魂を貪るもの
其の七 激動
3.細雪
鈴音は、頭の上で両腕を思いきり伸ばした。
「ん〜、葵の治癒術は、よく効くな」
「でも、体力が相当に落ちていますから、気をつけてくださいね。無理をしてはダメですよ」
「ああ」
ちとせから今朝のあらましを聞いた後、葵による治癒を終えていた。
右拳を握り締めて力の具合を見ながら、調子を確認する。
――イイ感じだ。
廃物になりかけていた右腕に完全に力が戻っている。
否、右腕だけではなく、身体の傷は完全に治癒していた。
「本当は大きな傷口だけを治癒して、後は自然治癒に任せるのが一番なのですけれど。だから、今回の『全快』は特別です」
「ああ、わかってるさ」
葵は相手に治癒術を施す時、滅多に『全快』はさせない。
治癒術による無理な治癒は、新陳代謝の促進とともに、細胞を活性化させるために相手の体力を著しく使うことになる。
そして、人間にもとから備わっている自然治癒力の低下にも繋がる。
何より、二度とケガをして欲しくないという葵の相手に対する戒めの意も込められていた。
今回は特例だった。
鈴音とロックの再会へのお祝いと、死に急がないと誓った鈴音への信頼が込められていた。
何年も前に受けたらしい古い傷痕は消すことが難しい。
葵は何度も鈴音に治癒を施しているが、そういった古傷の痕を消すことはできていなかった。
鈴音は「あたしの生きてきた証さ」と笑って答えていたが、葵の胸は痛んでいた。
だから、廃物になりかけていた右腕の次に、古傷には集中的に治癒術をかけて、薄っすら白い筋が見えるか見えないかまで治療できている。
鈴音も口には出さないが、その配慮にも感謝しているに違いなかった。
「服のサイズ、大丈夫です?」
ちとせが、鈴音に新しい服の着心地を尋ねる。
傷口が開いた血の染みで、鈴音の服がダメになってしまったので、ちとせが迅雷の洋服棚から見繕ってきたのだった。
大きめのシャツに、ゆったりしたズボンである。
鈴音は軽くシャドーボクシングのような動きをしてから、ちとせに向き直った。
「ああ。動きやすくて良い感じだけど、迅雷のだろ、コレ?」
「うん。ちょっと大きめだけど、レイチェの服はイケイケの水商売っぽくて動き難そうだしさ」
「いや、そうじゃなくて。勝手に漁ったら怒るだろ?」
「ダイジョブだって。『好きに家を使って良い』って言ったのは先輩だしさ」
「そりゃそうだけどよ」
鈴音が前髪をかきあげる。
「鈴音さんだって、いつまでも血が染み込んでる服を着てるわけにはいかないじゃない」
しばらく考えたが、鈴音は頷いた。
「まぁ、いっか」
――迅雷が帰ってきたら、謝ればいいか。
迅雷はまだ、レイチェリアと散歩に行ったままだ。
悠樹とロックも、鈴音の治療と着替えの間に迅雷を探しに行っていて、この場にはいない。
ちょうど葵が傷の具合を見るために鈴音が下着姿にならねばならなかったので、二人とも気を利かせて外に出ることにしたのだ。
そのついでに鈴音が、二人に迅雷を呼んできて欲しいと頼んだのだ。
「そういえば、鈴音さん、迅雷先輩に何を?」
「少し、あいつに頼みがあるんだ」
「頼み?」
「ああ……」
鈴音の目は真剣だ。
「少し、自分を鍛錬し直そうと思うんだ。それに付き合ってもらいたいんだ。あいつ、強いしな」
「えっ?」
「悔しいが、今のあたしには霧刃を止める力がない」
鈴音は今、素直に霧刃の強さを認めることができた。
いくら背伸びをしても、大事なものは返ってこない。
迅雷と勝負をして、吹っ切れたのかもしれない。
「あたしはもっと、強くならなきゃいけないんだ。霧刃を止めるためにも」
「鈴音さん」
「そのためにも、天武夢幻流の最終奥義を極めたいんだ。そのために鍛錬をし直す。会得できれば、きっと霧刃を止められる」
「最終奥義?」
「正統後継者にのみ伝えられる天武夢幻流最強の技だ」
「鈴音さんが後継者だったんだもんね」
「ああ、姉貴は病弱だったし、性格もやさしくて武術向きじゃなかったからな」
「あれ? そういえば霧刃さんは、剣術も柔術も習ってないんだよね?」
ちとせが考え込むように顎に手を置いた。
「でも、霧刃さんも天武夢幻流を使ってる?」
実際に霧刃が戦っているところは見ていないが、鈴音から聞いた話では天武夢幻流を使っていたはずだ。
流派特有の修行どころか、武術のいろはも知らない霧刃が、だ。
矛盾している。
「修行もしていないはずの霧刃が、天武夢幻流を使えるのは、なぜかってことか?」
「う、うん」
「霧刃は武術の天才なのさ。あたしでは足元にさえ及ばないくらいの才能を持っている。現に今の霧刃は強大な霊気のせいか、動体視力も反応速度も人間の限界を遥かに超えた領域にまで達している」
実際に霧刃と戦った鈴音は、その身を以って姉の恐るべき武才を味わわされていた。
霧刃は、足運びも剣の持ち方も素人に近い。
それでも反応速度が常人離れしている。
体捌きも恐ろしいほどに速い。
速さという点で、鈴音を圧倒的に上回っている。
「それに世の中を呪い壊すようなあの圧倒的な憎悪が肉体の攻撃力を上げている。何もかもを破壊せしめる負の力だ。そして、霧刃が天武夢幻流を使える理由は……」
一呼吸置き、鈴音は静かに言った。
「細雪だ」
鈴音は、姉が持ち去った退魔刀の姿を思い描いた。
強力な破邪の霊気を帯びているため刀単体でも絶大な威力を誇る。
「細雪って、霧刃さんが持ち去った退魔刀だよね?」
「ああ。代々天武夢幻流の後継者が所有してきた織田家の家宝だ。ちとせも、日本神話にある『神産み』は知ってるだろ?」
唐突ともいえる鈴音の問いだったが、ちとせは素直に頷いた。
「
「その最後、火の神である
「えっ、それって、
「さすがによく知ってるな。その天之尾羽張は剣であると同時に神でもあった。その刀剣の神が、闇の脅威から人々を守るために戦っていた織田家の始祖を助けるために鍛えたとされるのが、細雪さ」
「神さまが作った刀だってこと?」
「織田家の始祖も生命と魂魄を賭して精製に携わったといわれてる。それに、今まで細雪の刀身を鍛え続けてきたのは、代々の織田家の当主にして天武夢幻流の継承者たち血と魂さ。人間が人間を守るために鍛え上げ、戦えぬものの代わりに戦うためのチカラなんだ」
鈴音の口調は彼女には珍しく、静かな熱が込められており、少しだけ誇らしげだった。
「そして、細雪には、記憶も受け継がれているんだ」
「記憶?」
ちとせが不思議そうに訊き返す。
「始祖から続く歴代の継承者の記憶の一部だよ。それと、天武夢幻流のあらゆる技も、血の封印とともに残されている」
前髪をかきあげ、鈴音が織田家に伝わる細雪の秘密を口にする。
「細雪と強大な霊気を持ち、織田家の血筋であれば、師が直々に正統後継者ただ一人に伝承する最終奥義以外の技なら、細雪から記憶を引き出すことができるんだ」
もちろん、記憶が引き出せるからといって、血筋だけではどうにもならない。
血の滲むような修行を重ねなければ、絶大な威力の天武夢幻流と細雪の帯びる強大な霊気に耐えることすらできずに自滅するのみだ。
それに細雪から引き出せるのは、あくまで『技』だけで、『心得』や『駆け引き』などの精神面の境地を得ることはできない。
「霧刃の武術の才能は、それこそ記憶だけで戦えるほどだったってことだ」
そして、霧刃の強さの秘密はもう一つある。
これは対峙したものにしかわからない。
殺気だ。
織田霧刃を凍てつく炎たらしめている、すべてを焼き尽くし、すべてを凍らせるような殺気。
物理的な圧力を持つほどの彼女の殺気は対峙するものを消耗させる。
だが、真に恐ろしいのは、殺気の落差、だ。
あの殺気は戦いの最中唐突に消失する時がある。
鈴音も霧刃との戦いで、殺気の圧力とその消失の落差によって、戦いのリズムを狂わされた。
それが無ければ勝てたとは言わないが、リズムを狂わされて致命的な隙を突かれたのは間違いない。
歴戦の強者であれば、対峙する相手の気配や殺気を読むことは重要さを増してくる。
ましてや動きを読むことに長けた武術の流派の後継者にとって、相手の殺気が唐突に消失することは戦いの中で不利に働く。
だが。
あの殺気の落差は。
無意識だ。
霧刃は無意識に殺気を消失させている。
――いや、無意識に殺気の矛先を変えている。
相手を壊そうとする時、無意識に殺気の矛先を変えているから、霧刃と対峙している相手からは消失しているように感じるのだろう。
あの殺気が本当に向けられているのは……あの殺気が本当に斬っているのは……。
「まあ、逆に言えば霧刃が使える天武夢幻流の技は、細雪の中に記憶されたものだけだってことだ」
鈴音は霧刃の殺気の落差への推測に関しては自分の心の中だけに仕舞い込んだ。
「じゃあ、霧刃さんは……」
「最終奥義は使えない」
ちとせの予想へは、きっぱりと答える。
霧刃には天武夢幻流を使えるだけの器は十分にあった。
それも、鈴音以上の使い手になれるであろうことを現状が如実に示している。
だが、父親は霧刃には天武夢幻流を教えようとはしなかった。
鈴音も霧刃も、それで良いと思っていた。
霧刃は病弱で床についていることが多かったし、虫も殺せないような可憐な女性だった。
一方の鈴音は男勝りの勝気な性格だったから、彼女が天武夢幻流の後を継ぐことに二人の間に何の確執もなかった。
しかし、真実は別だと、迅雷との戦いの後で、鈴音は気づいた。
天武夢幻流は、精神面を制御できなければ使いこなすことができない。
負の力を抱えたものが扱えば一瞬にして強力な兇刃となる。
先代でもある鈴音と霧刃の父親は、霧刃に天武夢幻流を教えた場合、感情を制御できず強大な力に溺れる可能性を見抜いていたのだろう。
今の霧刃は、父親の危惧した通りになってしまっている。
そして、鈴音も今まで天武夢幻流を使いこなしていると自惚れていたに過ぎない。
自分もまた、今のままでは、細雪を手にするに相応しくない。
真の意味で、織田家の誇りと細雪の重さを受け継げるようになりたい。
――霧刃を、姉貴の闇を受け止める力が欲しい。
「霧刃は正式な鍛錬を積んでない。細雪や、天武夢幻流を使えば使うほど、肉体に激しい負担がかかるはずだ」
圧倒的な威力を誇る天武夢幻流。
その破壊力に比例して、常人では耐えられないほどの負担が身体にかかる。
だからこそ、継承者には、厳しい修行が課せられるのだ。
「それに、細雪は、破邪の力を宿す退魔刀だ。威力は絶大だが、邪気に身を染めた霧刃にとっては諸刃の剣になり得る」
「でも、それって……」
ちとせは幽鬼のように青白い霧刃の顔色を思い出して、はっと息を呑んだ。
霧刃の霊気がいかに強大であっても、彼女はろくに修行も積んでいない。
ましてや病弱であったのは消しようもない事実であり、霧刃の身体にかかる反動は常人のそれと比べても激しいはずだ。
そして何より、細雪は聖を以って邪を討ち、正なる気で負の気を薙ぐ刀。
負の力に身を任せた霧刃は、正の力を秘めた天武夢幻流と細雪に身体を蝕まれているともいえる。
「……」
鈴音は無言だった。
それが、ちとせの予想を肯定していた。
――霧刃、おまえのやっていることは許されない。
それでも、と、鈴音は思う。
どのような修羅と化したとしても、鈴音にとって霧刃はたった一人の姉なのだ。
もう霧刃を救うには時間がないかもしれない。
だからこそ。
だからこそ、霧刃を止めるためにも強くならなければいけない。
「あたしは強くなりたい。人を救うための武術が天武夢幻流だ。それは、あたしの誇りだよ」
鈴音は無意識に、首から下げたロケットペンダントを握り締めていた。
昔、霧刃の恋人がくれたものだった。
――あの時、霧刃はやきもちを焼いてたっけな。
ペンダントの中には、家族の写真が入っている。
それを鈴音はいかなる時も手放したことがない。
「鈴音さん?」
ちとせの声に、鈴音は思い出から現実に引き戻された。
前髪をかきあげる。
過去に浸るのは、また今度。
今度こそ、大切な存在を守り抜いた時に。
鈴音はロケットから手を離し、真顔でちとせに向き直った。
「ところで、ちとせ」
「何?」
「"契約"は済ませたのか?」
「へっ?」
鈴音の問いに、ちとせが間の抜けた返事を返す。
「降魔の"契約"だよ。葵から聞いてないのか?」
鈴音が怪訝そうに葵を見る。
「ちとせは、まだ、"契約の儀"はしていませんわ」
それまで静かに話を聞いていた葵がちとせの代わりに答えた。
「"契約の儀"?」
ちとせが小首を傾げて言葉を繰り返す。
「神降ろしを完全に使いこなすには、ある一定の存在と契約を交わさねばならないのよ」
葵は極力、意識して降魔という言葉を神降ろしに置き換えているようだ。
巫女ゆえ、魔という言葉を避けようとしているのだろう。
「今、ちとせは無契約状態の器として、自分の意志とは関係なく強大な魔が憑依することも可能なんだよ」
鈴音が葵の説明を補足する。
さすがに霊関係の話には詳しい。
「なるなる。でも、今はなんともないよ? 神降ろしの感触は大体覚えたし、今のままでも使えそうだけど?」
ちとせが、身体を指して素朴な疑問を投げた。
憑依体が降魔してくることが可能なのは、実体験があるので理解できているが、今はまったく憑依の気配がない。
「普段の生活を送るだけならば、無契約状態でも、ちとせの身体は自身の霊気で安全を保証されているの」
葵が丁寧に説明をする。
「だけれど、自ら積極的に神降ろしを行なったり、危機的状況に直面した時、意志とは関係なく邪悪な存在が憑依してくる可能性があるの」
「そいつを抑えられなければ、下手をすると気が触れるか、憑依体に乗っ取られる」
鈴音は何人か、そういった輩を見て、そして戦ってきた。
有名なところでは、狐憑きなどは、動物霊などの憑依体によって意識を乗っ取られたことによる症状だ。
「うっ、憑依体ね、なるなる。契約は必要だね」
シギュン・グラムとの戦いを思い出し、ちとせは頬を引き攣らせた。
あの時は強力な憑依体のおかげで助かったが、悠樹がいなかったら再び意識を取り戻せた自信はない。
「神代の血筋で神降ろしに覚醒した人間は代々、
葵が、ちとせに言う。
「天宇受賣さまは、神代神社の祭神であり、芸能の女神であり、交渉事の女神であり、戦の女神でもあり、闇に光をもたらす女神でもあります」
日本神話において、天宇受賣命の活躍する話は多い。
時には
また、ナマコの口が裂けているのは、この女神のせいだという伝承もある。
天宇受賣命は大小さまざまな魚を集めて爾爾芸命を祝福したが、ナマコだけが従わなかった。
怒った女神が小刀でナマコの口を切り裂いてしまったため、ナマコの口は今でも裂けているのだという。
そして、数ある天宇受賣命に関する伝承の中でも最も有名だと思われるのが、
――ある時、高天原を支配する太陽の女神、
太陽が隠れてしまったため、世界は闇に包まれ、夜ばかりが続き、物の怪や魑魅魍魎が溢れ出し、凶事ばかりが続くことになってしまった。
困った八百万の神々は、どうにかして天照大御神を洞窟から出そうと考えた末、岩戸の前で盛大な祭りをすることにした。
そこで、高天原一の踊り手であった受売命が、神々の前で、踊りを踊ることになったのだ。
彼女の艶麗な踊りに、神々は、どっと沸いた。
その笑い声に興味を覚えた天照大御神が顔を出したところで神々は天岩戸を封印し、世界に光が戻ったという。
神代神社には、その天宇受賣命が祭られているのだ。
「ボクも、天宇受賣さまと契約を交わせば良いんだね?」
「ええ。でも、もし、天宇受賣さまとの契約に失敗した場合は、神降ろしの力は、再び封印しなければなりません」
「ダイジョブ、ダイジョブ。天宇受賣さまって芸能の女神でしょ? 陽気そうだし、ボクと相性良さそうじゃん」
ちとせが気楽な感じで手を振った。
「それも、そうですわね」
葵も鈴音も妙に納得した顔で頷いた。