魂を貪るもの
其の六 降臨
1.紫煙

「ふぅ、やっぱ、鈴音さん、いないね」
 ちとせと悠樹は、あれからもう一度手分けして鈴音の捜索を行なっていた。
 爪砥川周辺を走り回り、ちょうど川沿いの岩場で落ち合ったところだった。
「だけど、気になるモノを見つけたよ」
 悠樹がこめかみの辺りを指で、ぽんぽんっと叩きながら、ちとせに答える。
 鈴音の姿を見つけることはできなかったが、彼には別の収穫があったようだ。
「気になるモノ?」
「これ」
 ちとせに見せるように、悠樹が右の手のひらを差し出す。
 滑らかな灰色の光沢を放つ何かの欠片のようなものが、手の中に収まっていた。
 それをまじまじと覗き込み、ちとせが不思議そうに首を傾げる。
「何かの機械の破片みたいだけど?」
「うん、見た目はメタリックだけどね。ちとせ、触ってみてよ」
 そう言うと悠樹は、ちとせの手のひらに破片を乗せた。
「あっ、これは……」
 破片が乗った途端に手のひらの上で生じた違和感を感じ取り、ちとせが思わず声を上げる。
「霊気だね」
 破片が何かに反応して霊気を帯びたというよりは、破片自体が脈打ち、霊気を放っているようにも感じられる。
「昨日さ、戦いがあった場所に変な機械みたいなのが置いてあっただろ?」
 悠樹が破片をちとせの手から摘み上げながら言う。
 少し考えてから、ちとせは頷いた。
 確かに昨夜、男が二人密談していた場所に何かの機械のようなものがあった。
 男二人のうちの初老の男が、その装置から青い玉のようなものを持って逃走し、もう一人の若い男と戦闘になったのだった。
 そして、霧刃が現れ、鈴音を……。
 昨晩の鈴音の介抱で、すっかりその装置のことなど忘れていた。
「青い玉が嵌ってたヤツだね?」
「そう、アレがあった場所に落ちてたんだ。多分、アレの一部だと思う」
 破片を手の中で転がしながら、悠樹はちとせを見つめる。
 ちとせも悠樹が思ったことを感じたはずだ。
 破片の感触から感じられる息吹を。
「でも、悠樹。この破片……」
 ちとせは悠樹の涼やかな双眸を見つめ返し、続いて破片に視線を落とした。
 そして、また、悠樹の顔に視線を戻す。
「これ、機械というより……」
「生物。ぼくの風も鼓動を感じてるよ」
 悠樹が確信を込めて言葉を継いだ。
 まさに、その瞬間。
 凄まじい霊気がちとせと悠樹の周りを取り囲むのが感じられた。
 ――冷たい。
 敵意に満ちた霊気、いや冷気だった。
「……!」
 二人は慌てて周りを見渡し、お互いの背中を守るように構えを取った。
 悪寒が背筋を駆け抜ける。
「結界?」
 ちとせが、緊張した面持ちで精神を研ぎ澄ます。
 と、岩陰から声が響いた。
「お嬢さんたち、ここで何をしているのかしら?」
 そして、二つの影がゆっくりと太陽の光のもとに現れ、人の形を取った。
 一人は、黒地にストライプの入ったスマートなシルエットのパンツスーツに身を固めた、二十代後半と思われる女性。
 冷ややかな光沢を放つ黄金の髪が、冷気に揺れている。
 すらりとした長身で、腕も脚も長い。
 ファッション雑誌のモデルと言っても何の違和感もなさそう容姿だが、全身から放たれている獰猛さと冷酷さを綯い交ぜにしたような圧迫感がそれを完全に否定していた。
 サングラスをかけているために、その双眸がどのような輝きを放っているか知ることはできない。
 女性はちとせたちに向き直り、煙草を一本取り出して火を点けた。
 一瞬、マッチの炎に照らされた女性の背後に巨大な狼の姿のようなものが閃いたような気がした。
 煙草を口元に運んだ女性が、ゆっくりと紫煙を吐く。
 ちとせは油断なく、女性の傍らに控えているもう一人の顔にも視線を移した。
 その男の顔を見た途端、ちとせと悠樹に微かな驚きが浮かび、二人の緊張が高まる。
「悠樹」
「わかってるよ」
 二人は小声で短く確認し、頷き合う。
 男の顔に見覚えがあった。
 昨夜、オーガーを召喚して姿を消したあの初老の男だ。
 男は、遥かに年下に見える女性の顔色を怯えたように、ちらちらと覗っている。
「何をしているのって、ただの散歩だよ」
 ちとせが不敵な笑みを浮かべ、先程の女性の質問に答える形を取った。
 初老の男がいるのだから、こちらの正体はすでに知られていると思って間違いない。
 それでも、ちとせはあえてとぼけて見せた。
 女性が静かに紫煙を吐く。
「散歩、ねぇ?」
 女性は煙草を指で挟み、ふぅっと紫煙を吐いた。
「では、その散歩の途中で、何か見たでしょう?」
「何かって?」
「変わった機械みたいなものよ」
「さあ、何も見てないと思うけど」
 ちとせが小首を傾げながら、悠樹に目配せをする。
 悠樹は小さく頷いた。
 女性はもう一度、煙草を口に運んだ。
「その話は信じられない。おまえたちから微かに私が探しているものの霊気を感じる」
 女性は再び紫煙を吐き、煙草の灰を地面に落すと、隣の男性に冷たい口調で話しかけた。
「昨夜の侵入者か。まったく処理が甘いな。小さな綻びでさえ糸に絡め取られれば、『ユグドラシル・プロジェクト』に支障をきたす」
 女性から発せられている冷気に殺気が混じる。
 初老の男が、肩を大きく振わせた。
「シギュンさま。お許しを……」
 シギュンと呼ばれた女性が、指で挟んだ煙草の先で、ちとせたちを指し示す。
「"凍てつく炎"が視察に来たはずだが、おまえの失敗を穴埋めする気は無かったようだな。一応、装置だけは破壊していったようだが」
 初老の男は信じられないくらいの汗を流していた。
 男に昨夜の傲慢な態度は微塵も感じられない。
 明らかに怯えている。
「『魔界』から召喚されたおまえの知識は世界樹の成長制御成分の解析に役立ったが、おまえの存在自体は必要というわけではないということを理解しているか?」
 シギュンから向けられた冷気が男の顔をなめあげる。
 初老の男は、顔面蒼白だった。
「お許しを……、お許しを……」
 哀れなくらい怯えた表情で、男はただ震えている。
「用がないなら、ボクたちは帰るよ?」
 ちとせが、二人の会話に割って入る。
 もちろん、言葉通りに簡単に帰れるとは思ってはいない。
「帰る? 結界に気づいているのに?」
「ふふっ、やっぱ、帰してくれるつもりはないんだね」
 ちとせが気合いを込める。
 その全身に霊気が迸り、淡い輝きが両手に満ちる。
 同時に悠樹も霊気を開放する。
 こちらはその身体を風が駆け巡った。
「我らのプロジェクトに関わってしまったことを後悔することだな」
 シギュンが煙草を地面に落とす。
 先程よりも激しい殺気と冷気の交じり合ったものが、物理的な力を持って大気を震わせた。

「自己責任だ。最後の機会を与えてやろう。上手く処理してみせろ」
 シギュンが新しい煙草を取り出して火を点け、全身から渦巻いている冷気と同じように冷たい声で初老の男に命令する。
 男は身体を小刻みに震わせながらも、光明を得たように表情に微かな安堵が浮かぶ。
 そして、ちとせたちを睨みつけた。
「ありがたきお言葉。このニスロク、必ずや処理してご覧にいれます」
 初老の男の身体が変化を始め、その周囲に邪気が満ち始める。
 真っ赤に染まった眼球から瞳が消え、鋸のような歯の生えた口が耳まで裂け、鳥の嘴のように先端が尖った硬質なものへと変わる。
 右腕はナイフのような刃に変わり、左腕は指がフォークのように変化した。
「我が名はニスロク。普遍的無意識の暗黒面(ダークサイド)の集積地たる『魔界』にて、魔王ベルゼブブが食膳を任されし存在」
 ――ニスロク。
 天空より落とされし、堕天使の名であることを、ちとせも悠樹も知っていた。
 『魔界』で腕を振るう料理人であり、七つの大罪『飽食』を司る蝿の王ベルゼブブに仕えているといわれている。
 その堕天使を囲むように地面が黒く発光し、ニスロクの両脇に昨夜も戦った食人鬼オーガーが二体出現する。
「ニスロク。天界から落とされた堕天使の一人で、確か地獄の料理長だったね。まさかフランス料理のフルコースでもおごってくれるの?」
 右手から牽制の霊気球を放ちつつ、軽口を叩くちとせ。
「貴様らの身体を切刻んで、シギュンさまに鮮血のディナーを捧げるのだ」
 霊気球をフォークで弾き飛ばしたニスロクが、ちとせの腹を貫こうとナイフ状の右腕を突き出して突進する。
「悪いけど朝ご飯を食べたばっかりなんだ。ディナーには早過ぎるね」
 ちとせに伸びるニスロクのナイフを、悠樹の放った烈風が遮る。
 風の抵抗を浴びながらも、今度はニスロクが左腕のフォークを振り下ろす。
 悠樹は風の壁を消した。
 突然に抵抗を失ったニスロクがバランスを崩す。
 悠樹の蹴りがニスロクの胸部に炸裂し、堕天使は後方へとよろめいた。
 そこへ、オーガーが巨木のような腕を横から伸ばしてくる。
 悠樹は反撃が間に合わないと判断して、とっさにバックステップで攻撃を躱す。
 オーガーの腕は轟音を立てながら悠樹のいた場所を通り過ぎ、その先にあった巨大な岩を粉々に砕いた。
 怒りの形相で再びオーガーが悠樹に向かって腕を伸ばす。
「力だけはピカ一だけど、動きが遅いのが致命的だね」
 今度はオーガーの攻撃を避けずにその腕に向かって、悠樹は自分の右手を向けた。
 圧倒的な腕力を持つオーガーの太い腕が、悠樹の手のひらの寸前で止まる。
「はああああっ!」
 大気を掻き回す暴風が悠樹の手のひらとオーガーの腕の間に巻き起こる。
 そして、その風はオーガーの巨腕を押し戻し、食人鬼の巨体を吹き飛ばした。
 地面に頭から叩きつけられ、首を捻じ曲げたオーガーは血の泡を吹いて沈黙した。
「ぐぅ……」
 ニスロクはそれを見て歯噛みをする。
 悠樹はニスロクを牽制しつつ、ちとせの方に意識を向けた。
 もう一匹のオーガーは完全にちとせに翻弄されていた。
「ほら、こっちだよ☆」
 すばやい動きでまるで踊るようにして、オーガーの攻撃を避けている。
「ぐがあああっ!」
 なかなか捕まらないちとせに怒りを堪え切れなくなったのか、オーガーは大声を上げて大振りの一撃を振り下ろした。
 それは地面を砕いたが、ちとせには掠りもしなかった。
「ていっ!」
 舞うようにオーガーの懐には入り込み、ちとせが霊気を込めた拳で殴りつける。
 苦痛のうめきをあげて仰け反るオーガーへ、間髪いれずにちとせは両手のひらを押し当てて霊気の塊をぶつけた。
 オーガーはそのまま地面に仰向けに倒れ、動かなくなった。
 残るニスロクへと視線を向けようとするちとせの視界に、紫煙を吐くシギュンの姿が映った。
 その途端、ちとせの背筋に悪寒が走った。
「え……?」
 シギュンはまだ、動く気配はない。
 だが、彼女は確実に恐ろしいものを秘めている。
 本能が警鐘を鳴らしているのを、ちとせは感じた。
 しかし、拡大し始めた悠樹とニスロクの戦いが、ちとせの目からシギュンの姿を遮る。
「とにかく、ニスロクを倒してからだね」
 ちとせは頭を振って、目の前の戦いに集中する。
 今は参戦しようとしていないシギュンの存在よりも、襲ってきている堕天使を倒すことが急務なのだ。
 ちとせは両手に霊気を収束させて光り輝く巨大な霊気の球体を生み出し、悠樹へ向かって叫んだ。
「悠樹、退がって!」
 ちとせの声に呼応して悠樹がニスロクを置いて跳び退く。
 ポニーテールの少女はそれを確認するや否や霊気球をニスロクに向かって放つ。
 だが、ニスロクは空高く跳び上がって迫りくる霊気の塊を避け、両腕を下方に向けた。
「小娘どもめ、丸焼きにしてくれる」
 燃え盛る炎の塊がニスロクの両手のすぐ下に出現する。
「ウェルダンだ!」
 ニスロクの掛け声とともに炎の塊は分散し、無数の火の槍となって雨のように悠樹とちとせに降り注いだ。
「うわっちぃ!?」
 高熱は槍を避けても肌を焼き、地面に落ちた炎が雑草に燃え広がり始める。
 炎に周囲を取り囲まれては回避もままならなくなってしまう。
 二人ともその場を慌てて離れ、近くの岩陰へと逃げ込んだ。
「くう〜っ、ボクはレアの方が好きなんだよっ!」
 ニスロクが降りてきたところを狙って、ちとせがお返しとばかりに霊気球を放つ。
 それは地獄の料理長の足元の地面に炸裂した。
 舞い上がった土埃によって視界を閉ざされたニスロクに向かって、ちとせが全速力で駆ける。
 そして、霊気を漲らせた右拳を堕天使へと放つ。
 ――ギンッ!
 耳障りな音が響き渡った。
 ニスロクのフォークと化した腕が、ちとせの腕を挟み込んで受け止めたのだ。
 ちとせの腕を挟んだフォークに力を込めながら、ニスロクが残酷な笑みを浮かべる。
「このまま腕をねじ折ってやろう。それにしても浅はかな小娘だ。まさか、土埃程度の小細工で我の目を晦ましたつもりだったのか?」
「もちのろん☆」
 ニスロクに腕を折られようとしているのに、ちとせはまったく慌てた様子を見せず、逆に余裕の笑みを浮かべて返した。
 ちとせの不敵な笑みに、ニスロクはハッとした表情を浮かべて上空を見上げた。
 堕天使の目に映ったのは、風を身に纏って跳んでいる悠樹の姿。
 その風使いの少年の腕が振り下ろされ、烈風が巻き起こる。
「ぐがあああああ!?」
 次の瞬間には、ニスロクの身体は正中線から真っ二つに両断された。
 さらに、フォークの戒めを受けたままのちとせが、二つに断たれた堕天使へ特大霊気球を放つ。
 とどめの霊気球の直撃を至近距離から受け、地獄の料理長ニスロクの肉体は木っ端微塵に吹き飛び、地上から消滅した。
 ちとせは間を置くことなく、長いポニーテールをなびかせて翻る。
 そして、煙草を吹かしながら戦況を覗っていたシギュンへと霊気球を放つ。
 シギュンは半歩だけ動いて紙一重で、それを避けた。
 彼女の咥えている煙草の火の点いている先端だけが吹き飛ぶ。
 ちとせの霊気球は後方の地面に炸裂し、大気を震わせたが、シギュンは顔色一つ変えない。
 鮮やかな黄金の長い髪だけが震動する大気に静かになびいている。
「くっ……」
 ちとせは気圧されるように後ろへと飛び退いた。
 悠樹がすぐにちとせの横に並び、シギュンを油断なく見据える。
「なかなか戦い慣れている」
 シギュンは指で挟んでいた煙草を弾いた。
 煙草はくるくると回りながら、彼女の足元に落ちる。
「"氷の魔狼(まろう)"シギュン・グラム。相手になってやろう」
 シギュン・グラムは、地面へと落ちた煙草を革靴で踏み潰した。


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