魂を貪るもの
其の六 降臨
3.狂姫(くるいひめ)

「フフフ……」
 ちとせに憑依した『ソレ』は込み上げてくる歓喜の笑いを抑え込み、ゆっくりと手を握り締めた。
 瞳が闇を湛えた緋色の輝きに染まる。
 一陣の風が吹き抜けた。
 ちとせの髪は鮮やかな真紅と変わり、肌は褐色を帯びて、その姿は艶かしくも威圧的で、そして美しい。
 彼女の全身を朱に染めていた傷は、驚くべきことにいつの間にかすっかり塞がっていた。
 その圧倒的な存在感に、シギュン・グラムの全身に鳥肌が立った。
 目の前の少女には、神霊級の『存在』が憑依している。
 降魔師であるがゆえに、シギュンには、それが解かった。
「これほどの霊気……、何が降りてきた?」
 その声に、初めて気づいたように、ちとせが振り向いた。
 虚ろにして鋭い瞳が、シギュンを捉える。
 シギュンの全身に衝撃が走る。
 無意識に呻き声が口を出る。
 ちとせの緋色の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥った。
 ――闇。
 底知れない無限の闇が、そこに生まれていた。
 奈落へ突き落とされるような感覚が全身に絡みつく。
 頭には入り込んでくる誘惑にも似た感覚を振り払いながら、シギュンはちとせを睨み返した。
 ちとせは、そんなシギュンに一瞥だけをくれて、すぐ側を通り過ぎる。
 まるで、関心がないようだった。
「待て」
 その足を止めるべく、シギュンは自らの身体に降臨させている北欧神話最強の魔獣のチカラを吹き上がらせる。
「この結界から出すわけにはいかない」
 憑依体の正体が何であれ、少女の身体を支配している存在を逃がすわけにはいかない。
 『ヴィーグリーズ』の幹部として、極秘プロジェクトを見たものはそれが誰であろうが速やかに処理するべきなのだ。
 だが、シギュンが、ちとせを阻んだ理由はそれだけではない。
 ちとせに降臨してきた『存在』の圧倒感に対して、己の内に巻き起こっている高揚感。
 久しく感じたことのなかった寒気――それを感じてシギュン・グラムは唇を無意識に笑みの形に歪めていた。
 ちとせもまた瞳に愉悦の色を浮かべて、身体に纏わりつく"氷の魔狼"の冷気を眺めている。
 そして、目を細めて、シギュンを見た。
 明らかに狂気の宿った笑みを浮かべて。
 シギュンは反射的に、ちとせに絡ませていた冷気を収束させた。
「砕けろ!」
 絶対零度の冷気の刃が、ちとせの身体を四方八方から刺し貫いた。
 完全に絡まれていたから、ちとせに逃げ場はなかった。
 ちとせの身体の内部で、極寒の冷気が荒れ狂い、筋肉を、内臓を、血液を、骨を氷結させ、破壊していく。
 血飛沫。
 身体中から鮮血が吹き出し、ちとせの全身を真っ赤に染める。
 ドクドクと、半ば凍りついた血が地面に落ちて行く。
 ちとせは流れる出る真紅の液体を平然とした顔で拭い、ぺろりとなめた。
 さも美味しそうに。
 血と狂気に染まった危険な色香を醸し出している。
「フフフ、アハハハハハハハハ!」
 ちとせが、ヒステリックな笑い声を上げた。
 身も凍るような笑みとはこのことだろう。
「――我を滅ぼすつもりか?」
 ちとせに宿った『存在』は狂った笑みを張りつかせたまま、血染めの真っ赤な唇で言葉を紡ぐ。
 ――艶かしい。
 その姿は危険なほど艶かしい。
「おまえが何者であろうと、その小娘を逃がすわけにはいかないのでね」
 シギュンは懐から煙草を取り出し、火を点けた。
 ちとせの狂気を目の当たりにしながらも、冷静さを保ち続けるシギュンは、まさに氷の精神力の持ち主であり、矜持高き"氷の魔狼"なのだ。
「おまえを処理する」
「我に刃を向けるか。ならば、後悔するが良い」
 ちとせはそう言うと、両手を大きく広げた。
 凄まじい量の気が全身から放出され、その莫大な力によってその身が宙に浮かんだ。
「我は自由を求めし存在。黎明の子、輝ける星、知恵を授けし蛇。地上に舞い堕り(まいおり)し、天使の長。全ての存在を神の牢獄より解き放たん」
 ちとせの全身を霊気が駆け巡り、出血が止まって見る見るうちに傷口も塞がっていく。
 信じられないほどの回復力だ。
 シギュンが舌打ちして、紫煙を吐く。
「粉々に砕くか」
 まだほんの少ししか吸っていない煙草を指で弾いた。
 煙草は、くるくると回りながら、空中を浮遊する。
 そして、シギュンの絶対零度の冷気に触れて凍りつき、粉々に跡形もなく消滅した。
 シギュンが右腕を横に払った。
 極寒の風が渦巻き、激しい吹雪が巻き起こる。
 ちとせは艶やかな笑みを浮かべたまま、その吹雪に飲み込まれた。
「この程度では凍りはしない。この程度では自由を奪えはしない」
 ちとせの声とともに吹雪が消滅する。
 何事もなかったかのように、ちとせは悠然と立っていた。
「黄金の髪の女よ、"氷の魔狼"フェンリルのチカラを使役するか」
 ちとせが呟く。
 そして、目にも止まらぬ速さで、シギュンに襲いかかる。
 "氷の魔狼"の二つ名にふさわしい絶対零度の冷気を両腕に纏わせ、ちとせの攻撃を防御する。
 ちとせの顔には狂気の笑みが張り付いたままだった。
「アハハハ、北欧最強の魔獣を降ろせるほどの器ならば、我の相手としても不足はない」
「耳障りな笑い声だな」
「笑い上戸なのだよ」
「つまらないことを言う!」
 シギュンが打撃を押し返し、ちとせの右肩を氷の爪で切り裂いた。
 真っ赤な血が飛び散る。
「……!」
 ちとせが一瞬よろめいたのをシギュンは見逃さなかった。
 鋭い氷の爪が、ちとせの左胸に突き刺さる。
「このまま直接、心臓を凍らせてやる」
 ちとせの胸に突き刺した氷爪を抉るように押し込みながら、北欧神話最強の魔獣の冷気を右腕に収束して流し込む。
 だが、ちとせは、まだ笑っていた。
 美しい唇の端から、血が流れ落ちる。
 狂気と退廃を秘めた美貌。
 シギュンの奈落の眼差しと、ちとせの退廃の眼差しが交差する。
 ――瞬間。
 巨大な脈動と衝撃が、ちとせの胸に突き刺さっているシギュンの右腕を襲った。
 "氷の魔狼"が咆哮を上げる。
 それは、苦痛の咆哮。
「がっ!?」
 シギュン・グラムの右腕が文字通り、砕け散った。
 右腕を構成していた皮膚と筋肉と骨と血が、ストライプスーツの生地とともに飛び散る。
 そして、チカラの象徴であり、その身に降ろしているフェンリルの半実体の右腕も吹き飛ぶ。
「くっ……!」
 先が消し飛んだ右肩を抑えて、シギュンがちとせの前から跳び退る。
 一方、ちとせは胸の抉られた傷を軽く擦る。
 大量の血を流していた傷は、跡形もなく消え去った。
「闇に形などない。光より生まれし、自由なるもの。太陽神の末たるこの娘の身体は、我にとっても心地良い」
 ちとせは指にこびりついた血をなめながら、シギュンの動きを視界に捉え続ける。
 右腕を失った激痛に、シギュン・グラムもさすがに呻き声を漏らさずにはいられないようだ。
 どくっ、どくっ、と脈打つたびに、夥しい量の真っ赤な液体が右肩から流れ落ちている。
 ちとせが唇の端を吊り上げ、血の海の中で跪いているシギュンの目の前まで移動する。
「惜しかったな。さて、死んでもらうか。死後、おまえの魂は、肉体の束縛より放たれる」
「暁の天使よ、私に死後など不要だ。なぜなら、私に魂などないのだからな。私の中にあるのは、この絶対零度(コキュートス)のチカラだけだ」
「我に対して、『嘆きの川(コキュートス)』のチカラと称するとは、皮肉のつもりか」
 髪を死の真紅に染めたちとせが右手のひらに真紅の霊気を収束させ、シギュンに向けて解き放つ。
 シギュンは左腕を突き出して冷気を巻き起こし、迫りくる死の霊気を迎え撃った。
 底知れぬ極寒の冷気と禍々しい邪悪な霊気が激しくぶつかり合う。
 閃光。
 そして、爆音。
「っ……!」
 圧し切られたのはシギュンの方だった。
 声もなく吹き飛ばされて、岩場に背中から叩きつけられる。
「がはっ…!」
 岩場に叩きつけられた衝撃による亀裂を残して、シギュン・グラムはずり落ち、血を吐いた。
 ちとせがゆっくりと両手を胸の前に広げ、真紅の霊気で、巨大な逆十字を形成する。
 莫大な力の流れに周囲の空気が振動を始める。
「さあ、永遠の自由をやろう」
 ちとせの言葉とともに放たれた巨大な霊気の逆十字が、シギュンを飲み込んだ。
 轟音が木霊し、爆風に土埃が巻き上がる。
 ちとせは、シギュンのいた場所を静かに見つめていた。
 視界が晴れ、静寂が訪れる。
 地面がクレーターのごとく、ごっそりと抉り取られていた。
 シギュン・グラムの姿は跡形もなかった。

 ちとせが広げていた両手をゆっくりと降ろす。
 そして、振り返る。
 シギュンを抱えた悠樹が、そこに立っていた。
 ちとせは小首を傾げた。
「少年、その女は敵だろう。なぜに助ける?」
「彼女はもう戦えない」
 悠樹がシギュンを地面に降ろした。
 先のない右肩を抑えて、シギュンが苦痛の声を微かに上げる。
「余計な真似を……」
 "氷の魔狼"は風使いの少年を視線だけで睨み上げる。
「"氷の魔狼"シギュン・グラムともあろう者が、……この私が、あろうことか、敵に命を救われた」
 ショック死してもおかしくないほどの激痛と大量の出血で意識が霞む中、シギュン・グラムは屈辱に身を震わせる。
 だが、苦痛の呻き声に混じった屈辱の呪詛は悠樹の耳には届いていないようだった。
 彼にはシギュン・グラムの様子を気にする余裕はなかった。
 これから大事なものを全力で取り返さねばならないからだ。
「ぼくは別に彼女を助けたくて助けたわけじゃない」
 悠樹は首を横に振りながら、そう言った。
 ちとせは興味深そうに、目を細めて悠樹の顔を見つめた。
「なら、どういうつもりでその女を私に殺させない?」
「あなたは、ちとせじゃない。ちとせの身体を使って、人殺しをさせたくない」
 ちとせの妖艶な視線を悠樹は正面から受け止める。
「この娘の身体はもう、私の所有物だぞ?」
 ちとせは意地の悪い笑みを浮かべて、自分の頬を擦る。
「それでも、ちとせじゃないわけじゃない」
「なるほど、確かに間違ってはいないな」
 ちとせが、喉で笑う。
 禍々しい力で真っ赤に染まっている髪が、カサカサと揺れた。
 強大な威圧感が悠樹を包み込む。
 死。
 今のちとせに最もよく似合う言葉だ。
 死、そのもの。
 だが、悠樹は、圧倒されることなく続けた。
「ちとせなら、悪人に容赦はしないかもしれない」
「それなら、あの女を殺しても良いのではないか?」
「だけど、それは、ちとせが決めることで、あなたが決めることじゃない」
「それは、この娘が自分の意志であの女の命を奪うのなら、止めないということか?」
 ちとせが、自分の顔を指差す。
「止めますよ」
 悠樹は、しれっと答えた。
「……」
「ぼくは、ちとせという人間が好きだから、その手を人殺しという血で染めさせたくない」
「結局は、エゴか」
 ちとせが右手で拳銃のような形を作り、悠樹を撃つ真似をする。
「そうですよ」
 澄ました顔で答える悠樹の声は、自然な感じだった。
「……」
「……」
 二人は無言と無言で、視線を交わす。
 しばらくの静寂。
 唐突に、ちとせは、ククッと喉を鳴らした。
「気に入ったよ、少年」
 ちとせに憑いた『死』が緋色の瞳を細めた。
「キミは面白いな。久しぶりに面白いニンゲンを見た。知恵の実を与えた甲斐があるというものだ」
 ちとせの褐色の肌が、元の色へと戻り始めた。
 相棒の変化に、悠樹が戸惑いの表情を浮かべる。
「惜しいけど、この娘の身体は返すことにするよ」
 『死』で染まっていた真紅の髪は色を薄め、元の髪色へと変わっていく。
 ちとせが、ちとせに戻り始めているのだ。
「機会があれば、また会えるかもしれぬ。この少女は、もっとも濃き闇である我の存在力に耐えられる器ゆえに。この娘は影を照らし出す光の女神の末ゆえにな」
 最後に瞳の緋色が抜け落ち、ちとせは、がくりと項垂れた。
 そのまま、糸が切れた操り人形ように崩れ落ちかける。
 悠樹は慌てて、ちとせを抱えた。
 ちとせの背後に、うっすらと影が現れる。
「――さらばだ、少年よ」
 緋色の瞳をした美しい影。
 影は風の中に笑い声を残し、遠くへ消えて行った。


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