魂を貪るもの
其の一 来訪者
1.神代神社(かみしろじんじゃ)

 猫ヶ崎市を一望できる小高い丘の上に神代神社(かみしろじんじゃ)はある。
 この神社は、地元では非常に有名であった。
 神代(かみよ)より続くとされる由緒正しい神社であり、日本神話において、太陽神である天照大御神( アマテラスオオミカミ)天岩戸(アマノイワト)に隠れ、世界が暗闇になってしまった時に、岩戸の前で踊ったという芸能の女神――天宇受賣命( アメノウズメノミコト)を祭神としている。
 この芸能神に由来して、毎年正月には巫女コンテストや巫女の神楽舞いが神事とは別に一般的なイベントとして催されている。
 これが大好評であり、神代神社が有名な理由の一つでもあった。
 だが、この神社にはその他にも有名になっている要因がいくつもあった。
 それは前者の陽気な理由とは反対に、怪談染みた、あるいは怪奇的な理由によるものだ。
 曰く、月夜の晩に、神社の本殿の正面左右に狛犬(こまいぬ)の代わりに置かれた猫の像一対が踊り狂っていた。
 曰く、夜な夜な境内の裏の井戸から、女性のすすり泣きをする声が聞こえる。
 曰く、賽銭箱から、化物が飛び出した。
 とにかく、そういうたぐいの噂が絶えない。
 そのせいだろうか、この街、猫ヶ崎で怪奇な事件に巻き込まれると神代神社に駆け込む者も多い。

 早朝。
 世界は白く、風は爽快。
 時折聞こえてくる鳥のさえずりが、耳に心地がよい。
 神代神社に続く石段を一気に最上段まで駆け上り、神代(かみしろ) ちとせは尻尾部分の長いポニーテールに束ねていた長い髪を解いた。
 彼女は代々神代神社の神職を務める社家『神代家』の次女で、この猫ヶ崎市にある私立猫ヶ崎高校に通っている。
 彼女はまた、陸上部の副部長兼短距離走のエースでもあり、神社の周りでストレッチや軽いランニング、スターティングやウェイトトレーニングの自己練習をするのが、毎朝晩の日課なのだ。
 平日の早朝に、本格的なセパレートタイプのレーシング用のトップとショーツ、それにスウェットパーカーを着ているのはそのためだ。
 レーシングウェアの上下の間から見える腹筋は引き締まり、ショーツから伸びる脚からは若い活力と健康的な色香が同時に感じられる。
「はぁ、はぁ、……ふぅっ、もう一周して来よっかな。今日は部活の朝練もないしね」
 ドリンク容器に入れたスポーツドリンクを飲みながら、一息吐く。
 早朝の練習前にも軽い食事でアミノ酸やタンパク質などの栄養補給は欠かしていない。
 エネルギー切れでトレーニングをするのは、効率が悪いからだ。
 ちとせは走るのが好きだ。
 走っている間は何も考えなくて良い。
 自分自身が世界と風に溶け込んでしまったかのように真っ白になれる。
 その爽快さはちとせを虜にしている。
 だから、爽快に走るだけでなく、爽快に走るための努力も怠らない。
 ふと石段に張りついた赤黒い染みが目に入り、ちとせは端整な顔をしかめた。
 染みは血痕だった。
「大丈夫かな」
 呟きながら昨晩の出来事を思い出して、ため息を吐いた。
 石段の血痕の染み付いている場所には昨夜、二十歳くらいの一人の女性が血塗れで倒れていたのだ。
 それだけでも衝撃的ではあったが、女性の身体に刻まれた傷が尋常のものではなかったことにも、驚かされた。
 女性の痛ましい傷の数々は、酷い妖気と瘴気を帯びていたのだ。
 ちとせは神代神社の神職の家系として、その血に高い霊力(ちから)を受け継いでいる。
 現在不在中の両親に代わって神社を取り仕切っている姉が請け負った退魔の仕事を手伝った経験も何度もある。
 凶悪な魔物相手の退魔の最中に傷を負ったこともあり、魔物たちの瘴気に傷口を侵されて苦しみを味わったのも一度や二度ではない。
 その経験から考えても女性の受けた傷は、事故や人間の仕業によるものではなく、妖魔や悪魔といった人外の魔物に襲われて負ったものであると思われた。
「どう考えても、わけありよね」
 ちとせは再び、ため息を吐いた。
 女性が血塗れで倒れていただけでも大事件であるのに、その上、人外の魔物に襲われた可能性が高いのだ。
 それに女性自身が非常に高い霊力の持ち主であることを、ちとせは感じ取っていた。
 もしかしたら、退魔師なのかもしれない。
「あ〜っ、容態が気になって仕方がなくなってきた」
 ちとせは一度、家に戻ることにした。

 ――目が覚めた時、鈴音(すずね)は見知らぬ部屋で布団に寝かされていた。
「……ここは?」
 頭は酷く痛むし、身体も悲鳴を上げている。
 それでも、どうにかして上半身を起こした。
「うぐっ!」
 布団をのけようとしたが、その途端、全身に痛みが走り、意識が一瞬遠のく。
 それに苦痛だけでなく、酷い疲労感も、全身を縛り上げている。
 あたしは――。
 はっきりとしない意識の中で、記憶を呼び覚ます。
「……そうだ」
 鈴音は思い出した。
 意識を失う直前に剣戟を交えた鬼のことを。
 この世の闇に巣食う鬼の一匹。
 それは、ようやく見つけた手掛かりだった。
 鈴音が『真に追っている相手』へ近づくための手掛かりだったのだ。
 その鬼と、鈴音は死闘を繰り広げた。
 常人であれば、瞬時に喰い殺されてしまうような強大な妖気と尋常ならざる力を持つ、闘争本能を剥き出しにした鬼だった。
 人々を闇に救う魔物から守り続けてきた優れた腕を持った退魔師である鈴音は、その鬼と互角以上に渡り合った。
 だが、鈴音は焦っていた。
 その鬼が『追っている相手』の唯一の手掛かりであったからこそ、焦燥感を抑えることができず集中力を乱してしまった。
 集中力の欠如は油断を生み、結果として鈴音はその代償を支払うこととなってしまった。
 鈴音の集中力の乱れに乗じて放たれた鬼の強力な攻撃をまともに食らい、重傷を負ってしまったのだ。
 そして、鈴音は――。
 選択肢は残っていなかった。
 残った力のすべてを使って鬼を退けなければ、自分が殺されていただろう。
 鈴音は自分の手で、『追っている相手』の唯一の手掛かりを消し去ってしまったのだ。
 そして、重傷を負った身で全霊を使い果たした鈴音は、そのまま意識を失ってしまったのだ。
「くそっ!」

 障子の向こうから聞こえてきた悲痛な声に、神代(かみしろ)(あおい)は、部屋の中に入るのをためらった。
「気がついたみたい。でも……」
 部屋にいる女性は昨夜、神社の前で血塗れで倒れていたのを妹のちとせが運んできたのだった。
 全身に酷い傷を負っており、身体中に瘴気が回っていた。
 女性自身が強力な霊的能力の持ち主でなければ、いつ命を失っていてもおかしくはないほどの重傷だった。
 葵は懸命に手当てを施したが、昨夜は女性の意識は戻らず、空いていた部屋に寝かせておいたのだ。
「どうしたんです、葵さん?」
 後ろから声をかけられ、癖一つない長く艶やかな黒髪を揺らして、葵は振り向いた。
悠樹(ゆうき)クン。おはようございます」
 白いワイシャツにスラックスという格好の涼やかな目をした、この上もなく顔立ちの整った少年が立っていた。
 茶味がかった髪は柔らかそうな髪質で、細い眉、小さな下顎と曲線的な輪郭、そして、ほっそりとした身体つきも手伝って、女性と見間違えられても不思議はない雰囲気をしている。
 一言で表現するなら、「きれい」という言葉が、もっとも適当だろう。
「おはようございます、葵さん」
 少年の名は、八神(やがみ) 悠樹(ゆうき)
 彼は、この家の人間ではない。
 葵とちとせの幼なじみで、現在、彼の両親は世界的な音楽家とそのマネージャーとして海外諸国を渡り歩いている最中だった。
 小さい頃から家族ぐるみの付き合いがある縁で、この神代家に厄介になっている。
 実のところ、葵とちとせの両親も現在、諸事情で家を長期に渡って空けており、大学を出たばかりで神代神社の巫女と臨時の神職代行を特別に務める葵が、今の神代家では保護者の立場にある。
 葵の妹のちとせは高校二年生で、この八神悠樹もちとせと同じ猫ヶ崎高校に通っている。
 そして、ちとせと悠樹はクラスメイトでもあった。
 この普通の家族では体験できない奇妙な関係を、三人はとても気に入っている。
「で、何を廊下でボーっとしてるんです?」
「昨夜の女性の様子を見に来たの」
「ああ、そうでしたか。実はぼくもです」
 悠樹はそう言うと、女性的な顔に少し照れくさそうな微笑みを浮かべた。
 葵は「じゃあ、一緒に中に」と言うと障子戸に手をかけた。
「入りますね」
 障子戸を開けた。

「えっ?」
「あら?」
「ん?」
 部屋に入った途端、葵と悠樹の目に入った光景は、女性が半身起こした体勢で服の前面のボタンをすべて外して下着姿になっているところだった。
 女性は滑らかで艶やかな肌と抜群のプロポーションの持ち主で、その肢体が悩ましい曲線を描いている。
「悠樹クンはダメです!」
 葵はすばやく悠樹に後ろを向かせた。
 女性は下着姿を見られても恥ずかしがる気配もなく、葵の顔に視線を向けた。
「何を慌てているんだ?」
「いえ、その、服を着ていただけませんか?」
 ようやく気が回ったのか、女性は、「ああ、すまない。傷の具合を見ていたんだ」と言って、服のボタンをかけた。
 そして、右手で前髪をかき上げ、軽く息を吐き、葵へ向き直ると頷いた。
「もう大丈夫だ」
 女性の口調はどことなく男っぽいが、声質には逆に艶めかしいほどの色香が漂っていた。
「もう良いですわよ。悠樹クン」
「葵さんは真面目ですね」
「当然です。女性の下着姿を見るなんてダメです」
「いや、まあ、ぼくもびっくりしましたけど」
「そうでしょ、そうでしょ」
 葵が何度も深々と頷く。
「……悪いが」
 女性が葵と悠樹のやり取りに割り込んだ。
「はい、何でしょう?」
「ここがどこで、あんたたちは誰なのかを教えてもらえると、ありがたいんだが?」
 気がついたら見知らぬ部屋で寝かされており、すぐに見知らぬ人間たちの登場だ。
 女性にしてみれば、もっともな質問だろう。
 喚いたりしないのは、瘴気に侵されていた傷が治療されて布団に寝かされていたことと、目の前の葵と悠樹から悪意が感じ取れないからだろう。
「そういえば、まだ自己紹介もしていませんでしたね」
 葵は悠樹と一緒に、布団の傍らに座った。
「ここは、芸能の女神である天宇受賣さまを祭神とする神代神社の神職を代々務めている神代の家ですわ」
 葵が改まった口調で言う。
「申し遅れましたが、私は神代葵と申します。この神代家の長女です」
 彼女が巫女だというのは、目の前の女性には伝わっていただろう。
 何しろ、白い小袖に緋色の袴という典型的な巫女装束に身を包み、やはり、巫女のお手本のような長く美しい黒髪をしているのだ。
 唯一、巫女装束の前部を盛り上げている豊か過ぎる胸が巫女という神聖な職種とアンバランスな印象を若干与えかねないが、その芸術的な曲線は彼女のおっとりとした母性を表しているようでもあった。
「ぼくは八神悠樹と言います。まあ、居候みたいなもんですね」
 続いて悠樹も名乗った。
「あたしは、鈴音(すずね)織田(おだ) 鈴音(すずね)だ」
 女性も名乗り返した。
「あんたたちが介抱してくれたのか?」
「ええ、まあ、そうなりますね」
「礼を言うよ」
「いいえ、礼ならば、妹のちとせに言って下さいな。あなたをここまで連れてきたのは、あの子ですから。もうすぐ帰ってくると思いますので」
「帰ってくる?」
 部屋の壁に掛けてある時計を見ながら、鈴音が訝しげに首を傾げた。
 時計の針は早朝と言って良い時間を指している。
「こんな朝早くに出かけてるのかい?」
 どう見ても、葵は二十歳代前半の女性だ。
 そのことからも、彼女の妹はまだ十代で、学生の身分だろうとは予測ができた。
 夜が明けたばかりというわけではないが、学校へ向かうにしては幾分早い時間帯ではないかと、鈴音は思ったのだ。
「はい。あの子は毎朝晩、神社の周りで陸上部の自主トレーニングをしているんです。昨夜、その途中であなたを見つけて連れてきたんです」
 ちょうど葵がそう言った時、障子戸の向こうから張りのある明るい声が聞こえてきた。
「たっだいまっ」
 この部屋は玄関のある廊下に接しているから、誰かが帰ってくればすぐわかるのだ。
「あっ、帰ってきた。ぼくが呼んで来ますね」
 悠樹が立ち上がり、ちとせを呼びに行った。


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