魂を貪るもの
其の七 激動
1.合流

「たっだいまぁ」
 玄関を開けると同時に、ちとせが欠伸をする。
 鈴音の件と降魔の件を相談するために神社に戻ろうと決めた直後から、ちとせに極度の疲労感が襲いかかってきていた。
 神社に着くまでは「ちょっと疲れただけ」と気張っていたのだが、やはり自宅に戻ったという安心感で緊張が抜けたのだろう。
 先程から目がとろんとして、欠伸を連発している。
「降魔の反動か。無理もないよな」
 悠樹がため息を吐く。
 あの時、憑依体に取り憑かれたちとせは明らかに人間の領域を超えた強さを発揮していた。
 肉体の限度を越えた力の使用が、疲労感として現れて来たに違いない。
「お帰りなさい」
 葵が居間から顔を出して出迎える。
「あら、悠樹クン。ケガを?」
「ちょっといろいろありまして」
「そういえば、ちとせも何だか様子がおかしいわね、一体どうしたの?」
「居間で話すよ」
 ちとせたちは居間に移動して、それぞれソファに越し掛けた。
「ロックさんは?」
「エクスプレスコーヒーを入れてくれていますわ」
「エスプレッソですヨ、葵サン。イタリア語のエスプレッソに対応する英語はエクスプレスなので意味的には同じなのですが、コーヒーに関してはアメリカでもエクスプレスとは呼ばれずにエスプレッソと呼ばれていますネ。ちなみにエスプレッソのニュアンスとしては、『急行』というものと『あなたのために』というものがあります」
 ロックがコーヒーに関する豆知識を披露しながら、お盆に四つのカップを載せて戻ってくる。
「姉さん、天然過ぎ。ていうか、エスプレッソくらい知ってるでしょ」
 ちとせはまた欠伸をしそうになったが、何とか噛み殺した。
「それで、一体何があったの?」
「実は……」
 眠そうなちとせに代わって、悠樹が事情を話し始める。
 爪研川での『ヴィーグリーズ』の幹部である降魔師シギュン・グラムとの遭遇。
 彼女の"氷の魔狼"フェンリルの力。
 『ユグドラシル・プロジェクト』という謎の言葉。
 そして、ちとせの降魔覚醒。
 はじめはいつものおっとりとした調子で話を聞いていた葵だったが、ちとせの覚醒のことに及ぶとさすがに目を見張った。
「降魔? 神降ろしのことね?」
「そだよ。突然でボクもびっくりしてるんだけどね」
 ちとせが口を挟んだ。
「そう……」
「あっれ? 姉さん、驚きが小さいよ」
「神降ろしに覚醒するのは、神代家では珍しいことではないのよ」
「えっ、もしかして、姉さんもできるの?」
「いいえ。私は無理よ。神降ろしは治癒術と同じで、覚醒が先天的な資質に左右される能力なの。『治癒術』は『魂鎮(たましずめ)』に属する資質、『神降ろし』は『魂振(たまふり)』に属する資質という違いはあるのだけれど」
 葵は治癒術の使い手として才能を開花させていたが、ちとせもまた才能は違えども、同じように霊的能力の中でも特殊な力に覚醒したことになる。
 選ばれたというと大仰だが、神代家は神代の昔より続く古い血筋の家柄であった。
 葵が言ったように過去にも治癒術や神降ろしに目覚めたものは多いのも頷ける血筋でもあるのだ。
 もっとも、歴史ある神代神社の神職の家に生まれたことには多少の誇りは持っているものの、葵もちとせも普段は血筋など気にしたこともない。
 それは二人が現代的なものの考え方を持っているというよりも、姉妹共通のあけっぴろげとした性格によるところが大きい。
「どうやら、無理な神降ろしをして体力を消耗してしまったみたいね」
「うん。かなり眠いよ」
 ちとせが欠伸を噛み殺して、コーヒーを啜った。
「でも、そのおかげで助かったようなものだよ」
「そうね。神降ろしは、優秀な巫女の素質の証よ。修行をすれば、良い巫女になれるわよ」
「優秀な巫女なんてボクには無理無理だね☆」
「そうかしら?」
「ボクは巫女向きの性格じゃないしさ。まあ、面白い力だと思うから扱えるようにはなりたいと思うけど」
 ちとせが頬を掻く。
「でも、その前に鈴音さんのことを探さないとね。姉さんたちの方はどうだったの?」
 ちとせの問いに葵が姿勢を正す。
「私たちも鈴音さんの居場所は掴めなかったのだけれど……」
 葵はシャロルの占いのことをちとせたちに話した。
 鈴音は精神の闇と戦っている、と。
 そして、それは他人に踏み入れることのできない戦いなのだ、とも。
 だから、信じるしかない。
 葵はシャロルが告げたことをそのまま妹に伝えた。
「信じるしかない、か」
「ええ」
 ちとせに葵が頷く。
「鈴音サンは大丈夫ですヨ、きっと。自分自身に負けるほど、彼女は弱くない」
 それまで黙っていたロックが、コーヒーを啜りながら静かに言った。
「そうだよね」
「ええ、オレは信じています」
 シャロルの館で言った時と違わぬ言葉を繰り返すロック。
 そして、訪れるしばらくの沈黙。
 ただ、それは決して重苦しいものではない。
 ――信じる心。
 その場の誰もが、鈴音を信じる沈黙だった。
 鈴音は抜き身の刃のような女性だったが、その刃は弱者に向けられることは決してない曇りのない白刃だった。
 彼女の刃は闇を切り裂くためにあるのだ。
 自分の心の闇に負けるはずがない。
「じゃあ、問題なのは、『ヴィーグリーズ』のプロジェクトのことだね」
 沈黙を破ったのは、ちとせだった。
 鈴音のことは信じている。
 ならば、他に今考えるべきもう一つのことは、魔を使役して何かを企む『ヴィーグリーズ』のことだ。
 シギュン・グラムという幹部と遭遇して目をつけられ、さらに鈴音の姉である霧刃が与している以上、関わり合いを避けられない存在である。
「ええっと、『ユグドラシル・プロジェクト』でしたね」
「うん、そだよ。『ユグドラシル』って、北欧神話に出てくる世界樹のことだよね?」
「あら、よく知っていたわね」
「ううん、ほとんど名前だけだよ。知ってるのはさ」
「皆は、北欧神話についてはどれくらい知っていますか?」
 葵が、ちとせだけでなく、悠樹、ロックも含めて訊いた。
 三人とも首を傾げたが、ちとせが悠樹を見ながら意外そうに言う。
「あれ? 悠樹は詳しいんじゃないの?」
「どうして?」
「だって、『ビフレスト』とか知ってたじゃない」
「まあ、そういうもののがあるってことは知ってたけど、神話の個々のエピソードとかは詳しくはわからないよ。あとは、『神々の黄昏(ラグナロク)』くらいしか知らないし」
「確かに、ボクもそんな感じかも。えっと、ボクが覚えている限りだと、ヴァイキングの間に伝わる神話だったと思うけど?」
 あまり自信のなさそうな妹の発言に、葵が頷く。
「そうですね。北欧神話はキリスト教化が進む前の古代スカンジナビアの人々の信仰に基づいた神話よ」
「オーディンとかトールとかの戦いの神さまがたくさん出て来て、飲んで唄って踊ったあげくに、『神々の黄昏』と呼ばれてる終末戦争で滅んじゃうって話だよね?」
「ま、まぁ、大筋は合っていますけれど……。微妙にずれているし、ちとせ、要約しすぎよ」
「そうかな?」
「そして、その北欧神話の宇宙樹もしくは世界樹、世界を体現する巨大なトリネコの木が、『ユグドラシル』よ」
「でっかい木だよね」
「『ユグドラシル』の根はそれぞれ、神々の国や巨人の国、死者の国になどの九つの異世界に根付いていているの」
 その根元の一つにウルドの泉と呼ばれる泉があり、そこで、ノルンと呼ばれる運命を司る三女神が水を与え続けている。
 そのおかげで、『ユグドラシル』は、決して枯れることがない。
「まさに世界の中心。世界樹というだけのことはありますね」
 悠樹が感心しながら言った。
「『ユグドラシル・プロジェクト』かぁ。まさか、その世界樹をどうにかしようって計画なのかな?」
 ちとせが腕を組んだ。
 世界を体現する『ユグドラシル』を制することができれば想像を絶する力を手に入れることができるはずだということは容易に推測できた。
「もし、『ユグドラシル』が実在していたとしても、扱いきれる代物とは思えませんわ」
「でも、コンピュータを操作しようとする人は、上手く扱えると思って扱うものですからね」
 葵の言葉に、隣から悠樹が意見を挟む。
「そうそう。儲からないと解かっていてギャンブルをする人はいないよ。結果的に、できたか、できなかったかは別問題だからね」
 悠樹へ頷いて、ちとせが賛同の意を述べる。
「それもそうですわね」
 ちょうど葵が思案顔になった時、玄関のベルが響いた。
 そして、外から朗らかな声が聞こえてきた。
「こんにちはぁ。レイチェリアで〜す」

 超高層ビル『ヴァルハラ』。
 現在猫ヶ崎市にある建造物の中で最も高い建物であり、都市再開発計画を推し進める『ヴィーグリーズ』の日本における本拠地でもある。
 最上階である八十階に位置する総帥室に、金髪を後ろに撫で付け、逞しい肉体をダークスーツに包んだ厳かな紳士――総帥ランディ・ウェルザーズの姿はあった。
「良い街だ。新たなる世界の出発点にふさわしい」
 猫ヶ崎市全域を窓から見下ろすその瞳は、冷たい。
 インターホンから、秘書のミリア・レインバックの声が聞こえてきた。
「筆頭幹部殿がいらっしゃいました」
「通せ」
 ランディは短く命じる。
 しばらくすると、秘書のミリアが、筆頭幹部であるシギュン・グラムを連れて部屋に入って来た。
 艶かしいミリア・レインバック。
 そして、凛々しいシギュン・グラム。
 長い金髪以外は対照的な二人がランディ・ウェルザーズの左右に控える。
 ランディは、シギュンの右腕に目をやった。
 スーツに隠れてほとんど見えないが、袖口より先から手の形をした機械が覗いている。
「魔導機械の義手か。治癒術を施して再生すれば良いものを」
「失われた右腕に復讐を誓いました」
 強くはないが、はっきりとした口調で、シギュン・グラムは答えた。
 その怜悧な紺碧の両目の中には理知的な容姿とは相反するような奈落の狂気が宿っている。
「しかし、それでは見栄えがよろしくありませんわよ。『ヴィーグリーズ』の筆頭幹部ともあろう御方が……」
 ミリアが美しい形をした眉を寄せながら、シギュンに対して言葉を紡ぐ。
 それに対して、シギュンは鋭利さと空虚さが複雑に混在した視線でミリアを睨みつけた。
「レインバック。おまえには戦いの誇りはわかるまい」
「……」
 シギュンに一蹴され、ミリアは口を(つぐ)んだ。
「恥が注がれるまでは、この右腕を治すつもりはない」
「まあ、よかろう。"氷の魔狼"の矜持を溶かすことは、私にもできぬわ」
 ランディは、静かにソファに越し掛けた。
「それで、プロジェクトの進行具合はどうか?」
 ランディの問いに、口を噤んでいたミリアが気を取り直したように抱えていた書類を読み上げる。
「『力』の回収は、ヘルセフィアス殿の指揮下、順調に行なわれています」
「……ふむ」
「『ヴァルハラ』及び『ユグドラシル』には、『ヨルムンガンド』を巣食わせてありますから、ご安心を」
「ところで、"凍てつく炎"は、どうしている?」
 "凍てつく炎"という単語に、それまで書類に目を落としたまま報告していたミリアが顔を上げた。
 明らかに、ミリアの瞳には敵意の光が灯っている。
「はい。魔獣ケルベロスとともに街に出ているようですが……」
「ふん。散策好きの女だ」
「ランディさま!」
「どうした、ミリア?」
「あの女は危険です。我らに心から賛同しているとは思えません」
「……」
「あの女は、筆頭幹部殿が爪研川で遭遇した者と出会っていたにもかかわらず始末せず、我々への報告さえ怠っていました」
「確かにな。直接に始末しろとも報告しろとも命じてはいなかったが」
「そのようなことは理由にはなりません。雇われの身ならば雇い主に報告あってしかるべきでしょう。それを(おろそ)かにして、今日もまた平然と行き先も告げずに外へ出歩いているではありませんか」
「……シギュンは、どう思うか?」
「確かに何を考えているかはわかりませんが、"凍てつく炎"が依頼主に叛逆したという話は聞いたことがありません」
 シギュンの知る限りでは、"凍てつく炎"織田霧刃が契約を違えて裏切ったという噂は聞いたことがない。
 どのような凶悪で惨酷な依頼でも、契約を交わした限りは実行する。
 それが、"凍てつく炎"だ。
 それに昨夜の件も、今朝の件も、堕天使ニスロクにこそ不始末の一因がある。
 だが、ミリアは反論を続けようとした。
「し、しかし!」
「レインバック。何を熱くなっている。"凍てつく炎"の何が気に入らない?」
 シギュンがミリアに詰め寄る。
「い、いえ……」
 ミリアは心の中で舌打ちした。
 霧刃に誘惑を拒否されたことを根に持っての讒言(ざんげん)であり、無論、深い理由などありはしないからだ。
 ただの逆恨みなのだ。
 気に食わないというだけの話なのだ。
 なぜと問われれば、言葉を濁すしかない。
「ミリア。私は初めからあの女に忠誠など求めてはおらん。余計な邪魔をされんように手元に置いているだけに過ぎん。敵に回せば厄介な女だからな。もっとも、勝手に出歩かれては、さすがに困る。後で、"凍てつく炎"には出歩く時は、私に直接断るように伝えておけ」
「わ、わかりましたわ」
 ミリアが不承不承に頷くのを確認し、ランディはシギュンに向き直った。
「シギュンよ。邪魔者の件だが……」
「はい」
 シギュン・グラムの血の通わぬ機械の右腕が疼いた。
 この私の、この"氷の魔狼"の矜持に傷をつけた少女を許すわけにはいかない。
「消息は掴めたか?」
「未だ。ですが、必ず、私自身が……」
「復讐はもっとも強い感情だ。だが、我らの目的は『ユグドラシル』だということを忘れぬようにな」
「承知しております」
「今は運命をも凌駕する力こそが、何よりも必要なのだ」
 シギュンとミリアが、黄金の髪を揺らして深深と頭を下げる。
 ランディは知っている。
 ミリア・レインバックはともかく、誇り高き"氷の魔狼"が心の底では命令に承諾したわけではないことを。
 それでも、ランディ・ウェルザーズは満足そうに頷いた。

「ひやあああああああああッ!?」
 神代神社に、甲高い悲鳴が響き渡った。
「ぐ、ぐるじひ……!」
 悲鳴を上げ、首を揺すられているのは、レイチェリアだ。            
 あまりの苦しさに人間への変化が解けかかって、髪の毛の間から角が覗いている。
 そして、信じられないことに目が渦巻き状態になっている。
 比喩ではない。
 実際に、まるで漫画の表現の如く、グルグルの渦巻きの目になっているのだ。
 さすが、悪魔。
 人間には、できない芸当だ。
 たぶん、頭を叩けば星が出て、好きなものに夢中な時はハート目になるのだろう。
「鈴音さんが迅雷先輩の家にいるって、ホントなの?」
 レイチェリアを勢いよく揺さぶり続けているのは、ちとせだ。
「ホ、ホントだってば、苦しいわよ、手放して……」
「鈴音さん。無事だったのですね」
 葵はちとせを止めるのも忘れて、鈴音の無事に安堵のため息を吐いた。
 それから、ぽんっと手を叩いた。
「そうそう、レイチェリアさんにお茶を入れなくてはいけませんね」
 当のレイチェリアはお茶どころではないのだが、葵はマイペースに湯飲みに茶を注いで茶菓子を用意し始める。
 ロックは鈴音が見つかった喜びと、ちとせと葵の様子へ驚きで困惑して動けない。
 レイチェリア絶体絶命。
 さすがに見かねた悠樹が、止めに入った。
 いつも冷静なのは彼だけだ。
「ちとせ、落ちつけって。レイチェが泡吹いてるよ」
「ああっ、レイチェ、ごめん!」
「ふりゅりゅ〜」
 ちとせが、パッと手を放すと、レイチェリアは頭を振って妙な声を出した。
「んもう、ヒドイわよ、ちとせちゃん」
「ごめん、ごめん」
 胸の前で手を合わせて謝る少女に、一通り文句をたれた後、乱れた髪の毛を手櫛で直すレイチェリア。
 そして、驚いた拍子に飛び出してしまった頭の角を引っ込め、完全に人間の姿に化け直す。
「で、鈴音のことなんだけどね」
 手鏡で容姿を確認したレイチェリアが、ちとせに向き直って鈴音のことを話し始める。
 ちとせたちは、レイチェリアの一言一句逃すまいと真剣に聞き入った。
 そして、数分後には、すでに神代神社には誰の姿もなかった。


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