなに強くても、高校生か。
 鈴音は迅雷の年相応な一面を見られた気がした。
「風紀委員長は、迅雷先輩の彼女なのよ」
「へぇ、意外だな」
 急に鈴音は、目つきの悪い表情になった。
「何だよ!」
 迅雷は顔を真っ赤にして叩きつけるように鈴音を睨む。
 鈴音は迅雷の視線を意地の悪い笑みで受け流した。
「修行中に誘惑しちまうかな」
「な、何……?」
 ごくりと、唾を飲み込む迅雷。
 もともと、鈴音はスタイルも抜群だし、何より、男っぽい喋り方は別にして、声が色っぽい。
「あはは、ジョーダンだよ、ジョーダン」
 狼狽する迅雷を見ながら、鈴音は少々得意な気分になった。
 迅雷の弱点を見つけた気分で、ちょっとした仕返しのつもりだ。
 もっとも、鈴音もロックとのことを茶菓されたら、それこそキレるか、真っ赤に顔を染めて口を噤むということに本人は気づいてないが。
「……ったく、本気にしちまったぞ」
「フッ、かわいいトコあるじゃんか」
 上機嫌になった鈴音が、迅雷のうなじに息を吹きかけた。
「○×□△!?」
 固まる迅雷をよそに、鈴音が喉で笑いながら側から離れる。
 我に返った迅雷が、大声で鈴音に怒鳴った。
「す、鈴音、テメー! 修行覚悟しとけよ!」
「ああ、楽しみにしてるぜ!」
 鈴音は笑顔で答えると、階段を駆け下りていった。
「ふふっ、やられたね」
「くっそ〜! 鈴音のヤツ!」
 迅雷が、首筋に手を当てる。
 まだ、鈴音の吐息の感触が残っていた。
 鈴音は迅雷に学生を感じたが、迅雷も鈴音がそう年が離れた女性ではないことを思い出した。
 彼女が大人びて見えるのは、背負った過去のせいだろうか。
「先輩」
 ちとせが、少し落ち着きを取り戻した迅雷に耳打ちする。
「何だ?」
「鈴音さんのこと、頼むよ」
 迅雷は、ちとせの目を見て、力強く頷いた。
「ああ。おまえも契約、しっかりな」
「わかってるよ」
 ちとせは、頷き返す。
「じゃあ、そろそろ、行かないと、姉さんたちが待ちくたびれちゃうから」
「ああ」
 ちとせを見送って、迅雷は部屋に戻った。

「"凍てつく炎"め。このわたくしをコケにしたこと、必ず後悔させてやるわ」
 『ヴィーグリーズ』の猫ヶ崎支社である超高層ビル『ヴァルハラ』、その秘書室へ向かう通路。
 ミリア・レインバックは苛立ちを募らせながら、指の爪を噛んでいた。
 苛立っている時に爪を噛むのは彼女の悪癖だった。
 総帥ランディ・ウェルザーズに自分の進言が退けられ、"凍てつく炎"を陥れることに失敗したことが、以前に増して彼女の心に暗い火を燈していた。
 ただ一度、自分を拒否した霧刃への憎悪だが、その執拗さは常軌を逸している。
「なぜ、ランディさまは、あんな女を……」
 先程行き先も告げずに出歩いていた霧刃が戻ってきたが、ランディは叱責の一つも浴びせなかった。
 それもまた、ミリアの霧刃に対する嫉妬を炊き付ける。
 ミリアは、その美しい容姿とは裏腹の偏執的で執念深い性格をしている。
 『ヴィーグリーズ』の中でも、それに気づいているものは少ない。
 気まぐれで多少ヒステリックな部分はあるが、優れた知性と目を見張る実務能力を備えた秘書というのが『ヴィーグリーズ』における上級幹部以外の一般社員のミリアへの評価だろう。
 ミリアがそのどす黒い本性を見せるのは、相手に復讐を遂げる時だけだからだ。
 自分を邪険にする者を決して許すことはない。
 虐げられれば、心の中で百倍の復讐を考えて悦に浸る。
 そして、秘書という立場を利用して保身を図りつつ、復讐を遂げる。
 相手の肉体も精神も崩壊するまで手を緩めることはない。
 まるで、相手を調教でもするかのように。
 ミリア・レインバックとはそういう女だ。
 "凍てつく炎"織田霧刃への敵意は、彼女を嬲り殺すまで消えない。
 だが、霧刃という女はミリアでは手が出せないほど強い。
 それが、ミリアの苛立ちを強めていた。
「落ち度さえ掴めれば、地獄の責め苦を味わわせて血反吐を吐かせてやるのに」
 霧刃を陥れる大義名分さえあれば、ミリアは秘書という地位を利用して、復讐を開始できるのだ。
 ミリアの口の中で、噛んでいた爪が音を立てて弾ける。
 爪の欠片を吐き捨てると、ミリアは爪の折れた指を振った。
 一瞬にして、欠けた爪先は修復され、秘書の洗練された指先へと戻る。
「忌々しい」
 ミリアは憎悪の言葉を今一度吐き、ハイヒールの音を響かせながらその場を去った。
 そのミリアの姿を見つめる視線があった。
「レインバックめ、相変わらずだな。だが、これは使えるな」
 柱の影で、男が小さく呟く。
 ヘルセフィアス・ニーブルルヘイム。
 肩に乗せた少女の人形の髪を細い指で梳く。
 そして、野望の火を目に燈しながら、喉の奥で笑った。


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