魂を貪るもの
其の六 降臨
4.悪寒

「うぅ……ん……」
 悠樹の腕の中で、ちとせはうっすらと目を開いた。
「悠樹?」
「大丈夫?」
「覚えてるよ、全部ね」
「じゃあ、さっきのは一体なんだったんだ?」
 ちとせは、先程のことすべてを憶えていた。
 悠樹のことも。
 シギュン・グラムのことも。
 そして、突然の降魔のことも。
 圧倒的な意志に身体を支配されていたが、ちとせの精神は意識の最下層ですべてを見ていた。
 シギュンの攻撃で気を失っていた時、名も知らぬ意識体が唐突に身体に流れ込んできた。
「乗っ取りだね」
「乗っ取り?」
「ボクとしたことが、完全に憑依されちゃったってことだよ」
「憑依ね」
「それで、ボクという『入れ物』を憑依体が乗っ取っちゃったてわけ」
「でも、どうして、ちとせに?」
「それは偶然だよ、たぶん」
 それは完全な偶然だった。
 ちとせが降魔の触媒としての才能を持っていた。
 そして、偶然にも、『存在』と、ちとせの波長が一致しただけだった。
 ――偶然。
 ちとせは、そう確信していた。
「ふふっ、こういうのを奇跡というのよ」
「奇跡、ねぇ」
「なんてね。でも、まあ、隠れた才能のうちってことじゃない?」
 『存在』が何者なのかは、意識を共有していたにも関わらず、ちとせにも見当がつかなかった。
 ちとせの知らない、いや、たとえ知っていてもあまりにも高位で理解できない『存在』だった。
 ともかく、『存在』は、ちとせの身体に憑依して圧倒的な力を振るったのは事実だ。
「よく霊能者が『神降ろし』の奇跡って使うじゃない? たぶん、あれは降魔師の才能なんだと思うよ」
邪馬台国(やまたいこく)卑弥呼(ヒミコ)とかも?」
「まあ、似たようなもんだと思う。今回はただの憑依だったけどね」
「つまり、ちとせは、いつでも、さっきみたいになる可能性があるってこと?」
「それはないと思う。ちょっと、さっきはボクも意識が朦朧としてたから乗っ取られちゃったのよ。憑依体を完全に自分という『入れ物』で制御できれば、ああはならないわよ。もうだいたい、感触は覚えたし」
「覚えたって? 自分で使えそうなの?」
「まあ、ね。練習すれば使えそうなんだけど」
 あまりにも軽く受け答えをするちとせに、いつもは彼女との漫才のような会話を楽しんでやっている悠樹も唖然とする。
「宴会の隠し芸とかでやったら、みんな驚くだろうね☆」
「そりゃあ、ね」
 ちとせがウィンクをしてみせると、悠樹は大きくため息を吐いた。
 ちとせの笑顔にも、疲労の色が濃い。
 精神的にも肉体的にも極度に疲弊しているようだった。
「とにかく、今は無理しないでくれよ」
「わかってるよ」
 ちとせは頷き、視線を傍らに移した。
 そこにいるのは、ちとせの命を奪う寸前まで追い詰めた、いや、憑依さえなければ奪っていただろう女性。
 そして、逆に、ちとせに右腕を奪われた"氷の魔狼"。
 ――シギュン・グラム。

「うっ……、くっ……」
 脈打つ度に大量の血が、先が吹き飛んだ右肩から流れ落ちる。
 すでにシギュンの足もとには大きな血溜まりができていたが、そんなことはどうでも良いことだった。
 痛みなど、屈辱に比べればたいしたことはない。
「この"氷の魔狼"の……この私が……」
 降魔師として持っていた絶対の自信が、ちとせの憑依体に打ち砕かれた。
「迂闊だった」
 たかが小娘と侮り、憑依体に対してもいくら高位の『存在』だとしても『器』が小娘ではという侮りがあった。
 最初に悪寒を感じた時も、苦戦するだろうが最後には自分が勝つ。
 そう考えていた。
 だが、その代償に右腕を失うことになった。
 そして、あの少年だ。
「……この私の命を……救ったのだ」
 "氷の魔狼"たる自分が敵に助けられて命拾いしたという事実もまた、シギュン・グラムにとって大きな屈辱だった。
 少女に奪われた右腕に、屈辱のすべてが集約しているようだった。
 抑えようとしても身体が、わなわなと震えるのが解かる。
「このままでは終わらせない。終わらせるわけにはいかない」
 荒い息を吐きながら、シギュン・グラムは立ち上がり、ちとせと悠樹を睨みつけた。
「小娘、私のこの屈辱はおまえを殺さねば決して晴れない」

 シギュンの(けい)とした凄味の発現した眼差しを受け、ちとせは生唾を飲み込んだ。
 全身に悪寒が走る。
 今、解かった。
 シギュン・グラムという女降魔師の強さが。
 今まで感じていた以上の威圧感が、ちとせを包み込んでいた。
 降魔の触媒としての覚醒が、ちとせに同じ降魔師のシギュンの実力に恐れを生じさせていた。
 そして、手負いであることが、シギュンの獣性を高めているように思える。
「もう、結界を解いてください。その身体では、これ以上戦うのは無理でしょう」
 ちとせのそんな様子に気づいた風もなく、悠樹がシギュンに静かに語りかける。
「風使いの少年よ、おまえは私の命を救ったことを後悔するべきだ」
「えっ?」
「自分の愚行のせいで、その小娘が地獄を見ることになるのだから」
「そんな……」
 呻く悠樹をシギュンは睨みつけた。
 闇に生まれ、闇に生きてきたシギュン・グラムにとって、敵の温情など許しがたい行為でしかない。
 失った右腕から血を止め処なく流しながらも、傷ついた誇りを取り戻すまでは決して退かない魔の狼。
 それがシギュン・グラムという人間だったのだと、悠樹は思い知らされた。
 悠樹の行為は、憑依体からちとせを救うことには成功したが、厄介な敵を生み出しもしてしまったのだ。
 シギュンは、ちとせと悠樹を八つ裂きにすることでしか、屈辱を拭えないだろう。
「しかし……」
 それでも尚、悠樹は話し合いに活路を見出そうと口を開きかける。
 多量の理性が、今、ここで戦いを続けることを拒否していた。
 ――だが。
「ダメ」
 ちとせが悠樹の袖を引っ張った。
「えっ?」
「彼女は、話が通じるような相手じゃない」
「だけど」
 言いかけた悠樹の声が、文字通り、凍りつく。
 シギュン・グラムの身体から、絶対零度の冷気が吹き上がったからだ。
 それは、戦闘続行の意志表示だった。
「このシギュン・グラムに撤退も降伏もない。勝利か死か、それだけだ」
 女降魔師と重なっている右前脚を失った"氷の魔狼"フェンリルも咆哮を上げる。
 ――戦慄。
 確実に殺される――ちとせは直感した。
 シギュン・グラムは重傷を負っている。
 だが、そのようなことは、これから始まる戦いの勝敗にはまるで関係ないように思える。
 奈落を想起させる眼差し。
 すべてを凍てつかせる絶対零度の冷気。
 北欧神話最強と謳われる魔獣の重低音の咆哮。
 そのすべてが、魂を侵食してくる。
 シギュン・グラムという存在に、ちとせは自分の足がすくむのを抑えられないでいた。

 まさに戦いが再開されようとした瞬間、どこからともなく不気味な声が響き渡った。
「筆頭幹部殿。立派なお言葉ですが、今、死なれては困ります」
 直接頭に響いてくるような不可思議な声だった。
 音量は、大きくもなく、小さくもなく、高くもなく、低くもない。
「誰?」
 ちとせと悠樹が辺りを見回すが、声の主の姿は見えない。
「ヘルセフィアス!」
 シギュンは声の主を見知っているのか、近くの虚空を睨みつけた。
 そこに闇色の柱が現出した。
 次の瞬間。
 闇が収束し、若い男が現れていた。
「……敵?」
 ちとせと悠樹が構えを取る。
 しかし、男は、二人を一瞥しただけで、シギュンに向き直った。
 奇妙な男だった。
 長く美しい髪、切れ長の瞳、真っ赤な唇、肉付きの薄い中性的な顔。
 法衣を纏い、腕輪や指輪といった飾りを全身に身に着けている。
 そして、特徴的なのは、人形。
 左の肩に、座るような格好で乗せた少女の人形が、男の中性的な容姿と合い混じって不気味な雰囲気を醸し出していた。
「筆頭幹部殿。視察に行ったまま帰らぬと思えば、まさか、このようなことになっているとは……」
「何の用だ。ヘルセフィアス!」
 シギュンが依然として獣性の燐光が宿り続けている瞳で、男――ヘルセフィアスを見返した。
「帰りの遅い筆頭幹部殿を迎えに来たのですよ」
「私に、このまま退けというのか」
 シギュンの声は怒鳴りつけるような乱暴なものではなかったが、静かな底知れぬ怒りを内包していた。
 その怒りの対象であるちとせには死神の声に聞こえていた。
 だが、ヘルセフィアスはシギュン・グラムという女性の性格を承知しているようで、あくまで落ち着いた様子だった。
「『世界樹(ユグドラシル)』が不安定になっているのです。力場の安定には筆頭幹部殿の力が必要です。それに、あなたに死なれては、総帥も嘆かれましょう」
「私が死ぬだと?」
 大量の血が抜けて蒼白になっている顔に静かな殺気を浮かべたまま、シギュン・グラムは金髪をざわめかせた。
「私は負けたわけではない」
「負けるとは言っていませんよ。しかし、そのままでは血が足らなくなりましょう。そうすれば、あなたの命に関わるのは必定」
 ヘルセフィアスの言葉は丁寧な口調だったが、尊大な響きを含んでいた。
 力が必要だから、死なれては損失になる。
 ――このシギュン・グラムを損得勘定で評価しようというのか。
 シギュン・グラムが微かに柳眉をひそめる。
 普段であれば、ヘルセフィアスの物言い、いや、存在そのものが、彼女にとって価値のあるものではなかっただろう。
 "氷の魔狼"にとっては、俗物など興味の対象にさえならないのだ。
 しかし、小娘に追い詰められたという屈辱の状況での、彼女へ向けられたヘルセフィアスの尊大さは、神経に障るものだった。
 本調子ならば、自分に指図などさせはしないのだが、今は肉体がダメージを受け過ぎている。
 それがわからないほど、シギュン・グラムは愚かではなく、錯乱もしていなかった。
 このまま戦いを続ければ、失血によって命が危険に晒されることも、もちろん承知していた。
 それでも目の前の少女をこのままにしておくことなど思いも寄らないことだったのだ。
 右腕を奪われ、誇りを奪われたのだ。
 そして、少女を甘く見た自分自身の迂闊さを許せないのだ。
「従って頂きますよ。失礼ですが、今の傷ついたあなたを連れ帰ることは、そう難しいことではない」
 シギュンの心を見透かしたように、ヘルセフィアスが言葉を述べ、静かに霊気を増幅させる。
 人形が肩の上でカタカタと笑い声をあげる。
 シギュンは舌打ちし、餓狼の色をした視線をヘルセフィアスへと向ける。
 冷やかな月の光を宿した金色の髪がざわめく。
 己の内で荒れ狂う衝動を押さえつけるように、獣性を宿した双眸を閉じ、荒い呼吸を整える。
 右半身から全身へと激痛が絶えず送り込まれてくるが、それよりも己の内なる獣を抑える方が苦痛であった。
 閉じていた目をゆっくりと見開く。
 その目は相変わらずの鋭い殺気を湛えていたが、獣性の色は狂気の虚無へと押し込められていた。
「……良いだろう。この場は退こう」
 シギュン・グラムは首を縦に振った。
 組織の幹部として、一匹の狼に戻るわけにはいかない。
 戦いの機会は必ず作り、屈辱を晴らす。
 そう自分を無理矢理納得させる。
 だが、シギュンは自分でも気づいていなかったが、ちとせが降魔に覚醒した時に感じた微かな高揚感こそが、この場を引き下がらせることを承知させていた。
 "氷の魔狼"フェンリルという強大な力を有しているために対等の『敵』を得られなかった自分。
 その渇きを潤せるだろうという無意識の予感。
 それは、屈辱の影に隠れてシギュン・グラムに自覚されずにいたが、確かに存在していた。

「退いてくれるみたいね」
 会話の雰囲気から展開を察して、ちとせが、ほっと安堵の息を吐く。
 もちろん、まだ緊張は解かない。
「さすがにこっちも限界が近いし、退いてくれるなら幸いだよ」
 悠樹が小声で応じる。
 ちとせも悠樹も声は元気だが、肉体的にも精神的にも限界に近い。
 ちとせは憑依体の力で傷こそ全快していたが体力は底をつきかけている。
 悠樹に至っては満身創痍に近い。
 それに、今のシギュンと戦えば、殺される。
 ちとせは有利不利など関係なく、そう思ってしまっていた。
 今、この精神状態で戦うのは自殺行為にも等しい。
 それを抜きにしても、ヘルセフィアスという新手もいる。
 そのヘルセフィアスが、二人へと視線を投げた。
「これ以上の余計な詮索は命を縮めますよ。手を引くことをお勧めします」
 ちとせと悠樹に忠告めいた言葉を告げる。
 そして、シギュンに視線を移して薄ら笑いを浮かべた。
「もっとも、筆頭幹部殿があなたたちを許すとは思えませんが」
 ヘルセフィアスはそう言い残し、森の闇に解けるように姿を消した。
 シギュンは一瞬だけヘルセフィアスの消えた空間を睨みつけ、ちとせたちへ向き返った。
 奈落の魔王アバドンさえも凍死してしまうような視線が、ちとせたちを射抜く。
「少女よ、次に会った時には"氷の魔狼"の名に誓って、必ず我が右腕の仇を取らせてもらう」
 そして、周囲に巻き起こった吹雪の中へと姿を消した。


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