魂を貪るもの
其の六 降臨
5.負の力

「ふぅ、退いてくれたわね」
 ちとせは辺りに張られていた結界とシギュン・グラムたちの気配が完全に消えたのを確認して、大きく安堵のため息を吐いた。
「あ〜っ、もうダメダメ〜。身体がダルくてしかたがないよ」
 そして、心底疲れた感じでその場に尻餅をつく。
「さっきまでは、大丈夫だって言ってたじゃないか」
 悠樹もちとせの傍らに腰を降ろした。
「だって、隙を見せたら一気にやられそうだったでしょ。だから、気張ってたの」
 そう言いながら、ちとせは髪を結っていたリボンを解いた。
 長い髪が戒めを解かれて、さらさらと流れ落ちる。
 戦いの後でも、べたついた感じはまったくない。
 悠樹が少し羨ましそうに、ちとせの髪を撫でた。
 ちとせは気持ち良さそうに目を細めて、悠樹に髪を預ける。
「人形抱えたサイコ女男は、これ以上関わるなって言っていたけど、あの狼女は、しつこそうだし……」
「サイコ女男に……狼女……って」
「ナイスネーミングでしょ?」
「まぁ、ね」
 悠樹が苦笑する。
「ねぇ、悠樹。ボクたちってば、もしかしてそうとうヤバいことに首突っ込んじゃったのかな」
「……かもしれない」
「『ヴィーグリーズ』かぁ。『ユグドラシル』がどうのこうのって言ってたけど」
「『ユグドラシル』。北欧神話に出てくる『宇宙樹』だか『世界樹』だかだったよね」
「世界の中心に宇宙を貫いてそびえてるっていう、でっかい木だね」
「それが『ヴィーグリーズ』が企んでいる計画と、何らかの関わりがある、か」
 悠樹が指で梳いていたちとせの髪を放した。
 ちとせは頷きこそしたが、それ以上のことは何も推測できなかった。
 材料が少なすぎて、計画の概要がまったくわからないのだから仕方がない。
 それに『ユグドラシル』についての知識もほとんどない。
 北欧神話についても同じだった。
「さてと……」
 ちとせが、よっと気合いを入れて立ち上がる。
「それにしても、鈴音さん、ドコ行っちゃったのかなぁ」
「とにかく一回、神社に戻ってみよう。もしかしたら、ロックさんたちが、もう見つけているかもしれない」
「そだね。それに、降魔のこととかも、姉さんに相談した方が良いと思うしね」
「降魔、ねぇ……」
 悠樹も腰を上げて、パンパンと服についた土埃を払った。
 そして、真紅の髪を靡かせる憑依されたちとせを思い出して、ため息を吐きながら首を横に振った。

 ――カンカンカンカン。
 金槌の音が響き渡っている。
「何で、あたしが……」
 鈴音がぼやく。
 彼女は左手で器用に立て板を壁に打ち付けていた。
 本来の利き腕である右腕にはギプスを嵌められ、包帯を厳重に巻かれている。
「何でって、鈴音が壊したんじゃないの。修理するって約束したでしょ」
 隣に座っているレイチェリアが自分の髪の毛を指に巻きつけながら、大きな穴が開いた壁に視線を向けた。
 鈴音が殴って開けた大穴だ。
 結局、彼女は迅雷の部屋を出て行かなかった。
 あの時、迅雷は出て行きたければ出て行けば良いと言っていたのだが、彼は自分の部屋の壁の大穴を見た途端、血相を変えて玄関に戻ってきた。
 そして、否応なしに鈴音に壁の修理を約束させたのだ。
「確かに、修理するとは言ったけどよ」
 鈴音は言葉に詰まって、手を止める。
 壁を壊したのは紛れもなく鈴音であり、この部屋の主は鈴音の命の恩人である。
 反論する余地はない。
「自分で壊したんだから、自分で直す。コレ、当たり前」
 レイチェリアがウィンクをする。
「……わ、わかったよ」
 鈴音が頬を引き攣らせながら、器用に金槌を持ったままの左手で前髪をかきあげる。
 そして再び、金槌を打ち出す。
 そこへ、奥から部屋の主である影野迅雷が出てきた。
「よっ、少しは落ち着いたみたいじゃねえか」
「……」
 鈴音はむっとした表情で迅雷に一瞥だけをくれただけで、すぐに作業に戻った。
「無愛想なヤツだな」
 迅雷が、やれやれといった感じで肩をすくませる。
「ちっ……」
 鈴音が舌打ちをする。
「鈴音ェ、態度悪いわよ〜」
 それを見たレイチェリアが、すかさず諌める。
 レイチェリアは迅雷の使い魔であるため、主人を蔑ろにされるのを見過ごせないのだろう。
 もっとも、そんなに真剣には怒ってはいないようだが。
「うぐっ、だ、だいたい、ケガしてるから出ていくなって言っといて、労働させるか?」
 鈴音は、ついつい文句を言ってしまった。
 ただでさえ、彼女は霧刃のことが気がかりで仕方がないのだ。
 そこへ、彼女がケガ人であるということを了解している相手から労働を強いられている。
 鬱憤も溜まろうというものだ。
 不満があるのなら、それこそ、さっさと出ていけばいいのだが、そういうわけにもいかない。
 出ていこうとすれば、「ケガが治るまではダメ!」と言って、レイチェリアがまとわりついてくるのだ。
 一度は鈴音が出て行こうとすることに対して何もできなかった分、レイチェリアはしつこかった。
 出て行くといえば止められるし、黙って出て行こうとしても出て行く隙がまったくない。
 さらに行き倒れのところを助けられた上に治療をしてもらったこと、迅雷の部屋の壁を壊してしまったこと、そして、神代神社で葵を気絶させてまで出てきた引け目が、鈴音を押し留めていた。
「ぶつぶつ、文句言ってんじゃねえよ」
「そうそう、鈴音が壊したんだからね」
 迅雷とレイチェリアの二人にすぐに反撃され、鈴音は再び言葉に詰まった。
「逃げようとしても金槌の音がしなくなるから、レイチェでもすぐにわかるからな。あきらめて身体を休めながらゆっくり修理しな。本当は治療に専念させたいんだが、それをやると、おまえの性格からしてすぐに無理してでも出て行きそうだしよ。そういうわけで、労働と見張り付きってわけだ」
「!」
 迅雷の言葉に、鈴音はハッとして腕を止めた。
 壁の修理は、自分を引き止めるための大義名分だったようだ。
「おまえ、あたしに無理にでもケガの治療を続けさせるために……」
「へへっ、とにかく、その壁はどうにかしてもらうぜ。風通しが良すぎて困るからな」
 迅雷は会ってからほんの数時間で、鈴音の性格を読み切っているようだった。
 年頃こそ鈴音よりはいくらか下のようだが、人生経験は負けず劣らず豊富なようだ。
 鍛えられた体躯と時折みせる鋭い身のこなしにも、鈴音は気づいていた。
 高位魔族であるサッキュバスのレイチェリアを使い魔としていることも、彼が只者ではないことを証明している。
「迅雷、おまえ一体何者なんだ?」
「ああ? 何者って言ってもなあ。ただの、超カッコイイ高校生だぜ」
「強くて愛に満ち溢れた私のご主人さまよ」
「まあ、多少の霊能力はあるがな」
「多大な魅力もあるわよ〜ん」
 迅雷とレイチェリアが、得意そうに答えた。
 だが、迅雷の内に秘められた霊気の強さは、歴戦の退魔師である鈴音の目を誤魔化しきれるものではない。
「ちっ……」
 鈴音は舌打ちして、新しい釘を取り出し、険悪な表情で作業に戻る。
 迅雷はしばらくその様子を見つめていたが、ふと、鈴音に尋ねた。
「なぁ、鈴音。おまえの、その霊気に混じってる負の力の元凶は何だ?」
 鈴音の動きが止まった。
「負の力、だと?」
「ああ、怒り、哀しみ、苦しみといった負の感情から湧き出す力だ」
 ――負の力。
 自分の霊気を、そう表現されて鈴音の目が鋭く光った。
「あたしの修行した天武夢幻流は破邪の流派だ」
 そういった鈴音の声は無意識に声が大きくなっていた。
 聖をもって邪を退け、正を以って負を討つ破邪武術、天武夢幻流。
 それは、鈴音の誇りだ。
 唯一、家族から残された力だ。
 失われた者たちとの絆だ。
 彼女には、それを侮辱されたように思えた。
「あたしは、あいつとは違う」
 自分は天武夢幻流を穢すような負の力を使ったりはしない。
 負の感情から湧き出す力は、普遍的無意識の暗黒面(ダークサイド)の集積地にして悪魔や堕天使の故郷たる『魔界』の力にも通じる。
 破邪武術の使い手が使うべきではない力なのだ。
「鈴音、おまえの霊気の表面は正のものだ。だが、奥底には負の力が入り混じっている」
「……」
「殺気ばかりが研ぎ澄まされてるぜ。何がそんなに憎いんだ?」
「!」
 ――憎しみ。
 鈴音は愕然として、迅雷から目を反らした。
 自分の拳に霧刃に対する憎しみがないといえば、それは嘘だ。
 鈴音はあの日以来、自分の境遇を呪ったことが何度もあった。
 だが、今は過去のすべてを受け入れていた。
 あの惨劇すら思い出という形にして、父に教えられた天武夢幻流という破邪武術を誇りにして前に進んで来た。
 唯一つの例外として、今も彼女を苦しめているものこそ、自分を捨て、失われた家族との絆である天武夢幻流を冒涜する姉、織田霧刃、いや、"凍てつく炎"への愛憎だった。
「そこまで、自分を痛めつた相手への恨みか?」
「……確かにおまえの言う通りかもしれない」
 そして、彼女は目を反らしたままで言葉を紡ぐ。
「だけどな。……あたしは、あいつを止めなくちゃいけないんだ」
 霧刃を止める。
 同じ天武夢幻流の娘として。
 姉妹として霧刃を止める。
「負の力で、自分よりも強大な負の力を撃ち破ることは、絶対に出来ないぜ。もっとも、相手が正の力の使い手なら別だがな」
 迅雷は鈴音の顔を直視し続ける。
「仮に、今の状態で相手と戦ったら、おまえはまず死ぬだろうな」
 はっきりとした口調でそう言った。
 鈴音を挑発するような語感ではなかった。
「あたしが死ぬ、だって?」
 鈴音は乾いた声で笑った。
 だが、その目は少しも笑っていない。
 殺気の宿った鋭い視線で迅雷を睨みつける。
「あたしは死なない。あいつを止めるまでは絶対にだ!」
「おまえの霊気は鋭い。まるで抜き身の日本刀のような鋭さだ。鋭さだけなら、おれよりも遥かに上だろう」
 鈴音の激しい視線を真正面から受け止め、迅雷はあくまで冷静に言った。
 だが、逆に、その落ちついた雰囲気が鈴音の癇に障った。
「鋭さだけならだって? 迅雷、あたしよりおまえの方が強いと言いたいのか?」
「そういうわけじゃないんだがよ。まぁ、確かに()りあったところで、今のおまえになら負ける気はしないな」
 鈴音は自分の頭に血が上るのをどうすることもできなかった。
 溜まっていた鬱憤と迅雷の侮辱とも思える言葉への怒りが綯交ぜになって、鈴音を激昂させた。
「な、なめんじゃねぇ!」
 怒りに身を任せた鈴音が金槌を投げ捨て、左拳で迅雷に殴りかかる。
 迅雷は鈴音の拳を掴み、勢いに任せて床に倒した。
「このっ!」
 鈴音は迅雷から逃れようと暴れまわるが、抑えつけてくる力はびくともしない。
「鈴音、少し自分の力を過信しているようだな。それにさっきも言ったが霊気が鋭すぎる。だが、その鋭い霊気を納めるだけの鞘がない。だから、動きが見え見えだ」
「くっ……」
 鈴音が唇を噛みしめる。
 抵抗が弱まったのを確認して、迅雷がゆっくりと手を放す。
 しかし、暴れることは止めたものの、鈴音の瞳に宿った激しい光は失われていない。
 切り裂くような眼差しで迅雷を睨みつけながら、よろめくように立ち上がる。
「まだ、やるつもりか?」
「あたしは負けない。負けられないんだ」
 鈴音の激しい視線を真正面から受け止めるが、迅雷は動かない。
「来いよ、迅雷」
 鈴音は舌打ちして、右腕のギプスを左手で掴み、霊気と握力で無理矢理に砕いた。
 青黒い痣で彩られている廃物寸前の鈴音の右腕が顕わになる。
 ギプスを外したところで、骨も筋肉も神経もまったく正常な状態ではないのが一目でわかる。
「鈴音、テメー、何をしてやがる!」
「全力には利き腕がいる。それだけさ」
「おまえ、自分の右腕が、いや、身体がどういう状態かわかってるだろ!」
「あたしはあいつを倒すまで誰にも負けるわけにはいかないんだ。この身体が壊れようと、この腕が使い物にならなくなろうとね」
「……仕方ねぇ」
 鈴音の言葉を受けて、迅雷が不機嫌そうに立ち上がる。
「良いぜ、ケガ人虐めるみたいで調子狂うが、納得するまでとことん相手になってやるぜ」
「迅雷さま、鈴音……」
 レイチェリアが心配そうに、迅雷と鈴音に視線を交互に投げかける。
 そして、止めようと思ったのか、二人の間に入ろうとする。
「レイチェ。任せておけ」
「でも……」
「大丈夫だ」
 レイチェリアを安心させるように迅雷が言った。
 鈴音は無言で、迅雷を睨み続ける。
 殺気に満ちた視線を受け止めながら、迅雷は言った。
「続きは外だ。これ以上部屋を壊されたら寝る場所がなくなっちまうからな」


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