魂を貪るもの
其の六 降臨
2.魔狼

 シギュン・グラムがサングラスに手をかけ、ゆっくりと外した。
 淡く冷たい輝きに彩られた黄金の髪が流れ落ちる。
「高校生というところか」
 漆黒の硝子によって隠されていた紺碧の瞳が露わになる。
 それは獰猛さと冷酷さと残忍さを含んだ光を宿しながらも、奈落の深淵を思わせる底知れぬ虚無を内包した狂眼だった。
 その不気味な威圧感を有した視線が、ちとせと悠樹を同時に射抜く。
「若い命を散らすのは惜しいから、逃がしてあげるとか言わないの?」
 ちとせがポニーテールの尻尾部分を指で弾き、シギュンに軽い調子で尋ねる。
「残念ながら、それはない」
 返ってきたのは、あっさりとした否定。
「あっそ」
 ちとせは大げさに肩をすくめた。
 わざとらしいほどに挙動が軽い。
 だが、実際には心臓が凍りつきそうな圧迫感に襲われている。
 長い金髪をなびかせ、シギュン・グラムが、ゆっくりと近づいてくる。
 ちとせと悠樹は後退りながら一定の距離を保ちつつ、観察の目を"氷の魔狼"と二つ名を名乗った女性へと向ける。
 冷たい光沢を放つ鮮やかな長い黄金の髪、端正でありながら凄絶な殺気を漂わせる美貌、そして、先程から直に心臓を鷲掴みにしてくるような鋭さと狂気を感じさせる紺碧の眼。
 周りの大気さえも、彼女から発せられる冷気に凍りついているような印象を受ける。
 "氷の魔狼"という名は、まさに彼女のためにあるものだと、二人は同時に感じていた。
 ふと、シギュンのストライプスーツの左胸の部分にある紋章(エンブレム)が、悠樹の目に入った。
 大きな虹の橋を原形とした美しい紋章である。
「そのエンブレムは、北欧神話に登場する虹の橋『ビフレスト』をあしらったものでしょう。北欧系の大企業『ヴィーグリーズ』の社章でしたよね」
「なかなかの洞察力と記憶力だ」
 悠樹の指摘を受け、シギュンの目がすぅっと細くなった。
 その片手を宙で遊ばせる。
「昨夜の『ヴィーグリーズ』施設から、この森への転移結界。そして、今度は悪魔とつるんだ『ヴィーグリーズ』の関係者」
 言葉を続ける悠樹の頬を冷たい風が弄った。
 シギュンの周りの温度が急激に低下しているようだ。
 ちとせが霊気を漲らせて冷気を防ぎながら、シギュンの狂眼を真正面から睨みつける。
「『ヴィーグリーズ』、いったい何を企んでるの?」
「ノーコメント」
 ちとせに答えると同時に、シギュンが冷気を纏った手を握り締める。
 凍った空気が割れる音が響き渡った。
 それが戦いのはじまりの合図だった。

 シギュンの身体から極寒の冷気が放出され、周囲の世界が凍りついていく。
 堕天使ニスロクの放った炎の槍で燃え広がりかけていた大地が、灼熱の紅から極寒の白へと色を変える。
「氷の透き通ったその輝きに真紅の鮮血はよく栄える。我が魔爪におまえたちの血を啜らせよう」
 シギュンの両腕の手の甲から半透明の長く鋭い爪が現れる。
 霊気で形成された爪ではなく、氷点下の輝きを放つ氷の魔爪だ。
 シギュン・グラムは氷爪の刃部分を舌でなめた。
 硝子のような紺碧の瞳に、正面で構えるちとせの姿が反射されている。
 その双眸が冷たく輝くと同時に、ちとせという獲物を狩るべく、"氷の魔狼"が吹雪の勢いで疾走してきた。
「疾い!」
 だが、目に捉えられない速度ではない。
 ちとせは襲ってくる氷爪を、真正面から霊気を満たした腕で受け止める。
 霊気が盾となって振り下ろされた氷爪の一撃を防ぎ、ちとせが反撃の蹴りを試みる。
 しかし、それよりも速く、魔狼の第二撃が迫っていた。
 シギュンの動きを目に捉えられないことはないと認識したのは間違いだった。
 慌てて空いている腕で、その攻撃も何とか防ぐ。
 もちろん、シギュンの攻撃はそれで終わりではない。
「かはっ……!」
 ちとせの目が大きく見開かれ、口から唾液の混じった空気が漏れた。
 腹にシギュンの膝が深々と埋まっている。
 腹部への痛打を受けて動きの止まったちとせへと、魔狼の氷爪が振り下ろされる。
「きゃあああああ!」
 左肩をザックリと斬られ、ちとせの悲鳴が木霊した。
 透明だったシギュンの氷爪が、真っ赤に染まる。
 さらにもう一方の氷爪が、ちとせの右肩を切り裂く。
「あぐぁあっ!」
 両肩から胸部にかけて服が裂け、真っ赤な傷痕が刻まれる。
 さらに追い討ちをかけようと、シギュンの血の滴る氷爪が振り上げられる。
 しかし、その瞬間。
「させない!」
 悠樹の声が響き渡り、魔爪は唐突に発生した不可視の風の壁に押し返された。
「風を良く飼い慣らしているようだな」
 シギュンの黄金の髪が風圧で後ろへと流れる。
 悠樹の介入に動揺を見せるどころか、逆に感心したかのように微かに狂眼を細めた。
 虚ろで冷たく、残忍で酷薄な双眸に、わずかな高揚の揺らめきが生じる。
「悠樹!」
「ちとせ、退がれ!」
 両肩から血を流しながら、ちとせが飛び退いてシギュンとの距離を置く。
 入れ替わりに悠樹が、シギュンの前に飛び込んで烈風を放つ。
 シギュンは氷爪で巧みに、風の斬撃を防御する。
 しかし、烈風の刃はシギュンの爪と接触すると拡散し、無数の刃となった。
 思わぬ攻撃に舌打ちしつつも、身を切り裂く風の渦に怯んだ様子もなく、シギュンは悠樹へ目掛けて蹴りを放つ。
 悠樹はその蹴足を受け止め、そのままシギュンに勢いを返すように投げ捨てる。
 シギュンの蹴りが彼女自身を吹き飛ばした格好になる。
 地面に片手をつき、反動で体勢を立て直したシギュンに向かって、後ろに退いていたちとせが疾走し、一気に間合いを縮める。
「ていっ、ていっ、ていっ!」
 両肩を斬られた恨みをぶつけるように嵐のような連続攻撃をシギュンへと浴びせる。
 激しい動きで両肩から血が吹き出すのも構わずに押して押して押しまくり、その猛攻を氷爪で防ぐシギュンを後退させていく。
 まさにそれは、息を吐かせぬ怒涛のラッシュ。
 ついにに、耐え切れなくなったのだろうか、シギュンの氷の爪が大きく弾かれる。
「もらったぁ!」
 ちとせが踏み込みながら、霊気を宿した右拳で正拳を放った。
 ――だが。
「なっ……?」
 ちとせの右拳はシギュンに当たる寸前で止まった。
 何か不可視のチカラに遮られて、打撃を突き入れることができなかった。
 ――殺気だ。
 ちとせは、自分の拳を止めたものの正体を悟っていた。
 シギュン・グラムが殺気混じりの霊気を強めただけで、拳撃が通じなかったのだ。
 ちとせは焦りの表情を一瞬だけ浮かべ、それでもすぐに、次の攻撃に移った。
 身を捻じり、ミニスカートの裾を翻す。
 しなやかな脚が綺麗な半円を描く、美しいハイキック。
 だが、それも、通じなかった。
 今度は、殺気の圧力ではなく、シギュンの片腕で簡単に止められていた。
 シギュンがわずかに見せていた高揚の表情を消し、一転して興味を無くしたかのような見下した視線をちとせへと向ける。
 そして、無造作な動きで、ちとせの腹に肘打ちを叩き込んだ。
 先程の膝蹴り以上の勢いで、肘が鳩尾に深々と食い込む。
「かはっ!」
 急所を抉られ、鈍痛とともに体内を流れる紅の液体が喉を逆流してくる。
「こほっ……!」
 咳き込みながら血の欠片が混じった空気を吐く。
 意識が一瞬混濁し、がくりと両膝を地面について崩れかける。
 シギュンがスラックスに包まれた長い脚を高々と掲げた。
 踵落とし。
 狙っているのは、ちとせの出血している右肩の傷口。
「ちとせ!」
 シギュンの踵が振り下ろされる直前、咄嗟に悠樹が烈風を放った。
 その直撃を受けて、シギュンの周りに土埃が巻き上がった。
 同時に、ちとせが地面を転がって、"氷の魔狼"の攻撃範囲から離脱した。
 悠樹がちとせの側に駆け寄り、安否を確認する。
「油断しちゃったよ。げほげほっ、あの人、強いよ」
 ちとせが鳩尾の辺りを片手でさすりながら、もう一方の手で唇の端を滴る血を拭い、大丈夫というように涙目でウインクをした。
 傷ついた内臓に霊気を巡らせれば十分に回復できる範囲のダメージだ。
「……!」
 しかし、悠樹は返事もせずに強張った表情でちとせを押し倒した。
「きゃあっ!」
 悲鳴を上げるちとせの頭上を氷の爪が通過する。
 轟と唸りを上げて通り過ぎた爪の軌跡の大気が凍りつき、極寒の風がちとせの頬を嬲った。
 その威力は今までちとせが受けた打撃を遥かに超えているように思える。
 そして、悠樹が苦痛の声が、ちとせの耳に飛び込んできた。
「うあぁぁああっ!」
「悠樹!」
 ちとせは自分に覆い被さっている悠樹を見て、愕然とした。
 シギュン・グラムの左腕の氷爪が、悠樹の背後から肩に突き刺さっていた。
 しかも、想像を絶する光景を伴って。

「お、狼?」
 シギュン・グラムの背後からまるで守護霊のように半透明の巨大な獣が現れていた。
 氷爪は、まるでその狼のチカラを宿したかのように、残酷に、悠樹の広背筋を貫いている。
 シギュン・グラムが氷爪を突き刺したまま、少年とはいえ男の身体を持ち上げる筋力などなさそうな細い片腕で、悠樹を持ち上げる。
 悠樹のつま先が地面を離れ、己の体重によって爪が深々と食い込む。
「ぐあああああっ!」
 狂わんばかりの激痛に悠樹の口から絶叫が迸る。
「どうだ、私の"氷の魔狼"フェンリルのチカラは?」
 悠樹を左腕の氷爪で突き刺したまま、シギュンは右腕だけで器用に懐から新しい煙草を取り出して口に銜えた。
「フェンリル?」
 悠樹を助けようとしていたちとせの顔に驚愕が浮かぶ。
 "氷の魔狼"フェンリル。
 北欧神話に登場する巨妖の一体。
 主神オーディンと義兄弟の契りを交わしながらも、北欧の神々の敵である巨人族の血を引く神ロキの子にして、巨大な狼。
 上顎は天にも届き、下顎は地に着くといわれる魔獣。
 ちとせも北欧神話にはそれほど詳しいとはいえないが、それでもこの魔狼の名は知っていた。
「北欧神話最強の魔狼。神をも喰らう狼!」
「その通り。主神オーディンすらも喰い殺したという神話背景を持つ魔獣だ」
 シギュンが左腕を振り下ろし、悠樹を地面へ叩きつける。
 衝撃を受けた傷口から血飛沫が上がる。
 悠樹の口からは呻き声とともに、血の欠片が吐き出された。
「自らの身を触媒にして、魔を降臨させ、その力を自由自在に操る。それが降魔師」
 シギュンが、煙草にマッチで火を点けた。
 うつ伏せに倒れている悠樹の背中を革靴の底で踏みつけ、紫煙を吐く。
「うぐっ……」
「悠樹!」
「若さに似合わぬ使い手だったから、少しは楽しめるかと期待したのだが……」
 シギュンがさらに悠樹を踏みつける力を強める。
 踏み潰される背中が骨の軋む嫌な音を立て、悠樹の口から苦痛の声が漏れる。
「ぐあっ……!」
「悠樹、今助けるよ!」
 ちとせが怒りに燃える目でシギュンを睨みつける。
 しかし、シギュンは平然とその視線を受け止め、紫煙を吐くと、煙草を弾いた。
「無駄だ。おまえ程度のチカラでは、私の前に立つことすらままならない」
 シギュンの弾いた煙草がくるくると回りながら放物線を描き、ちとせの足もとに落ちる。
「え……?」
 ちとせは煙草が落ちた場所に視線を向けた。
 そして、悲鳴を上げる。
「きゃあああああああっ!」
 シギュンから流れ出る凍えるような冷気が、足もとの地面を真っ白に凍らせ、ちとせの脚さえも氷の中に飲み込み始めたのだ。
 茶色のローファーの爪先から、どんどん凍らされていく。
「うっ、くっ……!」
 凍らされた脚をなんとか動かそうとするが、氷に飲み込まれた部分はまったく反応がなかった。
「そのまま、氷に飲み込まれて死ぬが良い。おまえは、魔爪で殺す価値もない」
 辺りの冷気よりもさらに冷たく、道端の石ころを見るような興味を抱いていないシギュン・グラムの視線が、ちとせを射抜く。
「くぅっ!」
 ちとせは呻いた。
 すでに太腿までが氷に縛められ、完全に下半身の動きは封じられた。
 ちとせの氷の彫像が完成するのは時間の問題だ。
「さて、少年にとどめを刺させてもらう」
 もはや動くことすらできないちとせから視線を外し、シギュンが足もとの悠樹に意識を向ける。
 ――だが。
「!」
 そこには悠樹の姿はなかった。
 場違いなそよ風が吹いている。
 取り乱しこそしなかったが、シギュン・グラムの瞳孔がほんの少しだけ収縮した。
「どこへ逃げた」
「ちとせを放せっ!」
 突如、暴風が巻き起こり、シギュン・グラムの黄金の髪を吹き上げた。
 同時に、動きの止まっていたシギュンの背後から、肩を血に染めた悠樹がその手に風の霊気を刃状に収束し、斬りつけていた。
 先程の分散した風の渦とは比べものにならない強力な刃が、シギュンの左肩を半実体化しているフェンリルごと切り裂く。
『ガアアアアアアッ!!』
 巨大な狼の憤怒の咆哮と、シギュンの苦悶の呻きが重なる。
 微かな怒りと多大な冷徹さ、そして、ほんの少しの興味の色を、その端正な顔に浮かべ、シギュン・グラムが振り返った。
「少年、その傷で動けたのは、賞賛に値するな」
 氷点下の眼差しで悠樹を見据え、静かな殺気だけで少年の動きを抑え込んでしまう。
 ゆっくりと悠樹へ向けられたシギュンの右手から、極寒の吹雪にも似た霊気の波動が見舞われる。
「がっ、はっ!」
 悠樹は防御をする間もなく吹き飛ばされ、背中から大きな岩に叩きつけられる。
 そして、そのまま血を吐き、崩れ落ちると気を失った。
 シギュンは左肩の傷から滲み出る血を指ですくい取り、口に運んでなめる。
「私に血を流させるか。そして、逃げない勇気もなかなかのものだ。だが、それだけだ。それだけでは、この"氷の魔狼"の『敵』には成り得ない」
 "氷の魔狼"の双眸には何の満足も浮かんでいない。
「よくも、悠樹を!」
 両目に怒りを湛えたちとせが、何とか氷の呪縛から脱出しようと全霊気を一気に解放した。
 莫大な量の霊気の放出を感じたシギュンが振り返る。
「……あきらめの悪い小娘だ」
「自慢じゃないけど、それが取り柄だからね」
「私の霊気を帯びた氷をそう簡単に破れると思っているのか?」
「思ってないわよ」
 北欧神話最強の魔獣のチカラによって氷結された状態から簡単に脱出できるはずもない。
 シギュンはそう確信していたが、微かに不可思議な戸惑いもあった。
 奇妙な期待感が込み上げてくるのを感じているのだ。
 ちとせが霊気を練り上げていくにつれて、その不可思議な戸惑いと期待は大きくなっていくようだ。
 現に氷の侵蝕速度が鈍り始めていた。
「小娘が口は達者のようだな。しかし、その覚悟は本物のようだ。ならば、その全身が凍りつくまで待ってやるわけにはいかなくなった」
 自らの内なるフェンリルに呼びかけ、さらに強烈な冷気でシギュンがちとせの霊気を抑え込む。
「うっ!」
 荒れ狂う吹雪のような圧力を受けて、ちとせが一瞬、怯む。
 ちとせの霊気が弱まったのを狙って、シギュンが無防備な腹を殴りつけた。
 氷の爪が、ちとせの腹に衝撃とともに突き刺さる。
「か、はっ……ごほっ!?」
 ちとせが苦痛に目を見開き、鮮血の混じった息を吐き出す。
 そして、突き刺さっている氷の爪を引き抜こうと、シギュンの腕を押さえつける。
「下半身を動かせぬというのに急所を避けたか。だが、苦痛が長引くだけだな」
「くっ……、あっ……」
「足掻くな。ここで死ね」
 シギュンはそのまま氷爪を押し込んだ。
「はっ、ぐっ!?」
 腹へと氷の爪が深々と捻じ込まれ、ちとせが身体を痙攣させる。
 さらに、シギュンが虚無を湛える両眼に、わずかな気合いを込めると、氷点下の風が渦巻き、月色の長い髪が濃度の増した冷気の波動に揺れ始めた。
 その極寒の風はすぐに荒れ狂い始め、氷の混じった竜巻となって、ちとせを包み込んだ。
「きゃあああああああっ!」
 極寒の竜巻の中で、無数の氷の散弾が、ちとせの全身を撃ち、裂き、抉り、貫いていく。
 同時に、腹に突き刺さっている氷の爪からも冷気が流し込まれ、体内をも破壊されていく。
 裂かれた衣服の生地と鮮血が、荒れ狂う冷気の中を舞いながら、凍りついていく。
「うああああああああっ……!」
 長い絶叫を上げた後、ちとせは力尽きたように項垂れた。
 シギュンは鮮血で真っ赤に染まった氷の爪をちとせの身体から引き抜き、半ば霜に侵食されたポニーテールを掴んで顔を無理矢理に引き起こす。
 ちとせの唇の端から血が流れ落ちるが、それはドロリとしており、氷結しかかっていた。
「肉体の外と内から冷気で刻まれて、まだ息があるか」
 息があるといっても、虫の息だ。
 ちとせの顔から急速に生気が失われていくのが見て取れたが、同時に、この死に行く少女から感じている奇妙な感覚は消えていない。
 それは、シギュン・グラムにとって初めての感覚だった。
 すでに、目の前の少女は死に態だ。
 反撃する力が残っていようはずもない。
 それどころか、ちとせは力尽きて尚、腰の半ばまで凍らされているために動くことはおろか倒れることすら許されない状態だった。
 身体を縛めている氷も、氷爪を突き刺された腹の傷と冷気の嵐によって刻まれた全身の傷から流れ出た血で真っ赤に染まっている。
 少女から感じられる奇妙な感覚の正体が何であろうと今なら確実に死を与えることができるだろう。
 そう、殺してしまえば良いだけのことだ。
 それだけのことだ。
 それ、だけの。
 無価値だ。
 この私の敵には成りえない。
 だが――。
「――嬲るか」
 誰とにでもなく呟いたシギュンの双眸に微かな色が生じた。
 月色の美しく長い髪が氷風に揺れ、右手の氷の爪が霧散する。
 そして、右手を前へと伸ばす。
 ちとせの白いブラウスを赤く染めている腹部よりも上、内側から盛り上げている女性の象徴。
 高校生という年頃にしては豊かな二つの果実のうちの左。
 それを鷲掴みにし、握り潰す。
「がッ……!?」
 ビクンッと大きく痙攣して、ちとせの閉じられていた両目が大きく見開かれる。
 失神の最中に突然襲ってきた激痛に、覚めたばかりの意識が繋がらない。
 だが、恐ろしいほどの痛みが、左胸から容赦なく襲ってくる。
「くっ、あっ、ああっ……!?」
 目の前には、シギュン・グラムの白皙の美貌がある。
 その高級スーツに包まれた右腕が自分の身体へと伸びている。
 ちとせが視線を下げる。
 自分の左胸をシギュンの右手が握り潰しているではないか。
「あッ……うッ……な、何を……!?」
「嬲り殺し、というやつだ。趣味ではないが」
 シギュン・グラムが完璧な美貌を多少たりとも歪めることなく言いながら、その右手で握り潰しているちとせの左胸を無造作に捻り上げる。
「……や、め……かっ、うううあああっ……!?」
 ちとせには屈辱を感じる余裕などなかった。
 ただただ左胸から送り込まれてくる苦痛に全身を痙攣させる。
「うぐぅっ……あっ……ああああッ!」
 悶え苦しむことしかできないちとせの姿を映しているシギュンの双眸に浮かんでいた微かな色が消え失せる。
 そして、微かな、微かな、吐息が唇から流れ出た。
「やはり、つまらんな」
 月色の髪の女性の発した玩具を捨てるような言葉に反して、ちとせの左胸は苛烈な圧搾から解放されはしなかった。
 それどころか、凶悪さを増した握力によってブラウスごとギリギリと捻り潰される。
「はぐぅ!?」
 ちとせの背が反れる。
 ガクンと項垂れ、唇から涎が流れ落ちる。
 あまりにも壮絶な痛みのため、ちとせは再び失神に陥っていた。
 シギュンはようやくちとせの左胸から手を放す。
 強烈な圧搾によってしわだらけになったブラウスの内側でちとせの乳房が元の形の良さを取り戻した。
「――気を失っている獲物を殺すのもまた、趣味ではないが」
 呟くように言って、シギュンは右手に冷気を纏わりつかせ、収束した。
 鋭利な氷の爪が形成される。
 そこで、気づいた。
 ちとせの異変に。
 巨大な霊気が脈動している。
「!」
 ちとせの全身から赤黒い炎のような霊気が湯気のように立ち昇っているのが、目に見えてわかった。
 しかも、それは、今までのちとせの霊気ではなかった。
「これは……」
 シギュン・グラムは微かに狂眼の瞳孔を収縮させた。
 目の前の少女から感じられた不可思議な感覚。
 趣味でもない嬲り殺しに時間を費やさせた微かな期待感。
 その正体に気づいたのだ。
「この小娘、私と同じ……」
 ちとせの全身から吹き出す霊気が物理的な圧力を伴った風を生み、シギュンの魔爪を、いや、身体全体を押し返す。
 美しい黄金の髪を風に躍らせているシギュン・グラムの表情が微かに変化する。
 完璧な美しさを持つ氷の彫像の硬さを基調としたその顔に、興味という柔らかさを帯びた。
「降魔の触媒か」
 両腕で霊気風を防ぎながら、極僅かに再び色を帯びた双眸で油断なくちとせを見据え、思考をめぐらせる。
「小娘は、完全に気を失っている」
 ちとせ自身も、降魔の『器』に成りえることには気づいていなかった。
 今の状態を彼女が意識してのことではないのは明らかだ。
「降魔というよりは、……憑依か」
 しかし、シギュン・グラムにとって問題なのは何がちとせに憑依しているかだ。
「この霊気の格は浮遊霊や動物霊のような低級霊や下級の悪魔でもない」
 ――魔王級の霊格か。
 ちとせから立ち昇る霊気が、とどまることを知らずに極大化していく。
 そして、ちとせの身体が大きく震えた。
「フフフ……、ハハハ……」
 俯いたままのちとせの唇の端が凶悪な笑みの形に吊り上がった。
 ――ぱりんっ。
 ちとせを縛めていた氷の牢獄が、粉々に砕け散った。
「フフフ……、アハハ……、アハハハハハハッ!!」
 辺りに、ちとせの甲高い哄笑が木霊した。


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